気が付くと異世界に迷い込んでいたはるかと観音。二人を乗せたバスはとある街に辿り着いた。観音にはどうしても気になることがあるようで……?
新世界への一歩と意気込んで、しかし恐る恐るバスターミナルに降り立つ。街の喧噪とバスのエンジン音で誰かに聞こえるはずもないのに、私は足音さえ立てないようにゆっくりと一歩を踏み出した。
不安と警戒は実にあっけなく裏切られた。鬼も蛇も、あるいは槍が降り注ぐこともない。治安維持を担う警官や衛兵に取り囲まれることもなかった。肩透かしと一安心だ。
観音さんは私の緊張を嘲笑うかのように、いや、実際にニヤニヤと妙にいやらしい笑顔を見せながら、軽やかにバスから飛び出した。
「見せてもらおうじゃないかって格好つけながら、私を先に行かせませんでした?」
「勘違いしないでくれたまえ。僕は栄えある第一歩を君に譲っただけなのだから」
「またそういうこと言って。いつもそうなんだから」
思わず口を尖らせたけれど、彼女の関心は既に他所へと移ってしまったようで、私たちの乗っていたバスを観察し始めていた。
「内装と同じく、驚くほど普通の観光バスですね」
車両の全体を見渡そうとする彼女の背中を追いかける。
「ああ、僕の知る観光バスそのものだ。フレームもタイヤも窓も、特に変わったところは見受けられない。必要以上にリアルだ。ご丁寧にアイドリングまでしていて、車体は熱を放っている。となると、動力となる内燃機関があり、つまり燃料が必要なはずだが、それが馴染みの石油製品であるのか、他の物質や魔法的なものであるのかは外観からは判断がつかない」
観音さんは何かを探すようにバスの側面に触れたり、しゃがみこんだりした。
「車種や型式が調べられないのが歯痒いな。仕事用のタブレットを取り上げられているのは痛いね」
「最近は身体だけではなくて、現代のアイテムを持っていけるパターンもありますよね」
彼女は曖昧に頷いて考え込むように腕を組むと、私のつま先から頭までを丹念に見回した。舐めるような視線に少しぞくりとする。
「そうだね。僕らは着の身着のままで、他に何も持ち込むことは許されなかったようだ。頼るべきは自分の頭だけということだね。まあ、それはそれで面白くないわけじゃあない」
観音さんは再びバスに目を移すと、今度は車体に触ったり、しゃがんで裏を覗き込もうとする。前から思っていたけれど、この人ほそっこいなあ。
「うん。違いがあるとすれば、排気がないな。ガスの匂いもしない。となると、ガソリンや軽油を用いていないのかもしれない。あるいは、そもそも描写する必要がないだけの可能性もある。このバスが戦う巨大メカだったら動力源に何らかの説明は不可欠だが、そうでなければ、まだ不要なディティールだ」
バスひとつだけでもこれだけつぶさに調べられてしまうのだから、観音さんの同業者はたいへんだ。だからこそ、観音さんは第一線であり続けるのかもしれない。ただ私の領分である小説で、乗り物ひとつにまでこんなに手を突っ込まれたら、たまったものじゃないだろう。
「でも、この世界に来た私たちが乗っていたわけで。それって作劇上はすごく重要な要素じゃないですか?」
「その通りだね。飛行機やタクシーや馬車ではなく、バスに乗っていたのだから、それには相応の理由が必要だ。ただし設定上必要だったのか、ドラマ上必要であったのかで、このバスが持つ意味合いはかなり異なる」
「その二つにはどんな違いが?」
「設定上、このバスが必要で、かつバスが成立する世界観、理屈があるのかもしれない」
彼女は私に対してだけではなく、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「一方で、我々が目覚めた際あまりの状況に混乱しないように配慮された結果、バスという形が採用されたとも考えられる。この場合、実はバスであるかはどうでもよくて、ドラマを円滑に進めるためにバスという空間が必要なだけだったということになる。となれば、このバスが我々のよく知るものと寸分たがわず同じであっても、制作上の省エネとして黙認されるだろう」
