函館からとんぼ返りを命じられたシリウスのメンバー、厳密にはマヤノトップガンは、怒り心頭だった。有無も言わさず帰りの飛行機のチケットを用意され、先輩トレーナーという枷をはめられ、飛行機に詰め込まれ、アグネスワールド勝利の余韻に浸る暇もなく、撤収させられた。
その理不尽に業を煮やした彼女は、先輩トレーナーの運転するバンから、脱出を試みた。生活用品の買い足しだと、あれこれ言い訳を申し出てトレセン近くのコンビニで降ろしてもらったのだ。
ジェニュインとマーベラスサンデー、シリウスの二人の同期も引き連れ、お菓子にジュース、アイス、スナック、普段は隠れてコソコソと口にしなければいけない類のものをしこたま買い込んだ。
その足で向かった先は寮ではなくチーム棟のクラブハウスだった。
「おかえりなさい、わたしたちぃ!」
勢いよく扉を開けて先陣を切ったのは、マヤノだった。すぐ後ろからは、ジュースのボトルを抱えるジェニュイン、袋から菓子をあふれさせながら器用に歩くマーベラスが続く。
よほどの理由がない限り、先輩のいうことは絶対だ。後輩たちも断ることはせずに、先輩たちの後に続く。
ソファや机の上に、買い込んだ戦利品が無造作に広げられる。栓を開けられた人参ジュースの甘い香りが広がり、クラブハウスの応接間は、一夜限りの無法地帯と化していた。
先に生徒だけ返したトレーナーが悪いのだ。
「乾杯の音頭はぁ、このわたくし、マヤノトップガンが務めさせていただきますっ!」
ローファーを脱ぎ、身軽な動作で、マヤノは即席の壇上と化したソファの上に飛び乗る。それぞれの紙コップに人参ジュースが注がれていく。
色鮮やかな橙色が、まるで舞台照明のように部屋の空気を浮かび上がらせた。
「えー、まずは!ワーちゃんのメイクデビュー戦、完勝おめでとう!あとスズカちゃんも移籍おめでとう!シリウスにようこそ!えー、さらにさらに、スペシャルウィークちゃんの編入祝いも兼ねて、あと、ジェニュの安田記念も控えてますし!えーっ、レースには三つの袋が……」
「「かんぱーい☆」」
マヤノの挨拶が終わる前にシニアB組の先輩二人が率先して飲み始める。熱弁は遮られ、スナックの袋が開けられる小気味の良い音が響き渡る。二人はマヤノを完全に無視してメンバーにお菓子を配り始める。
「なによもう~っ!って、キャロットボールは私が食べるの!ダメ!戻して!!」
マヤノの非難の声も笑いにかき消され、誰も応じない。
彼女たちの態度には、ある種の図々しさがあった。けれどそれは、5年という年月をこの学園で過ごし、シニアB組に至るまで数々の修羅場をくぐり抜けた者にのみ許される風格でもあった。
レースというものは常に他者との戦いで、結局のところ1着を奪い合うことに他ならない。敗北は、その後のキャリアを左右する。自分の力ではどうしようもない壁を目の前にした時でも前に進むため、ポジティブさという防具を身に着ける。
トゥインクル・シリーズの厳しい環境を生き抜き、走り続けている者たちが醸し出す陽気さは、生き残った者だけがまとうことを許された鎧でもある。
空袋が放り投げられ、ゴミ箱に転がる。スペシャルウィークは、その光景を少し離れた位置から見ていた。マヤノがワールドに絡み、ジェニュインとマーベラスがそれに追従する。
トレセン学園に、チーム・シリウスに入ってからまだ1週間しかたっていない。打ち解けたようでいて、その輪の中にはまだ自分はいない。けれどその距離感覚は今のスペシャルウィークにはちょうど良かった。
ワールドを脇につれたマヤノが、再びソファの上に立った。
「それじゃあ、勝ち上がったワーちゃん!勝利についてひとことっ!」
「アグネスワールド!一番乗り~でござる!」
目の前で繰り広げられているお祭り騒ぎを強者の栄光と呼ぶならば、スペシャルウィークの脳裏に焼き付いているのは、零れ落ちつつある未来を必死でつかもうとする者たちの発する悲痛だった。
ワールドが笑いながら「最高でござる!」と叫んだその瞬間、その冷ややかで美しい戦場が、スペシャルウィークを一瞬にして午前の函館へと引き戻した。
