過去の失恋を引きずる高校中退ソロギタリストの喜多が、トラウマを抱えた無名の天才作曲家の後藤ひとりに恋するお話
0.銀座のバンドマン
銀座のネオンは、遠くから見ると宝石みたいにきらきらしている。けど近づいてみれば、それはただのLED。消費されて、またすぐに更新される、使い捨ての光。誰かの手垢と欲望で曇ったガラスの向こうで、笑ってるマネキンみたいな街だ。
でも私はそんなこの場所が嫌いじゃない。
スーツの男たちが、酔った足取りでふらつきながら通り過ぎていく。クラブの黒服が、腰の低い笑顔でドアを開ける。タクシーのテールランプが、濡れたアスファルトを赤く染めて、そのまま遠ざかっていく。どれもきれいだけど、どれも冷たい。
ああ、今日も銀座は、ちゃんと銀座だなって思う。
「……ねぇ、郁代。火持ってる?」
振り返ると、リョウ先輩がいた。
相変わらずの無表情で、でもどこか疲れたように笑ってる。
「先輩、タバコ吸わないって言ってませんでしたっけ?」
「うん。でも今日は吸いたい気分」
「ええ……私、持ってないですよ。吸いませんから」
「…知ってた」
言いながら、リョウ先輩は隣に腰を下ろした。
ライブハウスの裏の階段。タバコの吸い殻と空き缶が散らばる、ミュージシャンの喫煙所。
私はここでよくギターの弦を張り替える。今夜もそうしていた。
「どうだった?」
「ライブはまあ、普通……いや、ちょっと、うまくいったかもしれません」
「ふーん。じゃあ、虹夏もきっと喜んでるね」
虹夏。伊地知虹夏先輩。
リョウ先輩の彼女で、私のかつてのバンドの先輩。優しくて、賢くて、あの人がいなかったら、私は音楽なんて続けられてなかった。バンドを解散した今も伊地知先輩が経営するこの銀座のライブハウスでお世話になっている。
「……ねぇ、リョウ先輩」
「なに」
「浮気、やめないんですか?」
私は覗き込むような目で先輩に尋ねた。
「やめたいよ。でも、無理」
なんでなの?そう私が聞くまでもなく、察してよと先輩の目は訴えていた。
「最低ですね」
「でしょ」
自嘲気味に笑ってるけど、目が笑ってない。私もけらけらと笑ってみせるけど、心のどこかで苛立ちがくすぶってる。虹夏先輩を愛してるのに、付き合ってるのに他の人に逃げるなんて本当に最低だ。しかもやめられないその浮気の相手にすら愛なんてなくって、使い捨ての道具ぐらいにしか思ってないんだろう。
リョウ先輩は、ずっとそうだ。
自分の感情を音で表すのはバツグンなくせして言葉にするのは下手くそで。人の心に踏み込むくせに、踏み込んだ後ちゃんと責任は取らない。
それでも、私が最初にギターを持ったのは、リョウ先輩に憧れたからだった。高校の時、一目惚れだった。街灯に照らされて路上ライブしていた先輩。音にも、顔にも、雰囲気全てに恋をした。あんな風になりたくて、私はステージに立った。
だけど、この人は虹夏先輩が好きで、しかもそのくせ他の女の人と寝るような人だった。私の気なんて知りもせず。もう、そういう人なんだって、わかってる。わかってるのに、会えばまた振り回される。未練じゃない。勘違いの恋なんて割り切って、捨て切ってる。ただ、距離の取り方がわからないだけ。
「郁代、これあげる」
そう言って、リョウ先輩がポケットからひとつのカセットテープを取り出した。使い込まれた黒いケース。インデックスの部分に、ボールペンで雑にこう書かれていた。
「Hitori Goto × Ryo Yamada / 2019」
「これ……?」
「昔、ぼっちと一緒に作ったやつ。ふざけて録ったデモ。再生するならウォークマン買って」
「ええ……?というか、ぼっちって??」
「そこに書いてる後藤ひとりのこと。今は引きこもってるけど、間違いなく天才だよ。新曲行き詰まってるって言ってたから」
「へえ……」
カセットの表面を親指でなぞる。
こんな時代に、まだカセットを渡してくるなんて、ほんとこの人の逆ばったセンスは変わらない。でも、初めて見るのにどこか懐かしくて、少しだけ胸が温かくなる。
「ありがとうございます。まあ参考程度に」
「丸コピしてもいいんだよ。どうせ世に出ずに埋もれてた失敗作だから」
先輩はケラケラ笑いながらそう言った。短いやりとりだった。リョウ先輩が立ち上がる。肩越しに、振り返りもせず手をひらひらと振る。私はそれを見送って、またギターの弦を締め直す。
そのとき、風が吹いた。
ビルの谷間をすり抜けて、私の髪をなでるように。ちょっとだけ寒い。ちょっとだけ、泣きたくなった。
銀座のネオンは、いつも誰かの涙を隠してる、みたいな歌詞を思いついたけど、私の涙も、その誰かに含まれてるわけで。そんな安っぽい歌歌っても自虐にしかならないなと思ってやめた。
ギターを抱えて、立ち上がる。
明日もライブだ。別に武道館を目指してるわけじゃない。せいぜい今日よりも、うまく弾けるといい。少しでも、前に進めるといい。
だけど今夜は、ただ、先輩から貰ったカセットを再生してみようと思った。先輩が何かくれることなんて滅多いないから。
それが、後藤ひとりの旋律と出会った、最初の夜だった。
1.回るカセットテープ
銀座の裏通りは、表通りより静かで暗い。ネオンの影、濡れた舗道、タバコのにおい。人がいるのに、誰もこちらを見ない。私はそういうところが、結構嫌いじゃなかったりする。
その日も、小さなライブハウスでの客演を終えて、ギターケースを背負ったまま歩いていた。
わざわざ混んでる通りを避けたわけじゃない。信号を一つ逃して、曲がった先に、たまたまこの路地があった。ただ、それだけ。
「——わっ、ごめんなさいっ」
ぶつかる瞬間って、意外と音がしない。ずいぶん呆気ないものだ。でも何かを落としたときの音は、よく響く。大量の硬質なものがバラバラと地面に転がる音がした。
目の前に、カセットテープが散らばっていた。数にして十数本。どれも黒いケースに、白いラベル。手書きの文字が、小さく書いてある。そのうちの幾つかが目に止まった。
“#007_あのバンド”
“#009_小さな海”
“#013_フラッシュバッカー”
比較的新しい。しかも、なんて量。私が慌ててしゃがみこむと、相手の女の子も同じく、何も言わずに地面へと手を伸ばしていた。
帽子を深くかぶっていて、顔はほとんど見えない。黒いコート、斜めがけの帆布バッグ。その口が大きく開いていて、中にさらに何本かカセットが見えていた。なんとなく、普通じゃない感じがした。でも私の手は止まらずに、反射的にテープを拾っていた。
「……すごい数だね、これ」
返事はない。
女の子は、うつむいたままひとつずつ丁寧に拾い上げている。
私の指先が、彼女の指にふれた。その子の手は、氷みたいに硬くて冷たかった。それだけで、なぜか胸の奥がきゅっと締まった。
全部拾い終えると、女の子は静かにバッグの口を締めた。そのとき、帽子のつばが少しだけ動いて、彼女の横顔が、ちらりと見えた。
細い鼻筋、白い肌、透き通ったようなまつげ。
え、ちょっと待って。なにこの顔。
——可愛い、とかじゃない。綺麗すぎる。静止画みたいな輪郭と、息を呑むレベルの横顔。何より大きくてぱっちりとした目。一瞬、心臓が変なリズムで跳ねた。でも、彼女はすぐに顔をそらしてしまった。恥じらいというより、自分の顔なんて見せられないというふうに。帽子の位置を直して、また何も言わずに立ち上がった。その仕草に、妙な整然さがあった。まるで、自分の存在を見せないための動きだった。
「ごめん、私、周り見てなくて……本当に、ぶつかってごめんね」
そう言った私の声にも、彼女は何も返さなかった。軽く会釈するように頭を下げ、そしてそのまま走り去っていった。歩幅は小さいのに、遠ざかるのがやけに早く感じられた。
そのあとに、何も残らなかった。
……いや、一つだけ。
コートのポケットに何かが入っている感触があって、手を突っ込むと、そこに一つだけ——カセットテープがあった。たぶん拾い損ねて、私のポケットに入ってしまったのだろう。
“#002_ひとりぼっち東京”
しばらく、どうしたものかと考えながらそのテープを手のひらで転がしていた。表面のすれ、インデックスの紙の端の折れ曲がり。ラベルも貼っていない。録音時間も書いてない。フォーマルな感じはしないけどでも、何かが詰まっている感じがした。私はそのままテープを、ギターケースの外ポケットに滑り込ませた。深い意味なんてない。ただ、なんとなく。
ただの偶然。名前も知らない女の子。綺麗な横顔と、大量のカセットと、返ってこなかった言葉。その夜のことは、きっとすぐに忘れる。そう思っていた。
夜、ふと何でもいいから音を聴きたくなるときがある。誰かと話す気にもなれず、SNSを見るのもだるくて、風呂も入ってない、寝る気もない。けど、満ち足りなくて、なにか聴きたい。なにかに触れていたい。その日の私は、まさにそんな夜だった。
ケースのポケットからカセットテープを取り出す。あの裏通りで拾ったやつ。黒いボディに、白い細字の手書き。
“#002_ひとりぼっち東京”
古いデッキを押し入れから出して、イヤホンを差して、巻き戻しを確認して再生ボタンを押す。
最初は、ザアザアという雑音だった。マイクをオンにしたままカセットを入れたときのような「カチャ」っていう機械音。そのあと、少しの無音。長い。5秒……いや、10秒以上。
そして聞こえて来たのは誰かの苦しそうな吐息だった。震えていて、はっきりしなくて、かすれていて、それでも“歌おうとしてる”ことだけはわかった。
ギターが入る。
コードが途切れ途切れで、リズムもまともに刻めてない。アルペジオはおぼつかなく、何度も同じ弦を弾き直していた。Bメロの切り替えで一瞬、完全に止まった。そして、息を吸う音だけが、イヤホン越しに刺さってきた。
これはーー上手くない。
明らかに“ちゃんとした演奏”ではなかった。ただなんとかかろうじて音を出せているに過ぎない。ギターを持つ手や喉の過剰な震えがこちらにまで伝わってくる。そう言う点で初心者にすらなれていない。でも、途中で止める気にもならなかった。むしろ、手がイヤホンコードに触れるのも怖くなっていた。
しだいに、私はその曲に震えた。不安定なギターに、明らかに不器用な歌声。だけど、そのすべてが一つの“構成”として意味を持っているように聞こえた。コードの進行は奇妙だった。メジャーとマイナーを行き来しながら、決して王道のメロディラインに乗らない。でもそれが、不思議と破綻しない。むしろ、異様なほど、完成されている。欠けているのに、できすぎている。
——なんなの、これ
私はイヤホンをぎゅっと耳に押し込んだ。1コーラスが終わる頃、ギターの音はだんだん歪んできた。ピックの角度が狂っているのか、コードが途切れて、次の音がまるで“遅れている”ように感じられる。なのに、テンポはズレていない。まるで、わざとそういう曲に仕上げたようだった。
そのままフェードアウト。ノイズとカチャという音と共に録音が終わる。私は、デッキの停止ボタンを押せなかった。しばらくそのまま、静寂の中で呼吸の音だけを聴いていた。
うまくない。
むしろ、全体的には“失敗作”にすら見える。でも——これは間違いなく、知ってる人間の音だ。音の暗い場所を、喪失感を、行き場のない感情を。そういう不完全な人間の音だ。
私の胸の奥に、静かに熱いものがじわりと染み込んでいた。誰の音か、まだ知らない。けど、私はこの音を、どうしても見過ごせない気がした。
この人の、ちゃんとした曲が聴きたい。弾いていいなら、弾いてみたい。合わせてみたい。むしろ、私のものにしたい。リョウ先輩やギターと出会った時以来の、言葉にならない衝動だけが、部屋の空気を熱くしていた。
数日ぶりに、銀座のライブハウスに顔を出した。今日は何の予定もなかったけど、ふと、誰かと話したい気分だった。
店の奥の、カウンター脇の椅子にリョウ先輩が座っていた。コーヒーじゃなくて、ジンジャーエール。瓶のまま、ラベルが半分剥がれている。
「あれ、珍しい。ノンアルですか」
「昼だからね」
あいかわらずぶっきらぼうで、あいかわらずちゃんと話は聞いてくれる人。私は、何かの前触れみたいに、ポケットからあのカセットを取り出した。無地の黒いケース。白い紙に、手書きのタイトル。リョウ先輩の目が、ほんの少しだけ動いた。
「これ、先輩が前にくれたやつと、似てません?」
「似てるって、どういうこと」
「コードの進行とか、雰囲気とか。たぶん、声も。……もしかしてこれ、同じ人のですか?」
リョウ先輩は、瓶の口をひとくち含んでから、そのカセットテープを舐め回すように注意深く眺め、しばらくしてから軽くうなずいた。
「……当たり。たぶんそれ、ぼっちの曲だよ」
「ぼっちって……前に言ってたあの“ぼっち”?」
「うん。ぼっち。後藤ひとり」
私は、指先の中にあるカセットの重みが変わった気がした。音だけが知っていた人に、やっと名前がついた。
「偶然、拾ったんです。裏通りでぶつかって。名前も聞けなくて、でもこの曲聴いたとき、なんか変な感じがして。妙に頭に染み入ってくるっていうか」
「そういう曲、あいつにしか作れないよ」
そう言ったリョウ先輩の声には、少しだけ嫌味っぽさと遠さがあった。
「先輩、なんでこの子のこと、私に?」
「郁代なら、ちゃんと聴けると思ったから」
「聴く?」
「音だけじゃなくて。人を」
私は何も言えなくなった。相変わらず先輩はたまに意味深で難しいことを言う。コップの氷がひとつ、グラスに当たって音を立てた。
「……ねぇ、先輩。この子、何者なんですか?」
リョウ先輩は、しばらく黙ってから答えた。ジンのグラスを揺らしながら、リョウ先輩はぽつりと話し始めた。昼間の静かな店内。
「高校のとき、後輩だったんだ。私より二つ下。すごいコミュ症で自分からはほとんど話さないけど、人の音だけはよく聴いてた。あとギター、すごく上手かった。……私のベースより。でも、あるときから全然触らなくなった」
私は黙って、氷がグラスの底に当たる音を聞いていた。リョウ先輩の横顔は変わらず無表情で、でもほんの少し、語尾が曇っていた。自信家の先輩が自分より上手かったなんていうぐらいだから相当な腕前だったに違いない。
「理由は……まあ、いろいろ。そういうことがあってそれからは、ずっと作曲だけ。誰かと組むわけでもなく、ひとりで音を作り続けてる」
「ひとりで?じゃあ……あのカセットも?」
「あいつの部屋には、何百本とあるよ。手で録ってる。スマホに録音するより味が出て、CD作るよりお手軽なんだって。譜面も書かないしね。完成したカセットには手書きで番号と題名が振ってる。誰に渡すつもりもなくて、でも、止められないみたいに変な曲作ってるよ」
「私は後藤さんの曲、好きですよ」
リョウ先輩は一度目を閉じてやれやれと首をふると、そして「それ聞いたらきっと喜ぶよ」とだけ答えた。
それから、私はリョウ先輩に頼んで、後藤さんに会わせてもらうことになった。自分が彼女に会って何を言いたいのか定まっていなかったのだが、あのカセットに命を吹き込んだ人に会えると思うだけで胸が躍った。
結果から言うと、見事にすっぽかされた。約束の2時間後になってようやく私はそのことに気がついた。なんとなくこういうこともあるだろうなとは思っていたが、その日は結構張り切ってお洒落して行ったからがっくりと来た。それからリョウさんに、再び頼むも、2度3度と待ちぼうけを食らうことになった。そうしてようやくそのカセットテープの製作者に会えたのは4度目のことだった。
その日の彼女との待ち合わせの店は、銀座の裏通りにある、小さなカフェだった。木の扉を開けたとき、カップと皿がこすれる音が、控えめに耳に届いた。窓際の席に、彼女はもう座っていた。
黒い帽子。グラスの水には手をつけていない。間違いなくあの時の路地の女の子だ。長く伸びたストレートの髪と、病的に白い肌。こちらを覗き込む大きな目。やっぱりドキドキするし、綺麗な人だなと思う。
しかしうつむき加減な猫背の姿はどこかこの空間に彼女だけ居場所を持ててないようだった。彼女の座り方には彼女自身を小さく見せるような雰囲気があった。
私は、ゆっくりと椅子を引いた。
「こんにちは。お時間頂きありがとうございます」
後藤さんは、小さくうなずいただけだった。「私は喜多郁代で、ソロでギターをやっててーー」と軽く挨拶を済ませると私は何度もリハーサルした言葉を、なるべくそのまま簡潔に口にした。
「私にあなたの曲を歌わせてほしいんです」
沈黙が落ちた。
私の心臓はかつてないほど躍動していた。生まれてこの方緊張したことなんてなかったけのに、自分の声が裏返ってないか、言葉遣いが変じゃないかとか、先に自己紹介するべきなんじゃなかったのかとか、かつてないほど頭の中がカセットのテープが回るみたいにぐるぐるしていた。
彼女は顔を上げて、私の目を見た。その目には、迷いも拒絶もなかった。でも、明らかな“距離”があった。まるで目を合わせているのに、触れない膜が1枚挟まっているような。
「……お好きにどうぞ」
「それって…楽曲提供してくれるってことで合ってる?」
後藤さんはどうでもいいかのように、首を縦に振った。でも、私は胸が詰まるような感覚を覚えた。うれしい、というより、苦しかった。彼女の了承が、あまりにも、感情を持たない返事だったから。まだ反発されたほうがマシに思えるぐらい、無機質で無関心で。
そして、後藤さんは小さく呟いた。
「……どうせ、誰にもわかりませんから」
その言葉が落ちた瞬間、私は何も言えなくなった。まるで、自分が見透かされたような気がした。
“あなたも、どうせ理解できない”
そんな意味に聞こえてしまって、でもそれを否定できるほど私は彼女のことをまだ知らない。
もちろん、初めからとんとん拍子で気が合って笑いながら曲について語れるなんて思っていなかった。私たちは初対面だから。けれど、ここまできっぱりと諦められることがあるんだなと素直に驚いた。ショックなのか?もちろん可愛い女の子に心から突き放されるのはショックではあった。しかしそれ以上に反論できない自分が悔しかった。
それでも、私はカセットを差し出す彼女の手を、ちゃんと受け取った。小さな、白いカセットと無地のラベル。“#010_なにが悪い”という文字だけが、黒インクで手書きされていた。
「ありがとうね」
私がそう微笑むと、彼女はまた、小さくうなずいた。その目に、微かな戸惑いと、ほんの少しだけ、手放すような安堵が混じっていた。不信と不理解で満ちた私たちの出会いはあまり良いものではなかった。後藤さんは勝手に感動して勝手に関わってくる私に怯えていたんだと思う。対して私は寛容さのカケラも見えない彼女の不器用な態度にもやもやしていた。
「なんなの!?あれ!!」
帰宅すると、ソファにどすん、とお尻を預け、ヘッドフォンを耳に当て、ギターを腰に携えて彼女の曲に耳をすませた。むかむかするときはとりえず楽器に触るべきだ。ギターで音を取りながら、雑ではあるけれど形にしていく。テープと共に渡された歌詞カードを眺めながら。そうして私は結局感動してしまう。向かいあうとあんなに壁があるのに、曲で繋がる間は身も心もあの子と一つに溶け合う。現実と感覚世界のギャップに私は目眩がした。
「….認められてないって、つらいなあ」
と誰に言うでもなく呟いた。
いや、違う。あの曲を聴いた時に感じたのは認められるかとかそんなんじゃない。私がやるべきなのは好きなものに突っ走ることだ。私はバンドマンでしょ、と自分の頬を叩き、書きかけの譜面に目を向けた。
もしこの気持ちを指に乗せられることができたら何が見えるんだろう。一晩中ピックをパチパチ鳴らしながらそう思った。
ライブ当日。
ステージのライトが当たると、いつも空気がひとつ、別の場所になる。客席が暗くなるぶん、こちらだけが切り取られる。まるで誰にも触れられない水槽の中に立たされるみたいに。マイクの前に立つと、呼吸の仕方一つにしても変わってしまう。私はシールドをアンプに繋げ、ボリュームを上げた。
そして、この声で、後藤さんの曲を届ける。ただそれだけが、今夜の唯一の目的だった。
客は30人ほど。満席にはほど遠いが、それでも何人かは前の方でじっとこちらを見ていた。私は一度だけ客席を見て、それから視線を奥に送った。
後藤さんは、壁際に立っていた。
照明が当たらない位置で、誰にも気づかれないように、まるで観客ではなく、私をテストするためにそこに立っているように。分かっている。これは私を試すための彼女なりの儀式なんだ。実力で認めてもらわないことには、どこにもいけない。
あの日彼女はわかってもらえないなんて言ってたけど、カセットを渡したってことは、わずかに期待してくれたんじゃないかなって。なら私がすべきなのは期待を超えることだけだ。
『今日もよろしくお願いしまーす!』
と簡単にMCを済ませると、今一度深呼吸をして、指を鳴らした。
曲が始まると、全身の神経を尖らせた。
コードを鳴らし始める。自分でもわかるくらい、体が固い。けれど一度メロディに乗ったら、少しずつ音が自分の中に入ってきて、身体と空気が溶け込んできた。
そして歌いながら、弦を弾きながら、ずっとあることを思い出していた。
——リョウ先輩。
なぜ今あの人のことを思い出すのか分からない。しかし唐突に否応なく頭の中にあの人の姿が描かれていく。
高校生の頃、初めて彼女に出会った日のこと。あの冷たくてかっこよくて、口数の少ない先輩に憧れて、路上ライブですましたベースを弾く姿に見惚れて、ずっと追いかけていた。私も、あんなふうに音の中で生きてみたくて、ギターを始めて、家出してこの街でバンドマンになった。
でも、先輩には彼女がいた。伊地知先輩。それを知ったのは、しばらくしてからだった。優しくて、明るくて、リョウ先輩が微笑むときはいつもそばにいた人。
私じゃなかった。
そのあと、浮気現場に遭遇した夜のことは、今でもはっきり覚えている。
噴水がある夜の広場で街頭に照らされながら、伊地知先輩じゃない誰か知らないショートヘアの女の子と、リョウ先輩がキスしていた。
どうして?
