音と共にある人生   作:Taku-One

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第10話_オーディション

 

 オーディションの日取りが近づくにつれて、部の空気はピリピリし始めた。

 皆が楽譜とにらみ合い、雑談する声もほとんど聞こえてこない。

 聞くところによると、職員室にいる滝先生の元へ吹奏楽部員が質問するための列をつくっているらしい。

 今年の吹奏楽部は熱心ですねぇ。皮肉交じりの教頭の言葉に、滝先生は苦笑するだけで何も応えなかった。

 

 オーディションも近づくこの時期になると、特に休日の練習では合奏練習も増えてくる。

 今日は全員が集まってコンクール曲を合わせて演奏する、初合奏の日だ。

 レベルの高いトランペットパートですら時折気分が悪くなる僕は、初合奏練習を戦々恐々とした心持ちで迎えていた。

 しかし、予想は良い意味で裏切られた。

 他のパートもかなり高いレベルで演奏をまとめてきたのである。

 まぁAメンバーだけの演奏というわけではないので、初心者も混じっての演奏ではある。

 ただそれでも彼らも初心者という言い訳をせずに頑張ってきたということが分かるほど、その演奏技術は上達していた。

 

 とはいえまだまだミスの多い奏者が混じった合奏である。

 例によって僕は徐々に体調が悪化していき、何度か教室を出ては休み、教室を出ては水を飲んで休み、最終的には保健室の世話になっていた。

 昼休憩後から始めて今は16時。長くもったほうかなと内心思っていた。

 

 今のところ僕の共感覚という事情を知るのは滝先生と高坂さんだけである。

 僕を心配した滝先生は、保健室に沈み込んだ僕に高坂さんを付き添うようにお願いをした。

 高坂さんが滝先生の頼みを断ることはない、ということで、保健室で高坂さんと二人きりという状況が発生したのである。

 

 「あぁー、高坂さん、付き添ってくれるのはありがたいけど、練習時間も無駄になっちゃうし、僕のことは放っておいていいよ」

 

 「いや、滝先生に直々に頼まれたし、ここに居るわよ」

 

 最近気付いてきたが、高坂さんの滝先生への傾倒具合は異常だ。

 尊敬する先生とかそういうレベルを超えている気がする。

 もしかして、禁断の恋とかそういうのなのかな。

 

 「それにあなたも大変ね。隣にいるから分かったけど、ホントにどこかの演奏が崩れるたびに顔色が悪くなっていってたし、共感覚ってのも難儀なものなのね」

 

 「まぁそうなんだけどね。悪いことだけでもないんだよ。良くない演奏にはダメージを受けるけど、素晴らしい演奏は逆に元気をもらえるっていうか、他の人よりも楽しめるって部分もあるからね」

 

 そこで高坂さんは何かに気づいた顔をした。

 

 「……じゃあ、今の状態も良い音楽を聞いたら治るってこと?」

 

 「えっ、どうだろうな。体調不良になったときは、家とか保健室で大人しくしてることがほとんどだったし、その状態で生の音楽を聞いたことはないかも」

 

 「じゃあ、ちょっと私の音楽を聞いてみる? 保健室だし、トランペットはないから、口笛とかになっちゃうけど」

 

 「口笛……」

 

 「何その目。私、トランペットとピアノの次くらいには口笛得意なの。それとも、子守唄でも歌ってあげましょうか?」

 

 「いや、高坂さんに子守唄歌ってもらうとか、羞恥プレイも良いところだし、誰かに知られたら◯されかねないから遠慮するよ」

 

 「なら暇だし、試してみるくらいの気持ちで聞いてくれればいいわ。体調が悪化したらすぐにいうこと」

 

 「いや、ホントにありがとう。他人の口笛なんて真面目に聞いたことないから少し楽しみだよ」

 

 「じゃあ吹くわね」

 

 ……

 

 これは、『桜』だ。森山直太朗の。

 

 高坂さんが得意というだけあって、その口笛は美しく桜を奏であげている。

 聞き入っていると、先程まで感じていた倦怠感とか、吐き気とか、そういった嫌なものがすうっと抜けていく気がする。

 透き通った音色からくる桜の優しい色と香りが意識を満たすようだ。……と同時に心地よい眠気が襲ってきた。

 体調が悪くて眠れなかっただけで、やはり合奏練習を通じての負担はかなりの疲労となって僕の体に溜まっていたらしい。

 

