虚無と期待のアンセルム   作:yumui

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焔と双翼のアムネシア

ネブラカス派が拠点とする北方の山岳地帯。その奥深く、白霧の渓谷に抱かれるようにして建っていたのが、血族《焔と双翼のアムネシア》が住まう魔導図書館であった。

 

「本当に……ここか?」

 

 マエリータ隊長であるアンセルムが低く呟いた。

 彼の隣には、フィリップ、バリ、そして数十名のマエリータ隊の精鋭が控えていた。石畳の小道を進んだ彼らの目の前には、蔦と苔に覆われた巨大な扉が立ち塞がっていた。だが、ただの遺跡とは明らかに異なる気配がある。

 扉には鍵穴も取手もない。ただ、中央に浮かび上がるように刻まれた双翼と炎の紋章だけが、そこがアムネシアの居城であると告げていた。

 

「バリ、これ……開け方分かるのか?」

 

 バリは一歩前に出ると、石の扉に手をかざした。何か小さく呟くと、扉が軋むような音を立てて勝手に開き始めた。

 

「ようこそ。魔導図書館へ」

 

 バリが静かに言った。

 中に足を踏み入れた瞬間、アンセルムは息を呑んだ。

 本が――浮いていた。棚から離れ、宙に舞い、まるで見えない手に導かれるように別の戸棚に吸い込まれていく。階段は自律的に動き、廊下の奥では書見台がひとりでにページを繰っていた。

 

「これは……」

 

 フィリップが驚愕の声を漏らす。

 

「生きてるのか……建物自体が」

 

 アンセルムも思わず呟いた。視線を宙に泳がせながら、何冊かの本が彼の周囲をぐるぐると旋回し、そして気まぐれに頭上を撫でて去っていく。

 

「この図書館は、古い怪物の心臓の魔力で動いている。知識に飢えた者だけを歓迎し、愚か者には牙を剥く」

 

 バリの声が響いた。

 

「お前……なんでそんなに詳しいんだ?」

 

 アンセルムが眉をひそめて問うと、バリは小さく笑った。

 

「私の実家なの」

 

 

魔導図書館の最奥――そこは、天井の見えぬほど高い広間だった。空間そのものが歪んでいるかのように、書棚が空中を泳ぎ、本が音もなく頁を繰る。

 広間の中央に、ひときわ存在感を放つ人物が立っていた。

 青い修道女の服に身を包み、腰には黒い剣。紫の長髪が流れるように揺れ、背中からは黒い翼が二枚、ゆるやかに広がっている。

 その姿に、フィリップは思わず声を漏らした。

 

「……あれが、《焔と双翼のアムネシア》……」

 

 アンセルムも無言でその姿を見据えていた。だが、一歩前に出たのは、バリだった。

 

「……久しぶりね、姉さん」

 

 その言葉に、アムネシアが微笑む。

 

「ようやく、戻ってきてくれたの、バリ。懐かしいです……私の、小さな妹」

 

 彼女の声は柔らかく、まるで絹が触れるようだった。だが、その奥底には鋭く乾いた響きが潜んでいる。

 

「私は、客として来ただけ」

 

 バリは感情を抑えた声で言った。

「“塔の書”を借りに来たのよ。ネブラカスの計画を止めるために」

 

 アムネシアは静かにうなずき、黒い剣の柄に手を添える。

 

「そう……でも、それはあなたがこの図書館を離れた時に、全て忘れていったものの一部でもある。思い出して。あの時、あなたが何を残したか」

 

「私は――」

 

 バリが何かを言いかけたが、その前にアムネシアが静かに言葉を重ねた。

 

「バリ、戻ってらっしゃい。あなたにはその資格がある。ここにいれば、知識も、力も、永遠に得られる。この図書室で過ごした日々を、あなたはまだ覚えているでしょ?」

 

 その瞬間、空間が揺らめいた。アンセルムたちの目の前に、幻影のように映し出されたのは、幼いバリが机に向かい、アムネシアと共に魔導書を読む光景だった。彼女の表情には笑みがあり、かつての“家族”の温もりすら感じられた。

 

「……懐かしいわね」

 

 アムネシアが微笑む。「あの時のあなたは、とても素直だった。強くなりたい、世界を知りたいと願っていた」

 

 フィリップが戸惑いを見せる。

 

「これ……魔術か?」

 

「記憶よ」

 

 バリが淡々と答えた。「この図書館は、心を試す場所。そして……過去を利用するのも、ここでは当たり前のこと」

 

 アンセルムがバリを見た。「バリ……お前、大丈夫か?」

 バリは一度目を閉じ、深く息を吸った。

 

「ありがとう。でも、私はもう……あそこへは戻らない」

 

 そして彼女は、ゆっくりとアムネシアに向き直った。

 

「あなたの元で学んだ日々を、私は否定しない。だけど今の私は、自分の意志で、未来を選ぶ」

 

