あの再オーディションの熱を引きずるように、黄前久美子は普段より高い集中をもって練習に励んでいた。
早朝から夕方まで、夏休みに入って長くなったはずの練習は一瞬の間に過ぎ、むしろ、誰もが足りないとすら思う中、ある日の合奏練習中に、それは唐突に訪れた。
「今のところ、ユーフォも入れますか?」
「え、どこですか?」
滝先生の下問に対し、あすか先輩が反応する。
「158小節目からのフレーズです。コンバスとユニゾンで」
「黄前ちゃん行ける?」
「あっ、はい」
まさに先日緑と話していたことが現実になったようだ。
高音が充実している分、低音も音の厚みを必要とされてきたのだ。
「久美子ちゃん、ここです」
「ありがとう……えっと、ぅんん?」
緑が当該箇所の楽譜を持ってきてくれた。
しかし、現状の楽譜でもかなりギリギリの攻防を強いられている久美子からすると、新しい楽譜は霞んで見えるような遠い存在だった。
◇ ◇ ◇
低音パートの練習室に戻ってきてから、黄前久美子は眉間にシワを寄せていた。
「うーん、ここかぁ……確かに難しいよねぇ」
パート練習室に戻って楽譜を確認しながら、チューバの先輩である梨子先輩が団扇を扇ぎながら唸る。
今日も真夏日である。夏休みなので通常教室では冷房を入れるのは許されない。
「まぁでも、先生の言うことも分かる。ここはちょっと音の厚み弱かったしな」
「完全に裏のトランペットに押されてたしねー、トロンボーンに加えてユーフォ奏者を増やすことでバランスを取るのは悪くないと思う」
と、そこで、ずっと新しい楽譜とにらめっこしていたあすか先輩が声をかけてきた。
「じゃあ、ちょっとやってみるね。黄前ちゃん聞いてて」
え、もう出来るの?
「あっ、はい!」
久美子が向き直ったのを確認すると、あすか先輩はその銀色のユーフォへ息を吹き込んだ。
……
すごい、このメロディ、結構複雑な指使いとリップスラーを駆使しないといけないのに、初見でもう吹けてる。
「まぁ、こんな感じかな」
「すごい」
「流石です! あすか先輩!」
「ありがとうございました!」
完全に観客の気分で礼をすると、あすか先輩の手が伸びてきた。
「お礼を言ってどうするの! 黄前ちゃんも吹くんだよ」
両頬をネリネリされる。
だって絶対にあんなに上手く吹けないから、もう少し練習してからと思ったのに。
「ほら、構えて」
やっぱりそういう流れになるよね。
「あ、はい」
覚悟を決めて、吹く。
……
やっぱり難しい、指はなんとか追いつくけど、唇が間に合わない、唇が間に合わないから、焦って指のミスも出る。
……
皆の視線が痛い。
「あの、私、個人練行ってきます!」
上手くなりたい。ここ最近久美子の頭の中で繰り返される言葉だ。
◇ ◇ ◇
休憩時間にマウスピースを廊下の手洗い場で洗っていると、声をかけられた。
「大槻くんも個人練ですか?」
「ん? あぁ川島さんか。普通にパート練してたよ。今は休憩時間にマウスピースを洗いに来ただけ」
「休憩時間なんですね、じゃあちょっと一緒に行きませんか?」
「え? どこに?」
「久美子ちゃんのところです!」
なぜに?
……
話を聞いてみると、さっきの合奏練で追加された楽譜を上手く吹けなくて落ち込んだ黄前さんは、あすか先輩に眼の前で完璧な演奏を披露されるという死体蹴りをされ、涙を流しながら修行の旅へと出たという。
「だから一緒に励ましに行きましょう!」
いや、絶対に話盛ってるだろ。
真実が少し入ってそうなのが余計にたちが悪い。
それに僕が一緒に行く理由にも全くなっていない。
まぁでもちょっと散歩に付き合うくらいなら良いかな。まだ休憩時間は残ってるし。
川島さんってあんまり話したことなかったけど、テンション高いな。
合奏練ではコントラバスをキラキラピカピカ光らせていたから、演奏技術は相当な腕前のはずだけど。
この低い身長でゆるふわハイテンションなところと、コンバス達人な部分が頭の中のイメージで上手く繋がらない。
中々クセの強い子のようだ。
「あ、見えましたよ久美子ちゃん、いつも個人練のときはここに居るんですよね……久美子ちゃーん!」
えっ、と黄前さんは川島さんの呼びかけに気付いてこちらを振り向く。
……って、やば!
