アンセルムは、今、奴隷商人の船に積まれた「商品」を輸送する一人として、港町ミランテの裏路地を歩いていた。
隣には、色とりどりの宝石をちりばめた金の指輪を何本もはめた魔族――ドドンがいた。だが今は、彼もまた一介の海賊という偽名で通っている。
「なあ、アン…いや、“エドワード”。どう見ても俺たち、娼館に女を売りにきたようには見えないような…」
ドドンがひそひそ声で言う。アンセルム――いや“エドワード”は、肩をすくめて答えた。
「それは“アドヴェール”の顔が悪すぎるんじゃないのか? 怖がらせないようにしろよ」
ドドンはむっとしたが、それ以上は言わず、顔をしかめて前を見た。娼館《ラノワールの微笑》が近づいていた。装飾が施された建物は、この街のどの建物よりも華やかで淫靡だった。灯りの漏れる窓辺には、薄衣の女たちが笑っている。
二人の後ろには、首枷をされた少女がひとり。青い瞳に赤い髪、年若いながらも気高さを隠せない。奴隷商人の手配で用意された赤鷲騎士団の密偵――ネイアだ。
「……本当に、こんなことしないと潜入できないんですか?」
小さくネイアが囁く。アンセルムは片目をつむって応えた。
「大丈夫、似合ってるよ。こっちは見慣れてる」
ネイアがふくれっ面をするのをよそに、門が開いた。豪奢な服をまとった男が現れ、彼らを中へと通す。内部には赤と金の絨毯が敷かれ、香が焚かれていた。隠しきれない匂い――性と欲望の匂いが鼻をつく。
主人は姿を見せず、案内人に導かれて、三人は奥の部屋へと通された。
中には、ひとりの女が座っていた。
深い紫の髪を流し、青の薄衣をまとったその女は、優雅な手付きでワインを口に運びながら三人を一瞥した。
「ご苦労さま。随分と芝居が上手いじゃないの」
アンセルムは目を細めた。
「……バリか」
「正解」
バリは立ち上がると、テーブルの上に地図を広げた。娼館の構造図だ。
「この娼館は、表の顔の下に、もうひとつの役割を持ってる。深淵と嘘のネブラカスが収集する情報の蓄積と、“処分”。ここにアンジェリカがいる」
「彼女は“立方体”について何か知ってる」
バリが地図の一角を指さした。そこには「禁区」と赤く記された扉。
「地下の檻に、特別な客を監禁する部屋がある。厳重な扉、鉄製の柵、そして外から開かない鍵……そこだと踏んでる」
アンセルムが、ネイアをちらと見る。彼女はうなずいた。役割はここまで、あとは彼らに託す。
「交代の時間まで、あと二十分。その隙をついて地下に潜入する。合図は……これ」
バリが取り出したのは、小さな銀の鈴だった。
「これを鳴らせば、館中の女たちが同時に“客の気を引く”行動に出る。混乱に乗じて動くしかない」
アンセルムは笑った。
「なるほど、“女の武器”ってやつだな」
「……あまり感心しないで。あくまで戦術」
バリの目が鋭く光った。彼女の背後には、冷徹な意志があった。
その時、外の廊下から靴音が近づいてきた。アンセルムは素早く地図をたたみ、ネイアをベッドの脇に押し込んだ。
扉が開き、恰幅のいい中年の男が顔を出す。館の支配人らしい。
「おや、楽しんでいただいてますか?」
アンセルムは笑って見せた。
「ああ、ちょうどいいところで邪魔が入った」
男は声を上げて笑い、深く礼をして去っていく。扉が閉まった瞬間、空気が凍る。
バリが短剣を取り出す。
「準備を。地下への鍵は手に入れてある。あとは、私たちの腕次第」
アンセルムとドドンは、互いにうなずき合った。
“潜入”は完了した。だが、“救出”は、まだ始まってもいない。
娼館の闇が、彼らを試す時を待っていた。
銀の鈴が静かに鳴り響いた瞬間、館内の空気が変わった。廊下のあちこちから、嬌声と笑いが湧き上がる。バリの仕掛けた合図だった。
アンセルムは迷いなく動いた。廊下に設けられた扉を開け、裏階段へと足を踏み入れる。ドドンがその後に続く。だが彼は、首をすくめながら何度も後ろを振り返った。
「なあ、地下ってのは大体ろくなもんがいないんだ。ほんとに行くのか?」
「じゃあ、ここで待ってろ。“娼館の守銭奴”」
「ひどい呼び名!」
暗い階段を下りると、空気が変わる。湿気と血の匂い。地下室の先には、鉄格子の扉があった。バリがくれた鍵を差し込み、ゆっくりと開ける。油の切れたヒンジが軋む音が、やけに響いた。
部屋の中は、ほとんど暗闇だった。かすかな光を頼りに歩を進めると、そこにそれはいた。
――巨体。身の丈三メートルを超える筋骨隆々の肉体。皮膚は灰色にただれ、鼻は潰れ、牙がむき出しになっている。
トロールだった。
アンセルムが反射的にサーベルを抜いたときには、すでに鉄球をぶら下げた棍棒が振り下ろされていた。
「くっ――!」
飛び退いてかわす。鉄球が床を叩き、石が砕ける。サーベルで斬りかかるが、皮膚が固い。手応えがない。
トロールの腕が唸り、アンセルムの右のサーベルが吹き飛ばされた。左手の剣で受けようとしたが、それも無残に砕ける。