「なんとなく、わかるかもしれません。私も編集者さんになんでそんなこと聞いてくるのかなって思う時はあって。作品の中で選んだ小道具がそれそのものでなければならない時と、別に他のものでもいいって時、自分では気付かないこともあるんですよね」
「その指摘はとても重要だ、はるか君。この異世界が編集されたものであるかどうか。換言すれば、完成されているのかどうかによって、我々の進むべき道と求められる役割は大きく変わるだろう」
観音さんは空を仰いだ。私もつられて視線をバスから上へ、さらにその上へと移す。
からっと晴れていて、呑み込まれそうなくらいに深く濃い、青の空。私の知っている日本の空よりも原色に近い青のキャンバスには、高く遠くに、小さいけれどとてもはっきりとした巻雲が漂っている。太陽はぎらついて痛いくらい。胸のすく、気持ちのいい空だ。
ここが異世界だと意識しなければ、この晴天の下、長椅子に寝転がっているだけでもリセットになるだろう。
それにしても完成されていない、とはどのような意味なのだろうか。あの人々の顔も、高層ビルとローマが混じった風景も確かに奇妙ではあるけれど、この空は嘘ではなく本物であるかのように見えた。そう、感じる。
私は聞き返してみたかった。ただ、完成という言葉はこの世界の核心に近い気がして、またはぐらかされるんじゃないかと、口をつぐむ。
観音さんはといえば、私と同じように空を眺めながら、両腕を突き上げて思い切り伸びをしていた。身体にぴたりと合わせて仕立てられた服とスレンダーなシルエットが相まって、猫のようだ。私の戸惑いに気付いているのに、気付かないふりをしているのも、猫みたい。
「それよりも、だ。気付いたかい、はるか君?」
その大きな黒猫は何かを企むような声音で言った。
どんな企みかはわからないけれど、乗ってやろう。
「空が青いなあって」
「うん、それもあるけれど。もっと大変なことがある。身体の調子はどうだい?」
ぎょっとして私は慌てて身体中をぺたぺたと触ってみる。
「特に変わったところはないような……」
たしかにここが異世界だったら、腕が三本に増えていたり、髪が伸びたり縮んだり、おしりが四つに割れたりするかもしれない。実は半分ケモノになっていました!という展開に興味が湧かないといえば、嘘になる。
けれど幸か不幸か、手の届く範囲を触った限りにおいては、肉球もひげも増えておらず、痛みもない。問題はないようだった。
「大いに違うはずだ。少なくとも、僕は違うね」
観音さんはその場で軽く跳び跳ねて、腕を回し腰を揺らし、ラジオ体操の動きを繰り返してから、満面の笑みを浮かべる。
「バスに長時間座っていたはずなのに、全く腰が痛くない」
「あ!ほんとだ」
盲点だった。
「驚きだね。これだけでも、この世界に来てよかったと言えるかもしれない」
それは大げさな話ではなかった。思い返せば、身体の重さが微塵も感じられない。ウォーキングをして、身体を緩めた後の、あるいは一日の仕事が終わってお風呂から上がりカウチに身を預けた時の、あのとても調子がいい瞬間が維持されているかのようだ。
私も観音さんを真似て、身体の緊張を解き、だらりと伸ばしてみる。こんなに身体って軽かったんだ。脚は軽く、振り上げれば頭まで届くかのよう。肩と腰に四六時中しがみついている付き合いの長い鈍痛は、影も形もない。関節の全てが新調したようにスムーズに回る。
この世界がミュージカルだったら、この場で観音さんと踊り始めるに違いない。
新生、天野はるかだと!売文業にとって、こんなに嬉しいことはない。小躍りしたくなるとは、まさに今、この瞬間に必要な表現だ。いいや、ミュージカルでなくたって構いやしない。どうかこの手を掴んでと観音さんに差し出した。この身体の軽さを祝って踊りましょう!
