ネブラカス派が拠点とする北方の山岳地帯。その奥深く、白霧の渓谷に抱かれるようにして建っていたのが、血族《焔と双翼のアムネシア》が住まう魔導図書館であった。
「本当に……ここか?」
マエリータ隊長であるアンセルムが低く呟いた。
彼の隣には、フィリップ、バリ、そして数十名のマエリータ隊の精鋭が控えていた。石畳の小道を進んだ彼らの目の前には、蔦と苔に覆われた巨大な扉が立ち塞がっていた。だが、ただの遺跡とは明らかに異なる気配がある。
扉には鍵穴も取手もない。ただ、中央に浮かび上がるように刻まれた双翼と炎の紋章だけが、そこがアムネシアの居城であると告げていた。
「バリ、これ……開け方分かるのか?」
バリは一歩前に出ると、石の扉に手をかざした。何か小さく呟くと、扉が軋むような音を立てて勝手に開き始めた。
「ようこそ。魔導図書館へ」
バリが静かに言った。
中に足を踏み入れた瞬間、アンセルムは息を呑んだ。
本が――浮いていた。棚から離れ、宙に舞い、まるで見えない手に導かれるように別の戸棚に吸い込まれていく。階段は自律的に動き、廊下の奥では書見台がひとりでにページを繰っていた。
「これは……」
フィリップが驚愕の声を漏らす。
「生きてるのか……建物自体が」
アンセルムも思わず呟いた。視線を宙に泳がせながら、何冊かの本が彼の周囲をぐるぐると旋回し、そして気まぐれに頭上を撫でて去っていく。
「この図書館は、古い怪物の心臓の魔力で動いている。知識に飢えた者だけを歓迎し、愚か者には牙を剥く」
バリの声が響いた。
「お前……なんでそんなに詳しいんだ?」
アンセルムが眉をひそめて問うと、バリは小さく笑った。
「私の実家なの」
*
魔導図書館の最奥――そこは、天井の見えぬほど高い広間だった。空間そのものが歪んでいるかのように、書棚が空中を泳ぎ、本が音もなく頁を繰る。
広間の中央に、ひときわ存在感を放つ人物が立っていた。
青い修道女の服に身を包み、腰には黒い剣。紫の長髪が流れるように揺れ、背中からは黒い翼が二枚、ゆるやかに広がっている。
その姿に、フィリップは思わず声を漏らした。
「……あれが、《焔と双翼のアムネシア》……」
アンセルムも無言でその姿を見据えていた。だが、一歩前に出たのは、バリだった。
「……久しぶりね、姉さん」
その言葉に、アムネシアが微笑む。
「ようやく、戻ってきてくれたの、バリ。懐かしいです……私の、小さな妹」
彼女の声は柔らかく、まるで絹が触れるようだった。だが、その奥底には鋭く乾いた響きが潜んでいる。
「私は、客として来ただけ」
バリは感情を抑えた声で言った。
「“塔の書”を借りに来たのよ。ネブラカスの計画を止めるために」
アムネシアは静かにうなずき、黒い剣の柄に手を添える。
「そう……でも、それはあなたがこの図書館を離れた時に、全て忘れていったものの一部でもある。思い出して。あの時、あなたが何を残したか」
「私は――」
バリが何かを言いかけたが、その前にアムネシアが静かに言葉を重ねた。
「バリ、戻ってらっしゃい。あなたにはその資格がある。ここにいれば、知識も、力も、永遠に得られる。この図書室で過ごした日々を、あなたはまだ覚えているでしょ?」
その瞬間、空間が揺らめいた。アンセルムたちの目の前に、幻影のように映し出されたのは、幼いバリが机に向かい、アムネシアと共に魔導書を読む光景だった。彼女の表情には笑みがあり、かつての“家族”の温もりすら感じられた。
「……懐かしいわね」
アムネシアが微笑む。「あの時のあなたは、とても素直だった。強くなりたい、世界を知りたいと願っていた」
フィリップが戸惑いを見せる。
「これ……魔術か?」
「記憶よ」
バリが淡々と答えた。「この図書館は、心を試す場所。そして……過去を利用するのも、ここでは当たり前のこと」
アンセルムがバリを見た。「バリ……お前、大丈夫か?」
バリは一度目を閉じ、深く息を吸った。
「ありがとう。でも、私はもう……あそこへは戻らない」
そして彼女は、ゆっくりとアムネシアに向き直った。
「あなたの元で学んだ日々を、私は否定しない。だけど今の私は、自分の意志で、未来を選ぶ」
