教室の空気が、ぴたりと止まった。
それは比喩ではなく、まるで誰かが音を止めるスイッチを押したかのような、不自然な静けさだった。
原因は明白だ。
浦和ハナコが、軽い調子で口にした――伏字だらけの、しかし“分かる者には即アウト”な言葉。
内容を理解できる者にとっては即座に危険信号が鳴り響き、
理解できない者にとっては、ただの意味不明な音の羅列。
そして、その「理解できない側」に属していたのが――羽沼カナだった。
カナは椅子に座ったまま、こてん、と小さく首を傾げる。
ほんの数秒。
眉がわずかに寄り、視線が宙を彷徨う。
だが、その表情に浮かんだのは、羞恥でも嫌悪でもない。
ただひとつ、純粋な困惑だった。
「……で、ハナコさんが今言った言葉って、どういう意味ですか?」
あまりにも素直で、あまりにも真っ直ぐな問い。
次の瞬間――
「「「ッ!!?」」」
空気が爆ぜた。
ヒフミは息を呑み、喉が鳴る音がはっきり聞こえた。
コハルは反射的に机を叩き、椅子を揺らす。
アズサは目を瞬かせ、頭の上に見えない疑問符を浮かべる。
そしてハナコは――完全に言葉を失った。
重く、逃げ場のない沈黙が、教室を包み込む。
「……え、えっと……」
最初に動いたのはハナコだった。
いつもの余裕たっぷりな笑みは影を潜め、
視線が一瞬だけ泳ぐ。
それは明らかに、“誤魔化し”の表情だった。
「……それはですね〜……大人の……」
「大人の?」
間髪入れず、カナが食いつく。
「“大人”って、具体的に何歳からの話ですか? 十八歳ですか? 二十歳ですか?
それとも、精神年齢的な分類ですか?」
その理屈っぽく、妙に真面目な問いに――
「やめて!!」
コハルが、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
「これ以上掘り下げたら、戻れなくなるやつだから!!」
「戻れなくなる……?」
カナはさらに首を傾げる。
少し考え込むように顎に指を当て、真顔で続けた。
「……地理ですか? それとも異世界ですか?」
「ちがああああう!!」
教室が一気に騒然とする。
その喧騒の中で、ただ一人――ハナコだけが静かに息を吐いた。
そして改めて、カナを見る。
そこにあったのは、からかいでも、下心でもない。
ただの“観察”。
「……なるほど」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
(この人……“知らないふり”をしてるんじゃない)
(本当に、その世界に触れてこなかった人だ)
同時に、確信が生まれる。
――この転校生は、自分が隠しているものを、
まったく別の角度から見抜くタイプだ。
カナはそんな視線に気づくこともなく、
相変わらず首を傾げたまま、淡々と結論を口にした。
「……分からないものは、分からないままでいいですよね」
そう言って、穏やかに微笑む。
「少なくとも、
今ここで必要なのは“その知識”じゃない気がしますし」
その一言で、ハナコの口から、次の下ネタは出てこなかった。
そして教室にいる全員が、同時に思った。
(((……この人、変な意味で一番“健全”じゃない?)))