* 永正9年6月7日 函館レース場
スペシャルウィークは、事前にトレーナーからある宿題を言い渡されていた。ワールドが出走するまでの間、午前中に施行されるレースのメンバー構成とレース展開、勝利の要因を分析して、あとでレポートとして提出するよう命じられていたのだ。
ジュニアC組、初夏の未勝利戦。第4レース以外は、枠が完全に埋まるフルゲート。未勝利戦の名の通り、まだ一度も勝ち星をつかめていないウマ娘たちで構成される。
観客もまばらな午前中に行われるこれらのレースは、正直に言うと午後に開催されるメインレースの前座である。だがひとつ上の先輩たちの、生き残りをかけた大事なレースでもあった。
トレセン学園は、毎年千人を超えるウマ娘が全国から集まる全国でも屈指のマンモス校である。中等部だけで数千ものウマ娘が所属しているのだが、その一方で高等部の生徒数は、中等部のそれと比較して極端に少ない。
理由は単純明快、いなくなるからだ。
トレセン学園の競争課程における高等部への進学条件は、トゥインクル・シリーズのシニアA組への昇級とほぼ連動する。昇級にはレースで最低1勝以上することが必須条件だ。だが未勝利戦は日程で言うところの秋季開催序盤、つまり9月上旬以降は施行されない。
この未勝利戦が終了するタイミングのことを、トレセン学園関係者の間では畏怖を込めて『締め切り』と呼ぶ。
この『締め切り』の存在は番組編成上の制約もあるのだが、むしろ勝利することのできなかった娘たちが進路を考えるための猶予期間を設けるためという側面が強い。
『締め切り』に間に合わなかったウマ娘が取れる選択肢は少ない。
大多数のウマ娘は他の高校への進学を選び、学園を離れる。見切りの早い娘だと夏に入る前には引退し、受験勉強へと舵を切る。
トレセン学園に残る道を模索する娘もいる。
ひとつはトレセン学園を一時的に退校し、ローカル・シリーズに転向して再起を図る方法。トレセン学園の生徒は、俗に『都落ち』と称する。もうひとつは教育課程の変更を行ってレースの運営やサポート側へと回る道。事実上の引退で、レースへの出走は叶わなくなる。
第三の選択肢として、多大な制約を背負って『浪人』し、トゥインクル・シリーズを続行するという手もあるが、それは例外中の例外と言っても差し支えない。
トレセン学園の門は、スペシャルウィークをはじめ全国から集った夢を抱いた者たちに対して開かれているが、その門は驚くほど狭い。
そしてそれ以上に狭き門を道の途中に設定し、夢破れた娘をレースから放逐することで競技のバランスが保たれているのだ。
だから夏場のこの時期の勝利は、比喩でもなんでもなく天国と地獄の差が生まれる。
未勝利戦は、全てのウマ娘が勝ち上がることができるように編成されてはいない。もしこのタイミングで勝てなかった場合はいよいよ調整などという悠長な時間など無くなってくる。
ひとつのレースに出走できる人数が限られている以上、残り少ない未勝利戦にウマ娘が殺到し、優先出走権による席の奪い合いになる。
当然、希望通りのレースへの出走は望めなくなる。場当たり的に滑り込んだレースに出走する羽目になり、文字通り死に体に近い状態で走らされることを余儀なくされる。
もちろんメイクデビューに間に合わなかった未出走の娘たちも等しく参加してくる。調整の遅れた娘もいれば、単純に力不足の娘もいる。
背景は様々だが、勝てる見込みのあるウマ娘は出走メンバーの半分にも満たない。
事実今日のレースでも、しんがりの娘はほとんどレースに参加できていなかった。
無残に敗れた娘たちが地下バ道に戻ってくる様子を、スペシャルウィークは見つめていた。
泣いているのは、むしろ勝利した娘だ。顔を伏せる娘もいた。無言で通り過ぎていく娘もいた。妙にさばさばした様子の娘もいた。蹄鉄が発する冷たい足音と、擦り切れた芝の匂い。すぐそばで息を整える音が聞こえる。
スペシャルウィークはすでにレースの関係者だ。地下バ道まで入れてもらってその様子をつぶさに観察した。