 アムネシアの目が細められた。

 

「……残念ね。私たちは、同じ炎から生まれたのに。バリ、あなたは“本当の名前”をもう忘れてしまったのかしら?」

 

 広間に沈黙が落ちた。

 バリが小さく呟く。

 

「私は、バリよ。それ以外の名は、もう要らない」

 

 その瞬間、アムネシアの黒い剣が音もなく抜かれた。

 風が走る。まるで空間そのものが切り裂かれるような鋭い気配

「本当に……変わってしまったのね。バリ。ならば、“妹”としてではなく、“外の者”として迎えましょう」

 

黒翼が広がり、炎のように翻る。

 

「“塔の書”を求めるなら、証明してもらうわ。自分の意志が、真実であると――」

 

 アンセルムが剣に手をかけた。

 

「なら、話は早い」

 

 

広間の空気が、ひときわ重くなった。黒い剣が抜かれる音が響くと同時に、アムネシアの背から黒翼が大きく広がり、足元から炎が立ち上った。

 

「来なさい。妹だけじゃない。全員を試すわ」

 

 彼女の声は冷えた炎のようだった。次の瞬間、床一面が灼熱に包まれる。石造りのはずの床が赤く光り、炎が蛇のように奔った。

 

「散開しろ!」  アンセルムの叫びと同時に、マエリータ隊が左右に展開する。フィリップは剣を抜き、バリは杖と剣を構えた。

 

 アムネシアが一歩踏み込むと、床が爆ぜた。破裂した魔力の衝撃でアンセルムのコートがはためく。

 

「炎よ、形を取れ」

 

 彼女が呟いた瞬間、空中に五つの炎の球が現れ、それぞれが獣のように蠢きながら飛来してきた。アンセルムは一つを斬り払うが、二つ目、三つ目が続く。

 

「クソッ、止まらねえ!」

 

「氷撃!」

 

 バリの魔法が炸裂し、炎の球が凍りついて落下する。その隙にフィリップが前に出るが、アムネシアは黒い剣を振るい、まるで空間ごと断ち切るような斬撃を放った。

 

「危ない!」

 

 アンセルムがフィリップを突き飛ばす。その瞬間、斬撃が石壁を裂いた。鋭利な風圧が肌を裂くようだった。

 アムネシアは翼を広げると、ふわりと宙へ浮かぶ。

 

「翼を持たぬ者に、私を討つことなどできない」

 

「なら、落としてやるだけだ!」

 

 アンセルムが飛び上がり、帆柱を駆け上がるような軽やかさで石柱を蹴って宙へと跳躍した。

 剣と剣が交差する。火花とともに、アムネシアの表情がわずかに揺らぐ。

 

「よく飛んだわね、偽りの名を持つ男」

 

「アンセルムだ。立派な借り物の名だ!」

 

 しかし、彼女の翼が一閃し、空中での彼の姿勢が崩される。その隙に剣が振るわれ、アンセルムは床へと叩き落とされた。

 

 その衝撃で、床の一部が崩れた。

 

「アンセルム!」

 

 バリの声が響いたが、その直後、さらに広がった崩落に巻き込まれる形で、アンセルム、フィリップ、そしてアムネシアまでもが、深い闇の底へと吸い込まれていった。

 

 

 静寂。

 どれほどの時間が経ったのか、アンセルムは冷たい石の感触と、微かな焔の匂いで意識を取り戻した。

 だが、そこには誰の気配もなかった。

 

「……フィリップ? バリ……?」

 

 薄暗い空間。どこか異様な、無音の世界。アンセルムは身体を起こし、周囲を見渡した。

 そして、その先に座っていた。

 一体の人形。

 人間と変わらぬ大きさの少女の姿。白い喪服を纏い、銀の髪が膝まで垂れている。目は大きく、まるで硝子玉のように無表情だ。

 彼女は、アンセルムを見るなり、傲然と顎を上げて言った。

 

「ようやく起きたか。鈍い男」

 

 その口ぶりに、アンセルムは目を細める。

 

「……人形が喋ってるのか?」

 

「無礼だぞ。私はフラナ。この図書館の“記録”。あらゆる来訪者の影を見てきた。お前もその一つ」

 

 フラウは椅子に腰かけたまま、アンセルムを値踏みするように見下ろす。

 

「さあ、語れ。お前の話を。ここに落ちてきた者は、皆そうして自分を知る」

 

 アンセルムは額の血を拭いながら、苦笑を浮かべた。

 

「話せって……ずいぶん偉そうだな」

 

「当然だ。私は記録者。お前は語り部。役割が違う」

 

 アンセルムはしばし無言で彼女を見つめ、それから小さく息をついた。

 そして、語り始めた。

 その声が広がるたび、フラウの目に微かな輝きが宿っていく。

 深い地下の静寂に、ただ一つ、人の記憶だけが揺らめいていた。

 

 

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