スペ「お兄ちゃん!」   作:青身魚

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第1話です。癖が強い内容だけど許してね。
そしてスペちゃんがいよいよ出ます!重役出勤!


第1話「生徒襲来」

 日本ダービーこと東京優駿は、東京レース場の前身とも言える目黒レース場で1932年に創設された。

 

 当時の名称は東京優駿大競争。

 元々は外交的、軍事的な面も鑑みた『速いウマ娘を育成する』という名目のもとで英国のダービーステークスを参考に考案されたレースである。黎明期のレースとしては珍しい、出走条件に年齢制限と複数回の事前登録を要件としたレースであった。

 毎年春季(4月末から6月上旬)と開催時期が固定されていたこともあり、その後の日本の、ひいては現在施行されるレース形態に明確な指針を示したレースとなった。

 

 戦後にURAが発足しレースがトゥインクル・シリーズとして体系化され、花形競技として市民権を得ていく中で各種レースも時代に合わせ順次整備されていった。クラシックレースも時代の流れに沿い、開催の変更と調整がされていった。

 そうした時代の変化の中でただ一度府中に開催を変更されて以降、場所と距離、そして時期も変更されていない日本ダービーは長い歴史を有する最も権威あるレースへと相成った。

 

 本競争を優勝することは全国のウマ娘の、ひいてはすべてのトレセン関係者が憧れる最高の栄誉の一つであり、トゥインクル・シリーズにおける最大の目標であり続けている。

 あるベテラントレーナーはダービーを指し、「トレセン学園の一年はダービーに始まり、ダービーに終わる」と称したという。

 

 そして昨日、東京レース場で第64回の東京優駿が開催された。施行条件は芝の2,400メートル。正面スタンドの直線半ばからスタートし、350メートルの直線を通過したのち、大規模なレース場ゆえの緩やかなカーブに差し掛かる。

 例年、ダービーはスローペースで流れる傾向にあるが、今年は皐月賞を制したサニーブライアンが宣言通りの逃げを敢行したことで最序盤はハイペースなレース展開となった。

 

 第一コーナーから向こう正面までは高低差2メートル弱の緩やかな下り坂が続き、バックストレッチ終端には1.5メートル程度の上り坂が控える。

 ハナに立ったサニーブライアンは序盤と打って変わってペースを落とした。

 事前の逃げ宣言を警戒していた他陣営は、無理に競り合うことで共倒れになることを避け、単騎での逃げを形成することができた。

 彼女は他バが控えたことで勾配も利用した、楽な形勢を作ることに成功した。集団は前半1,200メートルを74秒とむしろスロー寄りの流れでレースは推移していった。

 

 第三コーナーから第四コーナー半ばにかけて下り基調が続き、主要四場と呼ばれるレース場でも最大長を誇る長さ530メートルの直線と高低差2メートルの上り坂が待ち構える。

 自在の逃げで最内の省エネコースを丁寧に周回してきたサニーブライアンは、最終直線の入り口でスパートし、後続の有力な追い込み勢を寄せ付けない圧巻の末脚を見せて逃げ切りを図った。

 

 ダービーを逃げ切って制覇したウマ娘は長い歴史の中でたったの3名しかいない。生半可なウマ娘は最後の上り坂で体力を消耗し、いっぱいになってしまうのだ。

 しかしサニーブライアンは巧みなレース運びを展開し、最後まで先頭を譲らなかった。果敢に追い込んでくる他を抑え、ついに一度もハナを譲らずにゴール板に先着したのである。

 

 皐月賞を制覇してなお、フロックとみなされ、7番人気に甘んじていた。一冠目を手にした後も周囲の評論家は口をそろえて言った。

 

 サニーブライアンのほかにも速いウマ娘はたくさんいる。有力なウマ娘に後方からの追い込みが多いゆえ、皐月賞では互いにけん制しあって伸びなかったのだ。

 サニーブライアン自身は若葉ステークスで4着と後味の悪い敗戦を喫していた。であるからにして、皐月賞の結果は単なる展開の綾によるものであるのだ。

 

 彼女はそんな周りの評価を、2分25秒のレースの中で置き去りにしてみせた。

 

