その日も、ホロライブ事務所は朝から慌ただしかった。
廊下を行き交うスタッフたち。収録の時間を気にしながら資料を抱えて走る者もいれば、スタジオの機材を確認する者、打ち合わせに向かうタレントたちの姿もある。
そんな喧騒の中に、一人の男がいた。
アマツカミ=シグレ。
かつて神として人々の祈りを受けていた男は、今ではホロライブの裏方スタッフとして、機材の確認やスタジオの準備に追われている。
神だった頃には、想像すらしなかった生活だ。
それでも、シグレはこの生活を嫌ってはいなかった。
むしろ、以前よりも充実していると感じる日さえある。
誰かに仕事を頼まれ、それを終えれば感謝される。困っている者がいれば手を貸し、時には他愛もない話をして笑う。
神として崇められていた頃には、決して得られなかったものが、ここにはあった。
シグレ「……よし。こちらの接続も問題ないな」
確認を終えたケーブルを丁寧にまとめ、シグレは立ち上がった。
最近では、機材の扱いにもすっかり慣れてきた。最初の頃は電源ケーブルと通信ケーブルの違いすら怪しかったが、今ではスタッフから仕事を任されることも増えている。
自分が人間の世界に馴染んでいる。
そう実感するたび、シグレは少し不思議な気持ちになった。
かつては、人間たちが作り上げたものなど、神の力に比べれば些細なものだと思っていた。
しかし、今は違う。
人間たちが知恵を出し合い、時間をかけて作り上げた機材。それを使って、一つの舞台を完成させようとする人々の姿を、シグレは以前よりも尊いものだと感じていた。
だからこそ、この場所を守りたい。
自分が役に立てる限り、ここにいたい。
そんな思いが、少しずつシグレの中で大きくなっていた。
しかし、その一方で、彼自身も気づいていた。
自分の中で何かが変わり始めていることに。
ここ数日、意識していないのに風が吹くことがあった。照明が一瞬だけ明滅したり、近くに置かれた水が不自然に揺れたりすることもある。
どれも小さな現象だった。
誰かが気づいても、機材の不調や偶然として片づけられる程度のものだ。
だが、シグレには分かっていた。
それらは偶然ではない。
自分の力が、意識とは無関係に発動しているのだ。
シグレ「…………」
自分の手のひらを見つめる。
かつては、この手で幾度となく奇跡を起こしてきた。
風を呼び、雨を降らせ、人々の願いに応える。その行為に疑問を抱いたことはなかった。
力は自分の意思に従うもの。
それが、神であった頃のシグレにとって当たり前のことだった。
だが、今は違う。
力は戻りつつある。
しかも、その戻り方は以前とは明らかに異なっていた。
失われたはずの力が、ただ元に戻っているわけではない。自分が本来扱っていた領域とは異なる力まで、少しずつ使えるようになっている。
どうしてなのか。
何が起こっているのか。
シグレ自身にも、答えは出せなかった。
こより「シグレさん!」
突然、名前を呼ばれた。
振り返ると、博衣こよりが小走りで近づいてくるところだった。
こより「今日の3Dリハーサル、準備はもう終わってます?」
シグレ「ああ。機材の確認は一通り済ませてある。照明も音響も、今のところ問題はない」
こより「おおー! ありがとうございます!」
こよりは嬉しそうに笑った。
こより「シグレさん、本当に裏方のお仕事に慣れましたよね。最初の頃がちょっと懐かしいかも」
シグレ「……何か含みのある言い方だな」
こより「えー? そんなことないですよ?」
シグレ「掃除機を神器と呼んでいた頃の話をするつもりなら、やめておけ」
こより「まだ何も言ってないんですけど!?」
シグレ「顔に書いてある」
こより「シグレさんのほうが分かりやすいですよ!」
こよりの笑い声が、スタジオ前の廊下に響いた。
シグレも呆れたように息を吐いたが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
こうしたやり取りも、今では珍しいものではない。
神だった頃には、自分をからかう者などほとんどいなかった。いたとしても、神としての立場を気にして遠慮するか、あるいは相手をする価値がないと判断して距離を取るかのどちらかだった。
だが、こよりは違う。
シグレが元神であることを知っていても、必要以上に気を遣わない。普通に話し、普通に笑い、時には遠慮なく冗談を言う。
その距離感が、シグレには心地よかった。
こより「じゃあ、こよは先にスタジオに行ってきますね!」
シグレ「うむ。本番に備えて、しっかりと準備しておくのだぞ」
こより「はい! 頑張ります!」
