コンクール当日、制服に身を包んだ部員たちは、皆、神妙な面持ちでバスへと乗り込んでいった。
楽器は昨日のホール練習から直接大会会場へ向かっているので、練習は会場へ着いてからだ。
皆緊張しているのか、バスの中は基本静かだった。基本的には。
「ねえ見てくださいアレ! また四葉タクシー見つけました! これで絶対今日の演奏は上手く行きますよ!」
久美子の隣では緑が無邪気に窓の外を見つめている。
「ふふー、早く演奏したいなあ! 緑、昨日わくわくしすぎて全然寝付けなかったんです! ホントに楽しみ!」
「……緑って、本当すごいよね」
「心臓が毛で覆われてそうだよね」
「透理もそうなんだと思ってたけど」
久美子は僕も本番に強いタイプだと思っていたようだ。
僕は確かに演奏を人に聞かせるのは好きだが、緊張は人並みにするぞ。
「いや、僕も緊張はするよ。でも、緊張が全く無いのは逆に良くないって、どっかのマンガで見た気がするから問題なし」
「マンガでって、なにそれ、ふふっ」
「久美子、やっと笑ったね、大丈夫そうかな?」
「え、私そんなに表情やばかった?」
「やばかった。あの葉月レベルの顔色してたよ」
葉月はAメンバーでもないのにガタガタ震えて真っ白な顔色をしている。
「ま、あれだけ練習してきたんだ、なんとかなるでしょ」
「そうですよ! 緑達はすごい上手なんだから、色んな人に褒めてもらわないと!」
緑はそう言って、屈託なく笑う。
自分のことをこうして胸を張って語れるのは、彼女の強みだろう。
緑は愉しげな笑い声をこぼすと、それから自由曲を口ずさみ始めた。
鳥のさえずりのような声が、コントラバスの楽譜を追う。
それに参加したくて、僕もトランペットのメロディを口ずさんだ。
僕等二人の声に反応したのか、いつの間にか他のパートのメンバーも歌い出す。
滝先生のスパルタソルフェージュのお陰で、皆自分の楽譜を声で歌うのはお手の物だ。
最初はよそよそしかった歌声も、次第に大きく、遠慮のないものへと変化する。
バスの中には鳴り響く大合唱、自由曲、課題曲、自由曲と同じ曲が何度も繰り返されている。
目的地に付くまでの間、その歌声は一度として途切れることはなかった。
◇ ◇ ◇
楽器をトラックの荷台から降ろし、部員たちは手早く本番の準備をする。
楽器ケースを開き、僕は自身の相棒を取り出した。
昨日クロスで磨き込んだトランペットは、夏の日差しを浴びて銀色に輝いている。
小学生の頃は母親と二人で練習し、中学生の頃は吹奏楽部に入れず、思えばこのトランペットが表の舞台に出るのは初めてだ。
長い間日陰に居させてゴメンな、と心のなかで声を掛けると、昨日磨いた銀メッキがキラリと返事をしてくれた気がした。
銀メッキは磨いていないと少し黒ずんでくるのだが、性能に問題はない。
むしろ金属の物質としては安定するので、音程が良くなるという人もいる。
だが僕は、本番では自分の楽器に輝いてほしくて前日に丹念に磨いた。
今は朝日を浴びて輝いている。
幼い頃に母の演奏を聞いて憧れた楽器で、今は自分で吹くのが好きな楽器だ。
他の楽器もちらほら触ったこともあるが、トランペット以上にしっくり来る楽器はなかった。
つまり透理はトランペットが大好きなのだ。
そんなことを今更ながら自覚した。
「楽器のチェックは大丈夫? 終わってない人ー?」
香織先輩が呼びかける。
「香織先輩、大丈夫です!」
僕が返事をすると、トランペットパートの面々も頷きを返す。
このパートはソロ問題で一瞬揺れたが、揺れながらも全員が前を向いて練習に集中していた。
頼もしい仲間である。
ふと、中学生の時のことを思い出した。
僕は喜び勇んで地元の中学の吹奏楽部新入生歓迎会に参加したが、その日は保健室で一日休むことになった。
そしてその日以降吹奏楽部に顔を出すことはなくなった。
その時に比べれば何と恵まれていることか。
皆が全国を目指していい演奏をしている。
そのことが僕にとってどれだけ嬉しいことか、この場で演説を始めたいほどである。
……
「では、この扉を閉じたら、音出しして構いません」