 ダービーは運のよいウマ娘が勝つといわれている。しかし、彼女はまぐれでもフロックでも何でもない、正真正銘の強いウマ娘であることを証明して見せたのだった。

 今後も健在であれば、間違いなく彼女を中心に年内のレースは回っていくだろう。

 

「1番人気はいらない。ただ1着が欲しかった」

 

 サニーブライアンはダービー制覇後、そう口にした。

 

 

* 永正9年6月2日 中央トレセン学園

 

 

 その男は執務室の前を人が通り過ぎるたびに首を伸ばし、当てが外れてまた深く椅子に沈み込むことを繰り返していた。大切な面談の予定が設定されおり、そのためだけに出勤するのではもったいないと、昨日の結果と展望を書き連ねたレース新聞を分析も兼ねて持ち込んでいた。

 

 だが肝心の面談の前にあらかた読み終えてしまい、完全に暇を持て余していたのだった。

 フォーマルなジャケットに身を包む彼の胸元には蹄鉄を模した真鍮製のトレーナーバッジ。彼は齢二十代中盤ながら、新進気鋭のチーム・シリウスを束ねるトレーナーであった。

 

 彼のチーム専用のクラブハウスはJR武蔵野線によって東西に仕切られているトレセン学園のうちの西側、栗東グラウンドに併設されているチーム棟の一角にある。

 今年度の人事編成の都合上、彼のチームは人員を増やした新体制となった。チーム規模の拡大に伴い手狭になった旧チーム部屋からの引っ越しを、つい先日終えたばかりであった。

 

 入り口近くには、走行タイムやトレーニングのメニューを表示する大型ディスプレイが設置され、所属ウマ娘たちの名前や他チームの情報が、まるで戦略会議の地図のように並ぶ。

 木目調の壁際には作りつけの本棚とロッカーが並び、その多くは各種資料やレース成績表、過去の栄光を示すトロフィーや優勝レイで埋め尽くされている。

 

 手元の新聞の一面は、みなお揃いにダービーの顛末が占めている。サニーブライアンの話題は日を跨いでも衰えず、レースファンやメディアの間では既に彼女の三冠達成の是非が飛び交っていた。

 優勝バとしてのプレッシャーを背負いながらも、彼女がどのように成長し、どのレースで再びその力を見せるのか、期待と好奇心が渦巻いていた。

 

 一方のチーム・シリウスから参戦したウマ娘の評価は芳しくない。既に重賞をレコードで勝利し、皐月賞でもダービーでも掲示板内に入っているにもかかわらずだ。期待外れだと評するコメントを見るたびに彼は、秋には見ていろと内心憤る。

 

 個人的には周囲からの重圧を背によく頑張ったと伝えているが、紙面上でその評価を記載することは許されない。成果主義の世界で勝利していない以上は、手放しで喜ぶべきではない。秋の菊花賞に向けて気を引き締めるだけである。

 

 通年で番組が組まれている以上、一息をつく間もなく次のレースの準備が始まる。来週には早くも安田記念が施行される。

 こちらにも彼のチームメンバーから出走登録がなされていた。さらにはジュニアB組のウマ娘にとってはその後の人生を左右するメイクデビューが開始される。

 

 息をつく暇などないがそれでもダービーが終わったこの短い時間、優勝劣敗の厳しいレースの世界において、トレセン学園でも弛緩したような空気が流れていた。ダービー翌日の月曜日ともなれば、大手チームは完全オフを謳って短い休暇(水曜には週末のレースに向けた追い切りが行われるのだが)を設定していることが多い。

 

 年末年始と合わせて数少ない休暇の消化期間に設定することが業界の慣例なのだ。 

 実際、チーム棟は人もウマ娘もまばらで、平時は早朝から夜間までひっきりなしにグラウンドから聞こえる号令も、今日はまばらだ。

 

 そんなつかの間の休息の最中にあって、彼が律儀に自チームの部屋で待機しているのは大物トレードの話が舞い込んできたからだった。

 

 移籍そのものは特別なことではない。この時期になると、強豪チームを追い出されてしまった娘たちや、『締め切り』が迫ってきた未勝利の娘たちの移籍話が飛び交うようになる。