元気よく手を振り、こよりはスタジオへ向かっていった。
シグレも必要な道具を手に取り、その後を追った。
この時のシグレは、今日という一日が、いつも通りに終わるものだと思っていた。
まさか、自分の力によって、あれほどの騒ぎが起きることになるとは。
まだ、想像もしていなかった。
◇
午後。
3Dリハーサルが始まると、スタジオは一気に活気づいた。
ステージの照明が点灯し、音響機材から音楽が流れる。こよりはスタッフの指示を受けながら、立ち位置や動き、カメラに映る角度などを一つずつ確認していた。
こより「ここで移動して、こっちを向いて……それから、ここでポーズ!」
スタッフ「はい、いいですね。その動きでお願いします!」
こより「了解です!」
元気な返事がスタジオに響く。
シグレは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
舞台の上で輝く者がいる。
その舞台を成立させるため、見えないところで支える者がいる。
それぞれの役割が重なり合うことで、一つのものが完成する。
以前のシグレは、そうした裏方の仕事を深く考えたことがなかった。人々が祈りを捧げれば、それに応える。それこそが神の役目であり、それ以上のことを知ろうともしていなかった。
しかし、今は舞台の裏側にいるからこそ、分かることがある。
華やかなステージの裏には、目立たない仕事がいくつも積み重なっているのだ。
シグレは、そんな仕事の一端を担えることに誇りを感じていた。
やがて、短い休憩に入った。
こよりはステージから降り、用意されていた飲み物を手に取る。
こより「ふぅー……」
シグレ「疲れたか?」
こより「うーん、疲れたというより……ちょっと緊張してるのかもしれません」
シグレ「緊張?」
こより「はい。リハーサルは大丈夫なんですけど、本番のことを考えると、ちゃんとできるかなって」
こよりは苦笑した。
こより「何回も経験してるはずなんですけどね。いざ本番が近づくと、失敗したらどうしようって考えちゃうんですよ」
普段のこよりは明るく、勢いがあり、多少のことでは物怖じしない印象がある。
だが、どれだけ明るく振る舞っていても、舞台に立つ前の不安がなくなるわけではないのだろう。
シグレは、こよりの表情をしばらく見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
シグレ「案ずるな、博衣こより」
こより「……え?」
シグレ「そなたなら大丈夫だ」
あまりにも迷いのない言葉だった。
こより「…………」
シグレ「これまで幾度となく舞台に立ってきたのであろう。そのたびに準備を重ね、努力を積み重ねてきたはずだ」
シグレは、こよりがこれまで積み上げてきたものを思い返すように言葉を続けた。
シグレ「ならば、今さら自分を疑う必要はあるまい。失敗を恐れるのは、それだけ真剣に取り組んでいる証でもある」
こより「……シグレさん」
シグレ「それに、そなた一人で舞台に立つわけではない」
シグレはスタジオを見渡した。
音響を確認するスタッフ。照明の調整を行うスタッフ。カメラの位置を確認するスタッフ。
それぞれが、こよりの舞台を成功させるために動いている。
シグレ「周囲には仲間がいる。そなたを支える者たちがいる。そして……我もいる」
こより「…………」
こよりは目を丸くしたあと、ふっと笑った。
こより「……ありがとうございます」
シグレ「うむ」
こより「なんか、シグレさんに言われると、不思議と大丈夫な気がしてきました!」
シグレ「ならば何よりだ」
こより「よーし! このまま頑張るぞー!」
こよりは気合を入れ直し、再びステージへと向かった。
シグレは、その背中を穏やかな目で見送った。
誰かを励ます。
誰かの不安を少しでも軽くする。
それは、かつて人々の願いに応えていた自分の役目と、どこか似ている気がした。
もっとも、今のシグレは、そんなことを意識していたわけではない。
ただ、目の前の相手に元気になってほしかった。
それだけだった。
――その気持ちが、何を引き起こすのかも知らずに。
◇
異変は、突然起きた。
ステージ上の照明が、一つだけ不自然に明滅した。
パッ。
ほんの一瞬のことだった。
スタッフの誰も、すぐには気づかなかった。
しかし、シグレだけは違った。
シグレ「…………?」
胸の奥に、妙な感覚が走った。
自分の中にある何かが、かすかに揺れたような感覚。
それは、今までにも何度か経験していたものだった。
シグレ「……まさか」
そう呟いた直後。
パッ、パッ、パッ!
