あがた祭りという息抜きのイベントも終わり、北宇治吹奏楽部はいよいよコンクールに向けた練習モードに突入した。
コンクール曲の楽譜と音源は配布されたばかりということもあり、まだ皆吹きこなせるというレベルにはない。
辛うじて高坂さんが通して無理なく演奏しているくらいだ。
ちなみに僕は個人練習のときは学校の敷地のハズレの高台でひとり吹いている。何故ならここが皆の音から最も遠いところだから。
友惠先輩、滝野先輩、吉沢さんの早期の成長を、部の中で一番願っているのは僕だと思う。
滝先生の指示で全体合奏はまだ一度も実施されていない。
今はパートごとに最低限の演奏を作り上げろということだろう。
まぁパート内で揃ってないうちに無理やり全体合奏なんてしても意味ないしな。
先生の方針には賛成だ。今はとにかく個人とパートのスキルアップに当てる時期なのだ。
と、今日も今日とて屋外で個人練習をしていると、天気模様が怪しくなってきた。
これは仕方ない。少し気は進まないが、パート練習室に戻るとしますか。
「あ、透理くん、おかえり。まだ早いけど、どうしたの?」
中世古先輩、いや香織先輩が声をかけてきた。
香織先輩が僕を呼ぶときに下の名前で呼んでくる。これはどうしたことか。
あがた祭りのあとに友惠先輩と優子先輩とみぞれ先輩のことを下の名前で呼んでいることが発覚したのはまだいい。
しかし香織先輩は何故か途端に不機嫌になってしまい、「皆だけ仲良くなっちゃってずるい、私も下の名前で読んでくれるまで話すことはありません」とだんまりを決め込んでしまったのだ。
これに困ったのは僕である。
優子先輩からは中世古先輩に馴れ馴れしくするとぶっ飛ばす、と明言されているため、にっちもさっちも行かなくなってしまったのだ。
「あの、優子先輩、どうしたらいいですかね」
「……香織先輩って見た目によらず頑固なのよね、今回の感じ、名前で呼ぶまで絶対に引かないと思う……私のことはいいから、名前で呼んであげて」
「あ、はい、ありがとうございます」
「でも香織先輩に邪な心を抱いた日には容赦なくあんたの人生を終わらせる準備はできているから、調子に乗らないことね」
こわぁ……。優子先輩ってホント香織先輩ガチ勢だよな。さすが中世古香織親衛隊隊長。
噂には聞いていてた親衛隊なんて組織がほんとにあるのか疑っていたのだが、実在したのだ。
事実、友惠先輩も親衛隊員とのことだ。女子の組織力は恐ろしい。
そして場面は雨から逃げてパート練習室に戻ったときに移る。
「香織先輩、いや、外で練習してたんですけど、雨が降りそうなんで退避してきました」
「えー! 今日一日晴れ予報だったよね。折り畳み傘持ってきてないよ。どうしよう」
「か、香織先輩、私置き傘があるんで、一緒に帰りませんか? 家まで送りますよ」
「優子ちゃん、助かるけどかなり遠回りになるよね。大丈夫?」
「大丈夫です! 香織先輩のためならどこまででも傘持って付き合いますよ!」
むしろ遠回りで会話の機会が増えるし、密着度が上がる分嬉しいんだろうな。
パート部員は全員が察した。
◇ ◇ ◇
トランペットメンバー全員が揃って個人練習をしているのは実は珍しい光景だ。
それは主に僕が悪臭から逃れるため外に個人練に行くからでもあるが、高坂さんも比較的外でひとりで練習することが多いからだ。
今年の一年生、協調性なさすぎないか?吉沢さんも積極的にコミュニケーションを取るタイプではないし。
「透理くんは、もう通しで吹ける感じ?」
香織先輩が聞いてくる。
「ええ、家でも練習してきましたし、それなりには」
おお、まじかと高坂さん以外のパートメンバーの感嘆の声が上がる。
高坂さんは自分でも通しで吹けるようになっているからなのか、僕なら当然出来るものだと思っているのか、どっちだろう。
「音源はあるんだけど、生で演奏を聞くのはまた違う練習になると思うんだよね。申し訳ないんだけど、皆の前でお手本聞かせてもらえる?」