って思った。
——私は、なにを好きだったんだろうって。
それから少しずつ、先輩を“好き”って思えなくなった。あの人の曲もだんだん売れ筋に寄せていってて、実際売れたけど私は聞かなくなった。それでも、バンドを続けていたのは、きっと、まだどこかで恋に恋した自分を捨てられなかったから。
あれ、なんで私後藤さんの曲を歌いながらこんなこと思い出してんだろう。
でも、不思議だった。思い出したのに、痛くなかった。悲しくなかった。声にしているその瞬間だけ、過去も全部、ただの風景になった。
聴いてほしい。この言葉にしづらい感情を。孤独な私が誰にも言えない感情を。誰かに届いてほしいと思って声を捻り出した。びりびりとライブハウスを震わせていたのは間違いなく私だった。途中あの子と目があった。後藤さんは口を開けて目を丸くしていた。私はますますマイクに齧り付くように声を上げた。
気づいて。私を理解して。ってヒステリックに叫ぶように。
最後のフレーズを歌い終えたとき、私は確かに、誰かの感情じゃなく、自分の中の何かを届けていた。拍手があったのかどうかは覚えていない。ただ、ステージの灯りが落ちたあとも、私は震えてその場からしばらく動けず、荒い息を天井に溢していた。そして確信していた。やっぱり、後藤さんの音楽は私と相性抜群だ。彼女の曲は私のこころの突起のようなものを見つけ出して、曝け出させてくれる。杖か補聴器か、ともかく私はもう、おそらく後藤さんの曲なしでは生きていけなくなっていた。
ライブ終わり、暗くなった空の下に後藤さんがいた。こんばんわ、といったけれど返事はない。自販機にもたれたまま、静かにこちらを見ていた。何かを言いかけたように見えたけど、言葉は出てこなかった。彼女は暫く気まずそうな目を私に向けていた。何か言いたげで、でも何を言えばいいか分からないような。
なので私の方から先に、話した。
「どうだった?私の演奏。ギターはあんまり自慢できないけど、歌声は悪くないでしょ」
「……」
「これでもこの辺だと結構人気なのよ、私。まあそれで生活が安定してる訳じゃないんだけど…」
私はあはは、と自嘲気味に笑った。そして手の中のペットボトルを弄ると身体を彼女の方に向けて言った。
「あのね、後藤さん。貴女が言うように私、あなたのこと、まだ何も分かってないの」
息がうまく整っていなかったから、声が少しかすれた。それでも、続きを言った。
「いきなり『貴女の曲を使わせてほしい』だなんて頼んでごめんね。後藤さんが人前に自分の曲を晒すのに積極的じゃなかったのは分かってる。リョウ先輩から貴女がたくさん作曲してること知ったけど、どこにも出回ってなかったから、あんまり聞かれたくないものだったんじゃないかなって。でも私、あなたの曲を聴いた時、ある日からずうっと石像みたいに固まったてた心が動いたの。安っぽくて信じられないかもしれないけど、本当に。私達会って間も無くて、性格も真逆だけど、でもたぶんこの街で一人ぼっちなのは一緒なんじゃないかなって。後藤さんの曲聴いてるとこう、胸のあたりがしんとするの。今の私、友達も家族もいないし、リョウ先輩とは…よく分かんない関係のままだし、この街に来ていい人間関係が築けた試しなんてないに等しいけど、私貴女とならうまくやれる気がする」
私はまっすぐと後藤さんの目を見据えて言った。後藤さんは、ほんの一瞬だけ目を伏せて、それから顔を上げた。その目には、まだ何も浮かんでいなかった。でも、あの時みたいな拒絶もしてなかった。それで十分だった。私はそのまま、水を一口飲んで、荷物をまとめ始めた。
じゃあね、と言って夜道を渡り始める直前、背中越しに彼女の声が聞こえた。小さな、聞き間違えてしまいそうなくらいの声。
「……あ、あのっ」
思わず私は振り返った。
「.....あなたには分からない、なんて言って.....すみませんでした」
そう言って深々と頭を下げ、
「また弾いてください。その、私の歌」
と。
後藤さんはすっと目を逸らしたけど、私は今度はにっこりと微笑んだ。すると後藤さんは恥ずかしがるようにてくてくと走り去っていった。その時、私の中で純粋な嬉しさが込み上げて来て、思わず「やたっ!」と手をグーにして言っていた。ギグバッグを背負ってステップで帰る、その日の夜道は少しだけ明るく澄んだように見えた。
それからの半年は、静かだった。事件はなかった。ドラマチックな喧嘩も、涙を流すような別れもなかった。でも、毎週必ずあの子と会うというだけで、人生は少しずつ色を帯びて行った。
あのライブ以来週に一度か、二度。曲の確認、レコーディング、外出、資料集め。時にはただ2人でお出かけするだけの日もあった。後藤さんはどうやらえらく私を気に入ってくれたみたいだった。
まず分かったのは、後藤さんは体力がなかった。スタジオの階段を昇っただけで息が上がるし、コンビニでレジが混んでいると立ちくらみを起こす。人混みも極端に苦手で、ライブの打ち合わせでカフェが混んでいると、
「……また今度にしませんか」と言い出すことも度々あった。
そんな彼女をお構いなしに、手を引っ張ってちょっとだけ、先に進んで見せる。すると、後藤さんはひいひい言いながらも安心したように、数歩後ろをついてきてくれた。
また、彼女の趣味は偏っていた。古着屋に入るとどこから取って来たんだというような、中学生男子が着るような変な服を持ってくる。洒落たカフェに入ってエナドリはありませんかなんて真顔で言い出す。
音楽は意外と流行りのやつを聴いていた。でも「それとこれとは関係ない」と言い張って、自分の曲の参考にはしないらしい。そのセンスが私にはよく分からなかった。
ナンパされると、素早く私の背中に隠れる。
「……き、きき喜多さん助けて」と小声で言う。あまりにも唐突で、想像以上に弱々しくて、それ以上に縮こまってるのが可愛らしくてこっちは笑いをこらえるのに必死だった。
でも、そんな彼女を知るたびどんどん人として好きになっていった。音だけで知り合ったはずの人と、日々の中で交わっていく。名前を呼び合わなくても、目の動きひとつで、あ、今喜んでるな、なんてだいたいの気分や考えが分かるようになった。初対面の時の、感情が分かりにくい、ちょっと怖かった印象はもう何処かに消えていた。
そして、音楽もまた、変化した。彼女の作る曲は少しずつ、温度を帯びてきた。痛みを孕んでいるのは変わらないけれど、その痛みが“誰かに渡すため”の形をしていった。私は、声を出すたびに、自分の中にひとつひとつ新しい感情が増えていく気がしていた。
後藤さんは週に3、4曲近くのペースで曲を作り続けた。彼女にとって音楽は息をすることと同じなのだとでも言うように。聴いてみるとそのどれもが癖があって、改めて彼女は天才なんだなと思った。
レコーディングは順調だった。
自宅の一室を改装した簡易スタジオと、ツテを使った夜間録音。いくつかの候補曲が完成し、曲順が決まり、ミックスを終えたとき、私たちは、無言で握手をした。
「じゃ、あとはジャケットだけね」
「喜多さんの、手書きでどうですか?」
「私が?」
「はい。……きっと、きれいになるので」
そう言われてしまうと、困ったことに断れなかった。
リリースは、控えめだった。
知人のデザイナーが作ったシンプルな特設ページと、都内数店舗への委託。SNSで投稿したのは、音源の一部と、手書きジャケットの写真だけ。
なのに、それは、異様な広がり方をした。
誰かが動画サイトに載せた。
誰かが歌詞をタイピングして、引用した。
誰かがラジオで話題に出した。
気づいたら色んなレコード会社から声がかかってきて、まるで嘘みたいにトントン拍子で上手く行った。気づけば、私達の名前が、ネット中で何度も見かけるようになっていた。
「これ、もしかしてかなり売れてる?いつも通りマイナーな身内ネタの曲になると思ってたけど」
「ちょっと……すごいのかもしれません。き、喜多さん、この間街中で話しかけられてましたし」
「あれはただのナンパね」
ふたりでキッチンに並びながら、その話をした夜、おそろいのマグカップを握りながら後藤さんはぽつりと呟いた。
「私…誰かに聴かれても、何も変わらないと思ってました。だって、理解されるわけないって思ってたから……」
「でも、少なくとも私は変わったわよ」
それから、私は少し考えて尋ねた。
「あ。もしかして、売れたのが嬉しかったの?」
後藤さんは、私の横顔を見て、唇をモゴモゴさせるだけで何も言わなかった。
尖った人間ぶってるのに売れるとか売れないとか気にしてたって思われるのが恥ずかしかったみたいで。でもその目は、以前より少しだけ柔らかく見えた。
そういえば、と私はずっと前から気がかりだったことを訊いた。
「そういえばリョウ先輩とはどういう関係なの?」
「どうって、、付き合いの長い友達…いや仲間?ですかね。趣味は合うけど、たまに音楽の話するくらいですし」
「大丈夫?何か変なことされてない?」
「??いえ」
それを聞いて私はほっとした。
「……なんで、そんな心配するんですか?」
本気で不思議そうな顔だった。
キョトンとした表情がとても可愛くて、さらにそれを自覚してなさそうなのがいっそう腹立たしかった。私は赤くなりながら何でもないとごまかした。
なぜか分からないけど後藤さんが先輩の毒牙にかかっているんじゃないかと思うと、なんとなく嫌だった。
ただひとつ確かなのは、後藤さんが私にとってただの知り合い同業者でも、単なる友達でもなくなりつつあったということだ。
横紙をくるくるといじりながら私はそう思った。
2.マイ・マザー
グラスの中で、氷がゆっくりと音を立てていた。照明の落ちた小さなバー。天井のファンが回るたび、テーブルの影が少しずつずれていく。薄いジャズピアノと、カウンター奥のバーテンダーの気配が、遠くでゆれている。
「まさかさ、喜多がSpotifyのトップページに出る日が来るとは思わなかったわ」
向かいに座るさっつー、佐々木は、グラスをくるくる回しながらいたずらっぽく笑った。久々に再会したけど口ぶりはいつもの軽さだ。でも、本気で喜んでいるような目をしている。
会ったのはついさっき、偶然。食料の買い出しに行ったものの近くのスーパーが閉まってて、少し離れたところに車で行ったらばったり会った。お互い顔つきが変わってないみたいで一目でわかった。
「高校の時、あんた、ベースとギター買い間違えてもう無理とか言ってたのに今じゃ銀座の有名人でしょ? 立派になったもんだなー」
「やめてよ。あの時のことからかわれると今でも目眩がするんだけど」
そう言いながら、照れ隠しのようにグラスに口をつけた。顔が赤くなっていないか心配だったが指摘してこないさっつーに安心した。
「でもほんと、最近名前よく見るよ。イソスタでも回ってくるし、大学の後輩も知ってた。“この人、昔あたしの親友だったんだよ”って言ったらさ、めっちゃびっくりされた。そしたら今度はどんな人って聞かれるもんだから…まあ質問攻めの嵐だよ」
「なんて答えたのよ」
「別に。性格はいいけどたまにぶっとんだ行動するやつって言ったよ」
「…ねぇ、実際さっつーから見て私ってどんなキャラだったの?」
「うーん、きらきらしてたけど、喜多は“バンドなんて無理無理!”って言ってた、わりと真面目な子だったかな?あー、あと近況聞いてると人付き合い悪いらしいけど昔はものすごく人当たり良かった。まーだから中退とか家出とかのときは驚いたわな。あんた全く相談もなしに消えたんだからみんなびっくりしてたよ。なんでかその後全員と連絡断ってるし。アンタのファン、女子もいたんだけどわんわん泣いてたぞ」
笑いながら言われたけど、私は返事をしなかった。その“無理無理”と言っていた自分を、今でも少し覚えている。自信がなくて、怖くて、でも憧れて——それでも、リョウ先輩に惹かれて、変わりたくて身の回りのしがらみ全部を捨てた。そこから始まったすべてを、たとえ旧友でも今さら簡単には語れなかった。
「さっつーは大学?どこ行ったのよ」
「うーん。指定校でそこらの私立。経済学部ね。まあテキトーにキャンパスライフ楽しんでるよ」
私はふーんと言った。キャンパスライフ。その軽やかな響きが少しだけ羨ましかった。
「私はそんな語るほどのことないって」
「そんなことないわよ。私なんて中卒よ?中卒。セーシュンとかガクエンセーカツとかすごい気になる」
次の曲はそういう系にしてもらおうかなとぼやくとさっつーはけらけらと笑った。
「私みたいなのなんてどこにもいるって。それより人気バンドマンの話の方が知りたいわ」
「いいけど…」
「で? 今はさ、その……後藤さん、だっけ? 曲担当してる女の人」
「……うん」
「ふーん……それで?」
「なにが」
「いや、“それで”よ。で、どうなの? その人とは」
グラスの中で氷が動く音を聞きながら、小さく黙った。言葉を探すように口を開きかけて、でも閉じる。それを数秒くり返して、ようやく小さな声で言った。
「……変わってる人、だよ。同い年ですごく才能があるのに自信なさげで、オドオドしてて性格真逆で……でも優しくて真っ直ぐで」
「それだけ?」
「……あ、あと、すごく音楽に対して熱心で。よく周りを見てて……。それと……顔が、すごくきれい」
「ん?」
さっつーの顔が、にやりと笑った。私ははっとして、慌てて言い直す。
「ち、ちがうの! そ、そっちの意味じゃなくて、あの、顔の話じゃなくて、音の話でっ……!」
「あーーー。はいはい。はいはいはい、なるほどなるほど。そういうことね」
「な、なんで!? なに想像してるか知らないけどそういうんじゃないもん!!」
顔が一気に赤くなった。
目を泳がせてグラスをいじり、声は段々裏返っていく。どうどうと言い、さっつーは笑いをこらえながら、スッと背もたれに凭れた。
「いや〜、変わってないなぁ、喜多は。顔のいい女にとことんちょろい。口では“そういうんじゃない”って言いながら、表情がぜんぶ語ってるもん。よーするに惚れたんだろ?そのゴトーさんに」
私は何か言い返そうとして、何も言えなかった。「惚れた」って言葉が、ストレートすぎて。でも、“違う”とも言い切れなくて。だって、後藤さんの曲を歌っていると、心が満たされて、
後藤さんの姿を見ていると、胸が苦しくなる。それが恋かどうかはわからないけれど、そうでなかったとしても、もう十分に特別だった。
だから、グラスの縁をなぞるようにして、ぽつりと呟いた。
「あの人の音が好きなんだってば」
その言葉には、嘘がひとつも混じっていなかった。さっつーはそれを聞いて、なにも言わずに笑った。
ただ一言、
「そっか」
とだけ言って、グラスをコツンと私のグラスにぶつけた。学生時代、お互いのローファーを蹴り合ったように。
氷が、やわらかく鳴った。
「そーいや相変わらず家には帰ってないの?」
母のことだった。私は少し黙って、グラスの氷を見つめた。
「帰ってない。もう何年も。出てくとき、酷いこと言ったし。お母さんの方も私なんか娘じゃないって怒ってたから、今更どうすればいいか分かんなくって」
「うん」
「でも、最近ね、思うことがあるんだ。もっと一つ一つ伝えてれば何か違ったんじゃないかって。今でも仲良い親子でいられたんじゃないかって」
塞ぎ込む私にさっつーは、それ以上何も言わずに、ただ頷いてくれた。私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。時間が来るまで、私たちは甘い匂いのカクテルをしっぽり飲んだ。学校で飲んだコーラとは流石に味が違いすぎたけれど。
「じゃあ、また。あんま突っ走り過ぎんな。あんた結構暴走癖あるから後藤さんと同棲とか言い出しかねないからな」
とか何とか、別れ際にさっつーが何かからかってきた気がするけど、酒が入りすぎて覚えていない。
鍵の音は鳴らなかった。代わりに「ただいま〜」という、どこか緩んだ声が先に届いた。玄関のドアがゆるく開き、靴音がひとつぶつかって転がる。
「……おかえりなさい」
テレビを消して、私はソファから立ち上がる。
エアコンの冷気が、少しだけ重たく感じられた。
「えへへ、ただいま〜。あー、酔ったかも〜……」
喜多さんは笑いながら、鞄を床に置き、そのままソファに横倒しになった。顔が少し赤い。たぶん、5杯以上飲んでる。
酔っているときの喜多さんは、普段よりも口数が多く、子供っぽくなる。そして、警戒心というものをどこかに置いてきたような振る舞いをする。例えば、このやたらと見える肩とか、ぐしゃぐしゃにはだけたスカートの裾とか。
正直、ガードが薄すぎて心配になる。
「飲んできたんですね」
「え? あ〜……うん。高校のときの〜友達なんだけど〜、久しぶりに会ってさ〜」
「……それ、男の人ですか?」
自分でも驚くくらい冷たいトーンの言葉が出た。喜多さんは、ぐるっとこちらを向いたが、顔がとろけていた。
「もしかして後藤さん、嫉妬してる?」
「ち、違いますけど……」
「ふふふ、かわいい。そんな顔、初めて見た」
照れてるのか、はぐらかしてるのか、それともただ酔ってるだけなのか。判断がつかない。
ただ、彼女の赤く火照った頬を見ながら、この人は可愛さと無防備さが過ぎるな、と思った。
私の部屋に彼女が住むようになったのは、必要に迫られてのことだった。他のカセットが見たいからと言って彼女が私の部屋に初めて来た日、キッチンは空っぽで、洗濯物は山積み、ゴミが散乱して足の踏み場がなく、寝具は……触れたくもない状態だったらしい。
「これは控えめに言って、かなりまずいわね」
「え、そうですかね?」
あいにく、私の生活能力は終わっていた。
その後、彼女は頭を抱えてため息をひとつついてから、エプロンを持って戻ってきた。なんやかんやでそれがいつの間にか“じゃあ、もううちに来なよ”になって、現在に至っている。