応援してるぞ!とか、何やっているんだ!とかの、叫び声とも怒号ともつかない掛け声があちこちから聞こえた。壁の向こうには、一般のファンたちが詰め寄っていた。ウマ娘の機微な聴覚は、分厚いガラス越しの人々の声をつぶさに聞き取ることができる。
そんな声援を背に、感慨もなく控室に戻っていくウマ娘たち。彼女たちには、特に大敗したウマ娘にはウイニングライブに出る筋合いなどない。大半のウマ娘は、着替えが済んだら帰路に就く。
トゥインクル・シリーズはハイレベルなスポーツであると同時に、国民的エンターテイメントとしてのショービジネスの側面も持つ。クラシックやGⅠを制覇すれば、サニーブライアンのように全国に名を馳せる。テレビや雑誌の表紙を飾り、顕彰バにでもなれば教科書にすら掲載されるだろう。
だがその栄光の下には、夥しい数の夢破れたウマ娘たちがいる。
ましてやすべてのウマ娘の憧れとも言える勝負服。GⅠのレースは出走できるのでさえ、ほんの数パーセントだ。トレセンに入学したウマ娘の9割以上は、勝負服に袖を通さずに去っていく。
世間から注目されず、ぞんざいな扱いを受け、それでもターフにしがみつこうとするウマ娘たちが、疲労しないはずがないのだ。
スペシャルウィークは函館の未勝利戦をみて、何とも言えぬ寂寥感に襲われた。
ウマ娘の命とも、魂とも言える重要ななにかが、レースを走る本人が感じている以上に消耗しているように見えた。6月と言えど、函館の陽気は肌寒い。
だがそれ以上に薄暗く冷たい環境に身を置いたウマ娘からは、心まで凍り付かせるような冷気が発せられ、レース場に沈溺しているように思えた。
そして勝ちに見放されたウマ娘ほどその凍てつく波動に魂を縛られ、しまいにはターフの上で果てるのだ。
* 永正9年6月7日 中央トレセン学園
「おそらく次は、スペシャルウィークさんの番ですよ」
淑やかさの中に芯の通った、凛と響く声に導かれて、スペシャルウィークは函館の冷たい空間から、暖かさに包まれたシリウスの部屋へと舞い戻る。
声をかけてきたのはスペシャルウィークと同じくジュニアB組の同期、グラスワンダーだった。米国からの留学生であるが、大和撫子を体現するような立ち振る舞いは、出会って間もないスペシャルウィークにも日本人よりも『和』を思わせた。
「続いて、ダービーにも出走した娘が大型移籍!スズカちゃんからひとこと!」
「……次は、ちゃんと時間通りに面談に来ます……」
丁度マヤノが、移籍して間もないスズカにちょっかいをかけているところだった。笑い声が一段と大きくなる。グラスはスペシャルウィークの傍らに立ち、柔和な笑みを向ける。
「これはワーちゃんの祝勝会の体で開催されていますが、スペシャルウィークさんの簡単な歓迎の意味も含まれています。スペシャルウィークさんも、みんなに挨拶する必要があるかと」
そう忠告してくれた。スペシャルウィークの尻尾が飛び上がる。
「ええっ!そんなぁ。私、心の準備が……」
慌てる彼女をよそに、無情にもマヤノは、スペシャルウィークにロックオンする。
「では最後のトリに!期待の編入生、スペシャルウィークちゃん!YOUは何しにトレセンへ!?みんなに向けて意気込みをど〜ぞ!」
腕を体に回され、スペシャルウィークは部屋の中央まで連れてこられた。マヤノはまるでインタビュワーのように、仰々しくスペシャルウィークに質問する。
「スペっ!?ええと、その……」
目線がぐるりと部屋を回る。期待、驚き、からかい、好奇心。すべての視線が彼女を貫いていた。声が出ない。脚が震える。何を言おうとしていたのか、自分でもわからなくなった。
自己紹介の文句は頭から抜け落ちる。洒落た挨拶も、気の利いたジョークも引き出しになかった。
スペシャルウィークの額に、シリウスに降り注ぐ初夏の熱気と、函館の冷たい未勝利戦が、入れ替わりに当てられる。期待と不安がない交ぜになって彼女を揺さぶる。
それでも彼女の脳裏に、最後に残ったモノがあった。
一瞬の静寂の後、スペシャルウィークは意を決してお立ち台にあがった。おおっと息をのむマヤノをよそに、深く息を吸い、しっかりと前を見据えて言う。
「ええっと私、スペシャルウィークと申します!わた、私は……『日本一のウマ娘』になるために、ここに来ましたッ‼」
