自分より大きな形の生物を異形の怪物たちが虐げている。その牧場の片隅、壊れかけた小屋で、一人の少年が生まれた。名はなかった。名を与えられることなど、ここでは贅沢なことだった。
母親は名もなき奴隷の一人で、少年を産んでまもなく命を落とした。少年は泣いても誰も世話をしなかった。だが、飢えと寒さのなか、それでも彼は生き延びた。
少年は飢えを知り、痛みを知り、恐怖を知った。毎日、日が昇ると魔族の監視者たちが人間たちを追い立て、労働と虐待の日々が始まる。逃げようとすれば食われ、言葉を発すれば舌を切られる。少年の耳には、幾度となく悲鳴がこだました。ある者は死に、ある者は壊れ、ある者は無感情の殻となった。
それでも少年は目を閉じなかった。生きている意味など分からなかったが、それでも彼は生きた。泥をすすり、腐ったパンを盗み、鞭を避け、肩をすくめて眠った。
十三歳の誕生日など祝われることはなかった。ただその日、少年は夜明け前に目を覚ました。空がまだくすんでいたとき、小屋の裏に用を足しに行った。そこで、少年は奇妙なことに気がついた。
柵が、壊れていた。
鉄製のはずの柵の一部が、根元からぽっきりと折れていた。何かが外からぶつかったのか、それとも老朽化か。理由はどうでもよかった。そこには、子供一人が通り抜けられるほどの隙間ができていた。
柵の外はどうなっているんだろう。
だが、そのとき彼の背中に焼きついていた数えきれない傷の痛みが、彼の足を止めさせた。見つかれば、殺される。それも、簡単に。
その日は何食わぬ顔で戻り、何もなかったように働いた。だが、夜になると彼はもう一度小屋の裏に立った。月も雲に隠れ、夜は闇に満ちていた。柵の隙間はそこにあった。彼を呼んでいた。
少年は息を殺し、小さく祈った。自分に神の名などわからなかった。けれど、この場所を出られるなら、どんな力でも借りたかった。
泥を這い、草をかきわけ、少年は柵を抜けた。
外の空気は違っていた。冷たく、澄んでいた。風が頬をなでたとき、少年は初めてこの世界に「風」というものがあると知った。牧場の外には、黒く高い木々が立ち並ぶ森が広がっていた。そこに何がいるのかも分からない。だが、柵の中よりはマシだと、彼は信じた。
だが、すぐに足音が追ってきた。訓練された犬の鳴き声が聞こえる。逃げ出した人間を追いかける追跡者たちだ。少年は森へと駆け込んだ。枝が顔を打ち、足が絡まり、血が流れても止まらなかった。
魔族の怒声が背後で響いた。少年は振り向かず、走った。走って、走って、どこまでも走った。足の感覚がなくなり、呼吸が荒れ、視界が霞んでも、止まらなかった。
やがて彼は、倒れた。
息ができなかった。肺が焼けるように痛んだ。だが、そのとき見上げた空には、木々の間から月明かりが差し込んでいた。銀色の光に包まれて、少年は目を閉じた。
◆
焚き火の光が、かすかに少年の頬を照らしていた。木々がざわめき、夜の獣たちが遠くで吠える。地面の湿気が背中を冷やし、目を閉じても安らぎなどなかった。
夢を見ていた。いや、悪夢だった。
鉄の匂い、血と糞尿の混じったにおい。叫び声。鞭の音。光のない柵の中。再び戻されたのだと思い、少年は喉の奥で悲鳴をあげた。だが、目を覚ますとそこには鉄ではなく、やわらかな人の手があった。
「大丈夫、夢だ」
声は低く落ち着いていた。火のそばに座る女の人がいた。茶色の髪をゆるく流し、二本の長剣を帯びていた。視線は穏やかで、目尻には微かな皺が寄っている。
「悪い夢だったろ、逃げたばかりじゃ無理もない」
少年は言葉を返せなかった。誰かに触れられることに慣れていない。疑いと恐れで、心がちりちりと焼けるようだった。
女は無言で懐から小箱を取り出した。蓋を開け、細い紙巻きの煙草を一本取り出すと、自分の口にくわえて火をつけた。煙が夜風に流れ、草の香りと混じって漂った。
「吸え」
少年はきょとんと目を見開いた。煙草という言葉も知らない。ただ、彼女の手から渡されたそれを、おそるおそる口にくわえる。女は火をつけてやり、やさしく言った。
「吸い込むんじゃない。少し口に含んで、吐くだけでいい」
煙は苦く、かるくむせた。だが不思議と、胸の奥の緊張がほぐれていった。少年は初めて、自分が震えていたことに気づいた。涙が、頬をつたって落ちた。
