北の空に、かつてないほどの冷たい風が吹いていた。
雪混じりの雲が渦巻き、太陽の輪郭すら曖昧なその空の下に、ひとつの影があった。
――ネブラカスの城。
黒い牙のように尖った塔が連なるその城を前に、アンセルムはしばし立ち止まった。
腰に手を添え、懐から小さな紙片を取り出す。古びた羊皮紙には、乱れた筆跡でこう記されていた。
『赤ちゃん、できたみたい。帰ってきたら、一緒に話そう』
アンジェリカの筆跡だった。優しい言葉に、ほんのわずか震える痕跡が混じっている。
彼女は迷いながらも、命を伝えることを選んだ――その時の表情が、今も脳裏に焼きついていた。
「……ネブラカスを倒したら、すべて終わる」
アンセルムは呟く。「アンジェリカと……子どもと一緒に、北へ行く。あの日、話した夢を叶えるんだ」
彼の隣で、ネイアが頷いた。「そのために、ここまで来たんですよね」
フラウが小さく鼻を鳴らす。「さっさと終わらせよう。あの化け物をこの地から消せばいい」
バリが最後尾で魔導書を握り締めながら言う。「でも気をつけて。ネブラカスは――死なない」
「いや、もう死ねるさ」
アンセルムは背の革袋から、禍々しく光る黒の立方体を取り出した。
「“深淵の立方体”。これを砕けば、不死の術式は消える。あいつの命も、終わる」
全員が黙った。城門が、ゆっくりと軋む音を立てて開いていく。
闇が、彼らを迎え入れた。
***
ネブラカスの城は、まるで意志を持っているかのようだった。
黒い回廊は歪み、正面の扉は開けた瞬間に別の場所に通じ、壁には無数の目が浮かび上がった。
罠、幻影、精神操作。あらゆる術が侵入者を迷わせ、食い殺そうとする。
「くそっ……また同じ階に戻ってる!」
ネイアが憤る。
「焦るな。見ろ、あの石像の位置が微妙に違う」
フラウが指差し、空間の“間違い”を暴いていく。
やがて、バリがつぶやいた。
「城そのものが“嘘”でできてる……ネブラカスの魔術だわ」
それでも、進んだ。恐怖と混乱を押しのけ、マエリータ隊は城の中枢へと突き進んだ。
***
漆黒の玉座の間。
そこに、“深淵と嘘”のネブラカスはいた。
彼は人の形をしていたが、その影は異形だった。
黒い甲冑が音もなく身を包み、瞳孔のない目がゆっくりとこちらを見た。
「ようこそ。英雄たちよ。夢を見る者よ」
ネブラカスは嗤った。「貴様が、アンセルムか?」
「そうだ。貴様を倒すために来た」
アンセルムは立方体を掲げた。
「そしてこれが――お前の命の檻だ」
彼は力強く足元にそれを叩きつけた。
バキィン!
立方体が砕け、暗黒の気配が弾ける。部屋中の空気が震え、ネブラカスの鎧が一瞬だけ揺らいだ。
「……なるほど」
彼はぽつりと呟く。「だが――ようやく楽しめそうだ」
***
戦いが始まった。
ネブラカスは剣を抜いた。刃は漆黒、振るうたびに影がうねり、地面を呑み込む。
その一撃は、物理と魔法の境界を曖昧にする。盾も鎧も、霧のように斬り裂かれる。
「こいつ……っ、桁が違う!」
ネイアが血を吐きながら叫ぶ。
フラウの炎は闇に呑まれ、バリの魔術は歪みに反転し、アンセルムの剣ですら掠った傷が再生する。
「お前はすべてを信じている」
ネブラカスが呟いた。「愛、希望、命の尊さ……そのすべてが、どれほど脆いか。今、教えてやろう」
バリがよろけ、血に染まりながら叫んだ。「みんな……撤退を!」
アンセルムは剣を構えたまま、苦悩するように振り返った。
「まだ……倒してない!」
「でも死んだら、全部終わる!」
フラウが叫ぶ。「アンジェリカは? 子どもは?!」
その言葉に、アンセルムの剣が震えた。
***
逃げた。
闇の中、わずかな火灯りだけが揺れていた。
ネブラカスの城奥、退避した一室に身を潜めるアンセルムたちは、傷と敗北の重さに沈黙していた。
剣を折られ、魔力を損ない、仲間の息遣いだけがまだ「終わっていない」と告げてくる。
フラウが口を開いた。「……あの時、あと一撃入っていれば」
バリは無言で傷の手当てを続けながら、目の下に隈を作っていた。
「悔やむな」アンセルムが言った。「今は、生き残れたことに感謝しよう
」
誰も口を挟まなかった。敗北の重さは、勝利の言葉よりも雄弁だった。
だがその時だった――
石壁を揺るがす爆音。床が震え、天井の埃が降る。
そして、廊下の奥から聞き慣れた怒号が響いた。
「どこだ、アンセルムッ! 生きてるなら返事しろ!」
その声に、アンセルムが立ち上がった。「……リカルド!?」
廊下の先から飛び込んできたのは、堂々たる体格と鋭い目をした男――赤鷲騎士団の副団長リカルドだった。
その背後には、騎士団の兵たちが続いていた。重装備の戦士、弓兵、魔術兵……増援だった。
「陽動部隊の追撃が予想以上に手薄でな。片付けて、急いでこっちへ回った。……間に合ってよかった」
歓喜の声が上がる。
アンセルムは息をついた。「よく来てくれた、マジで……!」
「だが、こっちもただの援軍ってわけじゃない」