僕は、急ぎ足で進むと黄前さんの顎の下に手を差し伸べた。
「えっ、大槻くん!? なにして……」
「黄前さん、鼻血、鼻血出てるから、ちょっと我慢して、動くと制服汚れちゃうよ」
「えっ?……あぅ」
「川島さん、ティッシュ持ってる?」
「も、持ってます! ちょっと待ってくださいね」
「それで拭いたら、押さえながらとりあえず保健室に行こう」
……
氷嚢はあるかな~、あ、あったあった。
勝手に使っちゃっていいよね?
「はい、黄前さん、そこ座って、あ、上向かないで、気持ち下向きで、この氷嚢を鼻筋の上辺りに当ててしばらくじっとしてて」
「え、あ、うん、ありがとう」
「出血量あんまりだから大丈夫だと思うけど、川島さんはティッシュの予備よろしく」
「はい! 了解しました!」
「あと一応、滝先生と低音パートには連絡したほうが良いんじゃないかな。じゃあ僕は水買ってくるから、すぐ戻るね」
黄前さん、あの様子じゃあ水も飲まずに長時間やってたなぁ。
水を飲まずに血圧が上がって鼻血が出ちゃうって相当熱中しないとならないよね。
熱中症とかの危険もあったから褒められた行為じゃないけど、根性あるのは間違いないな。
◇ ◇ ◇
緑が滝先生とあすか先輩に連絡を取っている間、黄前久美子は保健室のベッドに座り、大槻くんの言う通り気持ち下を向いて安静にしていた。
さっきまで真夏の日の下で上を向いて猛練習していたのとは真逆の景色に頭が混乱しそうだ。
「あ、久美子ちゃん、連絡終わりましたよ。大丈夫ですか?」
「あ、うん。血ももう止まったみたい。いつも鼻にティッシュ詰めてたけど、冷やすだけでこんなにすぐ止まるもんなんだね」
「大槻くん、手際良かったですよね、みどり、指示されるまま動いてて、ほとんど大槻くんのラジコンみたいでした!」
「ラジコンって、ふふっ、笑わせないで、また鼻血出ちゃう」
と、ちょうどそのタイミングで、大槻くんが帰ってきた。
「お、案外元気そうだなー、よかった。はい、水飲んで。少しずつね」
水、と差し出されたものも、ちゃっかり経口補水液だ。
ちょっと見た目からして天然っぽい印象を受けていた久美子だが、実際はしっかりしているようだ。
「えー、失礼しまーす、久美子は……あ、皆揃ってんじゃん。久美子大丈夫?」
「葉月、来てくれたんだ。全然大丈夫だよ」
葉月まで来てしまうのは大げさな気がするが、駆けつけてくれるのは嬉しいのでプラマイゼロかな。
「あ、えーと、大槻くんって喋るの初だよね? 加藤葉月です、よろしく! 葉月って呼んで」
「こちらこそ、よろしく葉月。僕のことも透理って呼んでね」
出会った瞬間に下の名前呼びとか、これがいわゆる陽キャという人種なのか。
久美子が密かに戦慄していると、周りの話は勝手に進んでいった。
「あ、はいはーい! みどりも名字じゃなくてみどりって呼んで欲しいな!」
「わかったよ緑、いつもコンバスの音の響きには助けられております、なにとぞ、よしなに」
「なんやそれー、というかもう吹部1年全員名前呼びで良いんじゃない、同じ部の仲間なんだし」
「まぁまぁ、気持ちはわかるけど、一応許可取ってからにしようよ。いきなり良く知らない男子が、『よう順菜、よろしくな』とか言い出したらホラーでしょ」
順菜とは、パーカッションにいる1年の井上順菜ちゃんのことだろうか。
中途半端な時期の入部だったせいで、全員の自己紹介は聞けてないはずだが、名前はしっかり覚えているらしい。
「まぁそりゃそうか。あ、でも久美子は久美子でいいよね」
「え、あ、うん、もちろん?」
「なんか言わされてるみたいになってるけど、大丈夫? じゃあ久美子は、しっかり休んでから練習戻ってきてね。僕はもう行くから」
そう言うと、大槻く、いや透理は颯爽と去っていった。
……
「なんか、すごいイケメンムーブを見せつけられた気がする」
葉月がぽろりと口に出す。
「同感です。かっこいいですよね、透理くん! 久美子ちゃんの鼻血とか汗とか手で受け止めて、欠片も嫌そうな素振りも見せませんでしたし」