その空気を切り裂くように、
教室の扉が――がらり、と音を立てて開いた。
「……えーっと……」
間の抜けた声とともに姿を現したのは、シャーレの先生だった。
教壇に一歩足を踏み入れ、
いつものように黒板へ視線を向け――
そのまま、生徒たちの顔を一人ずつなぞる。
そして。
「…………?」
一瞬、完全に動きが止まった。
視線が、
ヒフミ、アズサ、ハナコ、コハルと順に流れ――
最後に、カナのところでぴたりと止まる。
「……カナ?」
思わず零れた名前。
それに反応して、カナの肩が小さく跳ねた。
「……先生?」
その一言で、教室の空気が目に見えて冷えた。
先生は眉をひそめ、視線をカナから黒板へ、そして教室全体へと戻す。
状況を整理しようとするときの、いつもの癖だ。
「……いや、ちょっと待て。どうしてカナが――」
そこまで言いかけた、その瞬間だった。
カナの表情が、すっと変わる。
ついさっきまでの困惑でも、理詰めの冷静さでもない。
迷いが消え、結論だけが残った――“判断を終えた人間の顔”。
次の瞬間。
――ダンッ。
乾いた音が教室に響いた。
「えっ」
先生が声を出すより早く、
カナは一気に距離を詰めていた。
片手で先生の口を塞ぎ、
もう片方の手で、その背を黒板に押し付ける。
いわゆる――壁ドン。
ただし、そこに色気は一切ない。
あるのは切迫感と、切実さだけだった。
「――今、その話題は“駄目です”」
低く、早口で。
息がかかるほど近い距離で、カナは囁く。
「ここでそれを口にしたら、私も先生も説明地獄に落ちます。
最悪の場合、書類が増えます」
先生は目を見開いたまま、瞬きを繰り返す。
――近い。
というか、近すぎる。
だがそれ以上に、
彼女の言葉があまりにも現実的だった。
「……トリニティにいる理由、ですよね?」
先生は、塞がれた口の下で小さく頷く。
「……今ここでそれを聞かれると、
“なぜゲヘナではないのか”
“いつからいるのか”
“誰の判断か”
“責任者は誰か”
――ここまで、確実に連鎖します」
淡々と、しかし必死に言葉を重ねる。
「私はそれを説明する準備がありません。
先生も……たぶん」
しばらくの沈黙のあと、
先生は観念したように目を閉じ、小さく息を吐いた。
それを見て、カナはようやく手を離す。
「……失礼しました」
何事もなかったかのように距離を取り、
静かに自分の席へと戻った。
「ええと……」
最初に動いたのはヒフミだった。
目をぱちぱちと瞬かせながら、先生とカナを交互に見比べる。
「あ、あの……先生とカナさんって……お知り合い、なんですか……?」
「以前、ちょっとした相談に乗ってもらったことがあるだけですよ」
「そうそう!!この前にちょっとね……」
先生もカナに合わせるように言葉を濁す。
だが――
「ん?」
コハルが、じっと目を細めた。
顎に指を当てたまま、
さっきまでの騒がしさが嘘のような、静かな視線でカナを見つめている。
「……ねえ」
低い声だった。
「なんかさ……どっかで見たことある気がするんだけど」
「え?」
ヒフミが首を傾げ、
アズサも不思議そうに視線を向ける。
「見たこと……?」
コハルは眉を寄せ、記憶を探るように呟いた。
「ほら、前にさ……先生がSNSに変なパフェ載せて炎上した時、あったでしょ」
その瞬間。
――カナの肩が、びくっと跳ねた。
「……聞いたこともないし、見たこともないですねー」
「でもさ、先生と一緒に写ってた人に似てる気が……」
「あ!!あんな所にピンクゴリ……ミカ様が!!」
「「「「え?」」」」
全員の視線が、一斉に教室の入口へ向く。
――が。
当然、そこには誰もいない。
「ミカ様……? いないけど……」
「見間違えたようですね。私としたことが」
静まり返った教室で、カナは咳払いをひとつした。
その所作は妙に落ち着いていたが、
内心は嵐のように荒れている。
(まずいまずいまずいまずいまずい)
顔には出さない。
出さないが、脳内では警報が鳴りっぱなしだった。
コハルはなおも疑わしそうに目を細める。
「……でもさ。ほんとに似てるんだよね」
「どのあたりがですか?」
即座に、食い気味で返す。
「え、えっと……雰囲気? あと髪色と……なんかこう、目つき?」
「それは“人類の三割”が該当します」
「そんなに多くないわよ!」
カナは椅子から立ち上がり、
わざとらしいほど大きく身振りをした。
「まず前提として確認しますが、
その写真に写っていた人物は黒の制服を着ていました」
「……え?」
「今の私を見てください。白い制服です」
「……なんで聞いたことも見たこともないのに、
黒い制服着てたって知ってるの?」
(あ、ミスった)
ヒフミが息を呑み、
アズサがゆっくり瞬きをし、
ハナコだけが――楽しそうに口角を上げた。
カナは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
(……落ち着け。今は“詰み”じゃない。“ミス”だ)
そして次の瞬間、
何事もなかったかのように目を開いた。
「想像です」
「は?」
「炎上したSNS投稿ですよね?
