彼女は現在の状況に少しばかり苛立っていた。
アマノ「……いや、マジでどこにあんの?」
神界中央部に建つ巨大な図書館。その一角にある閲覧室で、アマノは机に頬杖をつきながら、目の前に積まれた書物を睨んでいた。
机の上には、古びた羊皮紙の束や、背表紙の色が褪せた分厚い記録書が所狭しと並んでいる。
すでに何冊も目を通した。
神々の系譜をまとめた記録。各時代の神々の役割を記した資料。神界の歴史を年代順に並べた書物。さらには、神々の間で語り継がれてきた伝承を集めたものまである。
それらを一つずつ確認してきたのだが、目的の情報はほとんど見つからなかった。
アマノ「名前は載ってんのよ!名前は...!」
アマノは、開いていた本の一ページを指先で叩いた。
そこには、古い時代に存在した神々の名前がいくつも記されている。
星を司る神。風を司る神。水を司る神。炎を司る神。大地を司る神。
そして、その中に一つだけ、彼女が探している名前があった。
――奇跡の神。
記されているのは、たったそれだけだった。
その神が何を司り、どのような力を持ち、どの時代に活動していたのか。そういった詳細な説明はない。
名前と、奇跡を司る神であるという短い記述。
それ以外は、まるで空白だった。
アマノ「いやいやいや。さすがに雑すぎない? 神様の記録なんでしょ、これ」
アマノは背もたれに体を預け、天井を見上げた。
普段ならば、ここまで古い記録を調べることはない。
星の神である彼女には、彼女自身が担うべき役目がある。星々の動きを見守り、その巡りを読み取り、必要に応じて神界の仕事をこなす。それだけでも、十分に忙しい。
それなのに今は、神界の図書館にこもり、古い時代の神々について調べている。
理由は一つ。
アマツカミ=シグレのためだった。
かつて神界に属し、空や天候、運命に関わる力を扱っていた神。
今は人間界に落ち、ホロライブの裏方スタッフとして働いている、少々変わった元神様。
その彼の力が、再び強まり始めている。
そして、彼自身は、その力をうまく制御できていなかった。
風が勝手に吹く。
水が意思に反して動く。
触れてもいない物が宙に浮かび、季節外れの植物が芽吹く。
いずれも、彼が意識して起こした現象ではなかった。
むしろ彼は、そうした現象が起こるたびに戸惑い、周囲に迷惑をかけないように気を配っている。
神として生きていた頃のシグレなら、ここまで不器用ではなかったのかもしれない。
しかし、長い間力を失っていた彼の中で、何かが変わり始めている。
それが何なのか、アマノにも分からなかった。
シグレ自身にも、分かっていない。
ただ一つ確かなことがある。
彼は今の生活を失いたくないと思っている。
星街すいせいに拾われ、ホロライブで働き始めてから、彼の生活は大きく変わった。
人間たちと一緒に仕事をし、失敗すれば謝り、助けてもらえば礼を言う。仕事終わりには食事を楽しみ、時には仲間たちと笑い合う。
神として生きていた頃には、当たり前だと思っていたことが、今ではかけがえのないものになっていた。
彼は神界に戻りたいわけではない。
かつての地位を取り戻したいわけでもない。
ただ、今の居場所を守りたいのだ。
アマノは、その気持ちを知っていた。
電話越しに聞いたシグレの声を思い出す。
彼はいつものように、少し大げさで、古風な言い回しを使っていた。それでも、言葉の奥にある感情は、隠しきれていなかった。
――我は今の居場所を失いたくない。
その一言が、ずっと頭から離れない。
だからこそ、アマノは何とかしたかった。
シグレの力が暴走する前に、制御する方法を見つける。
そのために必要なのが、奇跡の神ではないかと考えたのだった。
奇跡とは、何なのか。
偶然のように見える出来事。
常識では説明できない現象。
誰かの願いが届いたかのように起こる、不思議な変化。
そうしたものに関わる神ならば、シグレの現在の状態について、何か知っている可能性がある。
少なくとも、アマノにはそう思えた。
だが、肝心の奇跡の神について、ほとんど情報がない。
