南方の荒野地帯ル=ヴァルト、その荒涼とした風景の向こうに、重たい鉄の靴音が響いていた。
マエリータ隊。
赤鷲騎士団の精鋭たちで構成されたこの小隊は、今日、この地で歴史の歯車を回そうとしていた。
「進め。敵の主力はまだ東の丘を越えてこないはずだ」
フィリップの声が乾いた風に溶ける。隊長アンセルムはその隣で無言だった。
彼の視線は前方の丘の向こう、ドルネシーアがいるはずの地へと向けられていた。彼女との戦いは避けられない。そしてその決戦こそが、この地の戦乱の終焉を意味するはずだった。
マエリータ隊は、荒野を慎重に進軍していた。背後には後続の歩兵、右翼には遊撃隊、左翼にはケルシー伯が率いる騎馬軍が展開していた。
だが、戦場において、秩序とは往々にして脆い幻である。
昼を過ぎたころ、兵が砂煙をあげて駆けてきた。
「 ケルシー伯の騎馬軍が突如方向を変え、我らの補給線を断ちました!」
「……裏切り、か」
フィリップが歯噛みする。アンセルムはただ一度、深く息を吸った。
「想定より早いな。フィリップ、遊撃隊に補給線奪還の支援を。だが主力はこのまま進む。ドルネシーアを討たねば、この乱は収まらん」
「了解。だが、ケルシーはこの機に我々を包囲するつもりだ。時間がない」
戦場は急転直下で“死地”と化した。背後からはケルシー伯の裏切りの軍。前方にはドルネシーアの本隊。左右から迫るは砂丘に潜む伏兵たち。
まるで仕組まれていたかのように、マエリータ隊は“袋の鼠”となりつつあった。
**
焼けるような風が吹いていた。
ル=ヴァルトの西縁、乾いた台地に砂塵が舞い、灰と血の匂いが漂っている。
マエリータ隊は完全に孤立していた。
増援は来ない。物資も尽きかけ、兵の疲労は限界を超えていた。
「ここが……終点かもしれんな」
フィリップが岩陰に座り込み、剣を土に立てる。
「やめてよ、不吉なこと言わないでよね」
ネイアが肩の傷を押さえながら息を荒げる。
彼女の鎧には黒焦げの跡が残り、剣の切っ先は欠けていた。
アンセルムは地図を開き、唇を噛む。
「この先にあるのは峡谷地帯だ。背後は閉ざされ、前進すれば包囲される」
「つまり、詰んだってことか?」
フィリップが鼻で笑う。
「冗談じゃない……まだ終わらせるには早い」
アンセルムはそう言いながらも、空の果てに、黒い影が差していることを見逃さなかった。
影は一つ。そして、かつて忘れられぬほど鮮烈だった、あの紅。
「来るぞ……ドルネシーアだ」
誰かが言った。
地鳴りのような音が近づく。
やがて、丘の上に影が現れた。
冷たく見下ろす女の瞳は、あの夜、毒に侵され血を吐いていた時とはまるで別人のようだった。
「……よくもまぁ、生き延びたものね。マエリータ隊」
ドルネシーアは、足元の岩を踏みしめて前に出る。
「ケルシー伯の裏切りは……この前のお返しよ」
アンセルムは手を挙げた。
「ま、待ってくれ。話せば分かることもあるだろう?」
「何を?」
「……腹痛だ」
「は?」
「いや……あのときみたいに……俺、いま、腹が、すごく……痛くてな……」
ネイアが顔を覆った。フィリップは笑いを噛み殺す。
ドルネシーアは無表情で言った。
「この期に及んで、それをもう一度通じると思ったの?」
「淡い希望だった」
「甘い希望でしょ」
ドルネシーアの手が上がる。
空気がざわめく。
地面に流れた無数の血が蠢き、彼女の足元に集まって渦を巻く。
「この間の毒のせいで、まだ血操は不安定だけど」
赤い刃が、女王の周囲に数十本、咲くように立ち上がった。
「見せてあげる。血族としての本当の力を」
**
戦いは始まった。
いや、「処刑」が始まったといっても過言ではない。
ドルネシーアの魔術はもはや桁違いだった。
血の槍が空を裂き、地を貫き、逃げる者を串刺しにする。
フィリップが盾を構え、その一撃を辛うじて受け止めるが、盾ごと吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
「フィリップ!」
アンセルムが彼の元に駆け寄るが、そこにも血の刃が襲いかかる。
「おまえたちが私に与えた傷……私の中に残った毒と怒り……全部、返してあげる」
ドルネシーアの叫びと共に、地面が割れる。
血流を操り、大地から吹き上がるような刃の群れが、マエリータの兵を次々に薙ぎ払った。
「クソッ、こっちはただの人間だぞッ!」
ネイアは矢を放つが、刃の障壁がそれを簡単にはじき返す。
「あなたたちは、間違えたの。私を逃したことが、最大の敗因だった」
ドルネシーアが指を鳴らすと、空中に浮かぶ血の矢が一斉に射出された。
まるで雨のような紅の弾幕が、マエリータ隊を襲う。
だが――その時。
「下がれ!」
アンセルムが叫び、全力で駆け出した。
自らを囮に、血の矢を引きつけて、味方から引き離す。
「……おまえは」
ドルネシーアが眉をひそめる。
アンセルムは止まらない。
剣を振るい、血の刃を何度も斬り裂きながら、彼女に向かって突き進む。
「俺は、まだ……終わってない!!」
「なら、終わらせてあげる!」
ドルネシーアが両手を広げる。
