静謐な帳が降りる、ル=ヴァルトの戦野。血煙は乾き、風が灰を運ぶ。
戦は終局を迎えつつあった。
ドルネシーア──戦勝の余韻に身を浸していた。
緋色の天幕の奥、彫金の施された玉座に、優雅に腰かけている。
指先で揺らすのは金の杯。濃いルビー色の葡萄酒が揺れるたび、燭火がきらりと反射した。
「――アンセルム・コーマックを通せ」
帳の外、衛兵の号令が響いた。重々しく幕がめくられ、踏み入る音が一つ。
「ごきげんよう、ドルネシーア」
低く落ち着いた声だった。
髪に砂塵を残したまま、アンセルムが進み出る。
背中の剣も外し、護衛を伴わぬその姿は、まさに降伏の使者であった。
ドルネシーアは笑う。口元だけが笑っていた。
「終わってみれば、ただのつまらない男だったのね」
アンセルムは微笑を返すでもなく、ただ歩み寄った。
その手に携えているのは――深淵の立方体。
「これは……」
ドルネシーアの眉がわずかに動く。
「俺の敗北の証にして、降伏の印だ。これを、あなたに」
アンセルムは一礼し、立方体を差し出す。
天幕の空気が、ぴんと張り詰める。
その場にいた魔族の将軍たちも、無言でドルネシーアの出方を待った。
「――よくもまあ、こんなものを抱えて現れたわね」
杯を置き、ドルネシーアは立ち上がる。赤いドレスが音もなく揺れた。
手袋をはずし、細い指で立方体を持ち上げると、その奥の何かに、深く目を落とす。
「この裏切りが…誠実であってくれることを、私は祈るわ」
アンセルムは静かに応じた。そして少し照れたように笑った。
「あなたのような方が嗜むものを見ていると……俺も、ワインが飲みたくなる」
その言葉に、将軍の一人が鼻で笑う。
「おまえのような人間に、ドルネシーア様の杯がふさわしいと?」
だが、ドルネシーアは小さく頷いた。
「構わないわ。バルオス、ワインを持たせて」
将軍のバルオスは目で合図を送った。
奥に控えていたメイドが進み出る。亜人の血を引くか、やや獣じみた耳を隠し、銀の盆を手にしていた。
「……どうぞ」
ワインの注がれた杯とともに、メイドがアンセルムの前に立つ。
視線が一瞬交わった。
それだけで、全てが伝わる。
銀盆の下、布の陰に――細く研がれた長剣。
メイドは一瞬の隙に、それをすくい上げ、アンセルムの足元に投げ渡した。
剣が滑るようにアンセルムの手へ。
目を見張るバルオス、警戒に入る護衛兵。
しかし、早かったのはアンセルム。
剣閃。風を裂く鋭さで、ドルネシーアの体へ走る。
「……っ!!」
鋼が肉を断つ音が天幕を切り裂いた。
血が、赤いドレスをより深く染める。
膝をつくドルネシーア。目を見開き、唇から嗚咽のような息を漏らした。
「お前……まさか……最初から……」
「そうだ」
アンセルムは吐息一つ、冷ややかに言った。
「降伏の使者など、最初から偽り。あなたに近づき、剣を届かせるための策だったんだ」
ドルネシーアは、倒れながらも唇に邪悪な笑みを残していた。
「やってくれたわね……!」
だが次の瞬間、バルオスの咆哮が天幕を揺らした。
「裏切りだ!! 殺せ!!」
剣が抜かれる。護衛が駆ける。
だが、アンセルムは静かに言った。
「もう遅い。お前たちの戦いは、ここで終わる」
天幕の後方が破られ、火矢が空を割って舞い込んだ。
潜入していたマエリータ隊の精鋭の奇襲だった。
*
ドルネシーアの身体から噴き出した血が、意志を持って宙を舞い、槍のように形を成す。
ドルネシーアが操る血の魔術。
だが――
「……っ、く、制御が……」
血槍が震え、空中で崩れる。形を保てない。
彼女の額には玉のような汗が浮かび、足元がよろけた。
アンセルムは剣を構え直しながら、低く言った。
「あなたの杯には、ドドンに用意してもらった“ダヴァナ蛇”の毒が少々。珍しい種でね。血を病にかける呪いがある」
「蛇の……毒……?」
再び血を集めようとするが、指先が震え、集中が保てない。
その隙に、アンセルムが間合いを詰める。
バルオスが剣を抜き、前に出る。
「この人間めッ――!」
魔族の将軍の斧がアンセルムに迫る。
だが、天幕の後方から飛来した矢が、彼の喉を正確に射抜いた。
「――ッ!?」
マエリータ隊の狙撃手、カロルの一矢だった。
倒れ伏すバルオス。天幕の内外に火の手が上がる。
「ドルネシーア様! 敵がっ――!」
精鋭の騎士たちが突入し、混乱の渦が広がる。
マエリータの主戦力が一気に雪崩れ込んでいた。
ドルネシーアは肩を押さえ、苦しげに息を吐いた。
「あなたって……本当に……面白い男ね……!」
