二年が経った。
あの血と火薬の夜を越えてから、アンセルムは赤鷲騎士団で確かな居場所を得ていた。シェルマールを討ち、アンジェリカを救出して以来、彼は幾つもの任務を成功させてきた。その実績を認められ、今では騎士団の精鋭部隊「マエリータ隊」の隊長を任されている。
仲間たちとの絆も深まった。ドドンの軽口にも今では慣れたし、バリとの間にも互いの沈黙を理解するような信頼が芽生えている。フィリップとは訓練場で剣を交えることも多く、互いに無言のうちに背中を預けられる存在となっていた。
城砦の石造りの廊下を歩きながら、アンセルムはふと窓の外を見た。灰色の雲が空を覆い、北風が旗を煽っている。かつて海を眺めた日のことを、彼は思い出した。
煙草を吸っていると背後から声をかけられた。
「よう、隊長さん。なに物思いにふけってるんだ」
後ろから声をかけたのはドドンだった。彼は今日も色とりどりの宝石をちりばめた指輪をはめ、胸元のはだけた服を風になびかせていた。だが、どこか顔色が悪い。
「ドドン、お前……また娼館か?」
「ち、違う! いや、違わないが……今回は深刻なんだよ。ほら、ここ、見てくれ」
彼は袖をまくり、腕にできた発疹を見せた。赤黒く腫れ、見るからに不快なそれに、アンセルムは思わず顔をしかめた。
「まさか、また……性病か?」
「“また”とは失礼な! しかもな、このまま放っておくと身体の奥まで毒が回るらしい。呪術師に見せに行ったら、いっそ水銀でも塗って浄化しろって言われてな」
「水銀……それで死んだら笑えないぞ」
「冗談に決まってる。まあ、祈祷師のババアにぼったくられて、妙な薬を塗ってもらったが……効いてるかどうかは微妙でな。なあアンセルム、お前の奥さん、薬草の知識とかあったっけ?」
「うーん…アンジェリカは歌姫としては天才でも、病気の薬は門外漢だろうな」
「そりゃ残念だ」
ドドンはそう言いながら、壁にもたれた。しばらく黙ってから、目を細めてアンセルムを見た。
「それにしても……アンジェリカちゃん、まだ言ってるのか? 北大陸で静かに暮らそうって」
「言ってる。昨日も。……あいつの言葉に嘘はない。俺のことを心配してる」
「けど、お前は行かない」
「騎士団を捨てられない」
アンセルムの声は低かった。だがその中には、確かな決意があった。
「ここで俺は生まれ直した。俺を“アンセルム・コーマック”として迎えてくれたのは、この城だ。リカルド、バリ、ドドン……そして、アンジェリカを取り戻した場所でもある。だからこそ、守りたい」
ドドンはふっと笑った。
「まったく、真面目だよお前は。でも、嫌いじゃない。……ああ、そうだ。リカルドがお前を呼んでたぞ。『急ぎの任務がある』ってさ」
「わかった。行ってくる」
アンセルムはドドンの肩を軽く叩き、踵を返した。城の奥、執務室へと向かう足取りは重くなかった。どんな任務であれ、この命を預ける覚悟はできている。
彼の背には、黒いコートが風に揺れていた。
*
リカルドの執務室はいつも通り、簡素だが整然としていた。
リカルドは窓の外を眺めていた。白金の髪が光を弾き、どこか遠い未来を見ているかのような横顔だった。
「来たか、アンセルム」
「任務と聞いて」
リカルドの声が中から響いた。扉を開けると、白金の髪を流す若き指揮官が、机に肘をつきながらアンセルムを見上げた。
「来てくれてありがとう、アンセルム。マエリータ隊を率いる君に、どうしても頼みたいことがある」
リカルドは机の上に一枚の地図を広げた。そこには南方の荒野地帯、ル=ヴァルトの戦場が赤く塗られていた。
「敵は、“血族”ドルネシーア」
その名を聞いて、アンセルムの背筋が伸びる。
「“茨と鮮血”のドルネシーア。あのネブラカスの派閥か」
「そう。彼女は、己の血を操る特異な力を持ち、ネブラカス派の幹部として今後の戦局に大きな影響を与える存在だ」
アンセルムは無言で地図を見つめた。
「俺が彼女を……打ち取ると?」
「君と、君の隊にしか頼めない。マエリータ隊は赤鷲騎士団でも最も柔軟で、強力な高い部隊だ。正面からの戦いではなく、機を見て彼女を討て」
沈黙が落ちる。アンセルムは深く息をつき、頷いた。
*
南方の荒野地帯、ル=ヴァルト。赤い土と黒い岩が連なるこの地は、かつて幾多の血が流れた忌まわしき戦場だった。今また、その地に戦の鼓動が戻っていた。
アンセルム率いる赤鷲騎士団の精鋭部隊「マエリータ隊」は、茨と鮮血のドルネシーアが支配する戦場へと足を踏み入れていた。
「左の丘陵、矢兵を狙え! フィリップ、後衛を守れ!」
