異世界に転生してしまったはるかと観音。観音の不意打ちによって二人には特別なスキルが与えられないことが判明した。未だ謎の多い中、二人は見知らぬ街の探索を始める。
バスターミナルでのちょっとした一件のあと、私たちはようやく移動を始めた。
ブーツと石畳がぶつかる柔らかな音を頼りに、観音さんの後ろを歩く。取っ組み合いの中で彼女は「仮説」と誤魔化したけれど、明らかに何か、核心に近い何かに気付いている様子だった。それがこの世界の仕組みなのか、目指すべきゴールなのか、はたまた私たちが呼ばれた理由なのか、わからない。
観音さんばかりがわかっていて、私はわからないことに不満はなかった。いつものことであるし、核心に近付こうとする積極さは相応の苦悩をもたらすわけだから、難しそうなことは全部彼女に押し付ければ、私はあるがままを謳歌できる。そんな打算的な魂胆さえあった。
私にとって気掛かりであるのは別の問題、問題と名付けるべきかも判然としない違和感だ。生存の危機に関わるような不安でも、見たくないものを見せられているという不快感でもない。なんだかおもしろくない、違和な感覚。
その正体は一体なんなのだろうか?
顔の見えない人々の間を通り抜けながら、異世界にしてはやけに近代的に整備された街並みを進む。普段の散歩とほとんど変わりない。私の知らない世界であるという実感はあまりない。
他人の相貌が判別できない得体の知れなさは拭えないけれど、改めて考えてみると、彼らとコミュニケーションを取ろうとしなければ、顔がわからないことは別にどうというわけでもなかった。
だって私たちは常に行き交う誰かの顔を観察して、全ての相貌を認識しているわけではないのだから。最寄り駅までの道のり、居合わせた電車、あるいは仕事の打合せをした相手の顔でさえ、いつも克明に思い出せるとは限らない。
もちろん私も作家の端くれとして、世間でいわれるところの「人間観察」に馴染みがないわけではない。ただ、人間の観察が必要とされる時以外に、常にいつでも他人を見つめているわけでもない。
インタビューでもなしに、よし、今日は人間を観察するぞと意気込む作家がいるのだろうか。私が気になるのは、最終電車の中での酔った男女の会話。公園で携帯ゲームに興ずる子供たちの駆け引き。喫茶店で開けっ広げに交わされるシビアな商談。
ふと飛び込んでくる、生活の断片。そのまま執筆に活かせることはほとんどない。でも、彼ら彼女らの言動や格好に潜む思考や嗜好を辿ると、世界を掴む助けにはなる。フィクションに血を送り込み、確かな脈拍と息遣いを持たせるためには、人間の物語が必要だ。
ああ、そうか。これだ。
私の、この異世界に対する緩やかな違和感と不満はこれなのだ。私たちが触れられる距離にあるものすべてにドラマがない。街にも人にも。
単に顔がないというだけではない、人が歩いているのに景色が生きていないのだ。物理的には人も街も動いているけれど、生きている感じがしない。
雑踏はただの足跡をかき集めたもので、話し声や呼吸が感じられない。街並みは立派で、異世界においてもコンクリートのビルが建っていることに驚きはあるものの、それだけだ。
見渡すと、私たちの世界にはあるべきもの、看板や意思疎通を目的とした文字や色が全くない。看板はとても重要だ。それが単なる広告でも道案内でも、あるいは何か政治的主張でも、そこに含まれる人間の意図は、メッセージを託した本人よりも雄弁だ。
見知らぬ土地の初めて歩く目貫通りであっても、故郷の数え切れないほど行き帰りした通学路であっても、人の生きた・生きている証は、いつも私に喜びと新しい発見を与えてくれる。
それらすべて、人間の生きている形跡がこの街には全くない。
無味無臭な街に対して唯一の慰めは澄んだ空気と、深い青の空だけだ。暑すぎずカラっとしていて、足元を吹き抜ける風は涼気を運んでくれる。この青がなかったなら、私たちは歩みを止めていただろう。
だから違和感の正体はなんてことない、とても素朴なもので、ただ楽しくないだけなのだ。あの生き物を拒絶する砂漠やアメリカの「なにもない」が詰め込まれた荒野のように、見渡す限り一切の変化を拒絶する景色ではないにも関わらず。
歩いていて本当に楽しくないなんて初めてのことだから、戸惑っても当然だ。
「そっか」
ぽつりと声が漏れた。
結論がただ楽しくないといった捻りのないもので、また実際に楽しくないので気持ちは弾まないけれど、この世界に対して私が私自身の手によって視野を掴むことができたのは少し誇らしい気持ちになった。これでも作家ですから。えっへん。
しかし、そうなると、今度は別の疑問が湧いてくる。
ではなぜ観音さんはあんなにも急いでいるのだろう?