それから喜多さんにご飯を作ってもらったり、洗濯してもらったりたまに髪を乾かしてもらったりと、色々面倒を見てもらっている。
たぶん、これは……所謂同棲、なのだと思う。喜多さんが自覚してないのに乗っかって私はそこに、気づかないふりをしていた。
「後藤さん、ギター弾いて〜」
彼女はソファで寝返りを打ちながら、まっすぐこちらを見た。
視線が少しだけうるんでいるのは、アルコールのせいだろう。
私はソファの端に座り直した。
「無理です」
「えー?なんで??」
「ギター、弾けないんです。音を出そうとすると、怖くなって手が震えるんです。そういう病気で…」
少し間があって、喜多さんが起き上がろうとした。
「ごめ……ごめんなさい……私そんなつもりじゃ……!」
私は慌てて手を伸ばし、彼女の肩を軽く押さえた。
「あ、いや、喜多さんが謝ることじゃないです。昔、大切な人がいて……その人が亡くなってから、ギターを持つと、その人の声が聴こえてきて…。変ですよね。そんなのふつう聞こえるわけないのに」
喜多さんは、黙って私の膝の上に頭をのせた。
「ごめん……ごめんね……後藤さん、悲しいこと思い出させて、泣かせちゃって、ごめん」
「泣いてません」
「泣いてるじゃん。うそつき」
「嘘つきじゃ、ないです」
「後藤さんは優しすぎるよ…」
そう言いながら、彼女はしくしくと泣き始めた。私はブランケットを引き寄せて、彼女の肩にかける。額にかかる髪をそっと払って、指先でなでる。なぜこんなにも自然に触れられるのか、自分でも不思議だった。
「後藤さん、……。私、役に立ってる……?」
「立ってますよ。むしろ私生活とかで助けられっぱなしです」
「よかったぁ……」
そのまま、彼女はすっと寝息を立て始めた。落ち着いた呼吸。抱きしめたクッションが、ずるっと滑り落ちた。
「……お母さん、ごめん……」
小さな寝言だった。
それを聞いた瞬間、私は胸が詰まるような感覚に襲われた。
“お母さん”
その言葉に、彼女がどれだけの思いを込めているのかはわからない。けれど、それが強い痛みであることは、よく分かった。
私はそっと、彼女の髪を撫でた。
その髪は柔らかくて、熱を帯びていた。出来ることなら夢の中でもこうして彼女を撫でてあやしてあげたかった。
翌日、スタジオの灯が弱く揺れる中、リハーサルの最後のフレーズを出し切って、彼女はギターを弾いたまま、ふぅっと長く息を吐いた。
「おつかれさまです」
「うん、後藤さんもおつかれ」
彼女は笑って私の方を向く。額に張りついた前髪をかき上げ、手の甲で汗をぬぐった。
その動作ひとつで、スタジオに残っていた熱がすっと和らいだ気がする。
私はタオルを取りにロッカーまで歩いてから、彼女の背中にそっと差し出した。
「……拭きます?」
「え? あー、うん。ありがとう」
彼女はタオルを受け取らず、なぜか座ったまま背を向けたままにした。その仕草が少し可笑しくて、私は自然とタオルを持ったまま、彼女の首筋にそっと当てた。
「わっ……ちょ、後藤さんが拭くの!?」
「?はい」
「い、い、いやっ、なんか恥ずかしい!あと私汗臭いだろうし!」
「え、すごく良い匂いがしますけど」
「いや、そーいう問題じゃないわよ!? なんか、こう……くすぐったい、というか距離がっ」
タオル越しでも、彼女の耳の後ろがほんのり赤いのが分かる。
拭いてあげながら、私もどうしてこんなことをしているんだろう、と少しだけ考えた。けれど、手は止まらなかった。私がようやく止めると「後藤さんのばか」と拗ねたような可愛い声が聞こえてきた。
「もう....それにしても後藤さん、すごいよね。この曲。あんまり複雑じゃないのに感動させられるフレーズを作るのって才能だと思うわ」
「いえ、喜多さんの歌い方が良かったからです」
「ふふ。そっか」
タオルを受け取った彼女は、髪をざっとまとめながら立ち上がる。その動きに、無駄がないなと思う。この数ヶ月で、彼女は随分と変わったように見える。
「よしっ! 明日のライブも頑張ろうね、後藤さん」
「はい…って私は見てるだけですけどね」
そのとき、ドアの向こうからノックの音がした。
「ぼっちちゃーん、喜多ちゃーん、入っていいー?」
「どうぞ」
私が答えると、虹夏ちゃんが顔を出した。サイドテールの大きさは相変わらずだけど今は星歌さんみたいにこのライブハウスの店長をしている。Tシャツにガチョウパンツ、片手にコンビニのビニール袋を持って、もう片方の手にはペットボトルを3本抱えている。
「おつかれー! ドリンク買ってきた〜、はいどうぞ」
私にレモンティー、喜多さんには緑茶。
「あ、ありがとうございます」
「伊地知先輩ありがとございます!」
虹夏さんは、そのままアンプの上に腰掛けると、私たちを見てにやにやしていた。
「ふたりとも、いい感じじゃん。息ぴったり」
「そ、そうですか?」
私は思わず聞き返してしまう。
すると喜多さんが、なぜか緑茶のキャップを開ける手を止めた。
「……えっ、ど、どういう意味ですか?」
「いやー、最近さ〜、レコーディングでも思ったけど、喜多ちゃんが歌ってるときのぼっちちゃん、めっちゃ集中してるし。喜多ちゃんはよくぼっちちゃんのほうよく見るし。なんかこう、ぴたって重なってる感じあるよね」
「そ、それって、私の演奏が後藤さんの作曲の意図に合ってるってこと、ですよね? つまり、その、仕事の話!」
「いや〜そういうのも含めて、“いい関係”だな〜ってこと!」
「関係……って、え? そ、それって……え???」
喜多さんは明らかに混乱していた。飲みかけの緑茶を口元に持っていこうとして、そのまま止まり、視線を泳がせている。私はその様子をただ見ていた。どうして彼女がそんなに慌てているのか理解できなかった。
「えっ、え、なに? なに!? な、なにが言いたいんですか先輩!?」
「いやいや、そんな大げさに聞かないでよ〜。ただ……あの距離感で付き合ってないのは逆に不自然でしょー」
「つ、つ、付き合ってないですってば!」
「……うん、まぁ、そう言うと思った。別に私は女の子同士でもいいと思うんだけどなー。あはは」
私は視線を喜多さんから逸らして、自分のペットボトルのレモンティーを開けた。氷の入っていないレモンティーが、口の中に静かに広がる。
この距離は、たしかに近いのかもしれない。でも、私たちは恋人ではない。なってはいけない。きっと喜多さんは何かを勘違いしてるだけだ。
私はそう思って、ラベルを見つめた。
虹夏ちゃんは、少し真面目な顔になって、ペットボトルを膝の上で回した。
「でもさ、ほんとに思うよ。
ぼっちちゃん、最近元気になったよね。
喜多ちゃんのおかげかも」
喜多さんは言葉を失ったようだった。私はその横顔を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
暫くして
「そういえばリョウ先輩とは相変わらずですか?」
と喜多さんが尋ねた。
すると、暫く虹夏ちゃんが黙り込む。
「…いやさ、その、リョウと最近、ちょっと微妙なんだよね」
リョウさん。
私にとっては、ぼっちというあだ名をつけてくれた人。変わり者の私の数少ない話し相手。
そして、虹夏ちゃんにとっては長く続いていた恋人。
「なんていうか……最近ね、避けられてる感じがするの」
「避けられてる……?」
「うん。ロインしても既読つかないこと増えたし、スタジオの予定も私抜きで組んでたり。なんか……うまくいってないっていうか、すれ違ってる気がして」
喜多さんがそっと眉を寄せた。
虹夏ちゃんの話を聞くその姿は、どこか真剣だった。
「浮気が原因なんですかね?」
「うーん、分かんない。浮気は前からだったけど。
でも最近はなんかもう、“ほんとに私のこと好きなのかな”って、分かんなくなるときがあるんだよね」
私は口を開けなかった。
それは、聞いてはいけない気がしたから。
「大丈夫ですよ。どうせあの人伊地知先輩にゾッコンですよ」
「そうなのかな〜。はは」
「もし伊地知先輩を泣かせたら私がリョウ先輩をひっぱたきますから」
その一言に、虹夏ちゃんは吹き出した。そりゃリョウの弱さじゃ喜多ちゃんには勝てないわと笑いながら、緑茶のキャップを開けた。
「ありがとね、喜多ちゃん。……でもなんかね、私がリョウに怒れないのも悪いのかなって思ってる。浮気されてても黙ってるのって、甘やかしてるつもりが甘えてるだけだったのかもなぁって」
「ち、違いますよ」
今度は、私が言葉を返していた。
「それは虹夏ちゃんが優しすぎるだけです」
虹夏ちゃんが、ゆっくりとこちらを見た。何かを探るような目だった。でもその目に、責める気配はなかった。
「ぼっちちゃんって、昔からそういうとこあるよね。
人のことにはすぐ気づくのに、自分をないがしろにするっていうか」
私は何も返せなかった。
喜多さんが、虹夏さんの肩に軽く触れた。それだけの動作に、虹夏さんは少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「明日さ、ライブ楽しみにしてるね」
虹夏さんは、ぐっと明るい声に戻して言った。
「喜多ちゃんも人気出てきたし、うちも助かってるよ。前もここに収まりきらないくらいいっぱい人来てたもんね。ほんと増築しよっかなあー」
「がんばらないとですねえ」
「がんばってよー。ぼっちちゃんの曲ちゃんと歌えるの、喜多ちゃんしかいないんだから」
私は、その言葉を反芻するように飲み込んだ。
“喜多ちゃんしかいない”
それは、ただの誉め言葉じゃない。
あの人が、自分の曲を本気で受け止めてくれること。私の呪いみたいな音を、ちゃんと伝えてくれること。それが、どれだけ救いになっているか。
私はそのことを、喜多さんに直接言ったことがない。でも、それを言ってしまったら、何かが変わってしまう気がして、いつも飲み込んでしまう。
彼女が私の横で、緑茶を飲んでいる。その姿が、なんだかとても遠くに見えた。距離は近いのに、言葉にできない思いだけが、心の奥で澱のように溜まっていく。
「明日はちゃんと来てくれるかなー、リョウ……」
虹夏さんが、冗談めかして言ったその言葉に、私も喜多さんも返事をしなかった。ただ、時間だけが流れていった。
帰り道は、少しだけ風が出ていた。
ライブハウスの前の商店街は、八時を過ぎてすっかり静かになっている。
ネオンも控えめで、シャッターが降りたままの花屋の前を通ると、かすかに残る切り花の香りが、季節を思い出させた。
「……飲みに行く?」
喜多さんがぽつりと訊いてきた。
私の左隣、歩幅を合わせるように並んでいた彼女の声は、ふだんよりも低くて、少しだけ重かった。
「今日はやめときます。……明日まで響いたら困るので。私は演奏しないんですけどね」
「そっか……まあ、そうだよね」
彼女はちょっと笑って、そのまま何も言わずに歩いた。私はそれを無言で受け入れて、二人の足音が交互にアスファルトを叩く音に耳を傾けた。
会話の間に、沈黙が落ちても、今はもう気まずくはなかった。静かなことは、ただ静かだというだけの状態であって、何かを意味しているわけではない。そう思えるようになったのは、たぶん、彼女のおかげだった。
「……ねえ」
彼女が急に足を止めた。
「後藤さんって……親とは、仲良かった?」
その問いかけに、私は一拍遅れて首を傾けた。
街灯の下、喜多さんの表情は明るさの奥にかすかな影を含んでいた。
「うちはまあ、普通でした。私が高校行きたくないって言った時も理由を聞いた上で賛成してくれたし。恩返しはできてないけど、感謝はしてます」
私は慎重に言葉を選びながら、できるだけ正直に答えた。すると、喜多さんはまた、黙ったまま頷いた。
「私はさ」
それから、彼女は言った。
「お母さんと、喧嘩してからずっと会ってないの」
声は、まっすぐだった。
でも、どこか、少しだけ震えていた。
「高校辞めて、家出して……一人で銀座でやってきて、最初はね、何もかも“自由だ!”って思ってた。誰にも何も言われないのが、最高って思ってた。……でも、あるときから、逆になったんだよね」
「逆……?」
「何も言われないことが、寂しいって思うようになったの。1人だと私のアパートって広すぎるのよ」
私は黙って、彼女の声を聞いていた。彼女は、夜の風に髪を揺らしながら、続けた。
「でも今さら何言えばいいか分からないし。私が出てくとき、お母さん、玄関で花瓶とか靴とか投げて…本気で怒ってた。“どうせアンタなんか生きてけないわよ”とか、とか“二度と帰ってこないで”とか。すっごい剣幕だったなあ」
彼女の笑いは、すごく小さかった。
それは笑ってるようで、笑っていなかった。
「でもさ」
彼女はふっと息をついて、言った。
「最近、後藤さんと一緒にいるうちに思ったんだよね。ごはん作ったり、洗濯畳んでたりするとさ、“ああ、これ、お母さんが私にしてくれてたことなんだな”って」
私は目を伏せた。
その言葉に、どう応えていいのか分からなかった。
「今さらだけど、謝りたいって思うようになったの。
あのときはまだ子供だったって、伝えたい。それに、ちゃんと……“それなりに幸せにやってるよ”って、言いたい。別に会えなくてもいいから、それだけ」
言葉が、胸に落ちた。
とても、静かに。
会えばいいのになんて言えない。無責任に背中を押すことは、私にはできない。喜多さんの痛みを、どこまで私が理解できるのか分からないから。
「……後藤さん?」
彼女が、振り返った。
私は、首を横に振って微笑んだ。
「何でもないです。……明日、早いですし、帰りましょう」
「……うん。そうだね」
「その、気の利いたこと言えなくてごめんなさい」
「いいのよ。聞いてくれるだけで」
そして、二人でまた歩き出した。
ステージ裏の暗がりで、私はコードの音を指先でなぞっていた。
楽屋とは違う緊張が、空気に漂っている。もうすぐ開演のアナウンスが入る。リハーサルを何度も重ねてきたのに、ライブ直前の空気はいつもどこか違っていた。
喜多さんは、ステージの前方に立っていた。姿は見えないが、足音とアンプの角に反射する影でわかる。カジュアルな衣装を身にまとった彼女の姿は、普段の生活感とは違って、少しだけ遠く見える。
「——ほんときれいだよね。喜多ちゃん」
虹夏ちゃんの声が、背後から静かに届いた。彼女はカップホルダーに入った紙コーヒーを手に、私の隣に立った。
「そうですね」
「歌い方もそうだけど、立ち方一つにしろ変わったなあって。自分の居場所を見つけた人って、わかるんだよね。背中で」
私は頷いた。
彼女の言うとおりだった。喜多さんは、確実に変わっていた。ステージに立つときの彼女は、迷いがない。最近は誰かに認められるためではなく、自分の足で音の上に立っている。
「ぼっちちゃん、さ」
虹夏ちゃんは、私の顔をちらりと見た。
「喜多ちゃんのこと、好きなんだよね」
私は反射的に息を止めてしまった。今度の虹夏ちゃんの目は責めるでも、探るでもなく、ただ見守るようだった。
「……わかりません」
「分かってないふりして逃げてるだけじゃない?」
返せなかった。
自分でもわからないのだ。この気持ちが、ただの信頼なのか、憧れなのか、救われたいという願望なのか。
虹夏ちゃんは静かに笑った。
少し寂しげな笑みだった。
「私ね、お母さん、事故で亡くしてるの。……9歳のときだった」
「……」
「謝りたいこともあったし、ありがとうって言いたいこともあった。でも、一つも言えなかった。言う前に、いなくなっちゃったから」
私はその言葉を、ゆっくり飲み込むように聞いた。
「だから、思うんだよね。
変なプライドとか捨てて、大切な人には愛してるって伝えるべきだって。まあ恥ずかしくってリョウには言えてないんだけど」
私は目を伏せた。
喜多さんの“お母さん”という寝言が、耳に残っていた。
「……喜多さんは伝えられるんでしょうか」
「さあね。分かんない。でも伝えられたらいいよね」
私は虹夏ちゃんの方を見た。
彼女はまっすぐ前を見ていた。
ステージ袖の、喜多さんのいる方向を。
「ぼっちちゃんは、ずっと閉じてた。自分で分厚い壁を作って、誰も入れなかった。でも喜多ちゃんが現れて、その壁がちょっとずつ崩れてるように見えるの。だから、喜多ちゃんのこと、もっとちゃんと見るべきだと思うの。ぼっちちゃんだけは特にさ」
「……はい」
そのとき、会場の照明が落ちた。
場内アナウンスが入り、観客がどよめいた。遠くから、ステージの中央にスポットが落ちる音がした。喜多さんのシルエットが、明かりの中に立ち上がった。彼女はマイクに顔を向けて、小さく息を吸い込んだ。
私は、その姿を見つめながら思った。あの人の歌を、誰よりも聴きたいと。ちゃんと、私に届くように。
客席に出た瞬間、私は圧倒された。あらためて見渡すと、ライブハウスの空間はまるで別世界のようだった。ステージから受ける光と音、そして観客たちの熱が、空気を目に見えるように震わせていた。そのなかで、私は気づいた。前列でもなければ、後方でもない、会場のほぼ真ん中、立ち見の隙間。そこに、ひとり、背筋をぴんと伸ばして立っている女性がいた。年齢は、五十代手前くらい。ショートヘアはきちんと整えられている。白いカーディガン、淡いグレーのジーパン。どこか場違いにな服装にも思えた。彼女はステージを見ていた。真剣な、でもどこか遠慮がちな目つきで。
私は、動けなくなった。
似ている。目元の形、少しだけ傾げた首の角度、そして、誰かを真っすぐに見つめるときのあの強さ。
けれど私は、まだ確信が持てなかった。近づいて、もし違ったら?それに、もし合っていたとして、彼女はそれを、私に明かすだろうか?