アンセルムの号令に、騎士たちは一糸乱れぬ動きで応じた。鉄と血の音が空に響き、遠くには燃え上がる砦の影が見える。敵兵は無数に現れたが、マエリータ隊は確実に切り崩していった。
副長のネイアは髪を風に踊らせながら、素早く敵の喉元を突く。
「指揮官が前線に立ちすぎ! 何かあったらどうするんですか!」
「俺が死んだら、君が隊を引っ張ってくれよ」
「冗談じゃない!」
軽口を叩き合う二人の間に、仲間たちの信頼と連携が息づいていた。
やがて戦場の中心――ドルネシーアがいる戦場の中央へと彼らはたどり着いた。
そこは血の魔術で染め上げられたかのような異様な空間だった。地面には無数の血の文様が刻まれ、そこに立つのは、一人の女。
“血族”鮮血と茨のドルネシーア。
流れるような金髪に、深紅のドレス。目元には黒いヴェールが垂れ、整った唇から静かに声がこぼれた。
「ようこそ、マエリータ隊。そして……アンセルム・コーマック。噂は知ってるわ。」
アンセルムは剣を抜いた。
「観客気取りか? 興味があるなら、俺たちの“本物”を見せてやる」
「ええ……ぜひ。あなたたちの“命の煌き”を、存分に味あわせて」
その瞬間、地面がうねった。無数の棘が、血の沼から突き出してくる。兵たちは驚き、かわすが、何人かは脚を貫かれた。
「くそっ、罠か!」
さらに、戦場に倒れていた敵兵の死体が、血を体のあちこちから吹き出しながら起き上がる。彼らの瞳は赤く染まり、無言のまま剣を振るって襲い掛かってきた。
「ネイア! 後衛に下がらせろ、奴らは操られている!」
「了解!」
アンセルムは前へ出る。血の棘を跳び越え、蘇った死体たちの間を縫うように斬り進む。だが、ドルネシーアは微笑みながら両手を広げた。
「まだまだ……これから」
その瞬間、空気が裂ける音。複数の血の刃が空中から飛来し、まるで意志を持つかのように隊員たちを狙った。
「ぐっ……! 血の刃だ、伏せろ!」
だが避けきれず、数人が斬られ、赤黒い血が砂に落ちる。
「くそ、なんて力だ……」
アンセルムは傷ついた兵を庇いながらも、ドルネシーアに切りかかる。
「なっ…!」
ドルネシーアはアンセルムのだんびらを指で挟んで受け止めていた。渾身の力で剣を引こうとするがびくともしない。
咄嗟に銃を引き抜いて撃ったが急速に伸びてきた血の刃に斬り弾かれた。
戦場は地獄だった。血の棘、蘇る死者、飛来する血刃。アンセルムたちは死力を尽くし、仲間を守り、傷つきながら一歩ずつ前に進む。
「ネイア、フィリップ、俺に続け!」
「はい!」
「背中は任せてくれ」
マエリータ隊の誇りを胸に、彼らは進む。戦いは明らかに不利だった。 だが、彼らの剣は止まらなかった。
*
…すでに隊の半分は倒れ伏していた。
(まずい……このままじゃ殺される。)
とっさに思いついた。最悪の一手。見逃してもらうための――
「うっ……腹が……!」
腹を押さえてのたうち回る。周囲の空気が凍る。
「……は?」
ドルネシーアは本気で面食らった顔をしていた。
「腹痛……? 戦の最中に? 本気で言ってるの……?」
「うっ……痛い、これは……っ! ちょっと休めば……ああ、胃が……!」
隊の面々も目を丸くしていた。あのアンセルムが、戦場で、腹痛を理由に戦闘中断を訴えるなど――
「……あなた、まさか……怖くなったの?」
「なっ……ち、違う……俺が本気を出せばお前なんか……!」
「でも、出せないんでしょ。だって、お腹が痛いんですもの?」
「英雄って聞いてたのに……呆れた。殺す価値もない。勝手にしなさい」
そう言い捨てると、彼女はくるりと踵を返し、戦場を後にした。
戦場に残されたのは、腹を押さえてうずくまるアンセルムと、ぽかんとした顔のマエリータ隊員たちだった。
◆
「お腹はどう? 本当に痛かったわけじゃないんでしょ?」
戦場から戻ったアンセルムは、ネイアに簡単な手当てを受けていた。彼女は頬を膨らませ、絆創膏を貼る手つきも乱暴だ。
「痛くなんてない。あれは苦肉の策だ。見逃してもらえなかったら……あー、本気を出して倒すしかなかった」
「……なら最初から出しなさいよ、本気を」
「いや、あの場面で使うのはちょっと……」
アンセルムは天幕の隅に転がっていた木の皿を見つめていた。そこに、さっきまで食べていた小さな蛇の蒸し焼きがある。
何かを閃いたように目を見開く。
「……そうだ。ネイア、ちょっといいか。これは……名案かもしれない」
「何よ、今度は毒蛇でも使うつもり? まさか、また“お腹が痛い”作戦じゃないでしょうね」
「違う。もっと……華麗で、奇抜で、相手の心を掴むようなやつだ」
そう言ってアンセルムは天幕の外を見やる。ル=ヴァルトの空には、戦の煙を越えて夕陽が差し込んでいた。