意外にも彼女は、観音さんは私の手を掴んだ。ぐっと引き寄せられる。身体が密着し、鼻が擦れ合うほどの、男女の距離。バスの中でも十分に近かったけれど、これは別の近さだ。そんな、いくらなんでもこんなところで!心の臓が跳ねて、私は思わず目をつぶる。その瞬間。
ばちん!と重たいものが落ちてきたような、布団を激烈な力で叩いたような音がこだました。破裂音はターミナルの雑踏を突き破り、青い空に吸い込まれ、この世界に響き割るようだった。
と同時に私の背中、腰、いや尻に大きな衝撃が走った。それこそ、四つに割れそうなくらいに。
「って、痛っ!!いたい!!!」
何が起きたかわからなかった。何かが私の尻に衝突したのだ。
思わず、観音さんを突き放す。そんな彼女の顔は笑顔。とてつもない笑顔。「やってやったぞ!」と、鬼の首を取ったような、少年のようにも菩薩のようにも見える笑み。
私は気付く。
やられた!おしりをひっぱたかれた!
片腕で私の身体を抑えた観音さんが、私の尻をフルスイングで叩いたのだ。彼女の手が真っ赤になっているのが動かぬ証拠。全力の馬鹿力で振り下ろしたに違いない。きっと私の尻には見事な手形がついているだろう。
よりにもよって私の差し出した手を掴んで、引き寄せておいて!口付けなど甘いものではなく、こどもに対する仕置きのように、私の尻を強打したのだ!
見なくてもわかる。腫れたようにじんじんと、熱い痛みが押し寄せてくる。
「なにするんですか!急に!いや、なにするんですか!」
「いやあ、実にいい音がしたねえ。手がしびれちゃったよ」
彼女は感慨深げに手を振って見せる。
「本当になんなんです!?」
「前々から春河童先生のおしりを叩いたら、それはさぞかし、文明開化よりもはるかにいい音がするだろうなあと思っていたんだよ。そう思い始めてからずっと耐え忍んでいてね、いい機会だと思ったんだ」
わけがわからない。意味不明だ。
「何がどういい機会なんですか?説明してください。いや、私にもやらせろ!」
「待て待て、僕のおしりは君のよりも遥かに繊細なんだ。だから、ね」
「なにがだからじゃい!」
彼女は天狗のような速さで素早く距離を取ると、どうどうと手を掲げる。
「冗談だよ、冗談。ちょっと検証したいことがあったから手伝ってもらったのさ」
冗談じゃない。私が叩かれたことはどうあっても冗談じゃなかった。
「私のおしりを叩くことのどこが冗談なんですか?」
「まあまあ。説明を省いたのは悪かった、謝ろう」
彼女は両手を擦りあわせてみせるも、謝る気が毛頭ないのは明らかだった。怒りに震える私はじわじわとにじり寄る。
「要はこういうことだ。正確な時間は知る由もないが、我々は長い間バスに乗っていたにも関わらず、調子がすこぶるよろしい。これは異世界ジャンルでは珍しくないが、何か大いなる存在によって与えられた能力や加護に起因するのかと思ってね。よくあるじゃないか、ダメージ無効だとか、防御力のステータスがカンストしているだとか。待った、近付くのはよしたまえ」
私がもう一息の距離まで詰め寄ると、彼女はバックステップで距離を取る。
「あいにく、流行りのように自分のステータスを確認できる手段はないようだから、どうにかして実験する必要があったんだ。我々は痛みを感じることができなくなっているのだろうか?と。あるいは、そもそも不調を示すステータスが実装されていないのではないか、ってね!」
今度は腰を落として飛び掛かろうとして私を観音さんはひらりとかわした。足先でステップを踏むように器用に後ろに下がる。この、意外とすばしこいな。
「痛みがないのはいいことかもしれないが、危険に鈍感になるリスクがある。それに、明らかに自然じゃない。我々はこの異世界において役割を与えられたキャラクターである可能性は高いが、保護されて無敵で不滅であるかどうかはまではわからない。だからまず、痛覚が機能しているのか、加護があるかどうか確認したかったんだ。おっと!」
彼女はぺらぺらと御託を並べながら、バスから離れて待合所らしきスペースへと駆ける。椅子と看板だけの簡素な空間。広告用の大きなモニターこそないものの、屋根がついていて、十分に近代的だ。が、それは今重要じゃない。
「はるか君も意外としつこいね」
「きいい!どの口があ!」
観音さんは看板を盾にしながら叫ぶ。
「それに夢かどうか確認するのに、取り敢えず痛いことをしてみるのは定番だろう?」
「普通は自分の頬をつねったりするものじゃないですかねえ!」
回り込んで掴もうとするが、彼女は私の動きがわかっているかのように先回りして逃げる。ここまで猫に似ているなんて!