アマノ「……これ、もしかして存在自体がめっちゃ古いとか?」
そう考えると、いくらか納得できる部分もあった。
神界の歴史は長い。
古い時代の記録がすべて残されているわけではない。何らかの理由で書物が失われたり、記録を管理していた神がいなくなったりすることもある。
あるいは、奇跡の神がほかの神々とあまり関わらず、ひっそりと暮らしていた可能性もある。
そうであれば、記録が少ないことにも説明がつく。
しかし、アマノの胸には、どうしても小さな違和感が残った。
神々は、自らが司る概念と深く結びついている。
人間から忘れられたとしても、神界での役目が変わったとしても、それだけで存在そのものが消えるとは限らない。
まして、奇跡という概念は、神々の世界でも決して小さなものではないはずだった。
それなのに、記録はあまりにも少ない。
まるで、奇跡の神について記された部分だけが、歴史から抜け落ちているかのようだった。
アマノ「……いや、考えすぎかなぁ」
アマノは小さく首を振った。
今の段階で、余計なことを考えても仕方がない。
分からないなら、別の方法で調べればいい。
図書館に残された記録だけでは不十分なのだ。
ならば、古い時代を知る神々に直接聞けばいい。
長く生きている神ならば、書物に記されていない話を知っているかもしれない。
アマノ「よし。聞き込み開始ってことで」
アマノは本を閉じ、机の上に広げた資料をまとめた。
そして、図書館の出口へ向かって歩き出した。
◆
神界の中央区は、他の区域とは明らかに雰囲気が違っていた。
白い石材で造られた建物が整然と並び、広い道には神々が行き交っている。
建物の多くは、神界の行政や管理に関わる役目を持つ神々が利用するものだった。外観はどれも立派で、柱には複雑な紋様が刻まれ、入口にはその建物を管理する神の名が掲げられている。
街全体が、神界の秩序と権威を象徴しているかのようだった。
神々の地位は、単純に能力の強さだけで決まるわけではない。
どのような概念を司っているのか。
その概念が神界にとってどれほど重要なのか。
どれだけ多くの神々に認められ、どのような役割を果たしているのか。
そうした要素が複雑に絡み合い、神々の立場を決めていた。
もちろん、実際に力の強い神が重用されることもある。
しかし、力が強ければ必ず高い地位を得られるというわけでもない。
目立たない役割を担う神は、どれほど長い年月を働いても、目立たないまま終わることがある。
反対に、神界の秩序を維持するうえで重要な役割を担う神は、戦闘能力がそれほど高くなくとも、相応の地位を与えられる。
アマノは、その仕組みをよく知っていた。
そして、好きではなかった。
アマノ「ほんっと、変わんないなぁ……」
彼女は通りを歩きながら、周囲の景色を見渡した。
立派な建物。
整然とした道。
決められた役目を果たす神々。
その全てが、以前と変わらない。
神界は、いつだってこうだった。
秩序があり、規則があり、それらに従うことが正しいとされる。
もちろん、秩序そのものが悪いわけではない。
多くの神々が好き勝手に振る舞えば、神界はまともに機能しなくなるだろう。
けれど、秩序を守ることが目的になってしまえば、そこから外れた者は簡単に切り捨てられる。
アマノは、それを知っていた。
だからこそ、シグレが神界から追放されたことを、今でも納得できずにいた。
力を失ったから。
以前のような役割を果たせなくなったから。
それだけで、彼は居場所を失った。
長い年月を神界のために費やしてきたにもかかわらず、彼が力を失った途端、周囲の神々は態度を変えた。
かつての仲間たちは彼を見下し、関わろうとしなくなった。
追放される日にも、見送りに来る者はいなかった。
アマノがその話を聞いたのは、シグレが人間界に落ちた後だった。
思い返すだけでも、胸の奥がざらつく。
アマノ「……だからって、今ここでケンカ売るわけにもいかないし」
アマノは小さく息を吐いた。
彼女自身も、大神の側から目を向けられている。