リカルドは背の袋から、数本の小瓶を取り出した。「ジル様の血を素材に、フラウが錬成した“活性薬”。一時的だが、命を燃やすほどの力を引き出せる」
「……完成してたのか」フラウが驚きに目を見開く。
「この日のためにな」
小瓶は順に回されていく。アンセルム、フィリップ、バリ、フラウ、それに新たな兵たちも。
それは力の源ではあるが、代償も大きい。体への負担は尋常ではなく、使用後は数日間立てなくなるだろう。
それでも――今この時を逃せば、ネブラカスに勝つ機会は永遠に失われる。
アンセルムが瓶を握り締めた。
「行こう……最後の戦いだ」
***
玉座の間に再び足を踏み入れる。
ネブラカスは変わらず黒の玉座に座し、ただ静かにこちらを迎えていた。
「また来たか。もう逃げないのか?」
「今度は、終わらせに来た」
アンセルムが応じた。「貴様の“嘘”を――」
全員が一斉に薬を飲む。体内に燃えるような熱が走り、力がみなぎる。魔力の奔流が皮膚の下を走り、筋肉が限界を超えて膨れ上がった。
リカルドが前へ出る。「やるぞ!」
そして――戦いが始まった。
***
ネブラカスの剣が空を裂く。闇が螺旋を描いて突き進み、空間ごと引き裂く斬撃がアンセルムを襲う。
だが今の彼は、もはや逃げない。剣を構え、受け止めた。砕ける寸前で、リカルドが横から剣槍で影を突き崩す。
「貴様らの“希望”など……!」
ネブラカスが叫ぶ。
「私たちは、希望そのものを信じてるわけじゃない」
フラウの声が響く。紫の雷が空間を裂き、ネブラカスの右腕を焼く。
「信じてるのは、“それを繋ぐ意志”だ!」
バリが詠唱を終える。ケッセルリンクの魔術理論を応用した魔法陣が床に展開され、影の動きが一瞬止まる。
「今よ!」
アンセルムが跳ぶ。剣が輝き、全力を込めた一撃が――
ネブラカスの胸を貫いた。
黒い血が噴き出す。甲冑が裂け、ネブラカスが崩れる
。
「この程度の……“感情”で……」
彼はなお、笑っていた。
「お前たちの未来など、すぐにまた深淵に呑まれる」
その時、バリが歩み寄り、短く呟いた。
「でもそれを、信じるって決めたのよ」
彼女の剣が振り下ろされ――
***
戦いが終わった。
ネブラカスの体は静かに崩れ、闇の魔力も、立方体の残滓も消え失せた。
リカルドが床に座り込む。「……しんど」
バリも地に座り込み、息を整える。「立てない……でも、生きてる」
アンセルムは剣を突き立て、それに寄りかかりながら言った。
「……勝ったんだな」
誰もが、それに答えた。
言葉ではなく、笑みで。血と汗にまみれた微笑みで。
***
深淵の王――ネブラカスが崩れ落ちてから、まだ一刻も経っていなかった。
黒く染まった玉座の間には、勝者の静けさと疲労が支配していた。アンセルムはその中心に剣を突き立て、両膝をついたまま天を仰いでいた。肩が上下し、呼吸が荒い。だがその顔は、確かに微笑んでいた。
「……終わったんだな」
バリが寄り添うように言う。「本当に、終わったんだね……」
フィリップが壁際に座り込み、リカルドは軽く頭を押さえていた。
「これで……やっと、赤鷲の皆とも安らげるな」
だがその瞬間――
重い扉が乱暴に開かれ、衛兵の一人が全身に傷を負いながら駆け込んできた。顔には土と血が混じり、肩には赤鷲騎士団の紋章を巻いた外套がかろうじて残っていた。
「急報……!緊急報せ――!」
アンセルムは立ち上がった。「どうした!」
「……赤鷲の、城が……!」
兵士はそのまま膝をつき、顔を伏せながら続けた。
「血族たちが……各地の派閥が……結託して、騎士団本部を急襲……」
「……なんだと?」
空気が凍った。
「城は……占拠され……」
その声が震える。兵士は、唇を噛みしめた。
「ジル様は……討ち死にされました」
その言葉が、玉座の間を、そして全員の心を真っ二つに裂いた。
「嘘……」
バリの声は、かすれていた。
「本部の防衛線は突破され、魔術結界も……無効化されたそうです。血族“鋼と氷のアグネス”、“罪と贖罪のアグノス”、そして……“死と再生のミラエル”が、連合軍を指揮……」
リカルドの顔が蒼白になる。
「ジル様は最後まで……アンジェリカ様を守り続けましたが……敵の手により……斬られ……そして……アンジェリカ様は、囚われの身に……フィリップ隊長は行方不明です…」
その瞬間、アンセルムの中の何かが爆ぜた。
彼はゆっくりと兵士に歩み寄り、肩を掴んだ。
「アンジェリカは、生きているんだな」
「……はい」
アンセルムは拳を握りしめた。
血が滲むほどに、強く。
「リカルド」
「……ああ」
リカルドは静かに立ち上がった。「急ぎ、全軍を再編する」
「ネイア」
「すぐに動けます」
「フラウ」
「やるよ。ぶっ壊すぞ、派閥ごと」
「バリ」
女は目に涙を浮かべながらも、強く頷いた。
「アンジェリカを……絶対に、助けよう」
アンセルムは、砕かれた立方体の残骸を拾い上げ、それを懐にしまった。
その瞳には怒りが、悲しみが、そして凄絶な意志が宿っていた。