赤鷲騎士団の本拠地から少し北へ、丘陵地に囲まれた湿地帯に仮設の野営地が広がっていた。そこには数百の兵と、今や名の知れた騎士団の精鋭部隊、マエリ―タ隊が駐屯していた。
彼らの狙いはただひとつ――血族、“支配と黄金のフランシュア”の討伐。
軍議の幕舎では、ランタンの灯りの下にマエリ―タ隊の顔ぶれが揃っていた。アンセルム、フィリップ、フラウ、そしてケッセルリンク。外では兵士たちが整備を続けていたが、幕舎の中は重い沈黙に包まれていた。
「……あの男が、フランシュア」
アンセルムが低く呟いた。
ケッセルリンクは地図の上に木製の駒を置くと、口を開いた。
「そうだ。かつて《アムロスの天秤》と呼ばれた魔術師。だが今は、“支配と黄金”の名で知られている」
フラウが小さく唸る。
「それにしても厄介だな……黄金に変える魔術? 何もかも?」
「――文字通り、何もかもだ」
ケッセルリンクは眉をひそめた。
「空気、土、水、人の皮膚や内臓まで。全てを黄金に変える。ただし、条件がある」
全員の視線がケッセルリンクに集まる。
「それは月光だ。あの術は、満ちた月の明かりを媒介に発動する。夜が深まれば深まるほど、その魔術の精度は増す」
「なぜそこまで詳しい?」
アンセルムが口を開いた。
ケッセルリンクは一瞬、何かを思い出すように目を細めた。
「……弟子だったんだ。あの男のな」
幕舎の空気が一変した。誰もが沈黙し、やがてフラウが驚き混じりに口を開いた。
「……ケッセルリンクが、あんな化け物の弟子だと?」
「若い頃の話だ。あの頃のフランシュアは、まだ常識と理性を持っていた。だが、魔術の可能性を追い求めるうちに、彼は“価値”そのものを操作したいと願うようになった。金貨ではなく、黄金そのものを。価値あるものすべてを、己の意志で変えられる力を――」
ケッセルリンクは声を低めた。「……それが彼の血族化の契機だった」
「……」
フィリップは何かを考えていた。
ケッセルリンクは顔を上げ、鋭い目でアンセルムを見つめた。
「だから言っておく。夜には絶対に戦うな。相手の本領は、月の下にある。我々が勝てる可能性があるのは、日のあるうちだけだ」
幕舎の外、風が湿った草を揺らし、遠くで野犬の吠え声がこだました。
***
翌朝、アンセルムたちは偵察部隊から報告を受けた。
「敵軍は、湿地の向こうに構築した砦にこもったまま動きません」
「正午を過ぎても、火の手も見えず。あちらに動きはありません」
日が高くなるほど、兵士たちの間に焦燥が広がっていった。先制攻撃をしかけるべきだという声もあったが、ケッセルリンクは頑として動かなかった。
「日中の強襲は、彼の領域ではない。敵にとっては分が悪い……だが、我々が攻めれば罠にはまる」
「なら夜を待つのか?」
アンセルムが苛立ちを隠さず言った。
「違う。夜は絶対に避けろ」
ケッセルリンクの声には、師でありながら弟子を見限った者の覚悟が滲んでいた。
***
しかし、夜は容赦なく訪れた。
月は満ち、雲ひとつない空に黄金のような光を落としていた。
そのときだった。
「報告! 敵軍が動きました――こちらへ進軍中とのこと!」
幕舎がざわついた。
「夜だぞ!?」
「奴はこの時を待っていた……!」
丘の上から、彼らは敵軍の先頭に立つ一人の男を目にした。
黄金の鎧。老いた顔に威厳を湛え、杖とも剣ともつかぬ黄金の器具を手に歩むその姿
。
“支配と黄金のフランシュア”。
彼の足元に触れた草は、光る金の植物に変わった。
彼が呼気を漏らすと、周囲の空気が瞬時に金属粒子となって舞った。
「やはり来たか……」
ケッセルリンクは悔しげに呟いた。
アンセルムは歯噛みした。「……戦うしかないのか」
「だが夜だぞ、ケッセルリンク……」
「ここで退けば、奴はこの地を呑み込むだろう。我々の背後には民がいる」
ケッセルリンクはすっと立ち上がり、杖を手に取った。「私が囮になる。魔術の系統は知っている。お前たちはその隙に、心臓を狙え」
「……やはり、お前はまだ師なのか?」
アンセルムが問う。
ケッセルリンクは一瞬、目を閉じた。