 高坂さんも僕が眠くなってきたのに気付いたのか、手のひらを上下させて、「寝ていいわよ」といったジェスチャーを見せる。

 同級生の女子に子守唄で寝かしつけられるようで、というかそのもので少し恥ずかしい気持ちもあったが、それよりもこのまま良い気分のまま眠ってしまいたい欲が勝ってしまった僕は、安らかに眠りについてしまったのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 私が口笛を吹くと、大槻くんはあまりにもあっけなく眠ってしまった。

 曲もサビを1回吹いたくらいの短い時間だ。

 顔色も先ほどと比べると大分良くなっている。

 なんとなく子どもを子守唄で寝かしつけたような気分になって、少し気恥ずかしい気持ちがある。

 子どもを寝かしつけた経験なんてないのだけど。

 

 大槻くんも寝てしまったし、練習に戻ったほうが良いのだろうけど、なぜかもうしばらく此処に居たい気がした。

 

 先程の合奏、大槻くんがダウンするまでに何回か課題曲を通して練習をした。

 隣にいたし、同じパートを吹いていたからよく分かる。大槻くんは一度も「外す」ことがなかった。音程も、タイミングも。

 楽譜に書かれた細かい指示もほぼ完璧に吹き分けていた。

 逆にいうと、いつもトランペットパートの演奏の真ん中で安定しているので、パート外からは分かりにくいかも、とも思った。

 トランペットパート全体の質が高くなったのは外からでも明確にわかっただろうが、目立つのは中世古先輩、吉川先輩、私、そんなところだ。

 彼はあくまで土台に徹していたし、他人のフォローに回っていた。

 

 大槻くんに比べると私の演奏はまだ甘い。

 少し(ほんの少しだけだ)高音で外したり、フォルテからメゾフォルテへの移行が遅れてしまったりしていた。

 大槻くんはすぐに気づいてカバーしてくれた。私が正しい演奏に戻りやすいように合わせてくれた。

 正直なところ、かなり悔しい。ちょっと震えるほど悔しい。

 コンクール曲の楽譜を渡されたタイミングは全く同じなのだから、練習量にそう差はないはずだ。

 

 ということは、奏者としての基礎能力に差があるということになる。それもかなり明確な差が。

 どうすればあんなに正確に吹けるんだろう、どうすればあんなに芯のある音を奏でられるんだろう。

 考えれば考えるほどに悔しさが積み重なっていく。

 

 トランペット、上手くなりたい

 大槻くんに負けないくらいに。

 

 それが麗奈の素直な思いだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 心地よい目覚めだった。

 良い夢を見ていた気がする。内容は覚えていないが、とても温かい気持ちになっていたような。

 そういえば寝付く前に高坂さんに口笛を吹いてもらったっけ……

 

 「大槻くん、お目覚めですか」

 

 目覚めの挨拶をしてくれたのは、滝先生だった。

 心地よい目覚めが一瞬で台無しになった。

 高坂さんはどこへ行ってしまったんだろう。

 

 「すみません、寝てしまっていました。今何時くらいでしょうか」

 

 「今はもう合奏の時間は終了して、18時半です。殆どの生徒は帰っているでしょう。大槻くんもそろそろ帰ったほうが良いと思います。体調は大丈夫ですか?」

 

 寝る前にはもう楽になっていた気がするが、一眠りした今は全く問題ない。

 今から一日が始まっても大丈夫そうな元気を感じる。

 今日の夜ちゃんと寝られるかな?

 

 「はい、もうバッチリ大丈夫です。ご心配おかけしました」

 

 「私が来るときまでは、高坂さんがここに居てくださいましたよ。明日にはお礼を言っておくといいでしょう」

 

 高坂さん、最後までいてくれたのか。

 僕にはそんなに良い感情を抱いていないはずだが、責任感の強い良い子だな。

 滝先生の言う通り、お礼を言って置かねば。

 

 「それで、予想通りといえばその通り、合奏練習では大槻くんは体調を崩してしまいましたが……今後、やっていけそうですか?」

 

 「いえ、確かにきつかったといえばきつかったんですが、それ以上に楽しかったですよ。皆との合奏は」

 

 これは僕の素直な思いである。

 僕と同年代の、まだまだ未熟な皆が一生懸命上手くなりたいと練習に励む姿は、僕自身も励まされる思いだ。

 何より、今はまだ頻繁に崩れる演奏でも、皆と少しずつ上を上を目指して演奏するのはホントに楽しかった。

 

 「ただ、あと何回かはわからないですけど、多分しばらくは最後まで音楽室にいるのは厳しいかも知れないです」

 