 だが一般的に移籍とは、条件戦や未勝利戦で勝ちきれずくすぶり続けたような娘が練習や環境を変える目的で行われることが多い。

 

 その点、今回彼のチームへの移籍を希望するウマ娘はまさに昨日のダービーに出走するほどの有力なウマ娘である点で珍しかった。

 トレーナーとウマ娘、双方から申し出があったというのも変わった話だった。

 傍から見れば、他チームのエースを引き抜いたと疑われても仕方がない案件だった。だからチームの引っ越しと立ち上げで忙殺される中、数ヶ月の労力を費やして話をまとめていたのだ。

 

 とは大げさに言うものの、移籍に関する諸々の手続きや各方面への説明、移籍元のトレーナーとも既に合意を形成できている。

 残るは受け入れる側で最終的な手続き上の面談を行い、来週にでも正式に学園外に向けて発表するだけの状態まで漕ぎつけた。

 ダービー直後というタイミングも、ある意味でちょうど良いタイミングだろう。

 

 だというのにその肝心のウマ娘が時間になっても一向に現れる気配がない。放課後すぐに予定を入れたのだから、授業帰りに寄ってもらえば済むはずだった。

 

 あまりにも来る気配がないから、日時の伝達ミスがあったのかと気を揉み、まさか事故にでもあってないかと心配を募らせた。

 責任者の自分が部屋を離れるわけにもいかない。気性難とは聞いていたがまさか移籍前から振り回されるとは。

 

「ミーティングと、あいつからの泣き言が同時に来たらヤバいぜ」

 

 彼は一人そう呟いた。もしやこのまますっぽかすつもりじゃないだろうな。面談とは無関係の別件も初手から躓いて心配だというのに、冗談じゃねえぞ。

 持ち込んだ新聞を端に寄せ、手持無沙汰になって引き出しにしまい込んでいた移籍に関する通知書を、今一度手に取る。

 

 約束の時間からすでに1時間が経とうとしていた。窓から差し込んでくる初夏の西日が、夕暮れ時に差し掛かっていることを刻々と示す。

 トレーナーとはいえ、トレセン学園の職員の一人にすぎない。自チーム所属でもないウマ娘の動向まではさすがに管轄外だ。

 

 あと10分、音沙汰が無かったら担任の教諭を経由して相談するしかあるまい。そう彼が思案したのと、閑散としたチーム棟の廊下にけたたましい足音が響きだしたのは、ほぼ同時だった。

 足音は明らかに人間のテンポではなく、次第に大きくなってくる。

 

 例のウマ娘かと逡巡したが、付き合いが長いウマ娘は足音だけで判別できる。約束をすっぽかされたかもしれない不安に加え、もう一つ頭を抱えねばならぬ事態が襲来してきたのだ。

 

 チーム・シリウスのクラブハウスは、開放的な印象を与えるために中を窺うことができる強化ガラス製のモダンなドアに取り換えたばかりである。

 それを蹴散らさんばかりの勢いで駆け込んできたウマ娘は、長い距離を走ってきたであろうにもかかわらず、機敏な動きで来賓用のテーブルとソファーを飛び越えると、息も切らさずに彼を問い質し始める。

 

 「ダブリン先輩やめたってホント!?ねえ、どういうことなの!」

 

 そのウマ娘は、彼のチーム所属のマヤノトップガンだった。

 

 マヤノトップガンが彼と組んだのは3年前で、彼が引き継いだ(書面上は新設した)チーム・シリウスに加入した創設時のメンバーだ。

 彼女はトレセン入学前から大手養成塾のブルーグラスファームで名の知られた存在で、同門の先輩がたまたま彼の当時の担当ウマ娘だったという縁があった。所属チーム選定のタイミングと前後してチーム・シリウス独立のうわさを聞きつけた彼女は、開業初年の新参チームに飛び込んできたのだった。

 

 天才肌な性格で周囲を振り回していた彼女であったが、そのキャリアはむしろ苦労の連続だ。ジュニア期は脚部不安によりデビューが遅れ、足元が固まるまでダート中心の出走を余儀なくされた。ジュニアC組の夏場にオープン級に昇格を果たすと混戦模様の菊花賞に出走して勝利し、さらに年末のグランプリである有マ記念をも制した。