「――あの男を、かつて誇りに思ったことはある。だが今は違う。ただ、弟子を討ち取ることで、師として終わりを迎えたいのだ」
***
月が昇る頃、戦場の空気は変わった。
地平から迫る金色の波。木々を、岩を、そして人の皮膚までも黄金に変えながら進軍する軍勢。その先頭には、燦然たる威厳を纏ったひとりの男――血族“支配と黄金のフランシュア”の姿があった。
「来るぞ――構えろ!」
アンセルムの号令とともに、マエリ―タ隊が一斉に武器を構える。彼の隣にはフィリップが盾を持ち、後方にはフラウとバリ。前線には赤鷲騎士団の戦士たち、そしてケッセルリンクもその中にいた。
「触れるな! 黄金になるぞ!」
フランシュアが一歩踏み出すたび、地面が金に変わり、倒れた兵の体は像となった。
「ここで踏み止まらねば、城は落ちる!」
リカルドが剣槍を振るい、叫んだ。
しかし――それでも、敵は強大だった。
黄金の杖を掲げるフランシュアが呟くたび、兵の列が崩れていく。地面が隆起し、槍が金塊と化し、魔術は反射されて逆流する。フラウの火球も、フィリップの突撃も、歯が立たない。
そして、ついに――
「退け! 今は……引くしかない!」
ケッセルリンクが叫んだ。
「だが……!」アンセルムが言いかけると、ケッセルリンクは振り返らずに言った。
「私に任せろ。まだ、やるべきことがある」
彼はフランシュアへ向き直ると、空中に魔方陣を展開し始めた。
赤い光が瞬き、地面が鳴動する。
「行け、アンセルム。バリに伝えろ――“結界の式”は完成寸前だったと。私の死をもって補えば、間に合う」
アンセルムの喉が詰まった。「まさか、そんな……!」
だがケッセルリンクは、ふと笑った。「私もようやく、間違いに終止符を打てる」
地が光り、轟音とともに爆風が走った。
その間に、アンセルムたちは軍を率いて撤退する。
振り返ったその先――爆炎の中に、ケッセルリンクの姿はなかった。
***
朝――赤鷲騎士団の城砦にて。
「来るぞ!」
見張りの叫びに、全員が緊張する。
遠くから黄金の光が城壁を照らし、フランシュアの軍勢が城門を包囲していた。
「門の強化は?」
「完了済みです、バリが夜通しで!」
バリは無言で頷いた。
その手には、ケッセルリンクが残した魔術論文の写しが握られている。彼女はそれを解読し、わずか数時間で“結界式”を完成させた。
「発動――!」
バリが呪文を唱えると、城砦の四方から光の柱が立ち、天へと結びついた。空気が変わる。
外から見ると、城全体がまばゆい蒼光の結界に包まれていた。
フランシュアが歩み寄り、黄金の杖を掲げる。
「この程度で……」
だが――金に変わらない。
風も、土も、門も、兵も。
その瞬間、フランシュアの眉が僅かに動いた。
「……ケッセルリンクか」
彼は顔をしかめると、静かに笑った。
「ならば、その遺志ごと踏み潰すまでだ」
***
結界内での戦いが始まった。
結界の中では、黄金化の魔術が封じられる。フランシュアにとっては致命的な制約だ。
リカルドの剣槍が最前線を突破し、フィリップの盾が味方を守る。
フラウの雷撃が直撃し、バリの剣と魔術が閃光を走らせる。
「フランシュアァ!!」
アンセルムが叫びながら突進する。
「貴様を――絶対にここで止める!」
「来るがいい。私を討つことでしか、あの男の死は報われまい」
フランシュアは構え、金ではなく純粋な戦技と魔術で迎撃した。
だが、彼は老いていた。力の衰えを、魔術で補っていたに過ぎない。
リカルドが剣槍で隙を作り、フラウが空間を歪めるほどの魔法で足元を砕く。
「今だ、アンセルム!」
アンセルムが跳躍し、剣を振り下ろす。
――刃が、フランシュアの胸を貫いた。
血が噴き、黄金の杖が地に落ちる。
彼はゆっくりと膝をついた。
「……この程度か、と思っていたが……やはり、弟子の弟子は……侮れんな」
息を吐きながら、フランシュアは笑った。
「バリ、と言ったか……ケッセルリンクの技術を継いだか。立派だ」
その名を呼ばれた女性は、震えながら剣を下ろした。
「師の遺志が、こうも美しく結実するとは。まったく……皮肉だな」
彼の最後の言葉は、賞賛だった。
そして彼は、静かに崩れ落ちた。