私は一度、目を閉じた。頭の中に昨日の喜多さんの顔が浮かんできて。
そして、ゆっくりと歩いた。
彼女の隣まで来ると、
音の波に混ざって、私は声を出した。
「……あの」
彼女は、私に目を向けた。
近くで見ると、思ったよりも若く見えた。けれど、その目の奥には、たくさんの時間が閉じ込められている気がした。
「突然すみません……失礼かもですけどもしかして、喜多さんのお母さんですか?」
言い終えた後、自分の心臓の音が聞こえる気がした。言葉が、空気に馴染むまでの一瞬が、永遠のように長かった。彼女は、視線を私から外さず、ほんの少し間を置いてから、言った。
「人違いよ」
その言い方は、落ち着いていて、冷たいわけでもなかった。
でも、どことなくこわばっている用に感じた。私は、すぐには言葉を返せなかった。
彼女の表情は変わらない。けれど、微かに唇の端が震えているように見えた。
「本当に?」
「貴女何を言ってるのかしら」
「そう…ですか」
私は一度下を向いた。でも、どうしてもその場を離れられなかった。
音楽が続いている。
喜多さんの歌声が、私たちの頭上を抜けていく。まるで、それがこの場を浄化しているようにさえ感じられた。
私は、もう一度、口を開いた。
「あの、私……後藤ひとりって言います。今、喜多さんの曲を作ってて。あ、独り言なので気にしないで下さい」
彼女の目が、微かに揺れた。
私は続けた。
「喜多さん……郁代さん言ってました。“お母さんに謝りたかった”って。わ、私コミュ症だから分かるんですけど、悪気がないのに言葉が足りなくて相手を怒らせて後悔することが結構あって。だから昔の喜多さんと喜多さんのお母さんは言葉が足りなさ過ぎたんじゃないかな....」
「……」
「……あと、会えなくてもいいから、“幸せにやってるよ”って伝えたいって。きたさ…郁代さん、出て行く時酷いこと言われたから、そのことをお母さんに気にして欲しくなかったんですよ。きっと」
彼女は何も言わなかった。
でも、目を伏せるその仕草が、すべてを物語っている気がした。
私も、それ以上のことは言わなかった。私は伝えるべきことは、もう伝えたと思った。これ以上は野暮だ。
しばらくの沈黙のあと、
彼女は小さく言った。
「……そう」
それは、あまりにも短い言葉だった。でも、その一言のなかに、どれだけの感情が詰まっていたのか、私は少しだけ、分かる気がした。
私は頭を下げて、その場を後にした。そして、ステージを見上げた。喜多さんは、まだ歌っていた。
その姿は、やっぱり、星みたいだった。夜空の真ん中で、消えそうで、でも確かにそこにある。
誰もが手を伸ばしたくなるような、そんな光だった。
夜の空気は、ライブの熱を少しだけ冷ましていた。私は会場の裏手にある非常階段に腰かけて、夜空を見上げていた。
空には星がいくつか瞬いていたけれど、街の光が強すぎて、輪郭はぼやけていた。でも、今日はその星たちのどれもが、ちゃんとそこに形があるように見えた。空に定まった意味なんてないはずなのに、そこにひとつの形を見出したくなる夜だった。
ポケットに手を入れて、
親指でカセットテープの角をなぞった。ライブの準備中、喜多さんが忘れていったもの。
少し前まで彼女が肌身離さず持ち歩いていたこの一本に、何度も自分の曲を吹き込んでは、また巻き戻していたことを私は知っている。わざわざ合わせてくれなくてもスマホでいいのに。
そのカセットの角が指に引っかかったとき、
後ろから、足音が聞こえた。
ゆっくりと、ためらいがちに、
でも、確かな足取りで。
振り返らなくてもわかった。
「……後藤さん」
彼女の声は、いつもより少し低く、それでいて、不思議なくらい優しかった。私は立ち上がることはせず、そのまま振り返らずに答えた。
「ライブ、お疲れさまでした」
「……うん。ありがとう」
沈黙が落ちる。
でも、さっきまで会場にあった“観客の熱”ではなく、
ただふたりのあいだにだけある、静かな空気だった。
「伊地知先輩に聞いたの」
彼女の声が、そっと届いた。それ以上の言葉はなかった。でも、それで十分だった。
私は、そっとポケットから手を出して、カセットテープを見せた。
「……忘れ物です」
「……あ」
彼女が一歩、近づいた。
それだけで、心臓が少しだけ高鳴った。
「ありがとう。後藤さーーひとりちゃん」
その先の言葉は、なかった。
代わりに、彼女は私の胸元に顔を埋めてきた。ほんの数秒の間に、彼女の腕が私の背に回されて、静かに、でも確かに、抱きしめられていた。
私は驚いたけれど、
なぜかその行動が、あまりにも自然に思えて、そのまま彼女の背中に手を添えた。
彼女の体温が、鼓動が伝わってくる。震えていないのが、不思議だった。
耳元で、小さな声がした。
「本当に、ありがとね」
その言葉に、
彼女が何を込めたのか、私は聞かなかった。
母のことを虹夏ちゃんから聞いたのかもしれない。
あるいは、曲のことかもしれない。
ただ、そばにいてくれたことへの感謝かもしれない。
それは、どれでもよかった。
彼女が、そう言ってくれたこと。
私が何らかの形で彼女の助けになったということ。それだけで、私は嬉しくて仕方なかった。
「……へへ。どういたしまして」
私はそれだけ、答えた。
その言葉が、彼女に届いたのかどうかもわからないまま、私たちはしばらく、そうして立ち尽くしていた。
星が、頭上でまた、ひとつだけ瞬いていた。
3.君とバカンス
最近、よく外に出るようになった。前までもそうだったけど、ここのところよく人と話すようになった。この間、勇気を出して高校の友人達に久しぶりに連絡を取った。家出以来一方的に一切の連絡を取っていなかったけれど、一つ一つ向き合っていかないと何も変われない気がしたから。
あと、ひとりちゃんとの距離が近くなった。……少なくとも、私はそう思ってる。相変わらず「喜多さん」呼びのままだけど、ふとした拍子に目が合ったり、すぐそばに立っていても、前ほど逃げ腰じゃない気がする。
それに——今日は、ふたりでお買い物なんて、しているわけで。
「ねえ、これ、どう?」
「……っ、あっ、おしゃれすぎて無理です……!」
服屋の試着用ミラーの前で、ひとりちゃんが小動物のように身をよじった。私が持ってきたのは、淡いグレーのチェック柄のワンピース。透けるような彼女の肌に似合うと思ったのに、本人は見た瞬間に目を逸らした。
「えー?絶対可愛いのに」
「だめです……着たら私が服に着られるんです……。かわいい服がかわいそうですよ……」
「なによそれ。服は自己主張してこないわよ?」
「存在で語ってくるんです……こういうのは……!」
ふるふると首を振るその姿が、もはや小動物を通り越して拒否反応を起こす機械の故障みたいで、思わず笑ってしまった。
「もう、ひとりちゃんさぁ。たまには冒険してみようよ? せっかくの休みだし」
「お休みでも、日陰が落ち着くタイプなので……」
「うーん、でも絶対似合うと思うんだよなぁ……。あ、じゃあこれ! もっと控えめなやつ!」
「……レースはもっと怖いですよ……」
そんな感じで一着も試着させられないまま、ふたりで店を出た。ひとりちゃんという最高の素材を活かせなかった私はちょっと不満だったけど、でも、正直それすら楽しかった。ひとりちゃんの一生懸命、“自分には似合わない”って言い訳を探している様子がちょっとだけ愛おしくて。
次に向かったのはアクセサリーショップ。キラキラしたピアスやバングルが並ぶショーケースを見ながら、私はすぐに目に留まった宝石がついたのブレスレットを手に取った。
「それ、喜多さんっぽいですね」
「うん、可愛いよね。……これ、ひとりちゃんとおそろいで買おっかな」
「えっ」
「こっち、ペアあるよ。こっちが私で、そっちがひとりちゃんね」
「えっ、いや、あの、そんな……!」
あたふたするひとりちゃんをよそに、私は迷いなくレジへ。お会計を済ませてブレスレットの箱を渡すと、彼女はそっと受け取って、ほんの少しだけ頬を赤く染めた。
「……ありがとうございます。あの、こういうの……初めてなので」
「ふふ、似合うよ。可愛いものは、ちゃんと可愛い人の手に渡らなきゃ」
「それは……喜多さんが、可愛いだけです……」
「ん? いまなんて?」
「い、いえ、何も……!」
顔まで真っ赤にして黙り込むひとりちゃんが可愛すぎて、私は少しだけ背伸びした気分で笑った。
「そういえば、最近曲けっこう売れてるんだよね〜」
「えっ」
「ちょっと前にリリースしたやつ、SNSでバズって。インディーズなのにチャート入り。新作CDももうすぐだし、おかげでちょっと贅沢してもバチ当たらないって思い出してる」
「私たち実はもうお金持ち……」
感心して見上げてくる彼女に、私は得意げにウィンクしてみせた。こうして、何かを分け合える時間があるのは、やっぱり嬉しい。おそろいのブレスレットをつけて外に出ると、空気は少しだけ秋めいていた。
「カフェでも行く? 歩き疲れたし」
「はい。喉も、少しだけ……乾きました」
人通りの多い通りを抜け、路地裏にあるこぢんまりしたカフェに入る。木のぬくもりが漂う内装、静かな音楽。案内された席にふたり並んで座ったところで——視線の先、窓際のテーブルでコーヒーを飲んでいる人物に気づいた。
私は、言葉もなく立ち止まった。
ひとりちゃんと私がカフェに入って、席に案内されようとしたそのとき、奥の窓際のテーブルに見覚えのある横顔があった。
特徴的なシルエット。青く揺れる髪。どこか所在なさげな視線の落とし方。
リョウ先輩だった。
……しかも、知らない女の人と。隣には、ゆるく巻いた髪に華やかなネイルの女の人が座っていた。どう見ても、先輩が“よく一緒にいるタイプ”の人だった。
ひとりちゃんが気づいたらしく、隣で小さく「あ……」と呟いた。
私たちは別の席へ案内されていたけれど、リョウ先輩はすぐに気づいたようで、カップを持ち上げたまま、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「……郁代と、ぼっち。デート?」
声は乾いていて、からかうような調子だったけれど、目は笑っていなかった。そして、私たちの方を見ているようで、見ていない。
私はひとりちゃんの方をちらりと見てから、リョウ先輩に言った。
「リョウ先輩、その人……いつもの遊びですか?」
一瞬だけ、空気が張り詰めた。
リョウ先輩は返事をしなかった。
ただ黙って、カップの中のコーヒーをじっと見ていた。
「……またそうやって」
私の声は、少しだけ低くなっていた。
怒っているというより、失望に近い感情だった。
「伊地知先輩、泣いてましたよ」
その言葉を聞いたとたん、リョウ先輩の目が変わった。ふわりと漂っていたようなまなざしが、急に鋭くなる。
「虹夏は関係ないでしょ!」
今までに聞いたことがないくらい強い声だった。
まるで、何かを守るように。
もしくは、自分自身に向けて怒っているように。
私は少し驚いて、思わず息を呑んだ。
けれど、その一瞬後に、リョウ先輩はすっと目を伏せて、かすれるように小さく言った。
「……ごめん」
それは本気の謝罪というより、やり場のない言葉の処理のように聞こえた。どこか、壊れかけた人の口癖のように。沈黙が数秒流れて、リョウ先輩がカップを置きながらぼそっと言った。
「で、二人は仲良くデート?」
「そうですけど、それが何か?」
私の声は静かだったけれど、拒絶のトーンは明確だった。リョウ先輩は一度だけ女の方を見てから、ひとりちゃんに視線を移した。
「そっか。……じゃあ、もう廣井さんのことはどうでも良くなったんだ」
その言葉の意味は私には分からなかったけれど、空気があまりにも重たかった。ひとりちゃんがわずかに揺れたように見えた。表情は不自然すぎるほどほとんど変わっていない。なのに手元に置いたカップに添えていた指が、かすかに震えた。
そして、彼女はゆっくりと立ち上がった。無言のまま、バッグだけ持って、まるで風のように、ドアの方へ走り出した。
私は、立ち上がるタイミングを見失いそうになった。
呆れと混乱と、いろんな感情が渦を巻いていた。
ひとりちゃんが、あんな風に何も言わずに逃げ出すなんて、見たことがない。よく分からないけどつまり、きっとさっき先輩が言った言葉が何らかの形でひとりちゃんを傷つけたということだ。私の中にふつふつと怒りが湧いてきた。
「先輩、……貴女最低ですね」
私は静かに言って、そのまま振り返らずに走り出した。店を出る直前、背中越しに微かに聞こえたのは、
リョウ先輩の、掠れたような呟きだった。
「……なんで私はこういうことしかできないかな」
その声は、まるで誰かに向けたというより、
空っぽのコーヒーカップに話しかけているようだった。
でも私は、もう振り返らなかった。
ひとりちゃんの背中を追いかけて、
ひたすらに走った。
歩道橋の手前で、私は足を止めた。
静かな夕暮れの中で、上の柵にもたれるように立っている後ろ姿を見つけた瞬間、私は、それ以上走らなかった。ひとりちゃんが、背を向けたまま動かないでいるのが、あまりにも“孤独”という言葉に似すぎていたから。
階段を一段ずつ、音を立てないように上った。そして、隣に並ぶまで声をかけなかった。
風が通り抜けるたびに、彼女の髪がすこし揺れて、夜の街の灯りに照らされた。
「……寒くない?」
私の言葉に、ひとりちゃんはゆっくりと首を横に振った。
「……大丈夫です。……喜多さん、すみません。走らせてしまって」
「いいの。私が勝手に追いかけてきただけだから」
そう言って、私も柵に腕を乗せた。ふたり並んで、真下を行き交う車の光をただ眺めた。このまま、何も言わなくてもいい気がしたけれど、ひとりちゃんの肩がほんの少しだけ震えていたから、私は口を開いた。
「……リョウ先輩が酷いこと言ったのね」
ひとりちゃんは、ふっと、少し笑ったように見えた。けれど、それは声にもならないような、微かな揺れだった。
「……いいんです。あの人の言葉は確かに鋭いけれど、自分を傷つけてるのにも気づかないから。おあいこさまって感じなんです」
それが皮肉なのか、慈しみなのか、私はよく分からなかった。
でも、ひとりちゃんの声には怒りはなかった。
しばらく沈黙が落ちて、
彼女はポケットに手を入れながら、ぽつりと話し始めた。
「……私、昔外の世界が怖かったんです。コミュ症だし、それまでの人生で誰かが自分を助けてくれたことなんて一度もなかったから。もうとにかく人の視線が自分を値踏みしてるみたいで、苦手で....」
風がすこし強くなった。
けれど彼女の声は、まるでそれに負けじとするように、柔らかく続いていく。
「でも、“お姉さん”がいました。
お酒が大好きな人で、酔っ払ってたところに偶然出会って、路上ライブしたんです。私がまともに言葉も出せなかったとき、ただ音を聴いててくれた人でした。何も言わずに、何も求めずに。その人のベースは、いつも背中を押してくれました。外に敵なんていないよって。演奏しながら、世界の境界線を少しずつ広げてくれるような不思議な音でした。多分この街で一番上手いベーシストだったんじゃないかな....」
私は黙って聞いていた。
「その人にだけは、ギターを褒めてもらえた。私の音が好きだって。……それだけで、生きていける気がしました。私多分あの人のことが女性としても好きになってたんです」
空気が静まり返っていた。
「でも、ある日お姉さんはいなくなった。私が何も言えてないまま、いなくなりました。結構やばい鬱だったらしくて、部屋に行ったら首吊ってて、ヨダレみたいなのが垂れて、冷たくなってて、」
ひとりちゃんの指が、歩道橋の手すりをぎゅっと掴んだ。
「……それから、音を出すのが怖くなったんです。弦に触れるたびに、鼓動みたいな震えがきて、
音が鳴るたびに、あの人のこと思い出して心が削られる気がして。でも、沈黙に潰されるのも怖かったから、私は音楽を吐くようにして生きてきたんです」
私は、ただ彼女の横顔を見ていた。遠くの街灯に照らされるその横顔が、今にも壊れそうな硝子のようで、それでも、必死にそこに立ち続けているのが伝わってきた。
「私の曲は、全部、臆病だからやるしかなかったお祓いみたいなものなんです。書かなかったら、音を紡がなかったら私はきっと、もっと早くに崩れてました。……もう“お姉さん”に届かないと分かっていても、感情を何処かに封じ込めないともう生きてるって思えなかった」
声が震えていた。
「あの人が死ぬ前日まで、私どうやって告白しようかなんて考えてたんですよ。心の闇も、追い詰められてたことも知らないで。よく考えればそれらしい兆候はありました。察しが悪すぎたんですよ、私。自分のことしか考えてなくて、眼の前のあの人がよく笑う姿しか見てなくって」
けれど、涙はなかった。