「やめてよ、緑。結構恥ずかしいと思ってるんだから」
透理が血を受け止めていなかったら、今頃制服は血まみれになっていたに違いない。
それだけでも感謝なのに、氷嚢での治療や先生への連絡を取り仕切り、水を買ってきてくれて皆が落ち着いたのを確認したらすっといなくなる。
葉月の言う通りかなりのイケメンムーブだった気がする。
秀一なんかは優柔不断だから、こんなにテキパキ女子に指示とか出来ないだろう。
あの演奏といい、なかなかにレベルの違いを見せつける男だ。
「よし、もう大丈夫。私達も行こう」
「え、もう少し休まないと」
「そうですよ、無理をしちゃ駄目ですよ」
「鼻血も止まったし、吹いてれば治る!」
……
「久美子、最近熱いよね。前はどっちかって言うと、クールっていうか冷めてる所あったのに」
「ん……そうかな」
「はい、みどりもそう思います! 今の久美子ちゃんは、全力で月に手を伸ばすぜ! って感じです」
「月か……良くわからないけど、でも、上手くなりたいっていう気持ちは前よりも強くなった……かな」
「でも、みどりも少しわかります。透理くんの演奏聞いたらみんなそうなりますって!」
そしてそれは、多分私だけじゃない。
あのトランペット再オーディションを聞いた全員は、透理の音を全身で受け止めてしまった吹奏楽部は。
冒されてしまったのかもしれない、上手くなりたいという熱病に。
◇ ◇ ◇
京都府大会前日のホール練習、ここが正真正銘大会前の最後の練習だ。
練習終わりに大物楽器はここから直接会場の京都コンサートホールへとトラック輸送されてしまう。
小物のマイ楽器などは持ち帰ることも許されるが、全体での練習は最後と言っていいだろう。
「これが最後の舞台練習です。本番と思って練習しましょう」
「はい!」
滝先生も部員たちも緊張感をもちつつ集中できている、いい雰囲気だと思う。
小ホールの座席にはB編成の部員たちが座っていた。
舞台袖では松本先生がストップウォッチを握っている。
課題曲と自由曲、合わせて12分の時間は散々確認したが、最終確認といったところだろう。
「京都府立、北宇治高校吹奏楽部」
松本先生がアナウンス代わりの声を発する。
舞台袖に控えていた部員たちは一斉に動き出し、本番を意識した動きで自身の持ち場へとスタンバイする。
僕は中央最上段の位置へとトランペットを運び、席についた。
滝先生が指揮台にあがり、両手を構える。
滝先生の爪がスポットライトを弾いてチラチラと輝く。
そして滝先生の手が振り下ろされ、演奏が始まった。
……
ぐっと滝先生の拳が握り込まれ、演奏は止められた。
「自由曲158小節目からの所ですが、トランペット大槻くんと中世古さんは少しだけ下がって、あとユーフォは田中さんひとりでやってください」
これは……
「田中さん、聞こえましたか?」
「はい!」
「本番直前での音量バランス調整になりますが、大槻くん、中世古さん、大丈夫ですね?」
「「はい!」」
「田中さんは今まで通りの演奏で問題ありません。それで良い具合の演奏になるでしょう」
一瞬久美子の方に視線が行きかけたが、止めた。
軽い同情は失礼だし、今は自分の演奏に集中すべきだ。
香織先輩と目線を交わし、頷く。
ファーストの僕が高坂さんと同じくらいの音量、セカンドの香織先輩が優子先輩と同じくらいの音量に調整すれば問題ないはずだ。
しかし、これは……
明らかに久美子の演奏がコンクールのレベルに達しなかった事による調整だ。
バランスは問題ないが、音楽としての迫力は明確に一段下がった。
指示の内容だけなら滝先生は久美子の演奏技術の向上を諦めたように見える。
しかし、その目は単純に生徒を切り捨てる色をしていなかった。
ということは、関西大会、全国大会のときにレベルを上げて戻ってこいということだろう。
久美子はそれに気付いているだろうか。
気付いて、戻ってきて欲しい。
それには、まず京都府大会を突破して関西代表になることが前提だ。
ここが北宇治吹奏楽部の正念場だ。