照明が立て続けに明滅した。
スタッフ「ん? 照明、どうした?」
スタッフが機材へ視線を向けた、その瞬間。
バチッ!
乾いた音がスタジオに響いた。
次いで、室内を強い風が吹き抜けた。
こより「わっ!?」
こよりの髪が大きく舞い上がる。
ステージの端に置かれていた資料が宙へ飛び、机の上のペットボトルが倒れた。
スタッフ「何だ!?」
スタッフ「空調か? いや、空調は動いてないぞ!」
風は一方向から吹いているわけではなかった。
渦を巻くようにスタジオ内を駆け巡り、壁際に置かれていた軽い機材まで揺らしている。
シグレは、その場に立ち尽くした。
分かっていた。
この風は自然に発生したものではない。
自分の力だ。
シグレ「……やめろ」
小さく呟き、右手を握る。
すると、風が一瞬だけ弱まった。
だが、止まらない。
シグレ「……止まれ」
再び意識を集中させる。
かつてなら、これだけで十分だった。
風を起こすことも、鎮めることも、シグレにとっては容易なことだったはずだ。
ところが、今は違う。
風は意思に従わず、むしろ抵抗するかのように勢いを増していく。
その時だった。
ぽつり、と冷たいものが頬に触れた。
シグレ「……何?」
顔を上げる。
天井から、水滴が落ちていた。
いや、一滴だけではない。
いつの間にか、スタジオの上部に無数の水滴が浮かんでいた。
水滴は床に落ちることなく、空中で静止している。
照明の光を反射しながら、まるで小さな星々のように輝いていた。
しかし、その光景を美しいと感じる余裕は、誰にもなかった。
こより「えっ……何、これ……?」
スタッフ「全員、ステージから離れて!」
スタッフたちが慌ただしく動き始める。
水滴は少しずつ数を増やしていた。
風が強まるたびに、水滴が不規則に揺れる。
そして、照明が再び明滅した。
今度はスタジオ全体だった。
シグレ「……っ!」
シグレはすぐに駆け出した。
シグレ「こより、そこから離れろ!」
こより「シグレさん!?」
シグレ「早く!」
普段の落ち着いた口調とは違う、切迫した声だった。
こよりはその異様な様子に気づき、急いでステージの端へ移動する。
その直後。
バチィッ!
照明設備の一つから火花が散った。
スタッフ「危ない!」
火花の飛び散った方向へ、風が吹きつける。
床に置かれたケーブルが引っ張られ、近くの機材が大きく傾いた。
さらに、空中に浮かんでいた水滴が、一斉に動き始めた。
風が渦を巻き、水がそれに引き寄せられる。
光が強くなり、照明の周囲で電気が不規則に弾けた。
それは、単なる風の暴走ではなかった。
複数の力が、同時に発動している。
しかも、そのどれもがシグレの意思によるものではない。
シグレ「何故だ……!」
シグレは両手を広げ、必死に力を抑え込もうとした。
風を鎮めようとすれば、水が激しく揺れる。
水を落ち着かせようとすれば、照明が明滅する。
一つの力を抑えるたび、別の力が溢れ出してくる。
まるで、いくつもの異なる力が、シグレの中で互いに競い合っているかのようだった。
シグレ「静まれ! 我の声を聞け!」
叫んでも、何も変わらない。
神として生きていた頃、自分の力がこれほどまでに言うことを聞かなかったことなど、一度もなかった。
それなのに、今はどうだ。
自分の力が、自分の意思から離れていく。
その事実が、シグレの心に焦りを生んでいた。
焦りは、さらに力を乱す。
風が勢いを増し、空中の水滴が激しく回転した。
こより「シグレさん!」
こよりの声が聞こえた。
シグレは一瞬だけ、そちらを見た。
こよりは避難した場所から、心配そうにこちらを見つめていた。
その表情を見た瞬間、シグレの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
もし、力を抑えられなかったら。
もし、この風がこよりに向かって吹きつけたら。
もし、あの照明が落ちてきたら。
考えるだけで、胸が締めつけられた。
シグレ「……させぬ」
低く呟く。
シグレ「誰も、傷つけさせはせぬ……!」
シグレは全神経を集中させた。
風の流れを読み、暴れる水を鎮め、照明に走る異常な力を押さえ込む。