「あれ以来人と関わるのが怖いんです。誰かを好きになるのが怖いんです。誰かにとって大事になった私がいなくなったらその人にこんな傷をつけちゃうんじゃないかって思うと、もう、何も....」
ただ泣くよりもずっと、深いところから出てくる声だった。私は、ひとりちゃんの肩にそっと手を置いた。そして、そのままそっと後ろから抱きしめた。
「大丈夫よ。あなたはちゃんとここにいて、私もここにいるから」
それだけ言って、私は黙った。
ひとりちゃんは動かず、逃げもしなかった。彼女の背は、ひどく細かったけれど、その細さのなかに、たくさんの傷跡が眠っているのが分かった。
その夜、ひとりちゃんは何も言わずに、私の布団に入ってきた。
私は、驚かなかった。むしろ、どこかでそうなる気がしていた。
歩道橋のあの夜風に晒されていた彼女が、帰る場所として私選んでくれたことが、
ただただ、嬉しかった。
掛け布団の中、背中合わせで始まった夜は、やがて呼吸のリズムが重なって、気づけば肩が触れるほど近くなっていた。
私は、話しかけた。
「ひとりちゃん。……もし、世界が明日終わるとしたら、何したい?」
「……突然ですね」
「いいから、答えてよ」
ひとりちゃんは少し考えてから、囁くように言った。
「何もしない、です。たぶん、静かに音楽を聴いて……眠ります」
「それじゃつまんないなぁ」
「つまらない、ですか?」
「うん。私はね、旅行したい。温泉入って、美味しいご飯食べて、夜は星空見て……」
「素敵な最期ですね」
「でしょ? あとはね、犬も飼いたいな。あと、スタジオ借りてライブハウスで弾き語りとかして……」
「……ずっと、喜多さんは動いてるんですね」
「じっとするの苦手だから」
そう言ったあと、私は、ひとりちゃんの方を向いた。目が合った。彼女の目は、夜の中でほんの少し揺れていた。
私は言った。
「ひとりちゃんは、私のこと、どう思ってる?」
一瞬、間が空いた。
それから彼女は、ごく小さな声で答えた。
「……大切な人です。すごく、かけがえのない人、です」
私は、心臓が跳ねるのを感じた。
けれど、言葉を止めなかった。
「それって……恋人とは、違うの?」
「……」
ひとりちゃんは、何も答えなかった。でも、少しだけ私の方へ身体を寄せてきた。そのまま、私の手をそっと握った。
「ね……私じゃ、だめかな」
もう一度、私は尋ねた。
声が震えていた。どんな答えが返ってきても私は受け止めると決めていた。
けれど、ひとりちゃんはまた黙ったまま、ただその手の力を、少しだけ強くした。
“だめ”、とは言わなかった。
“いいよ”、とも言ってくれなかった。
代わりに、あることを尋ねてきた。
私は、それを肯定すると、それ以上言葉を重ねなかった。この沈黙が壊れてしまわないように。この夜が、どうか終わらないでと願うように。
そのまま、私たちは並んで眠った。ぎゅっと抱きしめられたまま、夢の境目で、言葉にならない感情を浮かべながら。
私はこのとき思っていた。この子はきっと一人でも大丈夫なんだと。勝手に思い込んでいた。
目を覚ましたとき、私はまだ夢の中にいるようだった。いつもよりも少し冷たい空気。けれど、部屋はしんとしていて、差し込む朝の光が、静かにフローリングの上に伸びていた。
私は、ごく自然な動作で隣を見た。そこにあるはずの人の気配を、当たり前のように探した。けれど、布団はぺたんと凹んだまま、枕には寝癖も温度も残っていなかった。
ひとりちゃんが、いない。
一瞬、夢かと思った。
けれど、腕にほんのり残る体温が、それを否定した。
「……ひとり、ちゃん……?」
名前を呼んでみた。
でも返事はなかった。
キッチンも、玄関も見に行った。
トイレのドアも開いていたし、シャワーの音もしない。すぐに戻るような雰囲気は、部屋のどこにもなかった。でも、荷物はまだあった。カセットテープの山も、ブレスレットの箱も、昨夜と同じように置かれていた。
「……買い物かも。散歩に行っただけかもしれないじゃない」
私は小さくつぶやいた。
ひとりちゃんは、よくそうしてふらりと出ていくことがあったから。
けれど、その瞬間。自分の言葉が、ひどく空々しいもののように聞こえた。
私は――知っていた。
たぶん、ひとりちゃんは、もうこの部屋にはいない。そして私の隣には、もう戻ってこないのだと。
何かが欠けていた。
それは空気の濃度とか、気配の温度とか、説明できないほど小さくて、でも確かな欠落だった。
ブレスレットを置いた小箱のふたが、きっちり閉じてあった。ひとりちゃんの普段の癖ではない。あの子は、いつも少しだけ開けっ放しにしていた。
タオルはきちんと畳まれていて、
コップは流しに伏せてあった。
昨日までの生活の痕跡が、ひとつずつ丁寧に消されている。
まるで、初めからいなかったみたいに。
私は立ったまま、しばらく動けなかった。
どこかで扉が閉まる音がした気がしたけど、それは現実だったのか、自分の記憶だったのかも分からない。
ブレスレットを手に取り、
それを左手首に通してみた。
少し、重かった。
まるで誰かの重さを、そのまま預かったような感覚だった。
私は、そこにぺたん、と座り込んだ。冷たい床が、体に触れても気にならなかった。呼吸が浅くなっていくのが分かった。でも、泣こうとしている自分をどこかで見下ろしている、もう一人の私がいる気がした。
それでも、声は出なかった。
どうして、なんだろう。
何も言わずに。
何も残してくれないで。
部屋の中の全てが、あの人の不在を証明していた。ただの沈黙が、私の胸を押しつぶしていった。
そして私は、
静かに、静かに、涙が太ももを濡らした。
声にならない嗚咽が、やがて朝の光の中に吸い込まれていった。
もう、あの人はいない。
その確かな実感だけが、私の体を支配していた。すでに私から後藤ひとりは失われてしまった。
4.悲劇のヒロインズ
「何があったの??」
私が活動休止を表明してから、およそ一週間がたった。そんな電話が伊地知先輩からかかってきたのは。私はベッドの中モゾモゾと体を動かし、スマホを耳に当てていた。
「伊地知先輩…」
「大丈夫?ゆっくりでいいから。話してくれるかな」
「あ……わ…私、ひっ、ひとりちゃんが……!!」
おかしい。上手く声が出せない。ここ数日誰とも喋ってないせいで、声の出し方も忘れてしまった。嗚咽混じりに、私は電話口に向かって泣くことしかできなかった。伊地知先輩は初め「喜多ちゃん!?」と驚いたけど、泣き出した私にうん、うん。大丈夫だからね。と包み込むように相槌を打ってくれた。
「ね喜多ちゃん。今からそっち行っていい?丁度お昼食べてなくって。食材持ってくから、食べたいものある??」
「…ぅう、……ペペロンチーノ……」
「了解」と言って先輩は通話を切った。見渡してみると部屋はぐちゃぐちゃだし、髪もぼさぼさで服も洗っていない。先輩が来るまでになんとかしなきゃと思ったけれど、身体がシーツの上から動かなかった。
そこからインターフォンが鳴るまで10分とかからなかった。私が扉を開けると、伊地知先輩がぎゅうぎゅうのビニール袋を両手にぶら下げて「やっほ、入っていい?」と相変わらずの明るい顔で立っていた。
「お邪魔しま…って、うひゃ〜〜。散らかり方ひどいね。後で片付けもしなきゃだなあ」
キッチンに入ると先輩は手際良く麺を湯がし、フライパンで唐辛子とニンニク、ベーコンをオリーブオイルで炒めた。麺をフライパンに投入してお湯を投入してからの工程はさっぱりわからなかった。
「ほい、完成」
「……」
「食欲湧かない?」
「いえ…いただきます」
私たちは時間をかけてその辛い麺をむしゃむしゃと頬張った。テーブルでご飯なんていつぶりに食べるだろう。もちろん私の涙がまだ止まらなかったのは、ペペロンチーノが辛すぎたせいではない。
「ひとりちゃんに捨てられたんです」
食べ終わると私は一つ一つ話し始めた。デートをしたあの日のことから、ひとりちゃんがここを出てくまでを鮮明に思い出しながら。途中、何度も泣き掛けて、結局泣いた。最後まで先輩は私をまっすぐ見ながら、頷いて聞いてくれた。
「多分、私浮かれてたんです。ひとりちゃんからしたらいちギタリストと作曲者の関係に過ぎないのに。あの子のことなんにも知らなかったのに分かったふうなこと言って、傷つけて….」
「でもぼっちちゃんも喜多ちゃんが信頼できるからずっと一緒にいたんじゃないの?」
「なら、出てったのは私が信頼を裏切ってあの子の過去に踏み込んだからですよ…」
「きっとさみしかっただけなんじゃないかな。昔のこと思い出して、でも喜多ちゃんは巻き込みたくなかったんだよ。ぼっちちゃん優しすぎるから」
「それだと私は優しくさっぱなしじゃないですか」
「…喜多ちゃんはどうしたいの?」
そう、伊地知先輩に尋ねられた。私は机に顔を突っ伏したまま何も考えられなかった。
「もう、分かりませんよ、そんなの」
先輩は私の肩に手を置いてそのまま私が泣き止むまで背中をさすってくれた。先輩の手はあったかくて、それが余計辛かった。
それから暫くして、思い出したように話し始めた。
「私も振られたんだ。リョウに」
「え??」
とても自然に、さらりと言ったのに驚いた。
「ちょうど先週ぐらいかな。突然リョウがお出かけしようって言ってきて、二人でいろんな場所行ったんだ。公園とか、サウナとか、カヌーとか。夜は洒落たイタリアンでピザ食べたりしたんだよ。で、話があるとか言って外に連れ出したかと思ったら急に『別れよう』とか言い出したの」
「……怒ったんですか?」
「ううん。むしろ逆。普通に『そうだね』ってさらっと言ってやった。ちょっと驚かせてやりたくって。一瞬目を丸くさせただけだったけどね」
小さく笑いながらそう語る先輩の声は、だんだん萎んでいった。
「もういいかなって思ってたの。だってリョウ、全然私と付き合ってて幸せそうじゃ無いし、そんなの見ててもこっちが疲れるだけだしね。勝手にどっか行くし、浮気するし、それにさっきの話聞くに二人を破局させたの丸々アイツのせいじゃん……!」
そう言う伊地知先輩の声は強い感情を含んでいた。ああ。この人は笑って許してるように見えてしっかり怒ってたんだなって、今になって気がついた。
先輩はお茶をコップに注いで一息ついて、自分の話ばっかりでごめんね、と謝った。
「まあそんな訳でしばらくお店閉めようと思ってるんだ。一旦下北沢のお姉ちゃんのライブハウスに泊めてもらおうかと思ってる。店長の私がこんなんじゃ仕事にならなさそうだし」
「そんな、」と言い掛けたけど、先輩の目を見てやめた。コーヒー入れようかと言われたけど、私がやります、と言って豆をすり始めた。
「捨てられちゃったね、私たち。これからどうしよっかなあ」
「.......」
「あ、そーだ。昔みたいにまたドラムやろっかな。喜多ちゃんがギターで、二人でお姉ちゃんのライブハウスでバンドやるとか。Starryって言って地下にあるんだけど案外雰囲気いいんだよ」
「曲とベースどうするんですか」
「曲は有名な人に依頼してさ、ベースはなくてもなんとかなるし....って現実的じゃないよね...あたしまだドラム叩けるかも怪しいし」
やっぱ今から財務試験の勉強でもするかーと言って先輩は腕を伸ばした。
「今更だけど大学いかず就職もしてないって私たち中々チャレンジャーだよね」
「やめてくださいよ。私に至っちゃ高校も卒業してないんですから」
そう言うと伊地知先輩はくすくすと笑った。私もこらえきれず、笑った。豆がすれると焙煎機を使ってコーヒーを濾した。マグカップを置くと、ありがと、と先輩が言った。苦くて熱すぎたコーヒーでも、二人でテーブルを挟んで飲んでると少しだけ落ち着いた。
「いやほんと我ながら無茶やって来たなあと思うよ。ノウハウもないのに借金してライブハウス建てて、何とか人集めてさ。それでも、リョウと一緒ならなんとかなるって思ってたのにね.........思ってたんだよ.....そう、そうやって..........」
そのまま先輩は机に倒れ込んで、腕に顔を突っ伏した。私は手を伸ばしかけて、やめた。私じゃこの人を慰められない。この人が私の悲しみを埋められないように。窓のカーテンが冷たすぎる外の風に揺らされ、刻一刻とその形を変えていた。
先輩が言ってたみたいに、私もひとりちゃんと一緒なら何でもできる気がしていた。現実とか危うさとか全部忘れて恋というアルコールにべろべろに酔っていた。ああ、この子といると大丈夫だって。でもそれはひとりちゃんも思ってたんだろうか?あの子を不安にさせていたのは他ならない私何じゃないかって。
ーーリョウ先輩も、、、
いや、言えない。言えるわけがない。愛が不安定さも含むものだなんて、この人にだけは、決して。もし気づいていたとしても、言葉にした瞬間今より途方に暮れることだろう。
それは、私たちの今の不安定さがまだ愛されたがっている証拠だというようなものだから。好きだったのに捨てられるならまだ納得できるけど、捨てられたのにまだ好きだなんて口で言うのは、惨めだ。無様に恋を引きずるより、せめて突拍子もない不幸に見舞われた悲劇のヒロインでいたかった。
夜、ビルの谷間にひとりきりで立っていると、自分が音に溶けていくような錯覚を覚える。車のタイヤが水をはねる音。信号の変わる電子音。誰かの笑い声が遠くから聞こえてきて、私は何もしていない自分がそこに混ざれないことを悟る。
それでも、私はよくこの場所に来る。銀座の裏道、古いガードレールのそば。誰も立ち止まらない静かな場所。音のないところ”を探すのではなく、誰も自分を見ていないところを探していた。
喜多さんと暮らしていた頃は、夜が少しだけ怖くなかった。部屋に帰れば、カーテンを閉め忘れた彼女が寝転んでいたし、私の代わりに洗濯をしてくれた。ちょっと手の込んだ料理も顔を顰めず作ってくれた。
『ひとりちゃんといると面倒なことも楽しくなるの』
そう笑った彼女の声が、今も耳の奥に残っている。
その声を思い出すきっかけになったのは、数日前のことだった。
私が信号待ちをしていたとき、背後から「ゴトーさん」と呼びかける声がした。振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。緑色のショートヘアの同い年くらいの女の人。イヤリングが着いた耳たぶを気にしながら、何か言いたげな目で私を見ていた。
その人は、スマートフォンを取り出して、何も言わず私に画面を向けた。見たことのある画像。見慣れた横顔。喜多さんだった。それも、私と一緒に映っている写真だった。いつか二人で江ノ島まで遊びに行った日に、喜多さんが撮ったやつ。
その人――佐々木と名乗る人は、私にたった一度も声を荒げなかった。でも目が、確かに怒っていた。軽い笑みの中に込められる怒りというのがあるのだと、そのとき初めて知った。
どうしてあの子を捨ててこんなとこぶらついてるんだ、そういう問いを、たぶん佐々木さんは心の中で繰り返していた。実際には言葉にされなかったけれど、あの冷たい視線の中に、問いと怒りと、そして失望が全部詰まっていた。
“あの子、まだ待ってるよ”
ただ、それだけを言って。
喜多さんは、私に全てをくれた。無理をしてくれた。私の面倒くさい歌を理解してくれた。笑ってくれた。手を引っ張ってくれた。生活の隅々に私の居場所をくれた。
私は、それを、壊して逃げた。
守れないから、手放した。触れたら壊れる気がして、指を伸ばせなかった。
でも――でも、それはやっぱり、言い訳でしかなかった。
愛されていたという事実が、後から私を刺す。潰して、苦しくて、泣くこともできずに、ただ歩いていた。
その夜、私は川沿いの細道を歩いていた。人気がないエリアに差し掛かると、ぼんやりとした音が風に乗って届いてきた。低く、長く、リズムの中に沈むようなベースの音。生演奏。アンプを通しているのに、生っぽいノイズが混じっている。
私は足を止め、音の方に顔を向けた。街灯のもと、人が数人立ち止まっている。その中心に、あの人がいた。
青い髪にジャケット。白のプレベのベース。路上に立っている山田リョウだった。
彼女は何も気にする様子もなく、弦を弾いていた。サビではない。Aメロでもない。ただ、単音の旋律をなぞるように、静かに、くり返していた。
「リョウさん」
私の声に、彼女が反応した。顔を上げる。細くした目を開き、私に気づいて、微かに笑ったように見えた。
「……ぼっちじゃん。生きてたんだ」
「ええ、まあ……どうにか」
私はそのまま近づいた。
彼女の前、立ち止まって訊ねる。
「こんなところで何してるんですか」
「……売れててもさ。たまに、こういうことしないとね」
「自分だけのための音楽みたいな?」
「まあね。誰かに求められる音じゃなくて、自分の音を鳴らせる場所。たまには欲しくなるんだよ」
その言葉を聞いたとき、少し悲しくなった。この人は矛盾を矛盾と分かった上でベースを弾いている。弾かずにはいられないんだ。
かつて、まだプロでも大人でもなんでもなかった頃。