話題になっていたなら、画像が転載されていた可能性が高い。
制服の色なんて、その程度の情報から推測できます」
さらりとした口調。
そこに淀みはない。
「……いや、でもあの画像、もう消されて――」
「“消された”のは元投稿です」
即答だった。
「スクリーンショットは消えません。
ネットリテラシーの基本です」
ぐうの音も出ない、とはまさにこのことだった。
コハルは口を開けたまま固まり、
ヒフミは「な、なるほど……」と感心したように頷く。
「確かに……一度出回ったものは……」
「そういうことです」
カナは小さく頷き、席に腰を下ろした。
「つまり私は“見たことがある”わけではなく、
“情報として知っていただけ”。以上です」
「そうなのか」
アズサは、素直に納得した。
先生はというと、完全に空気と化していた。
黒板に書いた文字を意味もなく書き直し、必要以上にチョークを持ち替え、視線だけが落ち着きなく泳いでいる。
(……助かった……本当に……)
その様子を横目で確認しながら、カナは内心で小さくガッツポーズを決めた。
少なくとも、“パフェ炎上事件”の話題は、ひとまず封じ込めることができたらしい。
「でもまあ……」
そんな空気を切り裂くように、ハナコがくすっと笑う。
意味ありげな視線を向けながら、カナを見つめた。
「もし“本当に同一人物”だったら、その時はその時で……面白そうですけどね?」
その言葉に、教室の空気がわずかに揺れる。
カナは一瞬だけ言葉を止めた。
ほんの刹那、間が空く。
だが次の瞬間には、にこりと――あまりにも完璧な笑顔が貼り付けられていた。
「仮定の話に意味はありませんよ、ハナコさん」
柔らかい声。
丁寧な口調。
それ以上でも以下でもない、その一言で話題は断ち切られた。
カナはふっと小さく息を吐き、視線を黒板へと移す。
そして、何事もなかったかのように口を開いた。
「先生。ひとつ、確認してもいいですか」
「ん? どうしたの、カナ」
先生は、少しだけ安堵したような顔で振り向いた。
話題が“パフェ”から逸れるなら、正直なんでもよかった。
カナは淡々と問いを投げる。
「そもそも、補習授業部って何の集まりなんですか」
先生はチョークを置き、軽く咳払いをした。
「補習授業部は……まあ、簡単に言うと、だね」
一拍、間を置く。
「このままだと進級が危ない。場合によっては退学もあり得る――
そういう生徒を救済するための、特別編成だ」
その言葉が落ちた瞬間、
教室の空気が、すっと冷えた。
ヒフミは肩をすくめ、
アズサは真剣な表情で静かに頷き、
コハルは「うっ……」と短く呻いて視線を逸らす。
――そして。
カナだけが、動かなかった。
表情は崩れない。
笑顔も、そのままだ。
ただ、目の奥の光だけが、ほんの一段階だけ深く沈んだ。
「……退学」
小さく、反芻するように呟く。
「退学になりそうな人たちの……集まり?」
「え、えっと……言い方はアレだけど、まあ……そういうことだね」
「……なるほど。理解しました」
声は丁寧。
言葉遣いも、礼儀正しい。
なのに――
教室にいる全員が、本能的に察した。
これは、まずい。
コハルが小さく身を引く。
「え、な、なに……その感じ……」
ヒフミも、無意識に背筋を伸ばしていた。
カナはゆっくりと立ち上がり、黒板の前まで歩く。
書きかけの数式を一瞥し、その横――何も書かれていない余白に視線を落とした。
「つまり」
穏やかな声のまま、言葉を重ねる。
「私は今日転校してきたばかりなのに、“退学候補者の檻”に放り込まれたということですね?」
「檻って言うな!!」
「しかも理由は学力不振ではなく――
ピンク頭と、もう一人に対する不適切発言と、変な厨二セリフ」
「それはカナが悪くない?」
「それを“退学の可能性がある組織”に投げ込んで、改善しろ、と」
笑顔のまま、声だけが低くなる。
「……合理性が、どこに?」
先生は一瞬言葉に詰まり、やや困ったように頭を掻いた。
「そこまで言うなら、学力は悪くないってことを示せばいいんじゃないかな?」
「なるほど、私の学力を……先生がティーパーティーに報告すれば……」
「うん。もしかしたら免除になるかも」
「……面倒ですが、そうするしかありませんね」
カナは即座に頷く。
「先生。ここにいる人たち全員を含めて、小テストをお願いします」
「うん。信じてるよ、カナ」
小テスト結果
• カナ ── 0点
• ハナコ ── 2点
• コハル ── 11点
• アズサ ── 32点
• ヒフミ ── 72点
今後はどんな話がみたい?
-
ブルアカ本編のストーリーに介入
-
ギャグ路線で暴走
-
アコとカナの百合展開
-
カナの空白の10年間