それぞれの力を一つずつ制御しようとするのではない。
すべてを、自分の意思のもとへ引き戻す。
かつて神として世界に向き合っていた頃の感覚を、必死に思い出す。
自分は何を望んでいるのか。
何を守りたいのか。
何のために力を使うのか。
答えは、初めから決まっていた。
シグレ「――静まれぇぇぇっ!!」
空気が震えた。
吹き荒れていた風が、突然、天井へ向かって流れを変えた。
水滴が一斉に床へ落ちる。
照明の明滅が止まり、弾けていた電気も消えた。
そして、スタジオに静寂が戻った。
床には水が広がり、倒れた機材や散乱した資料が残されていた。
いくつかの照明設備は故障しているらしい。
しかし、誰も倒れてはいなかった。
誰も怪我をしていなかった。
シグレは、しばらくその場から動けなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと自分の手を見下ろす。
指先が震えていた。
シグレ「…………我が」
声が、かすれた。
シグレ「……我が、やったのか」
誰もすぐには答えなかった。
スタッフたちは安全確認に追われ、こよりもまた、目の前で起きたことを受け止めきれずにいた。
やがて、こよりがシグレのそばへ近づいてきた。
こより「シグレさん……」
シグレ「来るな」
こより「……え?」
シグレ「今は、我に近づかぬ方がよい」
こより「でも……」
シグレ「頼む」
その言葉には、いつもの威厳はなかった。
ただ、怯えがあった。
自分の力が、いつ再び暴れ出すか分からない。
もし、次に制御を失った時、目の前にいる誰かが巻き込まれたら。
そう考えると、シグレはこよりの顔をまともに見ることができなかった。
しばらくして、こよりが静かに口を開いた。
こより「……誰も怪我してません」
シグレ「…………」
こより「シグレさんが止めてくれたから、みんな無事だったんです」
シグレ「……だが、そもそも暴走させたのは我だ」
こより「それは……」
シグレ「今は止められた。だが、次も止められる保証はない」
シグレは拳を握りしめた。
シグレ「我は、そなたを励ましたかっただけなのだ」
こより「……はい」
シグレ「そなたに安心して舞台へ立ってほしかった。それだけだった」
声が少しずつ沈んでいく。
シグレ「それなのに……」
シグレは言葉を続けられなかった。
誰かを助けたい。
誰かを守りたい。
そう願った結果、自分の力が暴走し、周囲を危険にさらした。
かつて神として力を振るっていた頃には、想像もしなかった事態だった。
力とは、望むものを成し遂げるためにある。
そう信じていた。
だが、今の自分は、その力を制御することすらできていない。
こよりは何か言おうとしたが、結局、言葉を飲み込んだ。
シグレの表情を見れば、どれほど自分を責めているのかが分かったからだ。
この場で、簡単に慰めたところで意味はない。
シグレ自身が、そのことを誰よりも理解していた。
◇
その日の仕事は、予定を変更して中断となった。
スタッフたちは故障した機材の確認と片づけに追われ、シグレも手伝おうとした。
しかし、作業を始めようとしたところで、スタッフに止められてしまった。
スタッフ「シグレさん、今日はもう大丈夫です。少し休んでください」
シグレ「……だが」
スタッフ「片づけはこっちでやりますから」
気遣いの言葉だった。
それが分かっているからこそ、シグレは何も言い返せなかった。
結局、シグレは事務所を早めに出ることになった。
帰り道、街はいつもと変わらない様子だった。
店の明かりが道路を照らし、駅へ向かう人々が行き交っている。どこかから笑い声が聞こえ、飲食店の前には人が並んでいた。
誰も、シグレの中で起きている異変など知らない。
この世界は、何事もなかったかのように動き続けている。
それが当たり前なのだ。
けれど、シグレには、その当たり前が急に遠いもののように感じられた。
自分がこの世界で暮らしていくためには、力を制御しなければならない。
自分が大切に思う人々と一緒にいるためには、自分の力が彼らを脅かすものであってはならない。
それは、今まで以上にはっきりとした課題になっていた。