女はその涙を見ても何も言わなかった。ただ静かに笑って言った。
「名はあるのか?」
少年は首を振った。
「そっか。なら、これからは■■■■と名乗るといい。これはお前のものだ」
「いい名だろ。私はヘレン。好きに呼びな。明日から、しばらく一緒に旅することになる」
その日から、少年の新しい生活が始まった。
◆
ヘレンは“傭兵”だった。金をもらって戦う人。だが彼女はただの戦士ではなかった。物腰は柔らかく、けれど話すことは実に理路整然としていた。アンセルムは最初こそ警戒していたが、彼女の懐に潜む包容力に、次第に心を許していった。
「ここは南大陸。『血族、あるいは新たなる神』たちが派閥戦争をやってる魔族の支配下。北の大陸とは別世界だ。お前がいた牧場も、南の辺境領のひとつだ。ああいう施設はここにいくつもある」
ある日、焚き火を囲みながらヘレンは言った。
「じゃあ、他にも……」
「ああ。お前と同じように飼われてる人間が、まだたくさんいるよ。けど、お前はもうそこにはいない」
そう言って、ヘレンはフリントロックの銃を手に取り、手入れを始めた。アンセルムは彼女の手つきをじっと見つめていた。
「使ってみるか?こんなもの強者には通用しないが…」
少年はうなずいた。銃は想像より重く、冷たかった。ヘレンは構え方、火皿の扱い方、火薬の詰め方、引き金の感触、そして撃つときの集中の仕方まで丁寧に教えてくれた。少年は驚くほど早くコツをつかんでいった。
それだけではない。ヘレンは二本のサーベルを使いこなした。その剣術を、アンセルムにも手取り足取り教えてくれた。
森の獣を捌き、川魚を焼き、乾いた街道を歩く旅のなかで、彼は生きる術を少しずつ学んだ。
「この世界で生きるには、力と知恵の両方がいる。剣だけじゃ駄目。話し合いもできなきゃな」
とある小さな交易所で、ヘレンが商人と交渉する姿を隣で見ていた。物腰は丁寧、だが一歩も引かない。必要なら脅しも使い、逆に相手を立てることも忘れない。
交渉を終えた後、ヘレンは言った。
「笑顔は剣より怖いときがある。覚えてけ」
◆
ある日のこと、夕暮れ時に木の根元で一人、煙草をくゆらせていた。まだ咳き込みながらだったが、だいぶ様になってきた。
ヘレンが近づき、隣に腰を下ろす。
「随分と板についてきたな」
「……煙草って、なんで吸うの?」
ふと聞いた。ヘレンは肩をすくめて笑った。
「死ぬほど苦しかった日も、これを吸うと少しだけ、心が遠くなる。痛みからも、記憶からも」
そして彼女は、少しだけ悲しげに言った。
「……お前が、それを必要としないで生きていけるといいんだが」
風が吹いた。煙が空へと舞い上がる。どこかへ、遠くへと。
その夜、彼の夢に、柵の中の母の顔は現れなかった。
◆
その日は朝から、いつもよりも濁った風が吹き、鳥の声はなかった。
雇われた戦場は、南部の湿地に築かれた砦だった。魔族の領主同士の内乱に巻き込まれる形で、ヘレンと少年は傭兵隊の一部として参戦していた。
「今回はちょっとばかり、運が悪いかもな」
そう呟いたヘレンの顔に、冗談めいた笑みはなかった。敵の兵力は事前の情報よりもずっと多く、湿地のぬかるみは味方の動きを鈍らせた。開戦してまもなく、傭兵団は後退を余儀なくされ、仲間たちはばたばたと倒れていった。
ヘレンは少年の目の前で肩から腹までを切り裂かれた。
必死に、地面に倒れ、泥と血に染まったヘレンに駆け寄った。
ヘレンは笑っていた。苦しげに、けれど、どこか穏やかに。
「教えられることは、もう全部教えた…」
「いいか、お前はもう、弱くない。生きろ。誰に奪われず、お前の足で」
彼女の手が、少年の頬に触れた。震える手が、最後に彼の名を呼んだ。
「■■■■……いい名前だろ」
それが、最後の言葉だった。
彼は湿地の端、小高い丘の上に墓を作った。スコップもなく、剣と素手で土を掘った。何度も爪が割れ、手のひらが血に染まってもやめなかった。
小さな十字の枝を立てて、ヘレンの名を刻んだ。墓標の前に、彼女がいつも吸っていた煙草を一本置いた。
風が吹いた。煙草は火もつけられずに倒れ、土に転がった。
それを拾い、火をつけ、初めてのように深く吸い込んだ。
煙が胸を満たす。苦く、熱い。だがそれは、確かに彼女の教えてくれた味だった。