私たちは現実の世界に暮らしながら、常に空想と妄想と幻想の中に漂っていて、平たく言えば、ぼんやりとしているのだ。
ぼんやりとしながら、あちこちを見回して、いつも何かを探している。
単に突拍子もないものではなく、新しいもの、想像を飛び越えるもの、今まで遠くにあったのに結びついてしまったもの、近くにあったのに気付いていなかったもの。そういったギャップに目を見開き、感心し、貪欲に吸収しようとする。
だから、超常的な出来事を受け入れる余地はとても大きい。大きくないとダメなのだ。
それでも。
それでも、今回の一件はどうしようもなく信じがたく、受け入れがたいものだった。
「るかくん……、はるか君!」
観音さんの、どこか焦りの混じった声が聞こえる。いつも自信に満ち溢れていて、余裕を崩さない彼女にしては珍しい声音だ。そしてどうやら息遣いが近い、とても近い。吐息で耳がそわそわするほどだ。
ぼんやりと意識が覚醒しつつある中、全身が弾むように小刻みに揺らされて、ようやく私は目を覚ました。
「ん、観音さん?」
「よかった、気が付いたね」
ぼやけた視界をこすり、重たいまぶたを持ち上げると、視界の右半分に観音さんの顔が迫っていた。メガネのフレームが当たりそうな距離で、不安げな瞳が私を覗き込んでいる。
思わず彼女の反対側にのけぞると、椅子から――車のシートだ、転げ落ちそうになる。どうやら、私たちはバスらしきものに乗っているらしい。4列シートでちょっと席幅の広い、海外の団体ツアーで乗るような観光バスだ。路面の状態が悪いのか、時折車体が大きく揺れる。
きっと旅の途中で、私は眠りこけてしまっていたのだろう。
「あれ、どこに向かっていたんでしたっけ?」
「やはり、はるか君も覚えていないか」
観音さんは椅子に背中を預けると、深く息を吐きだしてから眉間にしわを寄せた。
「どういうことですか?」
「どうもこうも、僕からも説明が難しい。あれを見たまえ」
彼女らしくなく、歯切れが悪い。観音さんはかぶりをふって、座席の前方を指差す。運転席のスペースの隣に、恐らく、行き先を示しているのであろう電光掲示板があった。液晶モニターではなくニキシー管風で、流行りのLEDよりも古そうだ。
そう、恐らく、行き先が表示されているはず。なのだけれど。
「あれって壊れてます?」
掲示板に表示されている文字は滲んで潰れてしまっていて、文字としての体をなしていないようだった。ひらがなにも漢字にもアルファベットにも、見えそうで見えない。それどころか、意識を集中して形を読み取ろうとしても、すぐに表示が変わってしまう。
「僕もはるか君が起きる少し前に気が付いたのだけれど、ずっとあの状態なんだ。僕の知るあらゆる文字の形が映されているようでいて、形が定まらない。読ませる気がないみたいに」
「近くに寄ってみれば何かわかるかも」
思わず立ち上がろうとすると、観音さんは私の膝を痛いくらいにおさえて制止した。走行中の車内マナーという文言が頭をよぎったけれど、彼女の手のひらから伝わる熱が、そんな平易な問題ではないと告げている。
「やめておいた方がいい」
彼女は首を傾けて、後ろの座席に視線を移すように促してみせた。つられて振り返る。その光景を目にして、私はどうして?と聞き返す言葉を飲み込んだ。
私は初めて車内の状況に気が付いた。観光バスと同じように、私たち以外にもたくさんの乗客がいたのだ。ただし彼ら彼女らの顔は、あの掲示板の文字のように、相貌が定まって見えない。顔のある部分だけぼやけていて、それが人間の顔であることはわかっても、その造形がまるで掴めない。目では見えているのに、脳が認識を拒んでいるかのようだ。
幸い、誰とも目は合わなかった、と思う。合わせようにも目がどこに付いているのかわからないのだけれども、狭い空間で互いを認知した時に特有のあの気配は感じられなかった。
彼らは話しているようにも動いているようにも見えず、ただ黙って、行儀よく座っている。首より上の異常を除けば、マネキンとほぼ変わらない。
恐怖とも興奮とも違う、強烈な違和感で心の臓が跳ね上がり、呼吸が荒くなる。私は後ろの彼らに気付かれないようにゆっくりと観音さんに向き直った。彼女は私を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「まだ何も起きていない、今のところは」
観音さんは私の膝を掴んだまま、しかし今度は力を抜いて優しく撫でるように両手を重ねる。
「大丈夫かい?」
「観音さんは?」
「僕は、そうだな、正直に言おうか。戸惑っている。大いに戸惑っているとも。しかし、はるか君が目覚めてくれたお陰で、いくらか落ち着いたよ」
観音さんは少し照れた困り顔で、口角をあげてみせた。
「私たち、旅行中ってわけじゃないんですよね?」
「ああ、そうだ。こうなる前に何をしていたか覚えているかい?」