 

 その実績が評価され、2年前の年度代表ウマ娘にも選出された。シニアになってからは王道路線を第一線で走り続け、現在までで積み上げたGⅠの勝利数は実に4つ。URAを代表するウマ娘のひとりだ。

 

 3年前とで体つきは明らかにアスリートのそれへと変わった。中長距離路線の覇者らしく均整の取れたトモが学園指定の厚手のニーハイの下からも浮き上がる。見事な栗毛を後ろで結い、長いポニーテールがふわりと揺れるたびに、周囲の空気を自分色に染め上げていくようだった。

 

「生徒会長さんや、廊下は静かに走れ。大声も厳禁。それとエアダブリンについては本当だ。目黒記念が終わったら引退する話になっていた。あとでまとめてお疲れ会するから、今は放っておいてやってくれ」

 

 彼はマヤノトップガンの大声量に耐えながら、それに答える。エアダブリンは彼がサブトレーナー時代からの付き合いとなるマヤノトップガンの一つ上の先輩だった。ダービー直後の目黒記念を最後に、引退を表明していた。だが後輩への相談もなしにチームを抜けた彼女の行動を、マヤノトップガンは怒っているらしかった。

 

「ずる~い!追い出す前に引退されちゃったら、追いコンできないじゃん!」

 

 マヤノトップガンの怒りは収まらない。

 シニアB組にもなった今ではレースでの経験や実績を積み重ね、実力は円熟の域に達しつつあるが、日常でのヤンチャな性格は全く変わりがない。

 だがそんな彼女の性格とは別に、シリウスのトレーナーが最も気がかりなのは、天皇賞春の激闘を制してから丸一ヶ月が過ぎようとしているのに彼女の脚元が一向に芳しくないことだった。

 

 レース以外にもフォーカスすることで良い療養になる、同時に退屈しのぎと鬱憤晴らしも兼ねて生徒会への参加を進めたのもトレーナーである彼であった。

 結果ダービーの後、つまり今日から正式に生徒会長に就任したのだが、別の方向に暴走することはないか。トレーナーは肝を冷やした。

 

「てかトレーナーちゃんと会う前に(グロス)塗り忘れちゃったじゃん!もうサイアク!」

 

 そんな心配をよそに悲しいかな新生徒会長様は、トレーナーに背を向けて前掻きしながら化粧を整える器用な暴れ方をしている。

 

「あんま喚くな。脚を労われ。これ以上心配事を増やさんでくれよ」

 

 トレーナーが半ば呆れたようにそう告げると、マヤノトップガンの興味はエアダブリンのから移ったらしかった。

 

「あっ、そういえば今日は例の娘が来る予定だったんだっけ。その様子だとまだ会えてない感じ?」

 

 マヤノトップガンが言った。コロコロ表情を変える顔に期待と興味がうっすら混じっていた。生徒が主体である以上、噂話は止められないがトレーナーは関係者の誰かが漏らしたのかと疑い、

 

「お前それ何処から聞いたんだ」

 

 と質問した。

 マヤノトップガンは勘が鋭い。アポなしで本来休みのはずのクラブハウスに突進してくるのも、以前にもまして忙しなくしていたトレーナーの様子から何かを感じ取っていたからだろう。

 

「むふふ。生徒会長のネットワークを舐めてもらっては困りますなぁトレーナーちゃん。その顔を見ればわかるよ。あの娘、マイペースだってもっぱらの噂だもん」

 

 トレーナーの心配をよそに、マヤノトップガンは手元からウマホを取り出すと仰々しい手振りで連絡先を開き、

 

「アタシは美浦と栗東の寮長ふたりをシチューに収めてるのだよ。確か栗東の娘だよね。フジちゃんに聞けばイチコロだよ」

 

 そう言うが早いか、マヤノトップガンは昨年から2年連続で栗東の寮長を務める同期のフジキセキへ連絡を取り始める。トレセン学園には学生寮が完備されており、グラウンドと同様に学園の西と東にそれぞれ栗東寮と美浦寮が存在する。