会場スタッフの女性がそういって扉を閉じた。
微笑ましそうな表情からは、もしかしたら彼女らも過去には吹奏楽部だった過去があるのかもしれない。
皆それぞれ楽器のチューニングと簡単な音出しを済ませる。
「皆さん、合わせますよ!」
滝先生がパンパンと手を打ち鳴らす。今日の彼は普段と違い、タキシードでビシッと決めていた。
その姿は非常に凛々しく、廊下ですれ違うたびに他校の部員たちが黄色い歓声を上げていた。
「通しで合奏する時間はないので、とにかく最初の入りを確認しましょう」
「はい!」
金管楽器で最も怖いのは、最初の音を外すことだ。
高音になればなるほどそのリスクが高くなる。
最初でコケてしまうと、そこから立ち直るのは難しい。
だからこそ滝先生は重点的に最初の部分を練習させたいのだろう。
自由曲の『三日月の舞』がトランペットの高音アタックから始まる攻めた曲だというのも、要因としてあると思う。
……
「よろしいですか?」
「はい!」
「えっとー……実はここでなにか話そうと思って色々考えてきたのですが、あまり話すことはありません」
そんなことないでしょ。
いや、滝先生の目には、これまでの教導の自負、部員皆への期待があからさまに現れている。
何も言わなくても京都府大会くらいは突破出来ますよってことかな。
「春、あなたたちは全国大会を目指すと決めました。向上心を持ち、努力し、音楽を奏でてきたのは全て皆さんです」
……
「誇ってください。私達は北宇治高校吹奏楽部です」
たった4ヶ月前には、誇るべきもの等なにもない部活だった。
僕など3か月前に入ったばかりのにわかも良いところだ。
それをこの短期間で誇るべきレベルへと引き上げたのは、滝先生と部員全員だ。
「そろそろ本番です。皆さん、会場をあっと言わせる準備はできましたか?」
……
「はじめに戻ってしまいましたか? 私は聞いているんですよ。会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」
滝先生が指揮を振るように手を上下させる。
「はい!」
全員が前を向いて揃って返事をする。
簡単なことだが、それでもこれは僕が入部した当初では考えられなかったことだ。
「では皆さん、行きましょう、全国へ」
◇ ◇ ◇
舞台袖では前の順番の学校の演奏が聞こえていた。
北宇治の面々はそれぞれ仲の良いメンバーで集まって励まし合っている様子である。
「透理くん、大丈夫?」
香織先輩が声をかけてくれた、こういうのは素直に嬉しい。
ちょっと緊張しているのは確かだが、香織先輩相手だと少し見栄を張りたい気分になる。
「大丈夫ですよ、安心して聞いていてください」
次に来たのは高坂さんだ。なにやら険しい顔をしている。
「大槻くん、もし私よりも下手な演奏をしたら、ただじゃ置かないから」
本番直前に脅しかよ、相変わらず高坂さんらしいな。
なんか逆に面白くなってきた。
煽り返そうとセリフを頭の中で練っていると、その前に香織先輩が口を挟んできた。
「透理くんと麗奈ちゃんてまだ名字で呼び合ってるんだね。それだけ仲いいのに不自然じゃない?」
そういう香織先輩もつい先日までは高坂さんを名字で呼んでいたように思う。
再オーディションあたりでなにか話でもしたのだろうか。
「いや、仲いいというか、ライバル関係というか」
「ライバル関係ならなおさら名前で呼び合うべきだよ、ほら!」
なんかここにきて中世古節が全開になってきている気がする。
やっぱりここは香織先輩のトランペットパートなのだ。
「さっきの話だけど、心配は要らないよ。今のところ、この会場に僕よりもトランペット上手い人は居ないっぽいしね。ワンチャン麗奈くらいかな」
「その言い方、なんかムカつく……でもそれはそう。かましてきて、透理」
「任せて」
◇ ◇ ◇
「――続いての演奏は、プログラム5番、京都府立北宇治高等学校の皆さんです」
アナウンスの声が入り、部員たちは一斉に動き出す。
僕の座る位置は最上段の中央、トランペットのエースの位置だ。