私がのんびりと街の様子を観察したり空を見上げて呆けていたせいかもしれないけれど、彼女は足をせわしなく前後させて、半ブロックほどまで遠のいていた。
幸い、この街で彼女の特徴的な後ろ姿を見失う心配はない。でも東京だったら、とっくにはぐれてしまっていただろう。
彼女の足取りは、目的地が決まっているかのように迷いがない。
異世界に放り出された異常な事態において先を急ぐのは当然のように思える。
が、それは月ノ瀬観音らしくない。
長年の付き合いからして、初めての土地で脇目もふらずに歩を進めるのは、とても彼女らしくなかった。何より、日常の楽しみ方、街の歩き方を私に指南したのは他ならぬ観音さんなのだから。
彼女は博識で、実際何でもよく知っていて、それを奥ゆかしく隠すこともない。でも、だからといって何もかもが説明可能で、面白みなどない、などという冷笑的な態度を示したことは一度もなかった。
驚きに目を見張るのは、いつだっていいことだ。そのようなことを言っていた。
すると、私が拙い分析を終える前に、既に代わり映えのしない景色に見切りとつけたのだろうか。だとしても、これといったヒントのない世界で、彼女は何に確信したのだろう。
付け加えるならば、私を置いていってしまうのも彼女らしくなかった。むしろ普段の彼女は置いていかれる側だ。私も含めて、周囲には余りにも無軌道な人々が多いから。
なんだか裏切られたような気持ちになった私は、試しに立ち止まってみた。すると、どうだろう、杞憂だったようだ。彼女は踵を返すと私の近くまで駆けよってきた。
「はるか君、どうしたのかい?調子でも?」
ちゃんと心配そうな顔をしている。小さな安心と同時に、私はちょっぴり意地悪してみたくなる。
「おしりがヒリヒリして歩きにくいんですよ」
私が言い終わらないうちに彼女は一歩飛び退いて、顔をしかめた。忙しい人だ。
「まだ引っ張るのかい。やれやれ、とんだ失敗だったな」
「それは半分冗談として、聞きたいことがあるんです。私たち、どこに向かっているんですか?」
彼女は半分は本気なのかい、とぼやきながら、
「すまない。僕としたことが、つい夢中になってしまっていたようだ」
軽く頭を下げてみせた。
「はるか君、歩いていて何に気付いた?」
人によっては試すように聞こえる物言いでも、私には彼女が私の感想に興味を持っているとわかる。
「街が生きていないと思いました。歩いていて、全然楽しくないんです。空だけが青いばっかりで」
彼女は満足げにうなずく。
「すばらしい。街が生きていない、か。実にはるか君らしい表現だね。実にいい。そうだ、この街は動いてはいてもまったく生きていない。営みがない。それはつまり、彼ら彼女らに命はあるのかもしれないが、物語がないというわけだ」
観音さんは少し笑顔をみせると、見通すような冷たい、あるいは憐れみの籠った目で、道行く人々を見つめる。
「全部、ただの背景だ。それゆえに、観察する甲斐がほとんどなくてね。ジムのマシンだって気晴らし用のモニターが付いているのに、ここには面白みが欠片もない」
彼女の笑みは消えていた。
「どこに向かっているのか、という質問だったね。この死んだ街の景色に加えて、これまで判明した情報を整理すると、この街が地中海に面した北アフリカの沿岸部、あるいはそれを模したエリアにあると推定できる。が、それだけでは我々の役割を把握するには十分ではないので、街の中心部ないしは街を二分しているはずの大通りを目指しているんだ」
彼女の説明は普段通り丁寧だったが、その言葉と口調には棘がある。だから私は彼女だけが先行する地中海だのアフリカだのの聞き捨てならない新情報について確認する前に、こう尋ねる必要があった。
「観音さん、何か怒ってます?」
わずかな瞬きの間、彼女は眉間にぐっとしわを寄せて、深呼吸する。
「僕が怒っている?まさか、怒っているわけがない。このくらい段取りが悪いことなんて、日常茶飯事、通常営業の範疇だ。キャラクターものっていない背景だけのイメージボードを見せられ続けて、物語が始まるのをずっと待たされているだけじゃないか。おまけに、あなたは物語の登場人物かもしれない、と前振りを受けているにも関わらずほったらかしにされているだけだ。こんなことなんでもない。いちいち怒っても仕方がない」
絶対に怒ってる。あまりにもわかりやすい。
私には彼女の怒りは、周囲に発散して、あるいは正体のわからない誰かに向けられているのではなく、特定の人物に対して燃焼しているように思えた。
月ノ瀬観音なる人物が異世界に訪れた経験は私には測りかねるけれど、彼女はこの手の創られた世界の査読について、誰よりも精通しているはずだ。