 

 非常時でもなければトレーナーですら簡単には入れない禁足地だが、そこのトップともなれば学園に在籍するウマ娘の動向はおおよそ把握できる。寮長は一介の学園職員よりも生徒について詳しい。

 

 会長の職権をいかんなく乱用するマヤノトップガンだが、幸い彼女は悪意を持って他者を弄ることはしない。フジキセキも信頼できる生徒だ。もはや何も言うまい。トレーナーは考えるのをやめた。

 

 ウマホ越しの短いやり取りの後、通話を切ったマヤノトップガンはトレーナーに振り返る。もったいぶるようににやにやと満面の笑みを返し、さぞかし嬉しそうに話し始める。

 

「ちょーど1時間前に、日課のジョギングに出て行ったのを見たって。フジちゃんが言うには、いつも門限ギリギリまで帰ってこないってさ~」

 

「よぅし、支度だ。今すぐ追いかけるぞ」

 

 その言葉を聞き、トレーナーは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の娘をとっちめなければならぬと決意した。

 トレーナーには若い娘の考えがわからぬ。トレーナーは、しがない公務員である。

 頭を抱え、残業と遊んで暮らしてきた。けれども礼儀に対しては、人一倍に敏感であった。

 

「アイ、コピー!」

 

 ——どうやら面白いことになりそうだ。

 

 そう確信し、マヤノトップガンは答えた。

 

 

* 永正9年6月2日 府中多摩川かぜのみち

 

 

 サイレンススズカは物思いに耽るときに良くこの河川敷を利用する。

 トレセン学園から南におよそ4キロ。ウマ娘の脚であれば、10分と掛からない距離だ。

 

 立川の広場を起点に、多摩川沿いの堤防へと伸びるサイクリングロードは、東西に10キロ以上の距離が整備されており、学生や地元住民の散歩道、ジョギングのコースとしても親しまれている。

 ウマ娘専用のレーンが並走していることもあり、トレセン生には特に人気が高い。

 

 何より、信号に煩わされずに好きなだけ走れるというのがスズカにとってはこの上なく貴重だった。風の音、遠くから聞こえる電車の音、鳥のさえずり。

 人工音に溢れた街から少し離れただけで、別世界のように穏やかな時間が流れるこの場所は、まるで心を洗い流すような感覚を与えてくれる。

 

 どれくらい走っただろうか。スズカはペースを緩め、道端の茂みに足を止める。振り返って見ると、夕陽が遠く多摩の山々の裏側に沈もうかというところであった。夕焼け空の赤と峰々の黒いシルエットを見事なコントラストを描いていた。

 

 対岸の野球場では地元のクラブの試合らしく歓声が聞こえ、スズカと同じようにジョギングをする地元の方々が彼女の脇を通り過ぎていく。

 ほぼ毎日のように訪れるが、ダービーが終わろうと何ひとつ形を変えていない穏やかな景色がそこにはあるのだ。

 

 スズカは立ち止まった足元の感覚に集中する。ひと呼吸ごとに心の靄が晴れていくような清々しさに包まれ、気づけば日常の些事も、レースの重圧も、自分の中で遠くなっていた。

 

 そんなときだった。はたと気が付いて道端に座り込んでいるひとりのウマ娘の姿を目にとめる。スズカは思わず首を傾げる。

 膝を抱えて俯くその背中からは、言葉にしがたい哀愁が漂っていた。まるで古いメロドラマの登場人物のような見事なしょげた様子に、スズカはこらえきれずに失笑してしまう。

 

 こっぴどく失恋でもしたのだろうか。

 

 そしてワンピースの奥にちらりと見えた太もも(トモ)の筋肉のつき方に目を留め、瞬時に考えを改めた。

 

 レースに身を置くスズカだから、一目見て理解できる。

 如何にウマ娘といえども通常の生活をしているだけではあれだけ見事にはならない。彼女のトモは過酷なトレーニングの成果であり、おそらくレース関係者で間違いないだろう。

 一旦俯瞰してみると、全体的なシルエットもレースに携わるウマ娘ならではの均整の取れた肉体だった。こんな場所で、しかもこの時期に見かけるのは少し不自然な気もする。

 