アパートに戻ると、シグレは上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
テーブルの上には、星柄のマグカップが置かれている。
すいせいと買い物に出かけた時、自分で選んだものだ。
あの時は、こんな日が来るとは思いもしなかった。
好きなものを選び、好きなものを食べ、仲間と笑う。
そんな生活が、自分にとってかけがえのないものになるとは。
シグレ「…………」
マグカップへ手を伸ばしかけて、やめた。
今は、何かを飲む気にもなれない。
代わりに、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を点灯させ、連絡先を開いた。
そこにある名前を見つめる。
アマノ。
以前、シグレが神界の事情について相談した、星の神。
彼女もまた、神々の側から監視される立場にある。そのため、二人は直接会うことを避け、必要な時には電話で連絡を取るようにしていた。
シグレは少し迷った。
今日の出来事を話せば、アマノも心配するだろう。
だが、今は一人で抱え込んでいる場合ではない。
シグレは通話ボタンを押した。
呼び出し音が数回鳴り、やがて聞き慣れた声が返ってきた。
アマノ『もしもーし? シグレ?』
シグレ「ああ。今、話せるか?」
アマノ『大丈夫だけど。どうしたの? なんか声、暗くない?』
シグレ「……少し、相談したいことがある」
アマノ『ふーん。なになに?』
いつもと変わらない、軽い調子の声。
それを聞いたことで、シグレの胸の内にあった緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。
しかし、これから話す内容は、決して軽いものではない。
シグレ「……今日、我の力が暴走した」
アマノ『…………え?』
電話の向こうから、冗談めいた空気が消えた。
シグレ「風だけではない。水や光、それに電気にまで影響が及んだ。複数の力が同時に発動し、我の意思では抑えきれなくなった」
アマノ『ちょっと待って。誰か怪我したの?』
シグレ「幸い、怪我人はいなかった。最後には、何とか止めることができた」
アマノ『……そっか』
安堵の息が聞こえた。
だが、それで問題が解決したわけではない。
シグレ「しかし、今回は運が良かっただけだ。次に同じことが起きた時、必ず止められるとは限らぬ」
アマノ『…………』
シグレ「我は、誰かを守るために力を使いたい。ここで暮らす者たちの役に立ちたいと思っている」
シグレは、テーブルの上に置いた自分の手を見つめた。
シグレ「だが、今のままでは……その力で、皆を傷つけてしまうかもしれぬ」
言葉にすると、恐怖が一層はっきりと形になった。
自分が力を失うことを恐れていた頃とは違う。
今は、力があることそのものが怖い。
それは、かつての自分なら考えもしなかった感情だった。
アマノ『……シグレ』
シグレ「何だ」
アマノ『一人、心当たりがある』
シグレ「心当たり?」
アマノ『うん。奇跡の力を扱う神』
シグレは顔を上げた。
シグレ「……奇跡の神?」
アマノ『正確には、奇跡そのものを扱うことに長けた神、って聞いたことがあるんだよね』
シグレ「その神であれば、今の我の力について何か分かるかもしれぬと?」
アマノ『可能性はあると思う。少なくとも、今のシグレが一人で悩んでるよりはいいんじゃない?』
確かに、そうかもしれない。
今の自分に必要なのは、力を無理やり押さえ込むことではない。
何が起きているのかを理解し、正しい扱い方を知ることだ。
それを教えてくれる存在がいるのなら、頼るべきなのだろう。
シグレ「……その神は、どこにいる?」
アマノ『それが分かんないんだよねー……』
シグレ「…………」
アマノ『昔、神々の間でその存在について聞いたことがあるだけなんだ。名前も、今どこにいるのかも、はっきりとは知らない』
シグレ「手掛かりが少なすぎるな」
アマノ『それはマジでそう。でも、探してみる価値はあると思うよ』
シグレ「…………」
アマノ『今のシグレの力、普通じゃないじゃん。前に話してくれた、他の神の力まで使えるって件も気になるし』
シグレ「うむ」
