彼が海を初めて見たのは、21の頃だった。その日、彼は港町で荷運びをしていたが、港に停泊するブリッグ船の甲板から響く怒号に惹かれて、足を止めた。怒鳴っていたのは、赤銅色の髭をたくわえた魔族の船長で、その隣で器用に縄を結ぶ若者に心を奪われた。海には夢がある。そう思った。
それから十年。彼はブリッグ船「グロリア号」の副長となっていた。北方の海を突き進み、砲火をかいくぐりながら敵船と戦う。軽口をたたきながらも、指示は的確、誰よりも早く帆柱に駆け、敵の弾丸の中で船員を励まし続けた。
「船尾、左へ回頭! 風を取るぞ、諸君!」
だが、その日ばかりは、海が牙を剥いた。
グロリア号は敵の砲弾に囲まれ、船腹に火が回り、最後には沈んだ。彼は冷たい海へと投げ出され、意識を手放す前に、誰かが叫ぶ声を聞いた。
*
目が覚めたのは、見知らぬ浜辺だった。波の音が、鼓膜の奥でざらついていた。濡れたシャツが砂に張り付き、身体を動かすたびに痛みが走る。
視線の先に、同じように海から流れ着いた男がいた。黒髪で、褐色の肌、そしてその目だけが異様に澄んでいた。胸には裂傷。深く呼吸をするたびに血が流れていた。
体を起こし、男に近づく。
「……おい、生きてるか?」
返事はない。ただ、わずかに瞳が揺れた。
「煙草、吸うか? ……って、チッ、濡れてやがる」
ポケットの中でぐしゃりと潰れた煙草を取り出して、彼は苦笑した。
そのとき、黒髪の男が唇を動かした。「……頼む……」かすれた声。
「なんだ、言ってみろ」
「この……鞄を……赤鷲騎士団に……」
その言葉の直後、男の身体は力を失い、頭が静かに傾いた。潮風が彼の黒髪を揺らすが、もう動くことはない。
「……まいったな」
目を伏せ、男の顔を砂から起こしてやった。そのまま、彼の傍らにあった濡れた鞄を開けた。
中には、一通の手紙と、手のひらほどの黒いキューブが入っていた。まるで光を吸い込むような深い黒。その表面には、言語とも図形ともつかぬ刻印が走っていた。
手紙は、こう始まっていた。
「親愛なるアンセルムへ。よくやった。貴公がネブラカスを裏切り、"深淵の立方体"を奪ったと聞いた時、俺は歓喜に震えたよ。あの男を出し抜くとは、さすがだな。」
「顔は見たことがないが、貴公の黒いコートを見れば一目で貴公と分かるだろう。立方体を我々の元に届ければ、貴公は正式に我が騎士団の一員だ。今回の件には報酬も惜しまないよ。」
手紙を読み終え、死んだ男の顔をもう一度見た
今まで嗅いだことのある金を掴むチャンスの匂い。それも今回は特に大きな。
。
「アンセルム・コーマック、ってのが……お前の名前か」
そして彼は、濡れた黒いコートをその男の体から脱がせ、自分の肩にかけた。少し大きめだったが、それがむしろ似合っていた。
やがて、簡単な墓を作り、石を積み上げた。
「お前はこれから“俺”になる。任せろ。俺が、立方体を届けてやる」
アンセルムを名乗るその男は、鞄を背負い、北の方角へ歩き始めた。
*
旅は過酷だった。雪の残る山道、狼の遠吠え。村に入れば怪しまれ、盗賊に追われる夜もあった。だが、彼は笑っていた。どこか生き返ったように、命が自分の中で燃えているのを感じていた。
そして三週間後、彼はついに赤鷲騎士団の前に立っていた。
騎士団本部は古びた城砦で、鉄の門が重く閉ざされていた。門の上から、弓を構えた兵士が声を上げた。
「名を名乗れ!」
黒いコートの襟を正し、深く息を吸った。
「アンセルム。立方体を持ってきた」
兵士たちの顔色が変わった。ざわめきが広がり、扉がゆっくりと開く。
アンセルムは歩を進めた。運命が、ようやく動き出す音が聞こえた気がした。
赤鷲騎士団の本拠地は、かつてある血族が築いた古城だった。荒廃した石壁と苔むした塔が、かつての威光を物語っていたが、今やそこには別の熱が渦巻いていた。武器を鍛える音、訓練の号令、そして何よりも、戦場帰りの戦士たちが放つ、血の匂い。
門をくぐったアンセルムは、黒いコートの裾をはためかせ、応接室へと案内された。応接室には既に五人が集まっていた。皆、ただならぬ気配を纏っている。
一人目は、白金の髪を流した若い男だった。真紅の軍服に金の装飾をまとい、その姿はまさに“英雄”という言葉がふさわしかった。
「リカルドだ。赤鷲騎士団の若き指揮官、そしてこの城の主でもある」
彼はそう名乗ると、柔らかく笑った。
二人目は、青いロングコートをまとった紫髪の女。端整な顔立ちに冷ややかな目を湛え、口を開くことなくアンセルムを観察していた。
「……バリ。魔術理論と戦略の担当」
短くそう名乗ると、彼女は視線を逸らした。
三人目は赤い肌をした小太りの魔族。宝石で飾った金色の服を着て、重そうな指輪を何本もはめているが、満面の笑みで手を差し出した。
「ドドンていうんだ! いやぁ、アンセルムさん! あなたが立方体を持って来てくれるなんてな!」
四人目は、黒い神官服に身を包み、顔がほとんど見えないほど帽子を深く被った男だった。顔の下から覗くのは、ヤギのような黒い下顎と角。魔族の聖職者のようだった。
「ケッセルリンク。祈祷と禁呪、それに……女性観察担当」
そう言ってケラケラと笑う。アンセルムは思わず眉をひそめた。
「よろしく頼む……各々方」
軽く頭を下げて見せると、バリの視線が鋭くなるのがわかった。
「男前、と聞いていたけれど…」
「おや、そうですか? 海の寒さはこたえたのかな」
笑顔のままかわすと、ドドンが間に入るように声を上げた。
「まあまあ、十分イケメンじゃないですか! それより、お約束のブツを渡してもらえる?」
アンセルムは鞄からあの不気味な立方体を取り出した。応接室の空気が一変した。誰もがその漆黒の表面を注視し、一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
リカルドがそれを受け取ると、深く息を吐いた。
「本物だ。よくぞ届けてくれた、“アンセルム”。我々の悲願の一歩が、今ここに記された」
リカルドは笑いながら、机の上に袋を置いた。袋の口を開けると、金貨がぎっしりと詰まっている。
「報酬だ。だがそれだけじゃない。“アンセルム”よ……お前の力は噂に聞いている。だからこそ、我々は“歓迎会”を用意したんだ」
「歓迎会……?」
リカルドが窓の外を指差す。そこには、即席の闘技場が建設されていた。鉄柵と木の観覧席が設けられ、既に騎士団員たちが歓声を上げているのが見えた。
「我らが騎士団にふさわしい強さを、皆の前で示してもらう。相手は……“シェルマール”」
「聞いたことのない名前ですね」
「南部で発見された、新種の怪物だ。外骨格は鉄より硬く、六本の触手と、牙を持つ。だが、お前ならやれると信じている」
そう言ってリカルドは目を細めた。その瞳はどこか試すようだった。
アンセルムは息をついた。逃げる選択肢はなかった。
「あー、お時間があれば…ぜひとも」