彼女の全身から血が放出され、空に巨大な槍が形成された。
それは彼女の魔術の極地――。
空から落ちるその一撃が、アンセルムを飲み込もうとしたその瞬間――
「――っ!」
フィリップが飛び出し、盾でアンセルムをかばった。
爆音。閃光。地面がえぐられ、砂煙があがる。
「フィリップ!!」
「……死んでないが……でも、これは……まずいな……」
盾は粉々。フィリップは気を失ってた。
ドルネシーアは額に汗を浮かべながらも、なお笑っていた。
「どう? 苦しんで死ぬ気分は。裏切り者」
アンセルムは立ち上がり、片膝をつきながら剣を支えた。
「……そう簡単に……終わるものか……」
「じゃあ、もう一度、腹痛の芝居でもしてみたら?」
「……いや、それは……さすがに……恥ずかしい……」
ネイアが爆薬矢を放ち、その煙の隙をついて残存部隊を撤退させようとした。
「アンセルム! 退け!」
「……ああ、わかってる!」
駆け出す。
だがドルネシーアの作り出した血の壁に阻まれた。
その時、
「おい、あれ……!」
東の丘から姿を現したのは、騎士団本隊――赤鷲騎士団。
旗を先頭に掲げた騎士たちが、整然と列を成し、緋色の陽光を受けて鎧を輝かせていた。
その先頭、白銀の鎧に身を包んだ騎士が馬を駆る。
リカルド。
彼はまっすぐに戦場を見据え、馬から降りると、剣の柄に手を添えた。
「アンセルム、ここからは俺たちが受け持つ」
「リカルド……!」
アンセルムの叫びに、リカルドは微笑みを返す。
だが、その笑みはすぐに消えた。視線の先に立っていた者――
「……ドルネシーア」
彼女は静かに振り返った。
紅の衣は裂け、血を纏ったその姿は、もはや魔そのものだった。
「リカルド……あなた……」
彼女の瞳が震える。
どこか懐かしさと、怒りと、そして悲しみが混ざった色だった。
「こんなところで会うとは思わなかった」
「俺も、だ」
リカルドは歩み出る。
「詫びねばならんな。かつて俺が共に歩んだ女に、剣を向ける日が来るとは……」
「……随分と綺麗になったのね、その顔」
ドルネシーアは笑う。
「もう、あの頃の面影もないじゃない。あの野営地で、星を見上げてた二人じゃ……な
い」
「そうだ。俺はもう、かつてのお前と過ごしたリカルドではない。
……俺には、お前よりも大切なものができた。『騎士団』という誓いの集まりが」
ドルネシーアの瞳がかすかに揺れた。
紅い血が彼女の足元に集まり始める。
「……それがあなたの答えなの? 私を見捨てて、血族にして、何も言わず去って……そして今は、私を“倒す”?」
「すまない……」
リカルドは、腰に差していた剣を抜くことはしなかった。
代わりに、彼の足元に血が集まり、血色に輝く“剣槍”の形を成していく。
それは、彼がドルネシーアに与えられた鮮血と茨の印の力を解放した証だった。
「俺は力を復讐には使わなかった。騎士団を守り、人々を守るために振るうと誓った」
ドルネシーアは目を閉じ、静かに言った。
「……残念だわ。本当に」
そして、指を動かすと、赤い血の大蛇が地面を這い、空へと舞い上がった。
「それでも――私を斬れるのなら、やってみなさい、リカルド!」
**
戦が始まった。
騎士団の槍が突き出され、ドルネシーアの血刃と交差する。
だが、彼女はもはやかつてのように乱れていなかった。
リカルドとの再会が、かえってその力を研ぎ澄ませていた。
「よくも……私を置いていった……!」
「置いていない!」
リカルドが剣槍を振るい、彼女の攻撃を打ち払いながら叫ぶ。
「お前は復讐の道に堕ちた! 俺には止められなかった! だが――それでも今は!」
ドルネシーアが叫び、血の剣が降り注ぐ。
それを騎士団の盾兵が防ぎ、斬撃が返される。
リカルドの一閃がドルネシーアの腹部をかすめ、紅い衣が裂けた。
「う……ぁ……」
リカルドの身体が赤く光る。血の力を剣槍に注ぎ込み、地を裂くような突撃を繰り出す。
ドルネシーアが両腕を広げ、全身の血を集めて障壁を形成する――だが。
「その力では、俺は止められない」
剣槍が障壁を突き破り、ドルネシーアの胸を貫いた。
彼女の身体が後方に吹き飛び、地面に倒れた。
**
辺りは静まり返っていた。
夕焼けが丘の端を照らし、リカルドは静かに歩み寄った。
倒れたドルネシーアは、血の海の中で息をしていた。
かつて見せたことのない、弱々しい瞳で彼を見上げる。
「……ひどいわね。」
「……お前がいたから、俺は人を守る剣を選べた。だから……感謝してる」
ドルネシーアの唇がかすかに笑みを刻む。
「……あの夜、私を連れていったのが……間違いだった?」
「……あの夜、お前を助けなければ、俺はきっと、もっと間違えた」
涙はなかった。ただ、最後の言葉だけが彼女の口から静かに紡がれた。
「……ほんと、残念ね。リカルド……」
その声と共に、彼女の血が風に還った。
**
その場にいた誰もが、剣を下ろしていた。
ドルネシーアが散ったあと、風が吹き抜け、紅の衣の切れ端が舞って消えた。
「彼女は、怪物じゃなかったな」
ドドンが呟いた。
「……ああ」
アンセルムは剣を土に突き立てた。
剣を抜かずに戦いの終わりを見届けていた。