 4月に入学したばかりの新入生にも見えなかった。もっと体の線が細いはずだ。『締め切り』間近の同級生にも見えない。ならばローカルからの編入組か。

 この時期に編入とは、変わったタイミングだ。それにしてもなぜこんなところに一人で座り込んでいるのだろう。スズカは彼女に対する心配と同時に、多くを物語るその背中に興味を惹かれた。

 

「どうかしましたか?」

 

 どうにも無視できなくて、そっと声をかける。気づいた彼女は顔を上げた。その頬には涙の跡があった。その顔が思ったよりもあどけなくて同性のスズカも一瞬、尻尾が跳ね上がりかけた。

 

「ぐすん……、どなたですか?っそのジャージ、トレセン学園の生徒さんですか!?あ、もしかしてサイレンススズカさん……ですよね!」

 

 先ほどまで暗い表情だったのに、声をかけてきた相手を知るやいなや一瞬で瞳が輝く。もしかしたら、よくレースの中継を見ているのかもしれない。スズカが短くうなずくと、彼女は慌てたように立ち上がって頭を下げる。

 

「わ、私、スペシャルウィークって言います!本当はこれからトレセン学園に行く予定で、駅から真っすぐ北に行けば着くって言われたんですけど、どこをどう歩いてもたどり着かなくて……」

 

「あの、ここは南側よ」

 

「スペッ!」

 

 スズカの指摘に、スペシャルウィークと名乗った彼女は驚きと共に体を宙に浮かせる勢いで跳ね上がった。

 河川敷は駅から見て南側だ。彼女は地図を見ても道を把握できず、方角を完璧に間違えたまま彷徨っていたのだろう。

 

「迷ったらウマホで調べればよかったんじゃないかしら?」

 

「スペぺッ!!いやその、駅からそんなに遠くないって聞いてたから、歩いていこうと思って。トレセンかなと思って入った所が違って、それでなまら混乱しちゃって。どこまで歩いたかわからないくらい歩いちゃって、もうヘトヘトで……」

 

 そう言いながら、彼女の目にまたじわりと涙が浮かぶ。すっかり泣きべそモードだ。

 表情を忙しなく変える彼女に親しみのようなものを感じて、スズカはスペシャルウィークの肩にそっと手を置いた。

 

「じゃあ、一緒に行きましょう?私は今日、ちょっと息抜きのつもりで走ってたんだけど……あっ」

 

 そこまで言いかけて、スズカの顔色がみるみる青ざめる。急な変わりように、スペシャルウィークが訝しんで顔を覗き込む。

 

 今になって、とある件について面談の約束をしていたのを思い出したのだった。すっかり失念して、ジョギングしていたなんてばれたらどうなるか。

 混乱したサイレンススズカはその場を高速で左旋回し始めた。

 

「ど……どうしましょう~!面談の時間、もうとっくに過ぎてる……!」

 

「すごいです、サイレンススズカさん!回転が黄金長方形の形です!」

 

 奇妙なほど迅速かつ精密な旋回に、スペシャルウィークは思わず目を丸くしたあと、尊敬のこもった声で叫んだ。

 

 くるくる回りながら自分の頭を抱え、何十秒もかけてたっぷり回転したスズカははたと立ち止まった。そして恐る恐るといった感じでスペシャルウィークを横目に窺った。

 

「あの、スペシャルウィークさん。迷子の娘を案内してたって、言い訳になるかしら」

 

「急にどうしたんですか!?」

 

 初対面同士のふたりの間になんとも言えない微妙な空気が流れた、そのときだった。

 

「うんうん。やっぱりジョギングって言ったら河川敷だよね~」

 

 スズカの後ろから明るい声が聞こえてきた。不意にスズカがびくりと身をこわばらせ、振り返る。

 

 いつの間やらそこにいた、長い栗毛のポニーテール。

 快活な笑顔は、トレセン学園の生徒なら見間違えるはずもない。チーム・シリウスのエース、マヤノトップガンだった。

 