「個性捨てたら死んでるのと一緒だよ」
リョウさんは達観した表情でそう言っていた。ベースの音色も選曲もいつも独特で、売れるとか売れない関係なしにーーいや、むしろ売れ筋になってたまるかとすら感じるほど独りよがりな曲を作っていた。
それが今や話題性とビジュアルを押し出した売り方のポップミュージシャンだ。次から次に依頼が絶えないらしい。昔の彼女を知っている人は彼女のことを口だけの奴だなんて責めるけど、たぶん、一番苦しんでるのはリョウさん自身だ。
「いいと思いますよ。そうやって、自分を捨てても自分を見失わないようにするの」
「……もう自分なんて残ってないよ」
リョウさんは空を見ながら言った。
「捨てたら、ただ空っぽになっただけ。……誰も拾ってくれなかったしね。いや、自分で捨てたくせに何言ってんだろう。でも私の腕じゃ重いもんは背負えないし。…勝手だよね」
私は、彼女の顔をじっと見つめた。
いつもの飄々とした山田リョウではなかった。そこにいたのは、自分のことをちゃんと知ってしまった、壊れかけの大人だった。
「一曲、弾いてくれませんか」
彼女は視線を下げ、私を見た。
しばらく沈黙したあと、問いかけてきた。
「……前のこと怒ってないの?」
「怒る資格なんて、私にはありません」
声が自然とこぼれた。
「私は……人に何か言えるような人間じゃないです。人を責めたり恨んだりする力すらもう残ってないんですよ」
「……」
「だから、私の代わりに弾いて下さい。リョウさんはまだ弾けるんだから」
リョウさんは何も答えず、黙って再びベースを持ち直した。アンプに繋がれたコードの先を軽く手で押さえながら、音量を下げてつまみを調整する。私の方を一度だけ見て、軽くうなずいた。そして、弦に指を滑らせた。
ひとつ、またひとつ。
静かに伸びる音が、夜の東京の空気の中で揺れて、人の声も、車の音も、遠くで聞こえていた笑い声も、全部、あのベースの余韻の中に吸い込まれていった。
私は、目を閉じた。
何も見えなくなって、音だけが聴こえる状態は怖い。けれどこの時ばかりは、私はその暗闇の中にしか感じられないものがある。
音楽って、やっぱり気持ち悪いくらい不思議だ。
言葉にすれば壊れてしまいそうなものを、何も言わずに受け止めてくれる。
路上でかなでられるこれがリョウさんの本当の音だったのかもしれない。ステージでも、スタジオでもない、誰にも飾らずに、自分の指先だけを頼りに奏でる音。
それを、私は今、この路上で聴いている。愛せなかった人の、それでも音を続けているひとつの証を。
やがて音は、ゆっくりとフェードアウトしていった。最後の一音が、風にさらわれて、夜の隙間に沈んでいった。私は目を開けた。リョウさんが静かにベースをケースにしまっている。
「……ありがとうございました」
言葉は小さく、でもはっきりと口をついて出た。
「どういたしまして」
リョウさんも、変わらぬ調子で返してくる。でも、その顔はほんの少しだけ、いつもより柔らかく見えた。
私たちは無言で歩き出した。
帰る方向が同じだったわけではない。けれど、音の余韻を壊すのが怖くて、私はその横を一緒に歩いた。
しばらくして、私はふと訊いてしまった。
「……リョウさんは、どうして私たちには手を出さなかったんですか」
リョウさんの足が、一瞬止まりかけた。
「私たち」とは、私と、喜多さんのことだ。言葉にしてしまうと、喉がざらついた。私の声は、ひどく乾いていた。
リョウさんはすぐには答えなかった。街灯の下に来たところで、ふと空を見上げて、ぽつりと言った。
「……そもそも自分から手を出したことなんて一度しかないよ。あとの奴らは勝手にやって来たの」
リョウさんはフーッと息を吐いた。
「手を出したのは、虹夏の時だけ」
私は、その言葉を聞いて、胸が詰まった。
「でもそれも捨てた。結局どっかで思ったんだよ。大切な人がいるってことはいつか、その人を壊しちゃうってことだって。虹夏の隣にこんな弱い私がいたこと自体が間違ってたんだ」
彼女の声は変わらなかった。穏やかで、飄々として、いつも通りのリョウさんの声。でも、私は分かった。その声の下にずっと沈められていたものがあると。私は言葉を返せなかった。言ったら、崩れてしまいそうだった。
ただ、何かが喉元でつかえて、
私はぐっと唇を噛んだ。顔を少しだけ横にそらして、目を閉じた。
そうじゃない。
本当は、私が聞きたかったのはそんなことじゃなかった。リョウさんの浮気の原因とか私たちがその対象にならない理由とかそんなんじゃなくて。
私はきっと、人を好きになるってどうしてこんなに報われないのかって、ただそれが知りたかった。
でも、そんな問いに答えられる人間がいたらこんな夜に、こんな歩道で二人して歩いてはいない。
「……東京の夜って、なんでこんなに長いんでしょうね」
私は、独り言みたいに言った。
リョウさんは少し笑った。
「たぶん、時間じゃなくて、感情が伸びてるからだよ。暗い中関係ない人ばっかりだとどうしても人が恋しくなる」
その言葉に、私はうなずけなかった。でも、胸のどこかでそうかもしれないと思っていた。
「…ねえ、私がこんなこと言う資格がないのは知ってるけどさ。郁代の所にはもう帰らないの?」
「………さあ」
「無理とは言わないんだね」
「そうですね。最近自分でも自分がよく分からないんです。思考が感情に追いつかないというか、自己矛盾が激しいと言うか。おかしいですよね。生理でもないのに」
「……いや、なんとなく分かるよ」
彼女とは、そこで別れた。それ以上は、言葉もいらなかった。
私は再び一人になって東京の街を、真夜中の温度のまま歩き始めた。照明に照らされたショーウィンドウの中、高価なドレスが飾られている。ガラスに映る自分の顔は、知らない人みたいに見えた。
人を好きになるということは、
こんなにも、こんなにも複雑で面倒くさいのに、それでも恋をせずにはいられないって、それって罰以外の何でもないんじゃないか。
“喜多さん”
名前を呼ぶと、それだけで胸が痛くなる。でも、呼ばずにはいられない。
何度も、何度も。
ひとり、また、ひとりと、人が私のことを通り過ぎていく。私はそのすべてを知らないふりをして、ただ前に進む。
夜の銀座の街は、ひどく静かに思えた。週末の喧騒も、飲み屋の明るい看板も、私にはただ遠い光の粒のようにしか見えなかった。歩道に伸びる自分の影が、少し頼りなく揺れていた。
「……これで、最後だから」
小さな声が、自分でも聞き取れないほど弱かった。
私はポケットの中で、冷たい金属を握りしめた。あの人の部屋の合鍵。何度もこの鍵であの部屋の扉を開け、閉めた。けれど、今夜はその重みが違って感じた。
喜多さんがいつもこの時間に部屋にいないのは分かっていた。だから、こうして最後の足跡を残すように、あの部屋に向かっているのだ。
街灯が照らす道を、一歩ずつ踏みしめる。銀座の深夜、薄暗くも淡い、夜の余韻が空気を包んでいた。夜風が、シャツの裾をわずかに揺らした。その風が、私の決意を確かめるかのようだった。
マンションの前に立ち、見上げると、あの部屋の窓は闇に溶けていた。もう一度ポケットの中の鍵を握り直す。ドアの前に立ち、鍵穴に差し込むと、指先が小さく震えた。
カチリ。
鍵が静かに回った。
ドアノブをそっと回し、ゆっくりと押し開けると、部屋の空気がふわりと流れ出した。その空気に、あの人の残り香が微かに混じっていた。
私はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。電気はつけなかった。街灯の薄明かりが、カーテンの隙間から淡く差し込み、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
散らかったままの床。
その上に転がるギター。使い古された水色のレスポールジュニアが、目に入った。ボディに刻まれた小さな傷は、彼女の時間の証だった。それを見ただけで、胸がぎゅっと締め付けられた。
ソファにそっと腰を下ろし、クッションを抱き寄せ、鼻先を押し付けた。柔らかい布の向こうに、喜多さんの匂いが微かに残っていた。洗剤の香り、外の空気、あの人の温もり。
「……喜多さん」
呟いた声が、暗い部屋の中で溶けた。涙が滲み、喉の奥に熱が広がった。だけど、泣く時間じゃなかった。泣くために来たわけじゃない。私はポケットから無地のカセットを取り出した。カセットデッキにそっと入れ、録音ボタンを押すと、赤いランプが灯った。
その灯りが、まるで心の中の小さな火のように見えた。今にも消えそうで、でも必死に燃えている、そんな小さな光。
水色のレスポールジュニアを抱き上げた。手の中に収まる重さが、少しだけ心を落ち着けた。指先が弦に触れると、冷たさが伝わった。震える指で、音を探るように静かに弾き始めた。
掠れた音。でも、その掠れた音こそ、今の私のすべてだった。そして、言葉が自然と口をついて出た。音に乗り、即興の旋律に混ざり、紡がれていった。
声は細く、かすれて、今にも消えそうだった。だけど、必死に一番だけを歌いきった。声の震えも、涙も、そのまま音に焼き付けた。
貴女と一つになりたい。どうしてこんなに想っているのに、それ以上に恐怖が、過去が、トラウマが勝ってしまうのだろう。そう嘆きながら。
『君と集まって 星座になれたら』
なんてフレーズを私が歌うのは気取っているかもしれないけど、それでも。
二番は、歌えなかった。
声が出なかった。喉が詰まり、弦を押さえる指も力を失った。やはり今の私ではろくにギターも弾けない。
赤い録音ランプだけが、小さな命のように揺れていた。
私はカセットを止め、そっと抜き取った。震える指でラベルに文字を書いた。
ーー星座になれたらーー
ただそれだけ。忘れて欲しいのか引きずって欲しいのかも分からない衝動的な行動だった。
そして私は、ここを出た。
5.死ぬならせめて貴女に
音楽番組のモニターに映る自分の名前と曲名が、部屋の中でぼんやりと光っていた。
「喜多郁代ニューシングル『ギターと孤独と蒼い星』1億再生突破間近」
ナレーターが誇らしげにそう告げ、スタジオの芸人たちが「すごいですねぇ」と口々に賛辞を述べていた。
私は、リモコンを手に取ってテレビを消した。画面が闇に変わり、部屋の中にあった光も音も、ひと息に消えた。
「何がすごいっていうのよ…」
吐き出した声は、部屋の静けさに吸い込まれた。SNSでは解説動画があふれ、コメント欄には「この曲は初恋に見せかけた失恋ソング」とか「喜多と後藤自身らの関係性を投影している」とか知ったような言葉が並んでいた。
でも、そのどれもが薄っぺらに見えた。あなたたちに何が分かるのよ、と何度画面ごしに問いかけたかわからない。
私はソファに深く沈み込んだ。
ギターの弦が、指の腹に残る硬さを、どこか遠い記憶のように感じた。もう、どれだけ触っていないだろう。
静まり返った部屋に、ふと声を出したくなった。
「……ねぇ、ひとりちゃん」
その一言が、あまりに空しく響いて自分で驚いた。
もちろん返事はない。
ここには「おかえり」と言ってくれる人も、温かい食卓も、身を寄せる相手もいない。
思わず笑ってしまった。
何を期待してるんだろう、私は。
夜、銀座の街の明かりが窓の隙間からぼんやりと部屋に落ちていた。どこかの店から漏れる音楽や笑い声が、遠い世界の音のようだった。あの人と一緒に音楽を作っていた日々も、あっという間に過ぎ去った夢だったんじゃないか。そんな気さえした。
スマホがテーブルの上で震えた。
画面を覗くと「佐々木」の名前。
私は指が止まった。取るべきか、取らないべきか。でも、通話は切れ、短いメッセージが届いた。そのほとんどが耳に入ってこなかった。
「ーーだから、そろそろ忘れなよ。みんな心配してる」
その文面を見た瞬間、私はスマホをソファに放り投げた。喉の奥が熱くなった。
なにが「忘れなよ」だ。
なにが「心配してる」だ。
あなたに私の何が分かるんだよ。
怒りが、寂しさと混ざってぐちゃぐちゃになった。私だって、こんな情緒もくそもない自分は嫌だよ。
たった一度だけ、鍵を閉めたはずなのに、部屋に戻った時にドアが少し開いていた。
胸が高鳴った。まさか、と思った。
でも、そこにあったのは机の上に置かれたカセットだけだった。
『星座になれたら』
ラベルには、震えた文字でそれだけが書かれていた。
デッキに入れて再生した。か細いギターの音、途切れがちな歌声。きっと泣いていたんだ、あの声は。何を伝えたかったんだろう。
「……こんなのいらないって…!」
私はカセットを握りしめて、泣いた。
「いらない……歌もギターもなくていいから……だから、そばにいてよ……ひとりちゃん…………」
でも、その声を聞いてくれる人はもういなかった。
私は、手の中のカセットを見つめたまま、ソファの隅で小さくなった。この小さなプラスチックの塊に、あの人の全部が詰まっているような気がして、だけど、これしか残していかなかったことが、どうしようもなく憎らしかった。
「……ねぇ、ひとりちゃん」
声に出して呼んでみた。
でも、返事があるはずがなかった。その声すらも、虚しさを深めるだけで。
私は立ち上がり、カセットをそっとデッキに戻した。再生ボタンを押す指先が震える。部屋に、またあの音が流れ出した。震えたギターの音、掠れた歌声、何度も言葉にならなかった願い。
私は耳を塞いだ。聴きたくない、でも聴かずにはいられなかった。それは、あの人が残した唯一の声だったから。
もう何日も、まともにギターに触れていなかった。指が思い出したように弦の感触を欲しがった。私は水色のレスポールジュニアを手に取った。ひとりちゃんが抱えていたあの夜の姿を思い出しながら、そっと弦を弾く。
音が出た瞬間、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。音が、ひとりちゃんを呼び戻すようで、でも届かないと分かっていて、だから余計に痛かった。何をやっているんだろう、私は。
外に出た。夜の銀座は、まるで深海の底のようだった。光はあっても温かくない。歩道の端に立つ私の足元を、街灯の光が淡く照らしていた。
前を行く車の列が、冷たく、規則正しく光を流していた。赤、白、黄色――その全てが、私を拒む色に見える。体の奥が空洞になっていて、そこに風が吹き抜けていくみたいだった。
こんなにも誰も私を見ていない。
誰も気づかない。この街で私は、ただのひと粒の埃だ。
いっそのこと、そう思った次には
足が、前に出ていた。
一歩。
心臓の音がどこか遠くで響いた。
二歩目。
何かが終わる音がした気がした。
目の前に巨大な質量がこちらに押し寄せてくる。圧倒的な風が髪と服を靡かせた。
その瞬間、甲高いブレーキ音が夜を裂いた。
ヘッドライトの光が私を白く染め上げ、現実に引き戻した。
「おい!」
声がした。
懐かしい声。
怒りと焦りと驚きが入り混じったその声に、私は目を細めた。
光の奥、運転席から飛び出してくる人影。
リョウ先輩だ。
へたり込んだ私は、乾いた笑いをこぼした。喉の奥が熱くなり、声がうわずった。
「……ああ、リョウ先輩だったんだ。当てられるなら知ってる顔で良かったかも」
ほんの冗談のつもりだった。
でも声は震え、笑いにもならなかった。
「ふざけんな!」
先輩は私の肩をつかみ、揺さぶった。その力が、現実の重さを思い出させた。
「……だって、だってだって!……ひとりちゃんがいないのに、生きてる意味なんか……」
声が途切れ、涙が溢れた。街の光が、にじんで揺れた。
私は力が抜け、足元が崩れそうだった。
先輩は顔を歪め、無言で私を見つめた。その視線に堪えられず、私は顔をそむけた。
「乗れ」
短い一言が、夜の静寂を切った。
「乗りなって!!」
私は、言われるままに助手席のドアを開け、乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、冷たく響いた。
車内に流れ込んでいた夜の音が、ドアが閉まる音とともに一気に遮断された。先輩の車に乗った瞬間、まるで別の世界に迷い込んだようだった。外の銀座は、無数のライトで眩しいはずなのに、ここから見るとただ冷たい光の川にしか見えなかった。
エンジン音だけが耳に残る。
リョウ先輩は黙ったままアクセルを踏み、車はゆっくりと夜の街を滑るように進んだ。助手席に座る私は、膝を抱え、体を小さく丸めた。指先が震えていた。足の先も冷たかった。それなのに心臓の奥だけが、何か焼けるように熱かった。
「……あのまま当たってくれれば良かったのに」
自分でも、なんでそんなことを言ったのかわからなかった。弱々しい声が車内に落ちた。
先輩は一瞬だけ顔をしかめた。
そして、少しの間の沈黙のあと、絞り出すように言った。
「……ごめん」
その声は、夜の風音に溶けるように小さく、でも確かに届いた。