――両手の剣を失った。
そして、トロールが再び棍棒を構える。
「……!」
その瞬間、風が走った。誰かが床を蹴って飛び込む。
「間に合ったか。危ないところだったな、“アンセルム”」
振り返ると、そこには一人の青年がいた。茶髪を整え、鋭い目つきの美青年。赤鷲騎士団の軽装をまとい、細身の剣を手にしている。
「名乗るよ。“フィリップ”。君の援軍だ」
トロールは新たな敵を認識し、フィリップに向けて咆哮を上げた。地鳴りのような声が地下室にこだまする。
「お前、魔族にしては無謀な――」
「俺は人間だ。お前と同じ、“騎士団の人間”だよ」
フィリップは一歩も退かず、目を細めた。その手の剣が、月光のように静かに構えられる。アンセルムは後方に転がり、折れた剣の柄を握りしめながら息を整えた。
トロールが突進した。
だがその巨体が踏み込んだ瞬間、フィリップはわずかに体を斜めにずらす。そして、返すように剣をひと閃。
「関節を狙うんだ。皮膚は硬いが、腱は生身だ」
アンセルムは叫んだ。
「そういうのは先に言え!」
二人は呼吸を合わせ、攻防を繰り返した。フィリップの剣がトロールの足首を裂き、バランスを崩した瞬間、アンセルムが背後に回り込み、トロールの膝を狙って折れたサーベルの柄を突き刺す。
「――ッ!」
トロールが悲鳴を上げた。怒りに任せて振り回す棍棒が壁を砕き、粉塵が舞う。だが、そこにフィリップの突きが走った。
喉元、皮膚の薄い一点を見極めた刃。
「終わりだ」
トロールの巨体が、地鳴りのような音を立てて崩れ落ちた。しばしの静寂。
アンセルムは深く息を吐き、フィリップに笑みを向けた。
「助かったよ。お前がいなかったら、今頃――ただの肉片だったな」
「その割に、ずいぶん余裕そうに見えたが」
二人は互いに笑い、そして奥の鉄格子へと目を向けた。
鉄の扉の奥に、少女がいた。年齢は二十を少し過ぎたほどだろうか。銀髪を緩やかに垂らし、拘束の鎖に繋がれながらも、その顔には不思議な静けさがあった。
「……あなたが、“アンセルム”?」
アンセルムは無言でうなずき、鎖を外す。彼女はそっと立ち上がり、微笑んだ。
「私はアンジェリカ。あなたが来てくれるって、夢の中で……誰かに言われた気がするの」
「まるで預言者みたいだな」
アンジェリカの瞳は、深い湖のように静かだった。彼女は傷一つなく、奇跡のように穏やかに見えた。
「私がさらわれた理由……知っているの?」
アンセルムは首を振った。
「教えてくれ」
アンジェリカはうなじをさらした。そこにはアンセルムやフィリップの赤黒い印とは違う銀色の苦痛と飢餓の印だった。
「これは“血族”の子孫にだけ受け継がれる、“聖印”。これが欲しかったんだと思う」
アンセルムとフィリップは息を呑む。
「深淵の立方体のことも聞きたいんでしょう?あれは……深淵と嘘のネブラカスの心臓、奴の不死の秘密なの」
その言葉を聞いて、アンセルムはゆっくりと手を差し出した。
「逃げよう。君を、元いた場所に戻そう。」
アンジェリカは、その手を取った。
娼館《ラノワールの微笑》の裏口を抜けると、夜の海風が冷たく三人を包んだ。バリとドドンが待っていた。バリの手には、衛兵の気を逸らすための小道具と火薬の袋。ドドンは、持てるだけの金貨と食料を詰めた袋を背負っている。
「無事だったようね」
「ギリギリ、な」
アンセルムが肩をすくめて言うと、ドドンがアンジェリカを一目見るなり、口を丸くした。
「おおお……これが血族の末裔か……いや、美しさで世界を滅ぼすタイプじゃねぇか?」
「黙れ、ドドン」
バリがきっぱりと一言。ドドンがしゅんとしたのを見て、アンジェリカが微笑んだ。
「仲がいいのね、あなたたち」
「いや……まあ……」
アンセルムは困ったように笑った。
町を抜ける間、アンジェリカはフードを目深にかぶった。 彼らは赤鷲騎士団が待つスクーナーへとたどり着いた。静かに海を滑るそれに乗り、夜の水面を進む。フィリップが舵を握り、アンセルムは甲板に立って海を見つめていた。
アンジェリカが隣に立つ。
「ありがとう。あなたがいてくれてよかった」
「俺一人じゃない。皆がいて、君を助けられたんだ」
「……それでも、あなたの手が最初だった。私は覚えてる。あのとき、闇の中で差し出された光だった」
その声は、波の音にまぎれていった。
そして、城砦――赤鷲騎士団の本部へ帰還したそのとき、ジルが静かに現れた。
「ジル様……!」
アンセルムが名を呼ぶと同時に、アンジェリカが動いた。
彼女はその場で立ち止まり、数秒、母を見つめていた。そして、小さく声を震わせた。
「……お母様?」
ジルは無言のまま歩を進めた。近づくごとに、その表情がわずかに崩れる。
「本当に……おまえなの、アンジェリカ」
彼女は頷いた。
ジルは娘を抱きしめた。
あの「苦痛と飢餓」を司る女が、膝をつき、静かに泣いた。
誰も声をかけなかった。フィリップも、バリも、ドドンも、ただそれを見守っていた。