アマノ『奇跡を扱う神なら、その理由も分かるかもしれない』
シグレは目を閉じた。
答えが見つかる保証はない。
その神が本当に存在しているのかさえ、今は確かめられない。
それでも、何もせずにいるわけにはいかなかった。
今日の出来事は、シグレにとって明確な警告だった。
自分の力は、もはや自分が知っているものだけではない。
そして、その力を制御できないままでいることは、周囲の人々を危険にさらすことに繋がる。
シグレ「……探そう」
アマノ『うん』
シグレ「その神を探し出し、我の力について教えを請う」
アマノ『分かった。私もこっちで調べてみるよ』
シグレ「頼む」
アマノ『ただし、無茶はしないでね。何かあってからじゃ遅いんだから』
シグレ「分かっている」
アマノ『ほんとにー?』
シグレ「何故、疑う」
アマノ『だってシグレ、困ったら一人で何とかしようとするじゃん』
シグレ「…………」
アマノ『ほら、また黙った!』
シグレ「……善処する」
アマノ『それ、絶対に無茶する人の返事じゃん!』
シグレ「うるさい。少しは信用せぬか」
アマノ『信用してるから心配してんの!』
思わず、シグレは小さく笑った。
電話越しのやり取りは、いつも通りだった。
軽口を叩き、呆れられ、時には真剣な話をする。
神としての地位も、力の強さも関係ない。
ただ、目の前の相手を気遣い、言葉を交わす。
そうした時間が、今のシグレにとってどれほど大切なものなのか。
彼自身、以前よりもよく理解するようになっていた。
アマノ『じゃあ、何か分かったら連絡するね』
シグレ「ああ。こちらでも手掛かりを探してみよう」
アマノ『うん。それじゃ、またねー』
シグレ「……ああ。またな」
通話が切れた。
部屋に静けさが戻る。
シグレはスマートフォンを机に置き、しばらくその場に立っていた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
たくさんの人々が、それぞれの生活を送っている。
誰かが仕事を終えて帰宅し、誰かが友人と食事を楽しみ、誰かが明日の予定を考えている。
当たり前の光景。
かつてのシグレなら、特に気にも留めなかっただろう。
しかし今は、その一つ一つが愛おしく感じられた。
この世界で暮らす人々。
自分を仲間として受け入れてくれた者たち。
失いたくないと思える場所。
そのすべてを守るためにも、自分は変わらなければならない。
シグレ「……奇跡を扱う神、か」
シグレは、ゆっくりと息を吐いた。
神だった頃、奇跡を起こすことは当たり前だった。
祈りに応え、願いを叶え、求められた力を振るう。
それが自分の役目だと信じて疑わなかった。
だが今、その奇跡が何なのか、自分自身にも分からなくなっている。
どうして力が戻っているのか。
どうして他の神の力まで扱えるようになったのか。
どうして、人々から寄せられる信頼が、自分の力に影響を与えているのか。
知りたいことは、いくらでもあった。
そして何より、もう二度と今日のようなことを起こしたくなかった。
シグレ「……今度こそ、己の力を理解してみせる」
静かな決意だった。
誰かに命じられたわけではない。
神としての責務を果たすためでもない。
ただ、自分が大切に思うものを守りたいから。
そのために、自分の力と向き合うのだ。
シグレは星柄のマグカップを手に取り、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
苦みが口の中に広がる。
シグレ「……苦いな」
思わず、いつもの調子で呟いた。
ほんの少しだけ、気持ちが落ち着いた。
明日から、奇跡を扱う神の手掛かりを探そう。
どこにいるのかも分からない。
名前すら、まだ知らない。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
シグレはマグカップを机に戻し、窓の外を見上げた。
夜空には、いくつもの星が輝いていた。
その光を見つめながら、シグレは静かに目を細める。
シグレ「……待っていろ。必ず、探し出してみせる」
まだ見ぬ神へ向けた言葉は、誰に聞かれることもなく、夜の静寂へと溶けていった。