――拝啓
お母ちゃん、そしてもうひとりのお母ちゃん。お元気で過ごされていますか?
トレセン学園に来てから、まだほんの数日しか経っていないのに、もうずいぶん長く感じます。
学園の広さにも、人の多さにも、まだまだ戸惑うことばかりですが、それでも少しずつ中央に来たんだっていう実感が湧いてきました。
お兄ちゃんとは無事に合流できましたが、やっぱりトレセンはすごいところで、ついていけるかちょっと不安になったりもします。
でも、お母ちゃんたちと約束した「日本一のウマ娘になる」という夢を叶えるため、私、けっぱります!
みんなの後押しのおかげでここまで来られたのだから、少しでも早く一人前になって、胸を張って日本一のウマ娘と言えるように!
そう決意して出発したのに、早くも北海道に戻ってきてしまいました……
ホームシックになったわけではありません!
チームの仲間のメイクデビュー戦が函館であるので、その応援のために急遽とんぼ返りすることになったんです。
久しぶりの函館レース場は、懐かしくて、それだけで胸がいっぱいになりました。
小さい頃、よくお母ちゃんに連れてきてもらっていたっけ。雰囲気も、吹き抜ける風も、どこか安心するような気がして。
でも、それと同時に私はもうここに遊びに来ているわけじゃないんだと、自分に言い聞かせています。
レースを見届けたら、すぐ東京に戻ります。
本格的なトレーニングはまだだけど、学園の生活に慣れて、いずれメイクデビューのときには、もっと強くなっていたい。
そのためにも、今は前を向いて頑張らなきゃって思っています。
それでは、どうかお体に気をつけて。次の手紙では、成長できたよって報告ができるようにしますね。
敬具
スペシャルウィーク――
* 永正9年6月7日 函館レース場
刹那、すさまじい豪脚で後続をまとめて千切って見せたアグネスワールドのたなびく尻尾に視線を注いで、今年からシリウスに所属するサブトレーナーの粟森は胸の鼓動を抑え込むように大きく息を吐いた。
勝てるかどうかは半々といった塩梅だったが、レースの勝ち負けよりも、アグネスワールドの走りに肝をつぶした。
ダービーの実施と共にレースの番組構成は一巡し、ジュニアB組のメイクデビューが始まった。今期のシリウスは、スペシャルウィークを含めて5名のウマ娘をスカウトしていた。
そしてその中でもひときわ仕上がりの早い娘を函館の開催初週に出走させることができた。どんなウマ娘であれ、レースの経験は早ければ早いほど良い。
函館第6レースの出走登録は7名と、この時期のメイクデビューらしい少人数での開催となった。アグネスワールドは事前人気で1番となり、ほとんど差のない2番人気には栗東寮の急先鋒と名高いエモシオンが名を連ねた。早くも来年のクラシックを見据えた期待の新鋭同士の一騎打ちの様相を呈したのだった。
アグネスワールドはスタートこそ出遅れ気味であったが、二の足を見せて中団につけるとそこから他の娘たちを弾き飛ばさん勢いでさらに加速、暴走気味の大激走を見せて2着に5バ身、3着のエモシオンには10バ身もの差をつけての圧勝劇を見せつけた。
直前に行われた世代最初のメイクデビューはティアラ路線専門のレースであったこともあり、実質的にダービーに向けての関門を一番に突破した彼女の激走は、他チームの関係者を様々な意味で驚愕させた。
ゴール板を通り過ぎてバックストレッチ中盤までオーバーランしたワールドは、ウイナーズ・サークル付近にいるトレーナー陣を見つけると両手をブンブンと振り回し、スタンドまで響く声量で呼びかけてきた。
「トレーナー殿!サブトレーナー殿!わがはい、わがはい勝ちましたぞよ~~!」
激走の勢いのあまり瓶底眼鏡を傾けたまま、勝利したワールドの大音量が響き渡る。彼女たちの心配をよそに喜びを爆発させるワールドに向かって、粟森は手を振って応える。彼女の隣でワールドの走りを撮影していたシリウスのトレーナーは、撮影用のカメラを急いで片付けながらぼやいた。