私は先輩を見た。その横顔は、暗くてよく見えなかったけど、ただ前を見据えていた。ハンドルを握る指の関節が白くなるほど強く握りしめていた。
「何が、ですか」
喉が詰まるようで、声が震えた。
「全部だよ」
先輩は、まるで自分に言い聞かせるように言った。滅多にしない謝罪の『全部』には伊地知先輩もひとりちゃんも含まれているのだろう。
「もう、いいですよ。…さっさと伊地知先輩の所に行ってあげてください」
「無理だよ」
「なんで……!」
「ダメなんだよ。私じゃ虹夏を幸せになんかできなかった。……できると思ってたけど、無理だった。私が虹夏のためって思ってやってたことは全部私が逃げるためだったんだよ」
「そんなの、言い訳じゃないですか」
「そうだね」
「愛されてるのに、その気持ちから逃げるなんて勝手すぎますよ。そんなの弄んでるのと一緒だ」
「そうかもね。まあそんなだから私は好かれない」
自嘲気味な笑い方も皮肉っているようにしか見えなかった。
車の窓の外で、街の光が滲んだ。
それは私の涙のせいなのか、もう分からなかった。
「好かれない??」
「そう。誰にも。私が私だから」
そう言う先輩は諦めたように無表情で、空っぽに見えた。彼女を見ていると私の中で何かが揺れ動いた。
「……でも私……わたし、リョウ先輩のこと、好きだったんですよ……」
その言葉が出た瞬間、胸の奥が軋んだ。それを言ったところで何になるのか、自分でも分からなかったのに。
リョウ先輩横顔がかすかに揺らいだ気がした。
でも、それでも彼は黙ったまま前を見続けた。
「でも、あなたは私に見向きもしなかった。ギターを始めた時だって、この街に来た時だって……!ずっと貴女は私なんかみてなかった!!好かれないって何!?何言ってるんですか!!孤独なベーシストぶって、カッコいいとか思ってるんですか!?ただ、幸せな自分を受け入れられないだけなのに!伊地知先輩以外を見て生きるなんて、できないくせに今更何言ってんですか!!!!」
声が震え、涙が頬を伝った。
「なのに……なのに……どうして……」
自分でも、何に怒っているのか、何に悲しんでいるのか、もう分からなかった。
ひとりちゃんがいない現実が、あまりにも重すぎた。
でも、その痛みをどこにぶつければいいのか、私はもう分からなかった。
先輩は黙っていた。
その沈黙が、私をさらに追い詰めた。逆上して怒鳴ってほしかった。叱ってほしかった。それなのに、ただ黙っているその横顔が、あまりにも寂しそうで、情けなくて、私は余計に泣きたくなった。
「……止めてください」
掠れた声で静かにそう言った。
先輩は、無言で車を脇道に寄せ、ブレーキを踏んだ。私は取っ手を強く握り、勢いよくドアを開けた。夜の冷たい空気が頬を刺した。
後ろでドアを閉める音が、街のざわめきの中に冷たく響いた。
私はそのまま背を向けて歩き出した。銀座の街の光が、涙のせいでにじんで見えた。
後ろでリョウ先輩の車のエンジン音が、遠ざかっていった。私はただ、足元を見て歩いた。どこに行くのかなんて分からなかったけれど、ただ立ち止まるわけにはいかなかった。立ち止まったら、その場で崩れ落ちてしまいそうだった。
海辺の風が開いたウィンドウから吹き荒れていた。アクセルを強く踏みつつ必死に辺りを見渡す。まだ薄暗い朝とも夜とも言えない景色は淡く、幻想的で。砂浜に1つ分の人影が見えた所で、私は車を飛び降り、靴の底に砂利をつけながらその人がいる海の方へ駆け出した。
「…虹夏ちゃん」
息を切らした私の声は海風にかき消され、それでも彼女の肩が僅かに揺れたのが見えた。私は一歩、また一歩、足を進めた。波の音と心臓の音だけが、胸の奥で響いていた。
「何、してるんですか」
声が、思った以上に震えていた。
自分でも、その理由が分かっていた。
その背中が、あまりに寂しそうで、あまりに小さく見えたからだ。膝より上まで浸かったその体は今にも波に飲まれそうで。
彼女は微かに振り向くだけで、ただ波打ち際に立ったまま、両手を胸元でぎゅっと握り締めていた。
「なんでぼっちちゃんがここにいるの?」
「星歌さんに頼まれたので」
「あー。やっぱり遺書ぐらいアナログにしとくべきだったかなあ」
虹夏ちゃんはたはは、と悲しそうに笑った。
「…海の底が見たかったの」
彼女は静かにそう言った。
「そんなの生きてたらいつでも見れますって。だから、戻って下さい」
「ぼっちちゃんでも適当なこと言うんだね」
「虹夏ちゃんに死んでほしく無いだけですよ」
私は足元を波に揺られながら、ぱしゃぱしゃと水面を駆け、なんとか彼女の手首を掴んだ。恐ろしく冷たく、細い。そして抵抗する素振りもなかった。波は足元を攫うには心許ないけど、塩水の感触が靴下越しに伝わってきた。
「離してよ」
私は黙ってふるふると首を横に張った。離せるわけが無い。
「離してってば」
首を振る。手も離さない。
「死んでどうなるんですか」
「仕返しするんだよ。死んで、お前のせいって書いた遺書をリョウに読ませてやる」
虹夏ちゃんの手には硬い拳がつくられ、足元の波に顔を落としながら、口元に笑っているのか怒っているのか判別がつかないような皺を浮かべていた。恐らく何一つとして本心なのだろう。にも関わらずその吐露は、核心的な所を吐き出せてないらしく、とても苦しそうだった。
「そんなの、やり過ぎですよ」
「そんぐらいじゃなきゃダメなんだってば。アイツの彼女じゃないならせめて一生忘れられない疵になりたいの」
虹夏ちゃんはたぶん、分かって言ってる。死んだ後残される側の気持ちが。どうしようもない虚無感が押し寄せて、あの時ああすれば、とかあんなことしなきゃ良かったとか、『また会いたい』なんてことよりずっと重くて行き場のない感情がはきだまって、自分を塗り替えてしまうってことに。死っていうのは当然だけど、分からない人には想像もつかないぐらい傷ましいものだ。
虹夏ちゃんのお母さんのような、あるいはあの人が残したような。
虹夏ちゃんが私の手を振り払おうとする力が強まる。
それでも私は離さない。ジッと彼女の目を見据え、汗まみれの両手に目一杯の力を込める。単に死んでほしくないってのもあるけど、ここで虹夏ちゃんに恨まれたまま死なれたら流石にリョウさんが可哀想だ。
やがて虹夏ちゃんは諦めたように脱力し、「…離してってば……」と弱い声で、へなへなと水中に膝を下ろした。
私は虹夏ちゃんの隣に寄り添うように座った。虹夏ちゃんは体育座りで顔を腕に突っ伏して、私は空との境界が見えない暗い水平線を眺めた。ジーパンがびしょびしょになったけど、そんなことはもはや気にならなかった。
「…もう疲れたんだよ。私のことなんてどうでもいいみたいに浮気するリョウにも、そんな奴に振られても嫌いになれない自分にも…」
「あの人はずっと…虹夏ちゃんが好きでしたよ」
「なら何で浮気したり、私を振ったりするの??」
「…たぶん、構って欲しかったんじゃないかな。あの人結構寂しがり屋だから。向けられるのが怒りでもいいから愛されてるって確認したかったんだと思います」
「……」
「浮気しても虹夏ちゃんに嫌われないから、余計に自分がどうでも良いと思われたって、相手にされてないって勘違いしてるんですよ。あの人頭も強くないから…」
「……」
「よく、2人で音楽の話しててもあの人すぐに虹夏ちゃんの話するんです。だいたい、他の女の人の所にいる時のリョウさんちっとも楽しそうじゃないんです。色んな人を取っ替え引っ替えしてるのは、虹夏ちゃん以外どうでもいいからなんですよ。きっと『浮気してます』って虹夏ちゃんにアピールしたいだけなんです」
「……」
「昔はあれだけ個性がどうだ言ってたのになんで売れ筋になったんですかって聞いたんですよ。そしたら、『虹夏と結婚した後の貯金が欲しい』って。金にがめついところは昔から変わりませんよね。それ聞いて回りくどいって思いましたよ。でも、本当にやってることはバカだけど、好きなんですよ。虹夏ちゃんのためならあの人自分曲がるのも躊躇わないぐらい、虹夏ちゃんが好きで好きでしょうがないんですよ」
そして私がだから、と言いかけたところで「もういいよ」と虹夏ちゃんは答えた。彼女は少しだけ顔を上げ、腫れた目をこちらに向けた。
「本当はリョウが私を愛してたとか、不安だったとかとっくに分かってたんだよ。それでも全部気付かないふりしてた。言葉にしなくても愛は伝わるなんて思ってないよ。ちょっと恥ずかしいから格好つけて、最低な女に振り回される可哀想な彼女ぶってたの。私、悲劇のヒロインになろうとしてたんだ。リョウがどれだけ私を好きだとか傷ついてたかとか無視してさ。………最低なのは私の方だよ」
そう言って虹夏ちゃんは鼻を啜りながら泣き始めた。辛いと言うより、やっと溜まっていた思いを吐き出せて、衝動的に泣いているようだった。しゃっくりをする彼女の丸まった背中を私はゆっくりとさすってあげた。爽やで透明な海水が満ちては引いて、砂利まみれの私たちの足を洗ってくれた。
「ねえ、軽蔑、した?」
声を枯らし、しゃっくりしながら訊いてきた。
「しませんよ。むしろ羨ましいですよ。そんなにお互いに想えるの」
「ぼっちちゃんは、優しいね」
泣き止んでしばらくして、私は背中をさするのをやめ、じわじわと形が定まっていく水平線を眺めていた。不思議なものだ。これだけ透明なのに、海の底を覗かせないなんて。多分、少なくとも虹夏ちゃんが言っていた海の底なんて彼女は知らなくて良いということだろう。やがて虹夏ちゃんは背を伸ばし、こちらに顔を向けた。
「…前にも聞いたけど、さ。喜多ちゃんをどう思ってるの?」
「…なんでそんな話になるんですか」
「私知ってるんだよ。二人が別れたの。そんで前に喜多ちゃんと泣き合ったの。あいつら最低だ〜って」
そう言って虹夏ちゃんは小さく笑った。数分前まで慰めていた相手にはとても見えなかった。
「好きではあるんでしょ?」
「……」
「そっか、言いたくないか。ごめんね。お姉さんぶって話聞いてあげようとしてた」
そう言って虹夏ちゃんは目を擦って、んーーーーっとこぼしながら、絡めた指を胸の前で伸ばした。
遠くの唸った道路から全速力の星歌さんの車がやって来ていた。虹夏ちゃんはそれを見るとおーい、と手を振った。
「あのさ、別に説教でもアドバイスでもないんだけど」
反対側の道路を向いて立っている虹夏ちゃんが海を見ながら座りっぱなしの私に言った。
「ぼっちちゃんはもっと自分に自信持って良いと思うよ」
「…なんですかそれ」
「言葉のままだよ。こうやってタイミングよく現れてくれるしね」
こちらに向ける虹夏ちゃんの目はまだ潤っていて、光が反射して眩しくて、真っ直ぐ見れなかった。
「私じゃなくてリョウさんが来た方が良かったんじゃないですか?」
「あー。そんなことも考えてたかも」
そう言ってあははと笑った。
「でも私がここに来たのって、たぶん、リョウがどうとかじゃなくて周りに話聞いてくれる人がいなくて拗ねてただけだったの」
「虹夏ちゃん……」
「やっぱりこんな情緒ならあのスリーピースバンド解散するべきじゃなかったな。私がいて、リョウがいて、喜多ちゃんがいて…あのまま続けてたらもしかしたらぼっちちゃんも入ってたかもね」
「……」
星歌さんの車が堤防近くに着く頃には朝日の上半分が上がりきって私たちを照らしていた。虹夏ちゃんは風も陽も柔らかそうに受け止めていた。私はまだ違ったけど。
「あ゛ーーー。これからどおしよっかなあ」
背を伸ばしながら彼女はそう言った。
「リョウさんを待ってあげてください」
「……分かったよ」
虹夏ちゃんは少し拗ねたように頬を膨らませた。。自殺ごっこなんて黒歴史にしかならないからもうしない、と言って。
彼女はその後車から降りて来た星歌さんにたっぷりと叱られた。
6.朱に交われば赤くなる
ステージの灯りはまだ落ちたままだった。
私は、その暗闇の中に一人で立っていた。照明の切れたライブハウスの中、音のない空気がじわりと皮膚に染み込んでくる。
ステージの中央、マイクスタンドの横。そこから、ほんの少し斜め左。そのあたりに、ベース用の立ち位置がある。私はそこを見つめていた。
あそこにはいつもお姉さんが立っていた。今でも鮮明にその姿が見える。気づいたらお酒の臭いが漂ってくるようだった。それでも、伸ばした手は虚空を切るだけ。私は暫く細長い左手を宙にぶらぶら伸ばしていた。
「……リョウさん、来てたんですね」
私が気づくより前に、リョウさんは会場の後ろの方に立っていた。喫茶店でよく会っていた頃と変わらない無表情。でも、目の奥に何か言いたそうな色があった。
「見てたよ。暗い中で1人突っ立ってたから、ちょっとホラーだったけどね」
「すみません……ぼーっとしてました。ちょっと……昔のことを思い出してて」
山田は私の言葉に返事をしなかった。その沈黙が、どこか優しかった。
「お姉さんが、あそこでベースを弾いて、歌ってて。私はギターを弾いて……それだけが、この世界での私のロックで。……人生のすべてだと思ってたんです」
静かに、吐き出すように。
ようやく、少し言葉にできた。
「音を出してるとね、なんか……深い海の底で、2人で踊ってるみたいだったんです。空気も時間も無くなって、言葉も要らなくて」
「廣井さんのベース上手かったもんね」
手すりにもたれかかったままそう言った。私はこくりと頷いた。
「でも……それは、私の事情でしかなかった。喜多さんを巻き込むべきじゃなかった。そもそも、私は……あの人と関わるべきだったんでしょうか。リョウさん。私は、喜多さんと関わるべきだってんでしょうか……?」
そのとき、山田の顔がようやくこちらに向いた。そして全てを見透かしたような落ち着いた目で覗き込んできた。
「ぼっちはそうやって、とにかく悩んでいたいんだね。内容がなんであれ」
私は、何か言おうとして言い返せなかった。そうじゃない、じゃなくてそうかもしれない。そしてきっとそうなんだろう。目を合わせられない私に呆れたようにリョウさんが鼻息をついた。
「私はさ。虹夏に、好きって言ったよ」
「……え」
「そしたら泣かれた。めちゃくちゃ泣いて、バカヤローって殴られた。今までずっと私の気持ちも知らないでってさ。でも、受け入れてくれたよ。そんでこっちもごめんって謝ってくれた。流れるようにキスもしまくった。呆れちゃうぐらい単純だよね、私たち。……愛し合うってさ。ぼっちが思ってるほど複雑じゃないんだよ。苦悩なんて踏み出せない自分のための言い訳なんだよ」
私はそれに頷けなかった。こんなとき煙草があったらごまかせたのに、と思ったけど、私のポッケはそんな都合よくない。私は首を振ると少し俯いた。
「でね、実を言うと私が虹夏に告白し直せたの、郁代が叱ってくれたからなんだ。だからぼっちたちも結ばれて欲しいの。勝手なのは分かってるけど」
「リョウさんは、大人だなあ」
私はいつ買ったかも知れないボロ靴を見つめてそう言った。
「この前虹夏ちゃんと話してて、気づいたんですよ。……私も結局、喜多さんに愛されてるって分かった上で、不安だから怖くて逃げてたんだって。喜多さんのために消えようなんてそのための方便だったんです。ヒーローになれない臆病さとか、ヒロインになりたい浅ましさとか……。そういうのが勝手に過去を壮大なトラウマに脚色してたのかも」
リョウさんは、少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「わからないでもないよ。ちょっとでも強く愛されたいもんね」
私は小さく頷いた。
「私って結構独りよがりな女だったんですかね」
「今気づいた?」
「えぇ……?」
くすくすとリョウさんは笑った。
「でも、私はリョウさんと違って口下手だから。今更どう喜多さんと向き合えばいいか、分からないんです」
そう溢すとリョウさんは顎に手を当て、何かを考えると、いきなりステージに上がって来た。
「えっ、リョウさん……?」
何も言わずに、あの人はずんずんと進み、ベースを掴むとコードを挿し、スイッチを入れる。そして、ためらいもせず、ジャカジャカと勢いよくかき鳴らした。
心臓に突き刺さるような音だった。強くて、ラフで、でも揺るぎない。
「うまいでしょ?」
「……はい」
「私の唯一の自慢、第二の喉なんだ。どれだけ意地っ張りなアホでもこれがあればなんとかなる」
その姿が、とても羨ましかった。
「バンドマンは負け犬でナンボでしょ」
「リョウさん……そんな気取ったセリフ言うバンドマン、最近見ませんよ」
「上等。私の理想はシドヴィシャスと廣井きくりだから。売れ筋の曲なんて2度と書いてやらない」
リョウさんはふん、と言って変なポーズを決めた。
私は、笑った。自分でも久しぶりだと思うくらい、自然に笑った。そして軽いため息を笑いながらついた。
「……過去はどう向き合えばいいかとか難儀な自分を、どう愛せばいいのかとか、確かに1人で考えるには難しすぎますね」
