午前の光が差し込む部屋には、戦士らしからぬ混沌が広がっていた。
床にはアンセルムの黒いコート、壁際には開きっぱなしの本と、未整理の戦場記録。テーブルの上には、洗われていないカップが三つ。ベッドの傍には、なぜかネイアの靴まで転がっている。
「……アンセルム」
声がした。
散らかった部屋の中央で、パンをかじっていたアンセルムは、肩をすくめて振り返った。
「片付けようとは思ってたんだ。ただ……その、時間が……な?」
アンジェリカはため息をつきながら、袖をまくる。
「まったく、どれだけ放っておけば気が済むの? これは人の住処じゃなくて物置よ」
「でも一応、俺の部屋で……」
「黙ってて。動かないで。足元のパン屑、私が拾うから」
かつて地下牢から救われた彼女はいま、騎士団詰所の「奥様」として、日々アンセルムを支えていた。
アンセルムが照れ笑いを浮かべながら手伝おうと立ち上がると、アンジェリカは手を止めて言った。
「そうだ、今日は……久しぶりに、出かけようよ」
「……え?」
「デート。最近してなかったでしょ? 今日は休みなんだから、街に行きましょ」
その瞳はどこか、彼女がかつて見せていた穏やかな聖女のようでいて、今はもっと人間らしい、芯のある光を帯びていた。
アンセルムは少し口を開けてから、頷いた。
「……ああ。いいな、それ」
*
陽光のあたたかな町に降り立った二人は、ひとまず仕立屋に立ち寄った。
「ねぇ、これどう? 似合う?」
アンジェリカがひらりと持ち上げたのは、淡い青色のワンピース。銀髪と優しい笑みに映えて、まるで春風の精のようだった。
「……すごく、いい。いや、似合ってる。たぶん、町中の男が振り向く」
「ふふ、それはどうかしら。じゃあこれは?」
今度は柔らかいアイボリーのコートを広げてみせる。
「……着た瞬間、騎士団の女たちが嫉妬で剣を抜くかもしれない」
「それは困るわね」
アンジェリカはくすくす笑い、結局どちらも買ってしまった。
アンセルムも、無理やり丈の合わない上着を試着させられ、「いつもあのコートばかり着てるから新鮮ね」とからかわれていた。
次に立ち寄ったのは、屋台街。香ばしい焼き栗の香りが漂い、子供たちが叫びながら走り回っていた。
「……ん、美味しい」
アンジェリカが串焼きを頬張り、目を細める。
「どう?」
「……ちょっと焦げてる。でも、こんな味、久しぶり」
アンセルムは横で焼き魚にかぶりつきながら答えた。
ふと、彼女が口を開いた。
「アンセルム……あなたが、ドルネシーアを追いつめたって、みんな言ってるわ」
「……ああ」
「立派だったって。フィリップもネイアも、口を揃えて言ってた。私も……誇らしかっ
た」
アンセルムは串を置いて、少しだけ顔を背ける。
「誇らしいようなもんじゃないさ。彼女は……強かった。勝てたのはリカルドが来てくれたからだ」
アンジェリカは少しだけ視線を落とした。
「でも、あなたは重要な役割を果たした、そうでしょう?」
静かな口調だったが、その声には確かな芯があった。
「そうそう、そういえばドドンから結婚祝いもらったのよ」
「えっ? ドドンが?」
「ええ。食器のセットだったけど、全部ひとつずつ違う柄でね。“どれが正解かわからんから寄せ集めた”って」
「ははは、らしいな」
「それからね……フィリップ。あの子、最近“予言の男”って呼ばれてるの」
「また奇妙なあだ名だな」
「彼の言うことってよくあたるのよね、未来でもわかるのかな」
アンジェリカは笑った。
そして、その笑みがほんの少し沈黙に沈んだ後、ぽつりと口を開いた。
「ねえ、アンセルム」
「うん?」
「騎士団……辞めない? 一緒に、北大陸へ行かない?」
アンセルムの手が、止まった。
「……」
「北はまだ静かな場所が多いわ。血族の影も、戦も少ない。人々は土を耕して、季節と共に暮らしてる。
私たち……あんな場所で、静かに生きていけたらって。時々、思うの」
風が吹いた。街のざわめきが遠くなるような一瞬。
アンセルムは、彼女の横顔を見つめた。
「……すまない。アンジェリカ」
「……ううん、聞かせて」
「俺は、やっぱりここにいたいんだ。赤鷲騎士団に。ここで剣を振るって、守りたいものがある」
彼の声は、静かで、揺らぎのないものだった。
「でも……それが、君を悲しませるなら、俺はどうすれば……」
「悲しくなんて、ないわ」
アンジェリカは言った。
「あなたがどこにいても、私があなたを好きなことに、変わりはないの」
そう言って、彼女は手を握った。
「あなたがここにいるなら、私もここにいる。
北に行く夢は……またいつか、一緒に見ましょ」
アンセルムは、ただ黙って、その手を強く握り返した。