香織先輩は両手を合わせ、少し頭を傾げ、上目遣いてお願いしてきた。この先輩無自覚にあざといんだよな。
これを断れる男子は居るんだろうか。いやいない。
「僕もお手本と言えるほど全部詰め切ったわけではないので、それで良ければ」
「うん、いいよいいよ! ありがとう。皆もちょっと練習止めて聞いてみよう」
どうやら香織先輩は随分僕の実力を買ってくれているみたいだ。
皆の前で吹いたのは『ロマネスク』一曲だと言うのに、あれが香織先輩の琴線に触れたのだろうか。
皆が集まってくる。特に高坂さんは真剣な雰囲気だ。凡ミスでもしたときにはどんな罵詈雑言が飛んでくるのか。
「じゃあ、吹きますね。課題曲と自由曲両方ともはちょっと長いので、『三日月の舞』だけでも良いですか?」
「うん、それでいいよ、お願い」
……
今まで好き勝手に個人練習をしていた教室が静まり返る。
僕の演奏を聞くためだけにだ。
でも不思議と緊張はしなかった。母親からも「音楽は人に聞かせてこそよ」と言われ続け、それに僕も納得しているからだろうか。
それとも短い期間ながら仲良くさせてもらってるトランペットパートの面々が相手だからか。
「では吹きます」
独りきりの『三日月の舞』を吹き始めた。
……
……
「ご清聴ありがとうございました」
皆真顔で黙っている。
このシチュエーション、見覚えがあるような。
「あの、感想とか指摘とかもらえると嬉しいんですけど」
僕の発言をきっかけとして、わっと声が上がった。
「すごいね! 楽譜配られてからまだ1週間ちょっとなのに、こんなに完成してるなんて」
「あの激むずソロを軽く吹いてる時点で人間じゃないわ」
「いや、あのソロは軽く吹いてなんかないですよ。音階のジャンプがエグくて、何回も失敗しましたよ。今も完璧とは程遠いですし」
いやほんと、あのソロは高校生をターゲットにしていない気がする。
下手したらパートの中では実力派の吉川先輩とかですら、楽譜をなぞること自体できるのかなってレベルだ。
しかも、ソロパートに求められるのは楽譜をそのまま吹くことだけではない。
その先の表現力を絶対に求められる。
僕も今はなんとか楽譜通りに吹けるようになってきて、『三日月の舞』という曲の解釈と、ソロに込められた意味をどう表現できるか模索している段階だ。
一度滝先生にでも相談してみるかな。
「というか、ずっと気になってたんだけど、透理くんの演奏ってボリュームからしてそもそも違うよね」
「それは私も思ってた。すごい大きい音出すのに音割れしたりないし、小さい音もしっかり丁寧に吹けてるし」
「やっぱ男子だと肺活量とか違うのかな」
男子だと肺活量とか腹筋力とかが違うというのはもちろんある。
「筋力とか肺活量で男子が有利ってことは間違いないですよね。でも今の演奏に関しては女子でもこれくらいの音は十分出せると思いますよ。腹筋と、あとは横隔膜の筋力を鍛えれば音量は思った以上に伸びます」
「それっていつもやってる腹式呼吸のトレーニングだけじゃ駄目なの?」
「駄目ではないんですけど……例えば野球のピッチャーが腕の筋肉を鍛えるときに、ボールを投げるだけで他のトレーニングをしないのかって話で」
当然そんなことはない。
ボールを投げる以上の負荷をかけるチューブトレーニング、周辺の筋肉を鍛える様々なウェイトトレーニングをするだろう。
「だから、最大音量を上げたいなら、息を吹く、楽器を吹くという以上の負荷を筋肉に与えるのが効率がいいんですよ。まぁ怪我のリスクも上がるので慎重にやらなきゃいけないんですけど」
「筋力かー。大事だって分かってるけどどうしてもサボっちゃうんだよね。それよりも楽器吹いてたほうが楽しいし」
「まぁ楽器吹いてれば自然に必要な筋力はつくんですけどね。効率の問題ってだけですよ。ちなみに吹奏楽の筋トレ器具はうちの店でも扱ってるので良ければ買ってください」
「最後は自分の店の営業で締めって、途端に信頼度低くなったよ」