朝。
ホロライブ事務所。
いつものようにスタッフ達が行き交い、廊下には忙しそうな足音が響いていた。
その一角。
シグレはモップを片手に、床を磨いていた。
シグレ「……」
黙々と床を磨く。
昨日、大神直属の神使から受けた警告が頭から離れない。
『これ以上力を取り戻せば、神界も手を出さざるを得ない』
シグレ「……」
モップを止める。
そして、小さくため息をついた。
シグレ「まったく……朝から嫌なことを思い出させてくれる」
再びモップを動かす。
すると。
床に残っていた水滴が、シグレの足元へ集まっていく。
まるで意思を持ったように。
シグレ「……おい」
水滴がぴたりと止まる。
シグレ「なぜ水まで我の言うことを聞く」
当然、誰も答えない。
シグレ「……」
シグレは少しだけ手を上げる。
水滴がふわりと浮いた。
そのまま空中で小さな球体になる。
シグレ「やはり……以前より力が強くなっている」
それを見つめながら、シグレは複雑な顔をした。
以前なら嬉しかった。
力が戻ることは、神としての自分を取り戻すことだったからだ。
だが今は違う。
力が戻れば戻るほど。
神界との距離が近くなる。
シグレ「……困ったものだ」
水の球が、ポンッと弾ける。
その瞬間。
???「わっ!?」
廊下の向こうから声がした。
シグレ「!?」
振り向く。
そこにいたのは、
博衣こよりだった。
こより「ちょ、ちょっと!? 今、水が飛んできましたよ!?」
シグレ「……」
こより「シグレさん?」
シグレ「……掃除の神秘だ」
こより「絶対違いますよね!?」
シグレ「水拭きとは、奥が深いのだ」
こより「いやいやいや! 物理法則を無視してません!?」
シグレは目を逸らす。
こより「……」
じーっ。
シグレ「……何だ」
こより「最近、シグレさんの誤魔化し方が雑になってません?」
シグレ「……気のせいだ」
こより「絶対気のせいじゃないです」
シグレ「仕事に戻れ」
こより「はーい」
こよりは笑いながら去っていく。
シグレはその背中を見送る。
シグレ「……危なかった」
神様としての威厳は。
今日もどんどん失われていく。
◇
昼。
珍しく仕事が早く終わったシグレは、休憩室で一人コーヒーを飲んでいた。
シグレ「……苦い」
最初の頃は、この飲み物すらよく分からなかった。
今では毎日飲む。
人間の生活にも慣れてきた。
スマートフォンも使える。
電車にも乗れる。
電子レンジも使える。
そして。
コンビニのおにぎりの種類にも詳しくなった。
シグレ「……我は一体、何処へ向かっているのだ」
ふとスマートフォンを見る。
連絡が一件。
すいせいからだった。
《今日暇?》
シグレは少し考えてから返信する。
《仕事は終わった。何か用か》
すぐに返事が来た。
《暇ならちょっと付き合って》
シグレ「……嫌な予感がする」
しかし。
断る理由もない。
数分後。
すいせい「おまたせー!」
事務所の入口から、星街すいせいがやってきた。
シグレ「何の用だ」
すいせい「買い物」
シグレ「……一人で行け」
すいせい「荷物持ち」
シグレ「やはりそれか」
すいせい「神様なんだから力持ちでしょ?」
シグレ「神を何だと思っている」
すいせい「元・神様兼、現・便利屋?」
シグレ「降格した理由が分かった気がする」
すいせい「なにそれ?」
二人はそのまま街へ向かった。
◇
商店街。
すいせい「これどう?」
シグレ「何だこれは」
すいせい「新しいマグカップ」
シグレ「……」
シグレは白いマグカップを手に取る。
小さく星の模様が描かれている。
すいせい「シグレの部屋、食器少なすぎるんだよ」
シグレ「別に困っていない」
すいせい「いつもコンビニ飯だからでしょ」
シグレ「……」
図星だった。
すいせい「ちゃんと料理しなよ」
シグレ「神に料理を求めるな」
すいせい「今は人間生活してるんだから」
シグレ「……」
その言葉に。
シグレは少しだけ黙った。
「今は人間生活をしている」
その言葉が妙に胸へ残った。
すいせい「……どうしたの?」
シグレ「いや」
シグレはマグカップを見る。
そして。
小さく笑った。
シグレ「これにしよう」
すいせい「お、珍しい」
シグレ「何だ」
すいせい「シグレが自分から何か欲しがるの」
シグレ「……」
確かに。
神だった頃は。
欲しいものなどなかった。
祈りさえあれば良かった。
だが今は。
自分の部屋。
食事。
仕事。
仲間。
そして。
こうした小さな買い物。
シグレ「……悪くないな」
すいせい「何が?」
シグレ「こういうのも」
すいせいは少しだけ笑った。
すいせい「でしょ?」
◇
その夜。
シグレの部屋。
買ってきたマグカップにコーヒーを注ぐ。
シグレ「……」
窓の外を見る。
都会の夜。
無数の光。
かつて自分がいた神界とは全く違う。
シグレ「……我は、もう神界へ戻りたいとは思わぬのかもしれんな」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が少しだけ軽くなった。
だが。
同時に。
恐怖もあった。
神界は自分を放っておかない。
力を取り戻せば。
いつか必ず衝突する。
シグレ「……ならば」
シグレは右手を見つめる。
指先に小さな光が灯った。
以前よりも明るい。
シグレ「この力を、何に使う」
戦うためか。
神界へ戻るためか。
それとも。
誰かを守るためか。
答えはまだ出ない。
その時。
スマートフォンが鳴った。
《おかゆ:明日暇なら映画見ない?》
シグレ「……」
少し考える。
そして。
《分かった》
送信。
数秒後。
《やった〜》
シグレはスマートフォンを置く。
そして。
小さく笑った。
シグレ「……明日も悪くなさそうだ」
その瞬間。
彼の部屋に、僅かな光が満ちる。
神威。
また少しだけ。
確かに増えていた。
◇
同じ頃。
神界。
大神殿。
神使が一人、膝をついていた。
神使「報告します」
大神「申せ」
神使「アマツカミ=シグレの神威、再び上昇を確認」
沈黙。
大神「……どの程度だ」
神使「微量です。しかし――」
一瞬、言葉を止める。
神使「以前とは明らかに性質が違います」
大神「……」
神使「信仰ではありません」
「信頼」。
その言葉を。
神使は口にしなかった。
だが大神には理解できていた。
大神「……人との繋がりが、力になっている」
神使「はい」
長い沈黙。
大神「監視を続けよ」
神使「承知しました」
神使が消える。
大神は一人。
静かに下界を見下ろしていた。
大神「……シグレ」
その名を呟く。
かつて神界から追放した神。
本来なら。
もう終わった存在だった。
それが今。
人間達との間に新しい繋がりを築き。
再び力を得ようとしている。
大神「お前は……何になるつもりだ」
その問いに。
答える者はいなかった。
そして人間界では。
元神様が買ったばかりのマグカップを眺めながら。
シグレ「……明日の映画、何を見るのだろうな」
そんなことを考えていた。
神界が警戒するほどの存在と。
本人の考えていることの温度差は。
今日も、とてつもなく大きかった。
――To Be Continued.