アムネシアの目が細められた。
「……残念ね。私たちは、同じ炎から生まれたのに。バリ、あなたは“本当の名前”をもう忘れてしまったのかしら?」
広間に沈黙が落ちた。
バリが小さく呟く。
「私は、バリよ。それ以外の名は、もう要らない」
その瞬間、アムネシアの黒い剣が音もなく抜かれた。
風が走る。まるで空間そのものが切り裂かれるような鋭い気配
。
「本当に……変わってしまったのね。バリ。ならば、“妹”としてではなく、“外の者”として迎えましょう」
黒翼が広がり、炎のように翻る。
「“塔の書”を求めるなら、証明してもらうわ。自分の意志が、真実であると――」
アンセルムが剣に手をかけた。
「なら、話は早い」
*
広間の空気が、ひときわ重くなった。黒い剣が抜かれる音が響くと同時に、アムネシアの背から黒翼が大きく広がり、足元から炎が立ち上った。
「来なさい。妹だけじゃない。全員を試すわ」
彼女の声は冷えた炎のようだった。次の瞬間、床一面が灼熱に包まれる。石造りのはずの床が赤く光り、炎が蛇のように奔った。
「散開しろ!」 アンセルムの叫びと同時に、マエリータ隊が左右に展開する。フィリップは剣を抜き、バリは杖と剣を構えた。
アムネシアが一歩踏み込むと、床が爆ぜた。破裂した魔力の衝撃でアンセルムのコートがはためく。
「炎よ、形を取れ」
彼女が呟いた瞬間、空中に五つの炎の球が現れ、それぞれが獣のように蠢きながら飛来してきた。アンセルムは一つを斬り払うが、二つ目、三つ目が続く。
「クソッ、止まらねえ!」
「氷撃!」
バリの魔法が炸裂し、炎の球が凍りついて落下する。その隙にフィリップが前に出るが、アムネシアは黒い剣を振るい、まるで空間ごと断ち切るような斬撃を放った。
「危ない!」
アンセルムがフィリップを突き飛ばす。その瞬間、斬撃が石壁を裂いた。鋭利な風圧が肌を裂くようだった。
アムネシアは翼を広げると、ふわりと宙へ浮かぶ。
「翼を持たぬ者に、私を討つことなどできない」
「なら、落としてやるだけだ!」
アンセルムが飛び上がり、帆柱を駆け上がるような軽やかさで石柱を蹴って宙へと跳躍した。
剣と剣が交差する。火花とともに、アムネシアの表情がわずかに揺らぐ。
「よく飛んだわね、偽りの名を持つ男」
「アンセルムだ。立派な借り物の名だ!」
しかし、彼女の翼が一閃し、空中での彼の姿勢が崩される。その隙に剣が振るわれ、アンセルムは床へと叩き落とされた。
その衝撃で、床の一部が崩れた。
「アンセルム!」
バリの声が響いたが、その直後、さらに広がった崩落に巻き込まれる形で、アンセルム、フィリップ、そしてアムネシアまでもが、深い闇の底へと吸い込まれていった。
*
静寂。
どれほどの時間が経ったのか、アンセルムは冷たい石の感触と、微かな焔の匂いで意識を取り戻した。
だが、そこには誰の気配もなかった。
「……フィリップ? バリ……?」
薄暗い空間。どこか異様な、無音の世界。アンセルムは身体を起こし、周囲を見渡した。
そして、その先に座っていた。
一体の人形。
人間と変わらぬ大きさの少女の姿。白い喪服を纏い、銀の髪が膝まで垂れている。目は大きく、まるで硝子玉のように無表情だ。
彼女は、アンセルムを見るなり、傲然と顎を上げて言った。
「ようやく起きたか。鈍い男」
その口ぶりに、アンセルムは目を細める。
「……人形が喋ってるのか?」
「無礼だぞ。私はフラナ。この図書館の“記録”。あらゆる来訪者の影を見てきた。お前もその一つ」
フラウは椅子に腰かけたまま、アンセルムを値踏みするように見下ろす。
「さあ、語れ。お前の話を。ここに落ちてきた者は、皆そうして自分を知る」
アンセルムは額の血を拭いながら、苦笑を浮かべた。
「話せって……ずいぶん偉そうだな」
「当然だ。私は記録者。お前は語り部。役割が違う」
アンセルムはしばし無言で彼女を見つめ、それから小さく息をついた。
そして、語り始めた。
その声が広がるたび、フラウの目に微かな輝きが宿っていく。
深い地下の静寂に、ただ一つ、人の記憶だけが揺らめいていた。