「まあそれはそれ、これはこれだ。あっ!」
「なにが、この!つかまえた!」
腕を掴むかのようにフェイントをかけて、腰に抱き着く。辛くも、悪戯猫を捕えることができた。椅子に強引に座らせて、見下ろす。
「どうどう。お、落ち着こうじゃないか。ここで争っても仕方ない。ゆうあうはあったのあああ~」
言い訳を遮って、彼女が言ったように両頬をつまんでこね回す。観音さんのほっぺたは薄いけれどやわらかくてもちもちしている。
「どうですか?痛いですか?痛かったら左手をあげてくださいね、やめませんが」
「いあいいあい!わあったあ、わあったああ。わかったから、やめてくれ、この通りだ」
「私はもっと痛かったんですからね」
もう少し揉んで仕返ししたかったけれど、ほどほどにしないとまた何をやらかすかわかったものじゃないので、泣くフリまで始めた彼女を渋々解放した。
「もう、はるか君もこわいな。僕のやわい頬をこんなにめちゃくちゃにして」
無視。先に手を出したのはそっちなんだから。
「それで、最後に何を言いかけていたんですか?」
「うう、痛い。最後は、そう、収穫があったと言ったんだ」
大げさに頬をさすってみせる。もう一度やってやろうかと指が疼いた。
「私たちが痛みを感じる以外に、ですか?」
「そうだ、周りを見てみたまえ」
あれだけ大騒ぎした私たちの周りには人だかりが、できていなかった。
ターミナルは東京ほどでなくとも、そこそこの顔のない人々で溢れていて、私たちの近くを通り過ぎる人さえいる。しかし、彼らは私たちには目もくれない。この待合所に用がないわけではなく避けるように、最初からいないものとして、扱われているようだ。
「この我々の騒動で確認ができた。我々は彼らの認知の外側にいる」
「顔が見えないのも、そのせいだと?」
「そうかもしれない。彼らこの世界の住民に我々の存在は感知されるべきではないのかもしれないし、あるいは我々が感知するべきではないのかもしれない。もちろん、単に顔の造形がまだ指定されていないだけという可能性もある」
「わざと回りくどく説明していませんか?」
彼女はラウンド2がお望みなのかもしれない。
「待て待て、落ち着くんだ。そう逸っちゃいけない。僕が君を落ち着かせるために迂遠な言い方をしていると?そうではない、違うんだ。僕の中にはある仮説があるのだけれど、まだ証拠が十分ではないから伝えていないだけなのだから」
「ふうん」
「次の段階に進むためのシンプルな方法は、彼らに接触することだが、どのような結果を生むかわからない。突然彼らの顔が識別できるようになって、ごく普通に会話が始まるのかもしれないし、異物として排除を試みるかもしれない。今のところは我々を害する様子はないのだから、慎重にいきたいところだけどね」
「一応は納得しました、でもおしりのことは忘れませんからね」
「食べ物以外ではるか君の恨みをここまで買うとはね。この世界から抜け出せたら、忘れていることを祈るばかりだ」
これはもう誘われているんじゃないかと思う。観音さんは追いかけっこがしたいのだと。
でも私は飛び掛かりたい衝動をぐっと抑えた。この世界から抜け出す、そちらの方がよほど重要だからだ。そして、この体験と出来事を忘れてしまうのだろうか、忘れられるのだろうか。
「観音さん。バスの中で、私たちが役割を認識したから到着したと言ってましたよね」
「うんうん、はるか君の言いたい事はわかったよ。つまり我々が何かを見つけたり、進み出すことで何かが明らかになるかもしれない、と」
「そうです。痛覚の再発見では十分ではないのかもしれません。取り敢えず、どこかに向かってみませんか」
彼女はため息をついた。
「わかった、わかったから。今度は僕が先を歩こう、でもさっきのことは一旦忘れるんだ、いいね?」
「はーい」
ひと騒動を経て、私たちはバスターミナルを後にした。
観音さんがちらちらと絶えず後ろを気にしながら進んだこと、私は彼女のおしりから目を離せなかったことは、あえて説明する必要もないだろう。