バンとステージ上のライトが灯り北宇治吹奏楽部のすがたを映し出す。
逆に観客席の照明はすっと落とされ、ぼんやりした闇がそこにはただ広がっている
「課題曲Ⅳに続きまして、自由曲、堀川奈美恵作曲『三日月の舞』、指揮は滝昇です」
良く、緊張した出演者に大して「観客はじゃがいもかなんかだと思えば良い」というアドバイスをされることがあるが、吹奏楽についてはあまり参考にならないかも知れない。
なぜなら、ステージに上ってスポットライトを浴びると、実際には同じ部の仲間と指揮者の滝先生しか見えないからだ。
そもそも観客など暗闇に沈んで視界に入ってこない。
やってやろう、うん、同じパート内で目を合わせ合う。
そして滝先生が指揮台に登り、両手を構える。
ここからが、僕ら北宇治吹奏楽部の見せ所だ。
これまでの練習が培ってきた技術と、今皆の目に浮かんでいる想いが、今日これからの演奏を形作るだろう。
北宇治の京都府大会が始まった。
……
観客からすると、序盤の合奏部分での僕の演奏の第一印象は地味だと思う。
なぜなら、ユニゾンやハーモニーのど真ん中にいるからだ。
それは音程でも、タイミングでも他の皆の演奏に溶け込んでいる。
音量もバランスを崩さないようにあわせる。
そうすることによって全体の安定感が生まれるし、その安定感を踏み台にして皆が躍動する。
だが、そろそろ僕個人の出番が来たようだ。
指名された自由曲のソロパート、ここだけは僕の色を存分に出していい部分だ。
滝先生からも、練習中から「見せつけてあげなさい」とのお言葉をもらっている。
今まで皆の合奏に紛れていた僕の音が浮かび上がる。
意識して音量を上げる。
滝先生の指揮を見ながらも、僕の中の表現を優先する。
音階のジャンプ、長く聞かせるハイトーン、終わりを告げるビブラート。
全てに今まで培ってきた僕の技術と想いをのせてトランペットを奏でる。
そして僕は、最高の気分で演奏を終えるのだった。
◇ ◇ ◇
そして今、僕は京都府大会の結果発表を部員の皆と一緒に観客席で待っている。
「うぅ~、めちゃくちゃ緊張する~」
緑も演奏後には人並みに緊張するらしい。
「うぇ~、やばいよ~、この緊張感!」
葉月も興奮を抑えられない様子だ。
僕はといえば、演奏前に比べれば全く緊張していなかった。
演奏をミスしてしまうかもという僅かな不安で緊張していたが、ミスなく終えられた今は安心で力が抜けているくらいだ。
というか、早めの出番で後半の強豪校の演奏を聞くことが出来たので、北宇治の関西大会出場を疑っていなかったのである。
これで北宇治が落ちたら審査員をぶっ飛ばす決意ができていたとも言う。
「あのソロ聞いて代表落とす度胸のある審査員いないでしょ。落としたら炎上して二度と審査員になれなくなるわよ」
珍しく麗奈がツン成分なしに称賛してくれている。録音しておけばよかった。
「まぁね。でもそれが麗奈のソロだったとしても同じだったと思うよ」
麗奈はこちらをちらっと見てニヤッと笑った。
「来た!」
京都府大会は大きな紙で出場校一覧を作り、そこに金銀銅の結果も付けて一斉に発表と言う形式になっている。
その紙を巻いて持ったスタッフ達がいま壇上のさらに上に姿を現したのだ。
そして巻いた状態だった紙を一斉に前方へ投げ出す。
会場全員の視線が自分の学校の結果を探して紙の上を動き回る。
金だ……
北宇治の誰かのつぶやきが聞こえた気がした。
周りから一斉に歓声が上がる。
「やったねー、透理くん、金だよ! 金!」
「友恵先輩、まだですよ」
そう、金は確定したが、関西大会進出校の発表はまだだ。
そしてその京都府代表決定のアナウンスの準備も壇上で整いつつあるようだ。
一人の年配の男性がマイクの前に立って話を始めようとしていた。
「ええー……この中より関西大会に出場する学校は……」
5番、と言い切らないうちに、先ほどとは比べ物にならない歓声が周囲で爆発した。
僕達北宇治高校吹奏楽部は関西大会出場を決めたのだった。
◇ ◇ ◇
発表の後、外へ出て記念撮影なども一通り終わり、皆はバス乗り場の近くで集合していた。