*
赤鷲騎士団の城、三階にある会議室。
広くはないが、戦地から戻った者たちが顔を合わせて戦略や補給の打ち合わせを行う、重要な場所である。
この日も、いつもと変わらぬ会議が行われていた。
リカルドが地図の上に手を置き、語る。
「南の監視塔からの報告によれば、最近ネブラカス派の動きが活発だ。ミランテ西方、アルナスの森に集結の兆しがある」
「またか……補給路が絶たれれば、物資が尽きるのも時間の問題だな」
ケッセルリンクが腕を組んで唸る。
「この前、ネイアが整備した補給線も焼かれたばかりだ。次があれば背骨が折れるぞ」
「では――次に打てる手は何だろう?」
バリが尋ねる。資料を読みながら視線はすでに戦略図を見ていた。
アンセルムは黙って座っていた。
戦術について何か言おうとした時だった。
リカルドがふと、手を止め、アンセルムの方をじっと見た。
「……お前は、“アンセルム”じゃないな」
その一言が、会議室の空気を凍らせた。
「……!」
アンセルムの目が見開かれる。
「いつから気づいてた……?」
声は小さかったが、確かに震えていた。
バリが眉をひそめ、静かに呟く。
「……最初に出会ったときから。だが、確証がなかった。
本当に“アンセルム”という名で立っていたし、何より……彼のようだったからな」
「え、え? どういうことだよ!? アンセルムは……アンセルムじゃなかったのか?」
ドドンが口を開け、テーブルに両手をついた。
「冗談……だよな?」
ケッセルリンクが目を細める。
「じゃあ……本物のアンセルムは、どうした?」
その問いに、沈黙が落ちた。
アンセルム――“偽りのアンセルム”は、ゆっくりと口を開いた。
「……彼は、俺が殺したんじゃない。……もう、死んでいた。
俺は、ただ――彼の遺体を見つけた。そして、その側に、深淵の立方体があった」
「立方体を渡したらお払い箱にされると思った」
ケッセルリンクが低い声で問うと、アンセルムは頷いた。
「それに……立方体の在り処だけが、俺の“価値”だった。
それを渡した瞬間、俺は“誰でもない”人間に戻る。だから……“アンセルム”になった。そうすれば、きっと――生き残れると思った」
バリが目を伏せた。
「……だが、お前は“アンセルム”として……それ以上のことをしてきた」
「……俺には、あいつの過去も、覚悟も全部わからなかった。
でも――戦っていくうちに、思ったんだ。本物のアンセルムが望んだことを、俺が継ぎたいって。
この名を騙るだけじゃなくて、本当に……“彼”になりたかった」
誰も言葉を返せなかった。
騎士団で共に戦い、血を流し、笑い合ってきた“アンセルム”が――その名を偽っていたと知っても。
それでも、その剣は偽物ではなかった。
あの戦いも、あの救出も、あの笑顔も――すべて本物だった。
リカルドが、静かに立ち上がる。
「お前の名がどうであろうと――この騎士団にとって重要なのは“行い”だ」
「……!」
「お前は戦った。仲間を助け、傷つき、決断をし、勝利を掴んだ。
赤鷲騎士団の誇りを胸に、剣を振るった。……なら、それ以上、何を責める?」
リカルドは真っ直ぐに、彼を見つめて言った。
「お前は、もう騎士団の一員だ。“アンセルム”という名で来たとしても、その魂は、俺たちの隣で生きていた。
だから……追放するようなことはしない」
アンセルム――“彼”は、言葉を失った。
唇が震え、喉が詰まり、それでもどうにかして、言葉を紡ごうとする。
「……ありがとう……俺は……」
「本物のアンセルムも、きっと誇りに思っているだろうさ」
バリが言った。
「名前は、記号にすぎない。だが“意志”は、誰にも偽れない」
「まったく……俺だけ気づいてなかったのかよ。なんか……ショックだなぁ」
ドドンが大げさにため息をつき、周囲の空気が少しだけ和らいだ。
**
会議は再開された。
だがそこには、もはや疑念も恐れもなかった。
“彼”は、確かに赤鷲騎士団の一員だった。
名がどうであれ、剣を取り、仲間を背負い、血を流した。
それが、この騎士団にとって何よりの“証明”だった。
会議後、リカルドが廊下で肩を叩いた。
「……名前、どうする? 本当の名前に戻してもいい」
アンセルムは少し考えて、笑った。
「いや……“アンセルム”でいい。今さら変えたら、皆がややこしがる」
「ふっ、そうだな」
アンセルム――いや、“本当のアンセルムになろうとした男”は、深く息を吸い込んだ。
心が少し、軽くなっていた。
名を捨てても、意志は残る。
そして、ここにいる限り、自分はもう“誰でもない”人間ではなかった。
空は晴れていた。
彼はまっすぐに、騎士団の詰所へ戻っていった。