だから始まらない物語への忍耐力は私なんかよりずっとずっと鍛えられているわけで、あからさまに怒るのは不自然だった。
たぶん、彼女の持つ確信と、彼女を怒らせるに足る理由は共通しているのだ。ただもどかしいけれど、聞いたところで答えてくれそうな雰囲気でもなかった。
「観音さんが怒っていないのはわかりました。でも、北アフリカというのはどういうことですか?そのメガネにGPSでもついていたり?」
「よくわかったね、その通り。実は僕のメガネはスマートグラスでGPSもナビゲーションも搭載したスグレモノなのさ。まあそんなものがあったとして異世界で使えるのかは甚だ疑問だ」
怒っているとはいえ、軽口を交わす余裕はるようだ。
「冗談はさておき。ひとつずつ分析するとしよう。まず畑の麦に穂がついていた。つまり季節は初夏、あるいは初夏に類する気候であるはず」
バスの中から見えた景色のことだろう。彼女は指を一本立てた。
「はるか君も触れていたように、印象深いこの濃い青空は日本やアジアなどの湿度の高い地域ではお目にかかれない。しかし気温は高すぎず、陽の光も突き刺すように強くはない。僕の知る限りでは、初夏にこのような空模様であるのは、地中海沿岸部だ」
二本目の指が立つ。
「とはいえ、太平洋や大西洋ほどではないにしても地中海は広い。どのあたりかが気になるところだ。地中海の北側、つまりヨーロッパ側のイタリアやギリシャはもう少し湿度が高く、空も霞んでいる。それに雲もずっと多い。
彼女は三本目の指を上げ下げする。
「となると、南側、つまりアフリカ大陸の北部の可能性が濃厚だ。あの高く、遠くに見えるくっきりとした巻雲も、よく特徴をあらわしている。そして街に流れる風は涼やかでありながら多少の湿り気が感じられる。となると、内陸ではなく、沿岸部だ」
三本の指を立てる前に、彼女はひらひらと手を振ってみせた。
「とまあ長々と口上を述べたわけだけれど、実のところ、この空はよく見覚えがあるんだ。あの地域を重点的にリサーチしたことが何回もあってね。うん、ここは北アフリカがモデルの可能性が高いだろう。といっても、我々の知る天体と同じ条件であればだが」
うん、わかっていたけれど、長い話だった。おかげで納得はできた。
「なるほど、なるほど。疑っているわけではないのですが、さすが観音さんですね。地図が重要といつも強調しているだけあります」
「そうだね、天体が違っても大陸の形が違っても、外れないルールというものはある。だが、しかし」
「しかし?」
「しかし、だ。たとえ我々のいる地域の特徴がわかったとしても、何の物語なのかがわからなければ、何の意味もない。この天候さえ、文字通りにただの背景であれば、考えても意味がないじゃないか」
彼女の不満は収まらないようだ。
「見えているのが本当に空とも限らない。大きな天球を模したモニターなのかもしれない。つまりこういうことだ。ここの地域性をどうでもよいものとして、ここからひっくり返す手立ては無数に考えられる。あるいは何も考えていない可能性だって濃厚だ」
観音さんは仕事モードの顔に切り替わっていて、大きなため息を吐き出した。
「じゃあ聞きづらいんですけど、さっきから本当に街の中心に向かっているのか、わかる手立てはないんじゃないですか?時計は見当たらないし、私たちを照らすあの太陽が本物かどうかもわからないわけですし…」
彼女はこめかみを抑えながら首肯する。
「はあ、頭に血が上っていたことは認めよう。はるか君の言った通りだ。少なくとも、どこに向かっているのかについて確証はない。だが、頼るべき道具も情報も手持ちになることもまた事実だ。よって同じ方向に歩き続ければ、街の中心でなくとも、少なくとも街の端には辿り着くだろう。あまりそんな徒労について考えたくはないが。
あるいは、もっと最悪な場合、この変わり映えのない景色は本当に変わっていなくて、我々は同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。だとしても、我々は何かが起きて物語が始めるのを待つしかない」
観音さんは彼女にしては珍しく、弱弱しい声を漏らす。髪先を指で弄んで、それだけ見れば途方に暮れた学生のようでもあった。
「はるか君は何かいい方法を思いつかないかな?」
当て付けのように聞こえなくもないけれど、彼女にその意図はないようだった。実際のところ、異世界の歩き方において彼女がお手上げであれば、私が解決できるはずもない。陸に上がった河童であるわけだし。
「う~ん、なんとも」
その時だった。
「あっ、えっ?」
見慣れない、しかし見知った人物が視界に飛び込んできた。
「いい方法かどうかはわかりませんが、物語は始まるかもしれません」