「周り見えてなかっただろアレ。あいつ、普段は平気なのにレースで豹変するタイプだっか……」
普段からペース配分や息の抜き方を知らない、俗にいう『気性難』なウマ娘は確かに存在する。だが併走や模擬レースでは優等生なのに、こと本番のレースとなると我を忘れて走ってしまう困ったタイプの気性難も一定数出現する。ウマ娘は実際にレースに出てみないと、本性は判らん。とあるベテラントレーナーの金言である。
普段から手を焼くのであれば割り切りも簡単なのであるが、本番でスイッチが入るウマ娘はトレーナーを大いに悩ませるのだ。もし今後もあの調子が治らないなら、間違いなく2,000メートルなど持たないだろう。クラシックに乗る大器だと思っていたが、一気に雲行きが怪しくなってきた。
そんな暗雲を振り払わんとトレーナーは、話題を変えて粟森に話しかけてきた。
「まぁ事故がなくてよかった。毎度のことだがデビュー戦は何が起きるかわからんね。どうだ、現役時代とは別の意味で緊張しただろ?」
その声に粟森は席から跳ね起き、大きめのベレー帽が揺れ動く。ズレ落ちかけた帽子を慌てて整えなおすと、硬く握りしめるあまり生地が伸び切ってしまったジャケットを丁寧に折りたたみながらトレーナーに、
「心臓止まるかと思っちゃった。自分が走った時でもこんなことないよ」
と答えた。粟森がシリウスに配属になってからチームメンバーの出走は何度もあったが、メイクデビューに出走するのは初めてだった。
今回、チームに配属されてから初めてレース開催に関する仕事を一任された。他チームの情報収集から始まり、出走ウマ娘の想定、出バ投票や移動手段の手配などの一通りの事務手続きを行ってみせた。
今までチームメンバーや同僚の応援という立ち位置で観戦することは多々あったが、ひとりのウマ娘の人生を預かる責任者として、レースに挑むこともまた初の体験であった。彼女の胸には、まだ得体の知れない高揚感と安堵、不安が混じり合う。
粟森はかつてトゥインクル・シリーズを戦ったウマ娘だった。
現役時代はダービーを2着、菊花賞での番狂わせ、春の天皇賞の死闘、長いスランプからの奇跡の復活、——そして淀の悲劇。
長距離を中心に実績を残し『最後のステイヤー』とも称された彼女は、かつて黒い刺客と言われたライスシャワーその人だった。
「こんな調子だったら私、グラスさんがデビューして判定待ちなんかになったらその場で倒れちゃうよ……」
サブトレーナーは独立するまでの間、既存チームのトレーナーに師事し、研鑽を積む。かつて彼女のトレーナーだった恩師の助言のもと、昨年12月にトレーナー試験に合格した粟森は今年度からシリウスに配属となり、トレセン学園のトレーナーとしての一歩を踏み出したのだ。
キャリア1年目の彼女は、大手養成塾でひときわ評判の高かった逸材、グラスワンダーを担当バとしてスカウトしたのであった。
良い経験になるとは言っていたが、トレーナーのデビュー戦としてはちょっと刺激が強すぎたか。トレーナーはそう思うと重責に震える粟森をちらりと窺ったあと、話題を変えた。
「エモシオンは3着だが初めてのレースに慣れてなかっただけだな。さすが期待されるだけのことはある。あの走りであれば、すぐに体制を立て直して、クラシックに乗り込んでくるはずだ。手ごわい相手になるぞ」
今のうちにマークしとかないとな。そう残すとトレーナーは係員に誘導されて口取り式に向かった。ひとりになった粟森はしばらくトレーナー席にたたずんでいたが、観戦に来ている教え子たちを迎えにスタンドの奥へと歩を進めた。
粟森は現役時代、彼女のトレーナー『お姉さま』チーム・トリマンの鳥羽トレーナーと共に誓った目標があった。
『青いバラ』になって、みんなを幸せにする。そのために、絵本作家になる。
そしてその夢と同じくらい、養成塾のコーチになることを目指したのだった。
養成塾は主にトレセン学園入学前の、主に小学生レベルのウマ娘を対象にレースの技術を教える専門の教育機関である。各校は世界中の実績あるウマ娘を招集し、全国から集められた次世代のウマ娘たちが幼少期からハイレベルな指導を受ける。