私は首を振った。記憶を手繰り寄せようとしたけれど、すべてが断片的で、しこたま飲んだ翌日のように何も思いつかない。期限ギリギリの原稿をなんとか片付けたところまでは覚えている。
でもその後に何をしたのか、出かけたのか、マリコと会ったのか、観音さんと会ったのか、お風呂に入ったのか。全く思い出せないなんてことがありうるだろうか。
「僕もだ。何も思い出せない。つまり、この状況は望んで起きたわけではない。僕の出した結論は突飛だけれど、シンプルだ。我々は異世界にいる」
「へ?」
間抜けな声が漏れてしまった。観音さんは静かに、からからと笑った。
「僕もたったいま自分自身で言葉を紡いで、物凄い心理的抵抗を感じたところだ。が、すべてのあり得ざる可能性を排除して残された結果は、たとえいくら奇妙であってもそれが真実と誰かが言っていただろう?」
「ええと、この状況で世界一有名な探偵の話をしてます?」
「まさにそうだ。ここが我々のいた世界とは違う世界、異世界であることは、彼の推理力に頼らずとも言い切れる。あの掲示板と乗客たちだけじゃない、このバスも、外の景色も、ここが現実ではないことを物語っている」
「解説してもらっても?」
「もちろんだとも。バスがあるということは、この世界の技術レベルは少なくとも20世紀以降ということになる。詳しい型式はわからないが、車体のサイズとエンジン音から察するに我々のいた時代とそう遠くないはずだ。路面は石畳。もちろんヨーロッパの主要都市でもこのような舗装は珍しくないが、しかし街道まで石畳だと話は違う。それに最も奇妙なのは、とにかく窓の外を見てみたまえ」
観音さんは窓ガラスをこつこつと叩く。
「じゃあ、ちょっと失礼して」
観音さんの膝に乗るようにして窓の外を眺めると、街道沿いには穂をつけた麦畑が一面に広がり、点々と集落らしき家々が見える。建物は高くても三階や四階建てで、レンガ造りのようだ。私たちの住む日本の水準からすると、やや原始的に見える。
「見えたかな?それでは反対側も見るといい。あちらは覗き込まなくてもわかるよ」
通路を隔てた反対側の窓に目を向ける。その先には遠目でも、私の知る大都市、東京やニューヨークやドバイにあるような高層ビルがたくさん生えているのがはっきりと見えた。
「これって…」
「ああ、我々の世界でもこれくらい対照的な、似たような景色を見つけることはできるだろう。が、右手の建物はローマ式、いや、恐らくローマ時代の住居そのものだ。しかし左手のビル群にはエンパイアステートビルのシルエットが見える。ニューヨークとローマの影響があった地域を現代のバスの車窓から見ることは、現実的とは言えないね」
本当に突拍子もない話だ。私は目の前に広がる景色をうまく呑み込めていない。呑み込める気がしない。にも関わらず、観音さんはなんだか楽しそうだ。
「これで納得できたかな?およそ現実的ではないが、ここが異世界なら話は別だ。異世界はすべてがリアルでなくていい」
「はえー。さすが」
私が頷くと、彼女は嬉しそうに続ける。
「この世界には、あれらの建物を同じ土地に同居させる何かの理由があるわけだ。このバスの走る道によって、二つの地域が分かたれているのは象徴的とも言える。あのニューヨークとローマは争っているのだろうか?それとも背景として必要なだけだろうか?」
「ここが異世界だってことはわかったんですけど。でも、どうして私たちが」
「うんうん、まさにそこが重要だ」
観音さんは良い質問を受けた教授のように満足げに目を閉じる。もう楽しそうな様子を隠そうともしていない。
「恐らく、我々は招かれたんだ。どこの誰かはわからないけれど、何かの意図をもって、招かれた。どこに向かっているのかが伏せられていて、他の乗客が認識できないことにも、理由がある。いったいこれは誰のドラマなのか、我々が果たすべき役割は何か、疑問は尽きない。
はるか君が目覚めるまでは、僕も不安だった。二人組が訳の分からない状況に巻き込まれて、片方は目が覚めない。そのままだったら、ホラーかスリラーか、はたまたスプラッターが始まるかと覚悟を決める必要があった。だがはるか君は無事に目覚めて、我々はまだ五体満足だ。この物語には続きがある」
彼女は言葉を切ると、何かを思いついたように目をきらめかせた。
「まだ断定できないけれど、たぶんこの世界は……。いや、やめておこう」
「もったいぶらないでくださいよ!」
私の抗議をものともせず、観音さんは咳払いして真剣そうに言う。
「釈迦に説法だけれど、はるか君も言葉の威力は重々承知しているだろう。僕が何かの役割を与えられるとして、先走って余計な何かを言えば、この先のドラマを壊しかねない。ドラマを壊したキャラクターがどのような扱いを受けるか。大抵は愉快ではない末路だろう」
思い当たる節がないわけではない。一般的には作者の操作から外れてキャラクターが動き始めるのは、良い兆候でもある。でもそのキャラクターが自由意志をもって、作者に反抗し始めたら?