皆はまだ関西出場の感動が抜けきっていないようで、赤い目と頬の顔で周りの生徒と言葉を交わしている。
優子先輩と友惠先輩も少し離れたところでヒソヒソやっている。
さっきの発表のときなど感情が爆発して二人して抱きついてきてくれたものなのだが、今はその反動かあえて僕から意識を逸らそうとしている気がする。
優子先輩、背丈の割にはけっこうあったな。
友恵先輩は、うん、がんばれ。
そんな口にすれば蹴りが飛んできそうなことを考えていると、パンパンと手を打ち鳴らす音がした。
滝先生だ。
「なんだかこれで大団円みたいな空気ですけど、明日から関西大会に向けての練習を始めますからね。私達の目標は全国大会です。次で終わりにならないよう、気を引き締めて練習に励みましょう」
滝先生はそう言って目を細めるが、その瞳はわずかに潤んでいるのがわかった。
そしてその隣では副顧問の松本先生がボックスティッシュを片手に大号泣していた。
場が締まらないことこの上ないが、今日ばかりは仕方ないだろう。
「では、明日は9時から音楽室で練習です。次も勝ちますよ!」
その言葉に、僕は大きく息を吸い込む、この動作にも慣れたものだ。
「はい!」
夏の青空の下に、部員たちの声が大きく響き渡った。
◇ ◇ ◇
「はい、北宇治移動しまーす、周りの邪魔にならないように、バス乗り場まで行きましょう!」
部長の声はいつもどこかに弱気な成分が含まれているが、今日はポジティブで誇らしげだ。
実際あの地獄の状態といっても過言ではない部活を立て直したのは、滝先生だけの功績じゃないだろう。
優しさとか一生懸命さというのは幹部ではなく一般部員に向いた能力だと思っていたが、小笠原部長はその2つを武器に立派に吹奏楽部をまとめてきたと思う。
当初の部活の状態だと、田中先輩のような引っ張っていくタイプでは皆がついていけなかった可能性は高い。
まぁ田中先輩は部長なんて役割をそもそも面倒くさくて遠ざけただけのような気もするが。
そんなことを思っていると、唐突に意識外から声をかけられた。
「すみません! 北宇治高校の大槻さんですよね?」
「えっ? ええ、そうですけど」
振り向いた先に居たのは他校の制服を着た女子だった。
ひとりだけではなく数人居る。仲間で集まって声をかけに来たようだった。
「もしよかったら、一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」
「え? 僕ですか? 僕なんかの写真でいいなら構いませんけど」
「自由曲のソロパート聞いて感動しました! 初めて聞いた曲なのに泣いちゃいました」
「それは……ありがとうございます。練習した甲斐がありました」
なんだかんだ流されて一緒に写真を撮ってしまった。
僕は有名奏者でも芸能人でもないのにこんなこともあるんだな。
高校生独特のノリなのだろうか、よくわからん。
その後も何組か写真依頼があって、しかも中学生らしき子たちも来てしまって、少し帰りのバスに乗り込むのが遅れてしまった。
……
漸くバスに落ち着くことができた。
こういうのは経験がないから疲れたな、帰りは寝ていようかな。
そんなことを思っていると。
「透理くん、なんかモテモテだったね、感想をひとこと」
友惠先輩が妙な絡みをしてきた、しかもいつものような完全に冗談だと分かるような感じと少し雰囲気が違う気がする。
じとーっとしていると言うか、責める雰囲気というか。
「なんですか、僕悪いことしましたか?」
「いやー、先輩として、うぶな後輩が調子に乗ってないか確かめておかなきゃかなーって」
「調子になんて乗ってないですよ。でもこういうのって初めてで、少し嬉しかったですけどね」
すると後ろの座席に座っていた麗奈が、すっとわざわざ身を乗り出してきて会話に加わった。
「透理、顔が酷かった。北宇治の代表として恥ずかしいからちゃんとして」
「顔が酷いって普通に悪口だからね! いいじゃん、演奏頑張ったんだから、ちょっと女子に褒められるくらいいいじゃん!」
僕の主張は、北宇治の女性陣には全く受け入れられなかった。