粟森自身も例外ではなく、彼女も実家の経営する『無何有学園』の卒業生だ。
歴史に名を遺す名ウマ娘は、ほとんどが著名な養成塾の出身である。近年ではむしろトレセン学園への入学段階で養成塾を卒業していることが前提に見なされるほど重要度が増してきている。
そういった意味では、養成塾はトレセン学園よりも重要が高いと位置づけられても過言ではない。養成塾のコーチは、トゥインクル・シリーズやプロのドリームトロフィーリーグで極めて優秀な成績を残したウマ娘しかなれない、レース界最高ともいえる栄誉あるものなのである。
ライスシャワーと鳥羽はかつて実績を積み重ねる中でコーチ職を模索し続けていた。
しかし長距離に実績が偏っている彼女の受け入れ先は見つからず、将来性を証明せんと宝塚記念に出走した矢先の事故であった。
それ以上のキャリア、さらにはコーチとしての未来も絶たれてしまった彼女を見かねた鳥羽は、URAのトレーナーを目指すことを勧めたのであった。
控室に向かう途中、通路から来た道を振り返る。
ウイナーズ・サークルではアグネスワールドとトレーナーが記念撮影と取材を受けていた。彼のように自分も強くならなければならない。
もう一度心身ともに鍛えなおそう。『お姉さま』に胸を張れるようなトレーナーになって見せる。そう今のトレードマークとなっているベレー帽に誓ったのであった。
* 永正9年6月7日 北海道安平町
アグネスワールドのメイクデビューは土曜日のレースだったので、レース後のライブを終えたら速攻で、羽目を外される前に夕刻の便で帰らせることにしていた。チームメンバー内から遊ばせろと非難が噴出したが、別チームの先輩トレーナーに引率を依頼していた手前、彼女たちも表立った反乱は起こせなかった。
ワールドの今回の勝利で、メンバー全員の気が緩まないようにとの思惑もあるが、それとは別にトレーナー陣は別の用事があった。
呪詛をまき散らしながら搭乗ゲートに吸い込まれていったメンバーを見送った後、シリウスのトレーナー陣は函館空港から新千歳空港へ飛び、タクシーで安平町早来の北吉原レーススクールへ足を運んだ。
6月8日の安田記念には、シリウスからジェニュインが出走するので、今日中に用を済ませて明日の便で北海道を発たなければいけない。
北吉原レーシングスクールは戦後早くから世界に通用するウマ娘を育成することを目標に掲げてきた、『世界のキタヨシハラ』と呼ばれる日本最大かつ最高峰のウマ娘養成塾である。
その理念のもと海外の実績のあるウマ娘を積極的に招聘し、高度なレース教育を提供している。
その育成力は先進的なトレーニング理論を始め、トレセン学園に比肩すると言われる充実したトレーニング施設、優秀なスタッフなど数えれば枚挙にいとまがない。
新千歳空港から国道三六号線を南下する。森を切り開いて通した国道の脇はどこまでも木々で覆われているが、国道をそれて台地を下ると、ヘッドランプを遮るものがない一面の平野へと出る。
日中に来れば、遠くまで見通せる一面の平野が見えるはずだ。早来はその広大な平地が広がる土地を利用した、ウマ娘の養成塾が集う一大集積地なのである。
その一角に北吉原レーシングスクールは存在する。
トレーナー陣の到着が夜になってしまったので現在はしんと静まり返っているが、門をくぐるまで左右に続く広大な敷地には競走用のトラックが整備されており、トレセン入学前の若駒が日々練習に勤しんでいる。
大規模な寮も完備しており、あと1ヶ月も経つと全国からトレセンを目指すウマ娘が一斉に集い、夏休みを利用した全寮制のサマースクールが開催されるはずである。
そんな北吉原の事務局の入り口、サブトレーナーの粟森にもなじみのある人物が出迎えてくれていた。
「ライスさん!」
「まっ、マックイーンさんっ!」
トレーナー陣を出迎えた人物はメジロマックイーン。