 タイミングとしてはオーディションが終わってAメンバーのみになったら、合奏練を一緒に完遂出来るかも知れないと言ったところだろう。

 それまでは合奏練習で疲れると保健室に逃げるサボり魔扱いされちゃうかもな。しかも高坂さん付き。

 最後のオプションが一番反感を買いそうだ。

 流石に次回からは高坂さんについてもらうのはやめてもらおう。

 

 「それは仕方ないでしょうね。大槻くん自身の演奏は問題ないので、無理をしない範囲で参加していただければいいと思います」

 

 まぁこうなるのは部に入る前から織り込み済みだ。

 滝先生の言う通り適度に参加する他ないだろう。

 

 「では、もう時間も遅いですので、大槻くんは帰りましょう」

 

 「わかりました。滝先生はまだ残るんですか?」

 

 「私は、曲の研究とか、強豪校の演奏を聞いたりだとか、色々やることもあるのでもう少し残ります。帰っても一人暮らしなので、やることもないので」

 

 やることもないので。滝先生の言葉に少し引っかかりを覚えたが、深く聞ける雰囲気ではなかった。

 

 「じゃあ、お先に失礼します」

 

 「ええ、気を付けて帰ってください」

 

◇ ◇ ◇

 

 オーディションまでの日々は、怒涛のように過ぎていった。

 個人練習、パート練習、合奏練習、そしてまた個人練習。

 

 「あー、もう限界、皆、私のことは忘れて置いていって、オーディション頑張って」

 

 「馬鹿ね、そんなこと許すはずがないじゃない。死ぬなら皆一緒よ。絶対に逃さないから」

 

 友惠先輩と優子先輩が話している、しかしその内容はかなり支離滅裂だ。

 今までこんな限界まで音楽に打ち込んだことがないからだろう、精神的に限界が近づいている部員も多かった。

 

 「期末テストもありますしね。頑張りどころですね!」

 

 「「「「ゔっ」」」」

 

 オーディションに向けての練習ですら一杯一杯だった部員に、期末テストという単語は刺激的すぎたようだ。

 何人かにトドメを刺してしまったようだ。

 

 「透理あんた、性格悪いわね。ここで期末テストの話題持ち出すとか」

 

 「いやでも、皆さんの様子を見るに、期末テストの存在を意図的に忘れようとしているような気がして。テストサボると補習とかで結局吹奏楽の練習にも影響出ますよ」

 

 「そんな正論聞きたくない! テストのことはオーディション終わってからでいいじゃない!」

 

 「いやでも、オーディション終わってから期末テストまで一週間しかないですよ。今から少しでも……」

 

 「だから、そんな正論聞きたくないって言ってんでしょ! あんたは鬼か!」

 

 「まあ、優子先輩がいいなら、それで良いんですけどね」

 

 トランペットパートの皆はかなりの混乱状態に陥っているようだ。

 優子先輩はある程度成績は良かったはずだが、それでもこの限界状態だ。

 多くのメンバーはオーディションと期末テストのコンボを食らってグロッキーになっている。

 

 余裕があるのは僕と、香織先輩と高坂さんくらいである。

 なにか手助けしてあげたほうが良いかな。

 でもオーディションは個人の頑張りがダイレクトに結果に出る部分だ。

 僕の助けられる余地は少ないと思う。

 

 じゃあせめてオーディションが終わってからの学習期間には少し助力をしようかな。

 なんて余計なことに気を使っているうちに、いよいよやってきた。

 コンクールメンバーを決めるオーディションである。

 

◇ ◇ ◇

 

 「ではこれより、オーディションを初めます」

 

 滝先生の宣言により、ついにオーディションが始まった。

 

 「私達が参加するA編成は1団体につき55名までしか参加することが出来ません。つまり、ここにいる何名かは確実に落選することになります。皆さん、緊張してますか?」

 

 「してまぁ~す……」

 

 だれかの死にそうな返事が聞こえる。

 返事をしたのは一人だったが、その言葉は当落線上の部員全員の総意だろう。

 でも、自分以外も緊張しているのだということがわかり、少し場の雰囲気が柔らかくなる。

 

 「ですよね。ですが、ここにいる全員、コンクールに出場するのに恥じない努力をしてきたと、私は思っています」

 

 確かに、僕が入ってから見た限り、吹奏楽部員が明確にサボっているのを見たことがない。

 82名もの部員を抱えていることを考えれば、これは驚異的なことだと思う。

 入学当初はバラバラだった皆の意思が、「全国出場」という目標に向かって統一されたことを意味するのではないか。

 もちろん空気に流されている部員が居るだろうことは想像に固くないが、全員が同じ目標に向かって努力をしているということは誇りに思って良いことだと思う。

 