そうして私はようやくギターを握る準備が、できたような気がした。
「今の自分に出来るか分かりませんけど、」
できるさ、とリョウさんは言った。
そして、私はひとつの決心をした。
喜多さんに、伝えなきゃ。
過去も、喪失も、臆病も、愛も――
とりあえず全部、ギターで。言葉は必要不可欠だけど、私の場合まず自分がどう思ってるのか、音でもなんでもいいから知ってもらわないといけない。少しでもありのままの胸内を見せられるように。
いつからか、曜日の感覚がなくなった。
カーテンはずっと閉めたまま。スマホの通知は切っている。食事もとったりとらなかったり。食べるのが面倒くさいと思うようになったのは、たぶん生まれて初めてだった。
今日が何月何日なのか、もう考える気もない。冷蔵庫にあったコンビニの焼きそばパンをかじる。乾いた舌の上で、油っぽさだけが残った。流しに皿が溜まっているけど、目に映るだけで手は動かない。ずっとこの部屋に閉じこもって、テレビもつけず、ギターにも触れていない。このままなら、楽ではないけれど安心だ。なにかを期待しなくて済む。私がひとりちゃんを待っているのか、置いていかれたのか、忘れられたのか。答えは分からないけど、いずれにしても戻ってこないことだけは、ずっとわかってた。
部屋の真ん中に置かれた、最後のカセットテープ――『星座になれたら』。
空白のラベル、録音途中で終わっていたあの音。再生する勇気は、もうなかった。以前はあの子の曲が無ければ生きていけないとまで思っていたのに。私は死んでいっているのだろうか。だから、あの子のカセットを再生できないんだろうか。
とにかく身体がずっと怠くて寝返りをうつだけでも億劫だった。
だから、インターホンが鳴ったときも無視するつもりだった。でも、それは私の意思よりもずっと強引だった。
「喜多ちゃーん! 起きてるー!? 生きてるー!?おーい!」
その声だけで、部屋の空気が割れた気がした。
伊地知先輩だ。あの人は、こういうときに遠慮がない。良くも悪くも、優しさが真っ直ぐすぎる。
「……帰ってください」
声にならない声でそう言って、毛布をかぶった。
でも玄関のドアがドンドンと叩かれて、もうどうしようもなくなってから、しぶしぶ立ち上がる。
玄関を開けると、金髪の人が立っていた。特に手荷物もなく、走って来たからから息切れしているし、額には汗が滲んで見えた。
「……なんですか。寝てたのに」
「おはよ! よし、準備して! 出かけるよ!」
「は? なんで……今日も寝ます。寝たいんです」
「ダメ! もう靴持ってきたから! ほら、履いて!」
彼女はまるで私の母親役を買って出たかのように、私の靴を持って玄関の内側に突っ込んできた。
「……なにこれ、怖い」
「心配だったからだよ。なんかもう靴も捨ててそうだったから。早く行くよ!あーー、パジャマでもいいから!文句はあとで聞く!」
体力も気力も、反抗する余力すらなかった。
私は流されるまま、上着を羽織る間も無く、ボサボサの髪のまま連れ出された。朝の空気は冷たく、眩しすぎた。思わず目を細めた私に、先輩は笑った。
「前に会った時以来だよね。ほら、『私たち捨てられた〜』ってペペロンチーノ食べながら泣きあった時」
「……そうでしたっけ」
「そうだって!もう一ヶ月も前だよ」
先輩の握る手は強かった。朝の銀座を歩くなんて久しぶりだった。
「あのさ、私リョウとまた付き合い始めたの」
「…………オメデトウございます……」
「たは、そりゃそうなるか。人の恋事情とか聞きたくないよね。でも私喜多ちゃんたちに感謝してるんだ。リョウと復縁出来たのってほぼぼっちちゃんと喜多ちゃんのおかげだから!ありがとね!」
スーツ姿の人たちが忙しそうに行き交い、車が音もなくすり抜けていく。風は乾いていて、どこか冬の匂いがした。
「……あの、なんで私に言うんですか」
やっと言葉をこぼせたのは、交差点を渡りきったときだった。
「ん?」
「リョウ先輩と復縁したって、どうして私に教えるんですか。私に言ってもたぶん素直に喜んであげれませんよ。というか、なんで今、走りながら」
先輩は大きく見開いた目でこちらを見て、でもすぐに笑って、
「走りながらになってごめんね。でもとにかく喜多ちゃんにも幸せになってもらいたいって言いたかったの。これから見るものでね」
と、まっすぐに言った。
「……見たいものなんてないです」
「だいぶ塞ぎ込んでるね。でも、今日だけは見て。絶対、後悔させないから」
私は先輩の言うことの意味がわからなかった。そもそもなぜこんなに走らされているかも謎だ。しかし単に幸福自慢をするような人でもない。大体、パジャマでもすっぴんでも、こんな酷い顔でも許される場所なんてあるんだろうか。
「あの、ほんとにこれどこ行ってるんですか?」
「ライブハウス!私の!ずっと閉めてたけど、今日開けたの!!」
ますます分からなくなった。今の私には見たいバンドも聴きたいバンドもない。なのになんでこんなに先輩はハイテンションなんだろう。リョウ先輩がライブでもするんだろうか。訳のわからないまま私は走らされた。
ライブハウスの扉を開けたとき、空気が震えていた。
観客は多くはなかったけど、みんな息を詰めるようにステージを見つめていた。照明が落ち、ステージだけが光に浮かんでいる。音も、声も、まだ何も始まっていなかったのに、そこにいる全員が何かを期待していた。伊地知先輩が「ホラ、もっと前の方に行って」と小声で私を押し出した。周りの人にどけてもらって観客の先頭ど真ん中に私はなぜか立たされた。暫くすると照明がつき、そして、ステージのその光の中に。
ひとりちゃんがいた。
「嘘…」
思わずそう漏らす。私の心臓が、一度止まったように感じた。
それから、息が浅くなった。
なんで。なんでステージにひとりちゃんがいるんだろう。あの子はギターに触れられないんじゃなかったの??
小さな身体で、大きなアコースティックギターを抱えて、マイクの前に立っていた。震えている。彼女の細い輪郭は今にも消えそうで、汗ばんだ首下からは緊張が伺えた。それでもしかしその見開かれた蒼い瞳には、以前は感じなかった何らかの強い意志があった。
「……ひとりちゃん」
彼女がこちらを見た。目が合うと私がいることへの驚きや気まずさなんてなくて、絡ませるようにジッと見つめて来た。私もまたステージ上の彼女から目を逸らすことができなかった。
そして彼女は、静かに口を開いた。
「喜多さん」
一瞬、会場の空気が止まった。
私も、思考が途切れた。
耳がおかしくなったかと思った。でも、彼女ははっきり「喜多郁代さん」と言った。
もう一度。まっすぐに、震えた声で。
そしてスウゥゥっと息を吸い込んで、言った。
「お願いします!!
私と!!!!
お付き合いしてください!!!!!!」
マイクから溢れた余りにも大きな声は反響し、ライブハウス全体がギンギンと震えた。歓声はなかった。代わりに、どよめきが走った。観客たちは混乱し、しかし次第に笑いが溢れ、いいぞーー!!と言うものまで現れた。私はと言うと、顔は真っ赤なのに頭が真っ白になって
「ぇぇぇ……」
としか言えず、呆然と立ち尽くしていた。何が起こっているんだろう。あの子は何を言っているんだろう。
口がぷるぷる震え、目がぐるぐる回った。羞恥心と混乱と、喜び見たいな赤い感情が抑えられないくらいぐんぐん膨れ上がってますますわけがわからなくなった。
でも私が感情を整理する間も無くすぐに、彼女はギターを構えた。
「『星座になれたら』!」
そう言うと指を弦に滑らせ、王道進行のコードを奏で始めた。
それは、あのテープに残っていた音と同じだった。
でも、もっと綺麗だった。もっと、哀しかった。もっと、切実だった。
歌は進んだ。ギターの旋律もあの子の声も、音そのものは弱いのに必死に繋げることで曲の軸という強さを得ていた。君と集まって星座になれたら。そう歌う彼女の声は紡がれるたび、膨れ上がって私に入り込んでくる。
でも途中で、彼女の手が止まった。
震えていた。
砂の城が崩れていくように演奏が揺らぎ、音と形を失っていった。そしてギターを抱えたその身体が、ゆっくりと崩れ落ちていくのが見えた。ステージの真ん中でまばゆいスポットを浴びながら、心臓を両手で抱え込んで苦しそうにしゃがみ込んだ。マイク越しに荒い呼吸と、そんななのにまだ歌おうと歌詞を口ずさむ息が聞こえてくる。
もういいって。なんでそんなに苦しんでるのに貴女はまだ歌おうとしているんだろう。昔大事な人がいなくなってからトラウマでギターはまともにさわれないと自分で言ってたじゃないか。わざわざライブじゃなくても告白ぐらいすればいいのに。苦手な歌ぐらい私に歌わせればいいのに。どうしてわざわざ全部混ぜようとしてるの。
そんなことを考える私の瞳をひとりちゃんの姿が離さない。頭の中でなんでがこだまする。
気づいたら、私はステージに飛び出していた。
そして彼女の隣にしゃがみ込む。
「馬鹿」
あれって喜多郁代じゃない?なんていうざわめきも人の目も気になったけど問題ではなかった。
目の前の彼女は、少し驚いた顔で私を見上げていた。
「あ....なんで喜多さんステージに....というかパジャマ....」
「なんではこっちのセリフよ。ねえ、なんで私に内緒で出てったの?今までどこいたのよ。アパート引っ越すのいつの間にしたの?なにあの不法侵入してカセットテープだけ残しすくせに合鍵は返さないやつ。忘れてほしいのかほしくないかぐらいはっきりしなさいよ。今日まで私がどれだけ泣いて、死のうとまでしたか知ってる?ねえ」
「ちょ、ちょっと喜多さん待って、マイク入ってる。お客さんに聞こえてますって」
「いいから答えて。なんで歌なの?」
そう尋ねると彼女は一瞬呆気にとられたような表情を浮かべ、そして何度か瞬きすると震え混じりに答えた。
「音楽で知ってもらったから、....お別れも、告白も、音楽でするのが妥当かなって」
「ばか。ほんとうにばか。ばかばかばか。ばかひとりちゃん」
そして私はつむじを彼女の背中にこすりつけた。
「え......なにかまずかったですかね」
「いいわよ。何も分からなくて。どうせそのうち絶対分からせてあげるから」
そして私は貸して、と言って彼女からギターを奪った。
「ホラ、マイク持って。続きやるんでしょう」
「へ....?いや、でも」
「歌で告白してくれるんでしょ?」
そう拗ねたように言うとひとりちゃんは少し笑って頷いた。彼女はマイクスタンドを杖のようにしてよろよろと立ち上がった。お騒がせしました、もう一回、と言って。
そして私はストロークを始めた。
彼女のコードに寄り添い、リズムを取り、歌の続きを運んだ。彼女の手が、震えながらも動き始めた。
ギターが、また音を奏で始める。
彼女が歌い、私が奏でる。相変わらずの味があるか細い歌声。
全くどうしてこんなに好きになったんだろう。お互い抱えてる問題一つも十分に処理できないくせに、一丁前に感情だけが突っ走って、押し付け合いを愛だの恋だのと叫ぶ。ひとりちゃんは私がお酒に弱過ぎるとかごねてたけど、私はそれ以上に貴女に弱いんだよ。でも貴女がいなくなってから日を追うごとにますます弱くなってってた。貴女の曲から貴女を知って好きになったけど、貴女の曲以上に貴女が好きなんだよ。音楽で告白?そんなので惚れ直すほどチョロくないのよ。そもそも告白なんてされなくても好きだし、私が惚れたのは音楽に頼らないと告白一つもままならない、貴女の大胆な恥ずかしがり屋なところなの。初めて会ったとき無愛想な貴女を見てちょっと腹がたったけど、ひとりちゃんってば1回目のライブ以降どんどん素直になってくし、貴女みたいな可愛い女の子に優しい笑顔向けられたら、あれ?この子私のこと好きなのかな??って勘違いしちゃうの。ええそうですよ。私はどうせさっつーがいってたみたいな顔のいい女にチョロい女ですよ。そんなだからちょっと目を離すと知らないうちに知らない人にもらわれちゃうわよ。嘘。貴女以外こんな複雑機構の女もらってくれないよ。貴女しかいないの。一生に一回の運命なの。でも一回きりの告白をおぼえてられるほど器用な頭じゃないし、気持ちなんてたまに貴女がする難しい顔一つで迷子になるし。貴女がいなくなっても落ち込んで探そうともしなかったヒロイン気質の激重女なの。だから、付き合ったら一日最低5回は好きって言ってもらうし、結婚したら一晩も寝かしてもらわないんだから。過去が忘れられないとか根暗すぎるとか、全然嫌じゃないしむしろそんなだから好きなのであって。話ならいつでも聞いてあげるし、辛いとか悲しいとか気にならないぐらい幸せにして上げるわよ。だから一緒にいて。
そんな事を考えながら私は隣で、ただひたすらにひとりちゃんの背中を支えた。
喜多郁代って女は、呆れるぐらい臆病で、一方的で、自己中で、身勝手で。
それでも――
それでも、あなたが好きなの。
私は、ひとりちゃんが好きなんです。
おんなじぐらい臆病な貴女が、好きなんです。
音が、空間を満たしていく。観客の誰かが、泣いていたのかもしれない。でも、私にはもう、彼女の歌声しか聴こえなかった。最後のフレーズが、会場に響いた。
私は彼女を見つめた。
彼女も私を見つめた。
その目が、泣きそうで、笑っていた。そして、拍手のシャワーの中私たちの手は固く繋がれていた。
エピローグ
銀座の昼は、相変わらず綺麗だった。
人の多さも、ビルのガラスに映る光も、あまり好きじゃないはずなのに、今日みたいな日は少しだけ違って見える。空気に溶けたコーヒーの香り、通り過ぎる靴音。世界はちゃんと生きていた。
オープンカフェのテラス席で、私はカップの中身をゆっくりと冷ましていた。
対面にいるリョウさんは、すでに三口ほど飲んで、うんざりしたように口を開いた。
「ねえ、ぼっち。悪いんだけどさ……コーヒー代、払って」
「……またですか? 」
「もうさ、ほんとに財布が風邪引いてる」
「風邪じゃなくて、膵臓癌ですって、それ」
私が半眼で睨むと、山田は誤魔化すようにちょっとだけ笑った。以前よりも肩の力が抜けた顔。どこか、穏やかだった。
「この間ライブで見ましたよ。……なんか、変わりましたね」
「うん。売れてはないよ」
「えぇ……?」
「ミーハーのファンには刺さらないみたいで。そりゃそうだよね。長年ヘラヘラやってきたから」
「リョウさんの言葉で、ヘラヘラって……」
でも、不思議と悔してそうではなかった。むしろ、少し満足そうにすら見えた。
「後悔してないんですか?」
「ないよ。いざとなったら虹夏に養ってもらうからさ」
「……そんなこと言うと、また怒られますよ」
「怒った顔も可愛いからいいの」
彼女は真顔で、そう言った。ここまで突き抜けた彼女に対して売れる売れないなんて言い出すのはバカらしくなった。
「実は私も、最近は……あんまり曲を作ってないです」
「え?」
「無理に吐き出さなくても、ちゃんと息ができるようになったというか。それに……ギター、少しだけ、長く触れるようになりました」
そう言うと、リョウさんは珍しく、少しだけ優しい顔をした。そのまま、少しだけ笑って、カップを置いた。
「ね。今度、式あげるんだ。私たち。……って言っても、ちっちゃい身内だけのやつだけどね」
「え」
「もう25だし、いいぐらいでしょ。虹夏もそろそろ痺れ切らし始めたし」
「……やっとですか」
私は少し呆れたように言う。この熟年夫婦がまだ結婚してなかったことに対する呆れだ。そしてリョウさんは吹き出した。
「おお、ぼっちにしては辛辣。ブーケトスしてあげるから来てね」
「えっ、嫌ですよ。そんなの……私たちの結婚なんて、間違いなく不仲の要因にしかなりませんって」
「ーー何の話?」
声がして、後ろを振り向いた。
そこに、喜多ちゃんがいた。
ライブ終わりだったのだろう。ちょっとだけ汗ばんだ額に、日差しが反射していた。私の目は、瞬間的にぱあっと明るくなっていたと思う。
「喜多ちゃん!」
立ち上がる前に、気づいたら彼女に抱きしめられていた。細い肩。細い腕。でも、ちゃんと戻ってきてくれた。何度でも、私の場所に。
「相変わらずだね」とリョウさんが苦笑する。
「お陰様で」と、喜多ちゃんが言う。
そのあとだった。喜多ちゃんが、私の耳元にそっと顔を寄せた。
「……薬指のサイズ、測っておいてね」
「……へ?」
口の中で言葉が弾けて、まとまらなくなった。顔が熱くなる。耳の奥が、ぐらぐらする。
そんな私を見て、喜多ちゃんはくるりとリョウさんの方を向いて、してやったりと言うふうにぺろっと舌を出した。
「一生やってろ、バカップル」
リョウさんが溜息交じりにそう言った。
銀座の街は、午後の光を浴びて柔らかくきらめいていた。車のボンネットが反射する光。ガラスに映る人の群れ。雑多で、騒がしくて、でも、こんなにも愛おしい日常。
きっと、今の私なら。
この街で喜多ちゃんと、二人で生きていける。
そんなふうに思えた。