春の天皇賞の連覇を含むGⅠ競争4勝、トゥインクル・シリーズで史上初めて獲得賞金が1億円に到達した。レース内外での名優と称される立ち振る舞い、そしてその横綱相撲ぶりから『退屈なウマ娘』とまで称された史上最強のステイヤーと言われるウマ娘である。
現在は大学の卒業を控え、北吉原レーシングスクールでコーチとしてインターン中である。
メジロマックイーンはタクシーから降りてきた粟森を見るとすぐに駆け寄ってきて彼女を抱きしめた。粟森も旧友との再会に目をほころばす。
「息災でしたか?脚のお具合は?夏とはいえ夜は冷えるでしょう?ささ、中へどうぞ。この唐変木に無茶ばかり付き合わされては体がもちませんわ」
到着するやいなや、いきなり非難される形となったトレーナーが声をあげる。
「唐変木って誰のことだよ」
「ライスさんに何かありましたら、このわたくしが許しませんわ」
「そんな鳥羽先輩みたいなこと言うなや」
その後シリウストレーナー陣は、来賓も利用するレストランに通された。リゾート地のレストランを模したそこは、今でこそ営業時間外なので利用客の姿は見当たらない。しかし、日中は多くのウマ娘や保護者達、そしてファンの観光客などが利用するのだろう。
北吉原レーシングスクールは一介の教育機関でありながら、観光にも耐えうる施設も整備する。その規模を垣間見て粟森は感心しきりであった。
彼らの到着を見越して、メジロマックイーンは暖かい軽食を準備してくれていた。二人は好意に預かりつつ最初は世間話から入り、話題は今年のクラシックについてとなった。
「まずはブライトについて。こちらの急な要請にもかかわらず、面倒を見てくださり感謝いたします。ダービーの結果は残念でしたが、彼女もメジロの娘。この敗北も糧になるでしょう」
今後とも引き続き、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。メジロマックイーンはそうして一通り謝辞を伝えると、ふいに目つきを変えてトレーナーを睨みつける。
公私をはっきり使い分けるのが、メジロマックイーンが名優たる所以である。
トレーナーとメジロマックイーンは古い付き合いだが、身内モードに入ったマックイーンは強敵でしかない。トレーナーは苦笑いするしかない。
「それにしても『今回の件』もしかり、ですわ。貴方もライアンも、ど~も私のことをダシに使えばうまくいくとお思いのようで」
今年のクラシック路線には、シリウスからメジロブライトが参戦した。
近年メジロ家は育成の改革に力を注いでおり、北吉原への留学経験もあるウマ娘や、今年のオークスを制したメジロドーベルなどの所属先が注目されていた。
そんなメジロ家の同期の中では比較的地味で、期待されているとは言い難い存在だったブライトのシリウス入団は、界隈では驚きをもって受け止められた。
サプライズともいえるメジロブライトの去就には、マックイーンの同期にしてメジロ家の一員であるメジロライアンが関与していた。ライアンが以前より手塩にかけて可愛がっていたブライトを、マックイーンを経由してシリウスにスカウトさせたのだ。
「ふふっ、マックイーンさんとトレーナーさんのエピソードを聞けば誰でもお願いしたくなるよ」
その様子を横から見ていた粟森がフォローする。トレセン界隈において、マックイーンとシリウストレーナーのサクセスストーリーは高名だ。マックイーンは、トレーナーがサブトレーナー時代の最初の担当バなのである。
チーム・シリウスはオグリキャップなどを輩出した名門チームであった。引退後も『先生』と敬われる先代シリウスのベテラントレーナーは、ウマ娘のみならずトレーナーの育成にも一家言のある名伯楽だった。
だが今のトレーナーがシリウスに配属された時にはすでに高齢で、定年が差し迫っていた。
先代トレーナーは引退前の最後の大仕事として、若造のサブトレーナーとまだブレイク前のマックイーンを引き合わせたのだ。
その成果は彼女たち自身が証明している。人バ一体の体現として、随分とトゥインクル・シリーズを騒がせたのだ。