 「胸を張って、皆さんの努力の成果をみせてください。では、始めます。まずはパーカスの皆さんから」

 

◇ ◇ ◇

 

 オーディションは2日間に分けて行われた。一日目はパーカションと木管、二日目は金管だった。

 トランペットパートは最後の最後に回された。普通高音のトランペットから景気よくいきそうなもんだけどな。

 

 オーディション形式は簡単で、音楽室にひとりずつ呼ばれ、滝先生と松本先生の前の椅子に座り演奏するのだ。

 

 「次、トランペットパートです、三年生から順に音楽室に向かってください」

 

 トランペットパートの前のホルンの一年生が連絡をしてくれた。

 

 「あ、はーい。連絡ありがとう!」

 

 香織先輩が返事をすると、トランペットパート内の空気が更に引き締まった気がする。

 そんな状況の中、香織先輩は皆を見渡して口を開いた。

 

 「これからオーディションだね、皆緊張してると思うけど、お互い頑張ろうね」

 

 「はい! 香織先輩、頑張りましょう!」

 

 優子先輩が追従するが、香織先輩が言いたいことは、この先にあるようだ。

 

 「今のパートは8人居るし、全員が選ばれることはないと思う。そういう意味では全員ライバルだね」

 

 ……

 

 「でも、Aメンバーに選ばれても、選ばれなくてもトランペットパートの仲間には変わりないよね。だから恨みっこ無しで行こう」

 

 ……

 

 「これはソロの選出に関してもそう。選ばれたメンバーはコンクールに向けて一生懸命頑張る。選ばれなかったメンバーもコンクールに向けて出来ることを一生懸命頑張る。これは皆で約束しよう」

 

 「香織先輩……」

 

 優子先輩はやはり香織先輩にソロパートを吹いてほしいという気持ちが強いのだろう。

 皆が視線を交わす。

 これはある意味残酷な約束だ。

 一年に一回しかない吹奏楽コンクールの場に出られる人を決める。そして出られなくても悔しい思いを抑えて最大限協力しろ、そういう約束だ。

 

 「約束、できる?」

 

 「「「「「「「はい!」」」」」」」

 

 皆の声が揃った。それは、何より香織先輩が覚悟を決めているのを察しているからのことだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 僕のオーディションの順番は、トランペットパートの最後だった。

 つまり、全部員の最後。オオトリだ。

 オーディションの順番は何故か学年順どころか個人の順番まで決められていた。

 

 「どうぞ、かけてください」

 

 少し疲れの見える滝先生が声をかけてくれる。そりゃ全部員の演奏を評価しながら聞くとか疲れるよな。

 真ん中にぽつんと置かれた席、その前に置いてある譜面台にファイルをセットしながら、演奏の準備を進める。

 

 「学年と名前と担当の楽器を」

 

 「一年、大槻透理、トランペット担当です」

 

 「そうか」

 

 この素っ気ない声は副顧問の松本先生だ。

 顧問と副顧問の二人にテストされると思うと、僕も少し緊張してきた。

 

 「チューニングは大丈夫ですか?」

 

 「はい、直前に合わせてあります」

 

 「そうですか……大槻くんは経験者ですよね。トランペットはいつから吹いているのですか?」

 

 いきなり演奏に入る前に雑談をするようだ。アイスブレイクというやつだろうか。生徒の緊張を少しでもやわらげたいのかな。

 

 「真面目に練習し始めたという意味ならもう少し後ですけど、トランペットを吹き始めたのは3歳の頃です」

 

 「3歳? それはすごいですね、流石は音楽一家といったところですか」

 

 滝先生が感心したように唸る。松本先生も驚いているような顔をしている。

 

 「では最初に、課題曲から吹いてもらいます」

 

 「はい」

 

 「トランペットといえばまずここ、曲の出だしの一小節目からのメロディですね」

 

 課題曲の『プロヴァンスの風』はトランペットのメロディから始まる。ここは外せないところだ。

 

 「メトロノームを鳴らしますので、私が止めるまで吹いてください。好きなタイミングで始めて良いですよ」

 

 「はい、わかりました」

 

 ちょっと緊張を感じるが、何度も吹いて、自信のあるところだ。思い切って行こう。

 背筋を伸ばし、肺を膨らませ、腹筋と横隔膜に力を入れて、マウスピースに鋭い息を吹き込む。

 何度も練習したところだ、自然に指は動くし、息と唇も思い通りに音を奏でてくれた。

 