そしてその瞬間、無数に生えた血の棘が爆発し、ドルネシーアの姿がかき消える。
「逃げたか……!」
アンセルムが切っ先を向けるも、時すでに遅し。
辺りは炎と悲鳴、そして剣戟の音で満たされた。
*
夜の帳が降りる町、アルメイダ。
ル=ヴァルトの戦乱を避けた難民と兵士が混じり合う、湿った石畳の港町。
その片隅、血に濡れた女が一人、路地裏に崩れ落ちていた。
――ドルネシーア。
今や粗末な布に身を包み、足取りもおぼつかぬ傷者でしかなかった。
毒の影響はまだ体内に残っており、血の流れを制御できないまま、力も満足に入らない。
「く……こんな、ところで……」
全身に痛みが走る。
意識が霞み始めたその時だった。
「……だいじょうぶ?」
か細い声が耳に届く。
目を開けると、そこに立っていたのは、角の小さな、魔族の少女だった。
黒い髪を編み込んだその少女は、瞳に怯えを宿しながらも、ドルネシーアに手を差し伸べていた。
「手を……にぎっても、いい?」
彼女は何者でもなかった。ただの町の少女。
だが、ドルネシーアの視界に滲むその姿は、かつての誰かと重なった。
「……好きにしなさい……」
少女は頷き、ドルネシーアの肩を貸すと、裏通りを抜けて町外れの古い石造りの家へと彼女を運んだ。
*
小さな暖炉のある一室。
ベッドの上で目を覚ましたドルネシーアは、厚手の毛布と薬草の香りに包まれていた。
「……助けられたの、私が……?」
ふと、自嘲が漏れた。
女王として、あれほど気高く振る舞っていた自分が、名もなき少女に救われるとは。
「目、さめた……?」
少女がそっと顔を覗き込む。瞳の奥に、まだ怯えが残っていた。
「名前は?」
「……レイナ」
「……そう。レイナ」
彼女はかすかに笑った。
「見ての通り、私はもう長くないかもしれない。でも、せめて……話しておきたいことがある。そう…くだらない話」
少女は黙って頷くと、彼女のそばに座った。
ドルネシーアは、目を閉じ、静かに語り始めた。
「私は昔、人間だったの。高名な女騎士、ドルネシア・セルカ。
その名は大陸中に響き渡り、多くの者が私の剣技に称賛を送った……はずだった」
レイナは目を見張った。
「だけど、人の心は、弱く、醜い。
戦場で勝てば勝つほど、民は称え、貴族は黙り、そして男たちは……私を恐れた」
「……」
「ある日、私は裏切られた。戦の最中、背後から矢を射られ、味方の名を騙った者たちに連れ去られ……地下牢で、拷問を受けた」
ドルネシーアの手が震える。
その指先に刻まれた痕が、過去の痛みを語っていた。
「耳を裂かれ、目を潰されそうになった。骨を折られ、血を抜かれ、ただ……騎士であるという名誉のために、辱められた」
レイナは唇を押さえる。
「でも……そのとき、彼が来た。リカルド。
彼は私のかつての恋人で、共に剣を学んだ戦友だった」
「あの人は……英雄だった。あの夜、彼は戻ってきた。私を牢から救い出し、私を“白金の王座”へと連れていった」
「白金の……王座……?」
「そう。“血族”と呼ばれる存在になるための、門よ。
己の記憶と、苦しみと、絶望に向き合い、それでも座り切った者だけが、人を超える」
レイナは息を呑んだ。
「私はそれに耐えた。血族として生きることを選んだ。力のために。復讐のために。
そして、リカルドは……その後、どこかへ姿を消した。
ネブラカスという、血族たちの派閥の一つに属する者として、私は再び歩き出したけれど……彼がどこにいるのか、今も分からない」
沈黙が部屋を包んだ。
「あなたは……まだ、彼を探してるの?」
「分からない」
ドルネシーアは天井を見つめながら言った。
「ただ、私は許されてなどいない。人々を憎み、城を焼き、国を割き、戦場に血を撒いた。
でも、それでも……あの人と手をつないで笑っていたあの日だけは、嘘じゃなかったと信じたいの」
その声は、女王のものではなかった。
ただ、かつて誰かに恋をし、裏切られ、そして生き延びた一人の女の声だった。
レイナは、そっと毛布を引き上げた。
「……あたし、お母さんに言われたことある。“人を助けるのは、その人がいい人だからじゃなくて、自分が優しい人でいたいからだ”って」
「優しい、か」
ドルネシーアは目を伏せる。
その肩にかかる毛布が、まるで救いのように柔らかかった。
「せめて今は……あなたが私をそう見てくれるなら、少しは……赦された気がする」
レイナは、小さく笑った。
「今はそれで、いいじゃない?」
外では、赤い月が町を照らしていた。