「気晴らしもたまにはいいけど、人を待たせちゃいけないよ~?スズカちゃ~ん?」

 

「あっ、その。違うんです……」

 

「待てマヤノ、俺を置いてくんじゃないよ」

 

 その後ろから息を切らせて走ってくる男性がいた。スズカの身が一層こわばる。

 追いかけてきたのは、シリウスのトレーナーだった。彼はマヤノとスズカを見つけると、焦った様子でこちらに近づいてくる。

 

「ついに見つけたぞ、サイレンススズカ。何があったかは知らないが、無事で何よりだ。だけど、もう少し計画的に行動してくれないと」

 

「ご、ごめんなさい…つい…その…」

 

 スズカは肩をすぼめて小さく首をすくめる。ウマ耳も項垂れ、すっかりしょげてしまったスズカは濡れた子犬のように縮こまる。

 日本全国にレースが中継されるアスリートでも、その様子は何処にでもいるようなティーンのそれだ。言い逃れもできない彼女は、ただ叱責の言葉を待った。

 

 その一方でシリウスのトレーナーの視線は、スズカの隣にいたウマ娘に移っていた。

 

「ん?……スペシャル?お前、駅に到着したって連絡もよこさずに、どうしてサイレンススズカと……?」

 

 予想していた叱責とは違う、何かを確かめるような声色に、スズカは顔を上げる。

 シリウスのトレーナーはスペシャルウィークの名を呼ぶと少しの間、何かを確かめるように彼女を見つめていた。その表情は懐かしさと心配と、困惑とが入り混じったような、戸惑いの見える様子。

 

 スズカはその表情に意表を突かれた。スズカのイメージする指導者の顔とは、まるで別人のように見えたからだ。

 後にスズカは聞かされるのだが、この時は実に数年ぶりの対面だったそうだ。

 

 片やスペシャルウィークは、全身を震わせていた。目元には大粒の涙、スズカが少し前に見かけた顔だった。そして次の瞬間、

 

「おにいちゃああぁあぁあ~~ん!」

 

 わんわんと大声で泣きながらトレーナーに突進するスペシャルウィーク。シリウスのトレーナーが悲鳴を上げるが、踏ん張ってスペシャルウィークを受け止める。

 何とか倒れずに済んだシリウスのトレーナーが、その目を白黒させる。

 

「ちょっ、スペシャル!周りが見てるだろうが!いやぁ皆さん、すみませんお騒がせしちゃって」

 

 そんな喧騒を見て怪訝な表情を見せる周囲に対し、全方向に頭を下げて謝罪し続けるシリウスのトレーナー。スペシャルウィークはそんな彼に振り回されながらも泣きつくのをやめなかった。

 

「おい、スペシャル。恥も外聞もなく泣きついて……」

 

「えっ、なにこれ。『お兄ちゃん』?もしかして家族の感動の再会ってやつ?うわっ、ドラマみたいじゃん!マヤ、チョー感激だよ~♪」

 

 マヤノは勝手に合点がいったのか興奮気味にウマホを取り出し、騒ぎ立てる二人に向けてシャッターを切り始めた。完全に野次ウマであった。

 

「???、???」

 

 目の前で展開される一幕に、ひとり蚊帳の外のスズカは混乱のあまり言葉が出ない。頬に手を当てて首を傾げ、目の前のどんちゃん騒ぎを眺めるほかなかった。

 どうやらシリウスのトレーナーと、先ほど出会ったウマ娘。この二人は、思った以上に深い因縁があるらしい。

 

 が、いったいどういう関係なのだろう。

 

 ともかく、府中駅から北と南を逆に行って河川敷で迷子になっていた問題児と、面談をすっかり忘れてジョギングに勤しんでいた問題児は、あえなく御用、チーム・シリウスへ連行される形になったのだった。




1.というわけでトレーナーがお兄ちゃんでした。対戦よろしくお願いします。
2.書き終わってかなり後になってから、この年の目黒記念はダービーの翌週に開催されていたことに気が付きました。まあ、ええか!
3.このチーム・シリウスはアプリと似て非なる存在です。『アース-616』に対する『アース-1610』みたいなものですね。
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