 他にも何箇所か指定された部分を吹くと、滝先生は確認するように頷いた。

 

 「はい、そこまで。では次は自由曲に行きましょう。大槻くんは他の部分は聞くまでもなさそうなので、ソロパートだけ吹いてください」

 

 「えっ、はい」

 

 他の部分も一生懸命練習してきたのに、微妙に損した気がする。

 だが、ソロパートはそれに輪をかけて練習してきたところだ。

 その成果を披露したい気持ちはある。

 

 「ではソロパートの部分、吹きます」

 

 骨に響くようなコツコツというメトロノームの振動を感じながら、僕はソロパートの最初の一音を吹き込んだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 松本美知恵は自前のティッシュで目を覆いながら、年下の顧問に声をかけた。

 

 「失礼しました」

 

 最後の部員、大槻透理のオーディションを終えて、更にしばらくの時間が経ったあと、松本は大きく深呼吸をした。

 体の中の熱を吐き出さなければ、滝先生との会話すらままならないと思ったからである。

 

 「滝先生の言う通り、大槻のオーディションは最後にして正解でしたね」

 

 「ええ……と言っても、彼の演奏は私の想像以上でした。評価シートにも何も書けませんでしたよ」

 

 確かに、私の評価シートも自由曲ソロ部分は白紙だ。

 あの上手い、いや感動的ですらあるソロ演奏に心を打たれて、ペンを動かすことが出来なかったのだ。

 

 

 実を言うとオーディションのスケジュールは当初松本自身が組んでおり、それを滝先生に確認を取ったのだが、「トランペットパート、特に大槻くんのオーディションは最後に来るように組み直してください」と言われてしまったのだ。

 松本は厳格な人間なので、何か贔屓でもするのか、と顔をしかめたのだが、その雰囲気を感じ取った滝先生は弁解を始めた。

 

 「贔屓とか、そういうものではありません。単純に大槻くんを最後にしないとオーディションの審査の公平性に支障をきたすと思ったのです」

 

 「順番が前後するだけでオーディションに影響が出るとは思いませんが、何かあるのですか?」

 

 ここ数ヶ月の付き合いで、松本は滝先生が非効率なことを嫌うことがわかっていたので、理由を問うた。

 

 「まだ私も彼の音は基礎練習や合奏でしか聞いていません。それでも既に片鱗のようなものは見えていますが、オーディションの自由曲のソロパートでは初めて本当の彼の実力を知ることになるでしょう」

 

 確かに自由曲のソロパートはまだ奏者が決まっていないため、合奏練習ではトランペットパート部員が全員で合わせて吹いている。

 松本は滝先生の言うことがよく理解できず困惑していたが、彼は構わず続けた。

 

 「彼の演奏が我々の心を揺さぶるレベルのものであった場合、冷静に他の部員の選考を行える保証がありません。なので最後にしてもらいたいのです」

 

 「……まぁ、滝先生がそこまでいうのなら、そうしましょう」

 

 そんなことがあるのだろうか。滝先生は大槻の演奏を相当に買っているようだ。松本はまだ半信半疑だったが、大した手間でもなし、スケジュールを組み替えたのだった。

 

 

 そして今、それは正解だったと実感している。

 オーディションが終わって5分以上経っているが、心臓の音は落ち着かず、頭の中ではさっきの大槻のソロ演奏がこだましている。

 こんな状態では他の生徒のオーディションなど不可能だろう。

 

 「彼は、……大槻は何者なんですか? 高校生でこんな演奏、聞いたことがありません。いくらあの大槻静理さんの息子であっても……」

 

 「彼は耳が良いようです。そして彼の音には膨大な努力の積み重ねを感じました。自分の音を聞き、それを改善する。それを無数に繰り返してきたのではないでしょうか」

 

 大げさに聞こえるが、それは音楽家としてはごく普通の練習だ。

 だが滝先生はあえてそう口にした。

 ということは、大槻の耳の良さと努力の量が尋常なものではないと滝先生は感じているということだろう。

 

 「3年間も彼の生の演奏を聞くことが出来るなんて、我々はかなり運が良いですね。将来はプラチナチケットを取ることになるかも知れませんよ」

 

 珍しく滝先生が冗談をいった。

 でもその内容は実現しても全くおかしくないように思えた。

 とりあえずポケットティッシュが切れた。ボックスティッシュを持ってこなければ。

 

 

 

 

 

 




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