それを面白いと思うか、不愉快に思うかは、作者の気質に左右される。物語の良し悪しは別として、キャラクターをどのように終わらせるかは作者の匙加減次第なのだ。
「それに、だ。世界を創ることはあっても、体験することはそう何度もない機会だ。あまりメタ的に囚われずに、あるがままに、この世界がどのように創られたのか、興味がないと言えば嘘になる」
「どちらにしても、お仕事モードですね」
「それはそうだよ。この異世界で我々に与えられた役割があったとしても、我々が追及すべき目的はここから脱出することであり、僕ははるか君を無事に家に送り届けなければならないのだから。そのような意味では、僕の役割は何よりも明白だ」
「私は迷子扱い?」
もう少し抗議してもよかったけれど、やめておこう。物事には得手不得手がある。いずれにしても、観音さんに置いて行かれたら困ってしまうのは私の方なんだから。でも、それなら。私の役割はなんなのだろうか。
すると、私たちの会話が終わるや否や、バスが何か大きな段差を乗り越えたように激しく揺れた。
「どうやら目的地に近付いたみたいですね。この先は街の中でしょうか」
「我々が我々の役割を認識した途端に到着する。これは偶然ではないだろうね。あまり作為的すぎるのは好みではないけれど、作劇の都合上、移動時間を削るのは正しい判断だ」
「やっぱりお仕事モードだ……」
検問所らしきものは見当たらず、高い塀や水の張られた堀を通り過ぎた様子もない。バスは日本の町から町へと移動するように、遮られることなく道を進んでゆく。バスの走る目貫通りに沿って街の中がビルディングの現代とローマの古代に分かたれていることだけが、ただただ奇妙だった。
バスは現代側に曲がると、ターミナルらしき広場へと入る。ここで初めて、私たちは自分たちの乗るバス以外の車両を目にした。といっても、見た目はどれも同じで、ありきたりな観光バスだ。きっと私たちのバスも同じなのだろう。
この風景だけを切り取れば、東京や新宿と大差ない。道行く人々の格好だけ、見慣れない、ものが混じっている。
「変わった格好の人がいますね、それこそ古代のような」
「うん、あれはトーガあるいはトガだね。一枚布を巻き付けているわけだけど、見方によっては和服にも似ているかもしれない。本当にローマ人の格好が出てくるとは、正直びっくりだ」
「このターミナルはローマ側とは反対にあるのに、ローマの格好をしていても大丈夫なんですね。争っているというわけではないのかな」
「まだわからないね。僕ならその対立軸を放っておこうとは思わない。この街は一種の中立地帯か緩衝地帯なのかもしれない。となると、それを担保する警察力が必要になるわけだが、それらしき姿は見当たらないな。いずれにしても降りるまでは早計か」
私たちが窓に張り付いてあれやこれや外の様子を観察していると、バスは停留所のひとつに停車した。エアサスペンションから空気が抜ける音、ドアが開く音、到着を知らせるアラーム音、どれも聞きなれた音そのものだ。
「僕は仕事柄、音を録りに出かけることもあるのだけれど、本物の音がそのまま聞こえるのはいささか奇妙だね」
「ここが異世界ではなくて、よく出来たVRという可能性も?」
「否定はしない。でもこれだけ僕らの感覚器官を精巧に騙せるVR機器が存在するのだとしたら、それはそれで異世界ってことになってしまう気もするね」
「どちらにしても、やるべきことは変わらない、と」
「そういうこと」
今まで沈黙していた他の乗客たちが、一斉に降車を始める。何かを喋っているようにも聞こえるけれど、彼らの顔と同じように言葉はわからない。
いくら観音さんの役割説に納得していたとはいえ、相貌の判別できない人らしきものが真横を通り過ぎるのは胃に悪い。観音さんは私の様子に気付いてか、またそっと膝に手を乗せてくれた。
「全員行ったみたいだ。彼らは無害だと思うけれど、見慣れない、見慣れることができないものへの違和感は拭い難いものがあるね」
「そう、ですね」
「それでもこのバスに乗り続けるわけにはいかない。このまま家にUターンしてくれるほど、この世界はつまらない物語ではないはずだから。はるか君、準備はいいかい?」
「はい、まだ何もわかりませんが、こういう時はええいままよ、の精神ですから!」
「その意気だ。よし鬼が出るか蛇が出るか、見せてもらおうじゃないか」
こうして私たちは一歩を踏み出した。