「引退から、もう4年もたっておりますのよ。わたくしをいつまでもシリウスの窓口扱いされるのも困りますわ」
マックイーンは不満を隠そうともしない。だがたとえ自分が使い走りの様な立場になろうとも、マックイーンはプライドを抜きにして実践する。それが後進のためになると百も承知だから、文句を口にしながらも断ることはしない。
一通り愚痴を言い終えるとマックイーンは『今回の件』を切り出した。
「彼女、もうトレーニングは始めましたの?」
スペシャルウィークの件だった。ライアンがブライトをシリウスに預けたのと同様に、シリウスのトレーナーもスペシャルウィークを北吉原に預けていた。
可愛い妹分とはいえ、何の実績もない身内をわがままそのままにレースの世界に引き込むほど甘くはない。半年ほど養成塾で修練を受けることを、スペシャルウィークに条件として提示したのだった。
ちょうどインターンで北吉原に在籍していたマックイーンを利用した。ブライトの件と同様、マックイーンがシリウスOGであることを利用したゴリ押しであった。
「いや、今週は諸々の手続きであわただしい。来週は1ハロン二十から立ち上げて、夏の間には十五-十五までもっていく。秋のゲート試験まで負荷を上げる予定だ」
「えっ、そんな急に負荷あげて大丈夫!?」
隣で聞いていた粟森は驚いた。1ハロン15秒の追い切り、いわゆる『十五-十五』というのはウマ娘のトレーニングにおけるひとつの指標だ。レースでの全力と比較して8~9割の負荷で行うランニングが、そのあたりのタイムになる。
十五-十五をそつなくこなせるかで、レースに向けた高負荷トレーニングの可否、レース間隔が詰まった中での軽めの調整、怪我や頓挫からの復調といったウマ娘のおおよその立ち位置がわかる。
だがそれは十全に練習を積み重ねてきたジュニアC組以上の基準だ。
ジュニアB組の生徒は心も体もまだ成長途中。たしかにシリウス内でも頓挫なくトレーニングを積めたアグネスワールドやグラスワンダーは、十五-十五を突破している。
一方で不調に苦しむ他2名のメンバーは、まだ同レベルの負荷は難しい。トレーナーはスペシャルウィークを通常の半分の期間で速成するつもりなのだ。
しかしメジロマックイーンは動揺もせず、用意していた資料をよこした。
「彼女の時計ですわ」
資料はここ半年ほどのトレーニングのデータだ。使用したコースや当時の天候、コンディションなどが記載されていて、最終的にウマ娘のポテンシャルなどまで仔細が載っていた。
「なんだこれ」
トレーナーは内容を一瞥するなり、マックイーンを見もせずに質問する。
「貴方の可愛い妹さん、こちらのコーチ陣の間で何と呼ばれてたかご存じで?」
メジロマックイーンはトレーナーの問いには答えず、大事なことを伝えるように一字一句区切りながら話した。
「あのグラスワンダーさんに匹敵する、ですわよ」
トレーナーは書類をもう一度見返す。横から覗き見る粟森も驚きを隠せない。
業界で最も厳しいと言われる北吉原の水準をそつなくクリアしていた。
芝適正、距離適性、脚質。項目ひとつひとつが単体でも魅力的な数値だ。
スタミナ、最高到達速度、加速力、バ群を割るパワー、度胸、そしてレースでの冷静さ。
それがすべてバランス良く並んでいる。何の瑕疵もないクラシックを目指せるウマ娘のお手本のような成績だ。
想像もしていなかった内容に、思わずマックイーンを見返すトレーナーに対してマックイーンは過去を振り返るように話す。
「最初はわたくしの所掌で引き取った手前、面倒はわたくしが見ておりました」
俄かにマックイーンの眉間が険しくなる。その豹変ぶりにトレーナーは訝しんだ。
「最初は半信半疑でしたが、スペシャルウィークさんは年明けには早いタイムを出せるようになって、トレーニングにも順応してきました。体躯のバランスも整い始めて、わたくしも手応えを感じておりました。しかし、先月から例の……」
言いかけて、マックイーンは言葉を飲み込んだ。失礼、と咳払いをして静かに、しかし不満と申し訳なさが入り混じったような様子で、