スペシャルウィークの心に深く刻まれた言葉だった。この場所で、この瞬間にこそ、口に出すべきだと思った。
トレセン学園に来てからまだ1週間余りの編入生の抱負にしては、ずいぶんな大言壮語だ。
魅力的で、曖昧で、壮大なそれは、スペシャルウィークの心に秘めた信念の発露だ。
だがそれをみんなに語るのは、もう少し先の話だ。今はまだ、自分の心の中だけにしまっておく。
言葉が響いた瞬間、場の空気が一変した。笑い声が、一瞬止んだ。誰もが、その言葉の重みを量るようにスペシャルウィークを見つめていた。
凍りついた、とまではいかない。けれど、何かを試すような視線。
これは彼女が、トレセン学園という闘いの場に足を踏み入れるための儀式なのだ。ジュースのボトルをマイクのように掲げていたマヤノの手がぴたりと止まり、ぽかんと口を開けたまま、数秒間フリーズしていた。
ふいに、マヤノのウマ耳が揺れ動く。
「……日本一か~っ!そうか~、そうきたか~……」
うーんとマヤノがうなり始める。こめかみあたりを揉むように指で撫でまわす。彼女が思慮する際の癖の様なものだった。
——ヤバい、すべったかも!
スペシャルウィークの血の気が引いていく。シリウスのメンバーは、スペシャルウィークの人となりをまだ良く知らない。何か、言い訳を。次の句が口から出る直前、マヤノはニヤリと口角を上げた。
「……うん、マヤノ、そういうの好きだよっ!」
マヤノはスペシャルウィークのその言葉を肯定する。彼女の声が合図のように、場の空気が動き出す。だが、それはさっきまでのお祭り騒ぎとは少し違っていた。
ジェニュインがまっすぐスペシャルウィークを見つめていた。飲みかけのジュースを机に置き、無言で、しかし確かにその言葉の“重み”をおし測るような目つきだった。マーベラスは、口元に微笑を浮かべたまま、何も言わなかった。けれどその沈黙は、否定ではなく、ひとつの敬意のように思えた。
サイレンススズカとメジロブライトは、何かを懐かしむような眼でスペシャルウィークを見ていた。まるで、トレセン学園に足を踏み入れた時の、純粋さに浸るかのようだった。ワールドは震えていた。ひとつの勝利に思いあがった、自らを反省した。
そしてグラスワンダー。ほんのわずかに首をかしげながらも、スペシャルウィークの言葉に耳を傾けていた。
「……日本一、ですか。そういうふうに言葉にできるんですね」
グラスは静かに歩み寄ると、迷いのない視線でスペシャルウィークを見つめた。
「すみません、決して悪い意味ではなく、少し驚いてしまいまして……。ですがスペシャルウィークさんのまっすぐなお気持ちは、伝わってきました」
静かに、けれど確かな尊敬の念を込めてグラスはそう言葉にし、深々と頭を下げた。
「先ほどは試すような形になってしまって、申し訳ありませんでした」
「ああ、いやぁ。そんな大したことは……」
えへへと頭をかくスペシャルウィーク。
「わがはいも、増長しておりました!身が引き締まる思いでござるよ!」
感謝いたします!スペシャルウィーク殿!ワールドは威勢よくお辞儀をする。
シリウスというチームの空気は、スペシャルウィークの一言で、少し変わった。なんとなくスペシャルウィークとシリウスのメンバーとの距離が縮まったような気がした。
「日本一のウマ娘になる」。彼女を知らない人が聞けば、傲慢な印象を与えるかもしれない。だが彼女たちはそんな遠大な夢物語を否定せず、受け止めてくれた。ひとりの仲間として受け入れてくれたように感じた。最後にジェニュインがこう締めくくる。
「では私も後輩の言に負けないよう。明日のレース、恥じない走りをご覧入れます」
あくる日、ジェニュインの安田記念はあともう一歩の2着だった。スペシャルウィークが提出したレポートはただの感想文でボツを食らい、同期たちに泣きつく羽目になった。宴会がバレたマヤノは怒られた。
1.ウマ娘って、回想になると急にIQが高くなるよね。
2.ただでさえ遅筆なのに最近さらに遅くなってます。右腕痛いンゴ。
週一投稿は難しいかも、、、許してヒヤシンス。