「……『例のおかた』が口を挟むようになりまして。北吉原でも、あのおかたは特別です。でも、それゆえに勝手がすぎますわ」
ここにはいない人物を非難するように伝えてきた事実に、トレーナーは息をのむ。にわかには信じがたいと粟森が再度確認する。
「あのひとに直接指導してもらってたの?」
「ええ。トレーニングの計画も、移動の手はずも。何もかも度外視してやれ坂路だ、やれ並走だと走らせて。その熱の入れようと言ったら……。だれが責任を取るつもりだとお思いなのか、こちらの配慮も完全に無視しまして……」
マックイーンがここまで感情を露わにするのは珍しい。マックイーンの剣幕と驚愕の事実を前にトレーナーと粟森は黙って聞いていた。
北吉原の『例のおかた』はマックイーンの言葉の通り、特別だ。
生まれ故郷での輝かしい成績と、それと対極のような苛烈な評価の数々。数年前に故郷を飛び出して身一つで北吉原にやってきた、異端とも言えるウマ娘だ。
彼女の影響は計り知れない。現にシリウス所属のジェニュイン、マーベラスサンデーは彼女の教え子の一期生にあたり、栗東寮長のフジキセキもその系譜だ。
昨年には『四天王』と呼ばれた二期生たちがクラシック路線に旋風を巻き起こした。
彼女の指導によってトゥインクル・シリーズの競技レベルが数段階上がったとまで言われ、今後の勢力図に影響を及ぼすことが確実視されるほどの指導者だ。
だから教育に力を入れる北吉原であっても、生半可なウマ娘では見向きもされないらしい。そんな彼女から直々に目をつけられ、薫陶を受けた。この事実が語ることは何か。
シリウスのトレーナー陣ふたりは、そろって顔を見合わせるしかない。
マックイーンはそんなシリウスに、律儀に頭を下げて謝罪する。
「預からせていただいた手前、力不足を晒す形になり恐縮ですが、手綱を管理できず申し訳ありません」
「いや、実害がないのなら構わないが……それにしても思っていた以上にやれるのかもしれない。あいつには中央を無礼るなとはいったが、その発言は俺へのブーメランかもしれないな」
トレーナーは、手のかかる妹分だと思っていたスペシャルウィークへの評価を改めざるを得なかった。
* 永正9年6月7日 北海道安平町
その後シリウストレーナーは、たまたま現れた北吉原のトップ(フットワークが軽いことで知られているのだ)に呼ばれ、席を外してしまった。
粟森とマックイーンは二人きりの時間を得たことで、肩の力が抜けたようで互いの近況や懐かしい話題に花を咲かせた。現役時代はレースでしのぎを削った間柄であっても、こうして向かい合うと、奇妙な親近感と安堵があった。
粟森は用意された軽食では足りず、持参していたおにぎりをいくつも平らげていた。
現役を退いてもなお変わらぬ健啖ぶりに、マックイーンは苦笑しながら、目を細める。
「すごい食欲ですわね……相変わらずというかなんと言うか、なんだか安心しましたわ」
「食べられるのは健康のバロメーターだよ。サブトレーナーの仕事はまだ慣れてなくて大変だけど」
粟森は空になった弁当箱を見つめながら、小さく笑った。その笑顔の奥に潜む切迫感を、マックイーンは見逃さなかった。
「グラスワンダーさんの育成は、あなたに一任されているのでしょう?」
「……うん。だから、試されてるってことは理解しているつもり」
粟森の心の内では何度も繰り返していた言葉だ。だが口にした瞬間、背筋が伸びた。誰かに向かって声に出すのは、これが初めてだった。
グラスワンダーはこの北吉原で『今世代最強』とまで称され、最大の期待をもって送り出された大器である。それゆえにトレセンの入学前からその去就に注目が集まっていた。
「最初はトリマンに声がかかってたみたい。でも、おねえさ…鳥羽トレーナーは断ったみたいで」
粟森はわざと濁すように話した。だが確かに最初は『お姉さま』のチーム・トリマンに声がかかっていたと記憶している。
トリマンの鳥羽トレーナーは昨年の12月、粟森のトレーナー試験合格を一番に喜んだのもつかの間、粟森にシリウスへの配属を勧めたのである。そして次のように話した。
——良いトレーナーになるためには、良いトレーナーを知ること。だからあなたは日本一のチームに行きなさい。
粟森はその言葉が忘れられない。
そして例年の年末は、多くのウマ娘たちのチーム去就が取りざたされるタイミングでもある。彼女はあえて間を置かずにグラスワンダーを粟森に引き合わせた。
それのみならず、言葉巧みにグラスワンダーを焚き付け、粟森の担当バとして確約させてしまったのだ。
まるでトレーナーとマックイーンの焼き回しではないか。恐らく、鳥羽もそれを見据えていたのではないか。そうやって外堀が埋まっていく様を、粟森は肌感覚として捉えていた。
だが作為的なものも含まれているとはいえ、結局のところはタイミングだ。去年のトレーナー試験に合格していなかったら、こうはならない。粟森は運命的なものを感じずにはいられなかった。
「でもね。あの子と向き合うと、私なんかじゃ力不足なんじゃないかって、つい思っちゃって」
「それでいいのです」
マックイーンは、優しい声で言った。
「自らの未熟さを自覚して研鑽し続けることが、良きトレーナーには必要ですわ。『学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない』、ですわ」
著名な指導者の言葉を引用しながら、マックイーンは続ける。
「彼のやり方は先代の先生と同じです。そのチームで一番のエースを担当させ、あとは『任せて任せず』。少し古風で厳しすぎるきらいはありますけれど、その苦しみを経験することでしか見ることのできない、視座というものがあると思います」
メジロマックイーンは言いながら、ふっと視線を遠くに投げた。その表情には、どこか自分自身への問い直しのような、そんな切実さがにじんでいた。粟森は彼女の立ち振る舞いとどこか遠くを見つめるような表情の中に、幾ばくかの失意の念を感じ取った。
「わたくしもこの立場になってようやく、自分の浅学非才に打ちのめされております。未来ある娘たちの人生を左右する手前、どうしても比較せずにはいられませんもの」
優秀な人材が集う北吉原にあっても、指導者としての責任と重圧は等しくのしかかる。未来あるウマ娘たちの人生を背負うということは、指導者同士も比較され続ける。ましてや彼女のすぐそばには、『例のおかた』がいるのだ。
「かつては、当たり前だと信じて疑わなかったのです。毎日の追い切りも、レース前の会話も、ウィニングライブも、ご褒美のスイーツを頂くことも。どれも当然なことのように思っておりました」
マックイーンは一瞬、空になったティーカップに視線を落とす。そして、自嘲気味に笑って顔を上げた。
「でも、今になってようやく気づいたのです。当たり前のことを、当たり前に成立させることの難しさを。そして当たり前を積み重ねていく大切さを」
その目は粟森ではなく、もっと遠くを見据えていた。メジロ家の未来。そして、自分が背負い続ける責務を見つめていた。
おそらく、マックイーンはこの北吉原でコーチとしての実績を積んだのち、メジロ家の次期当主としての道を歩むことになる。
誰しもが憧れるコーチとしての地位を手にした今、まさに苦しみのさなかにある。誰もが憧れるようなキャリアでありながら、当人はその重圧の中で揺れ続けている。
そして、メジロマックイーンは静かに粟森へと向き直った。
「辛いこともあるでしょう。でもライスさん……いえ、粟森さんなら、きっと必ずやり遂げられると、わたくしは信じておりますわ」
その言葉には、かつて一時代を築いた者だからこその重みがあった。粟森は、静かにうなずいた。
1.あかん、このままじゃグラスとエルの取り合いになってまう…せや!ま〇ば分裂しろ!
粟森・鳥羽「「分裂しました」」
2.まどろっこしい設定は後で擁護集のほうに。許してヒヤシンス。
小説とは関係ないけど階段から落っこちて利き腕を負傷しました。更新頻度落ちるかも...
みんなも気をつけよう!