シグレと連絡を取っていることが知られれば、何を言われるか分からない。
すでに、大神がそのことを疑っている可能性もあった。
それでも、何もしないという選択肢はなかった。
シグレを助けたい。
その気持ちは、神界の規則よりも強かった。
アマノは、最初に訪れることにした建物の前で足を止めた。
そこは、神界に長く仕えている神々が集まる、古い記録の保管所だった。
図書館とは違い、正式な資料として残すほどではないものの、歴史的な価値があると判断された情報や、神々の間で語り継がれてきた話が管理されている。
そこなら、何か手掛かりがあるかもしれない。
アマノは入口をくぐり、受付にいた神に声をかけた。
アマノ「すみませーん。ちょっと昔の神様について聞きたいんだけど」
受付「どの神についてでしょうか?」
アマノ「奇跡の神。名前だけは記録にあったんだけど、それ以外が全然分かんなくて」
受付「奇跡の神、ですか……」
神は少し考え込むように目を伏せた。
その反応に、アマノは期待を込めて身を乗り出す。
アマノ「知ってる? 何か情報があれば教えてほしいんだけど」
受付「申し訳ありません。私の知識にはありませんね。かなり古い神なのでしょうか?」
アマノ「たぶん、そうなんだと思う。記録もほとんど残ってなくて」
受付「それでしたら、長く神界に仕えている神々に尋ねてみるのがよいかもしれません。古い時代の話であれば、書物よりも彼らの記憶のほうが確かでしょう」
アマノ「やっぱ、それしかないかぁ……。ありがと」
受付「お役に立てず、申し訳ありません」
アマノ「いやいや、気にしないで。こっちこそ急にごめんね」
軽く手を振り、アマノは建物を後にした。
最初から簡単に見つかるとは思っていなかった。
それでも、ここまで手掛かりがないと、さすがに気が滅入ってくる。
アマノ「まあ、地道にやるしかないか」
彼女は気を取り直し、次の場所へと向かった。
◆
それから、アマノは何柱もの神々を訪ねた。
長い年月を生きている神。
古い神々の記録を管理している神。
かつて神界の各地を巡り、多くの神々と交流していた神。
思いつく限りの相手に声をかけ、奇跡の神について知っていることがないか尋ねた。
しかし、返ってくる答えは似たようなものばかりだった。
ある神は、名前だけ聞いたことがあると言った。
別の神は、そんな神が存在していたかどうかも分からないと答えた。
さらに別の神は、昔の伝承に似た名前が出てきた気がすると言ったものの、それ以上のことは覚えていなかった。
決定的な情報は、一つも得られなかった。
そして、神界に長く仕えているという老神を訪ねたときも、結果は変わらなかった。
「奇跡の神、か……。懐かしい名を聞いた気もするが、どうにも思い出せんな」
アマノ「えー、ほんとに? ちょっとしたことでもいいんだけど」
「すまぬな。わしがまだ若かった頃には、神界にも多くの神がいた。名だけが記録に残り、姿を見たことのない神も珍しくはなかったのだ」
アマノ「そっか……」
「ただ、奇跡という概念を司る神ならば、ほかの神々とは少々異なる存在だったのかもしれぬ」
アマノ「異なる存在?」
「奇跡というものは、いつ、どこで、どのように起こるのか分からぬものだ。もし、それを司る神がいたのなら、その働きもまた、我らには理解しがたいものだったのではないかな」
アマノ「……なるほどね」
「とはいえ、これはわしの想像にすぎん。役に立つ話ではなかったな」
アマノ「ううん。ありがと。少なくとも、何も分かんないよりはマシだし」
礼を告げて別れた後、アマノは一人で考え込んだ。
奇跡を司る神。
その役割が、ほかの神々と異なる可能性。
確かに、奇跡という概念は曖昧だ。
星や水のように、目に見えるものを直接扱うわけではない。
風のように、自然現象として明確な形を持つとも限らない。
誰かの願いが叶ったとき、それを奇跡と呼ぶことがある。
偶然が重なり、あり得ないような出来事が起こったときにも、人々は奇跡という言葉を使う。
だが、その全てを一柱の神が管理していたとしたら。
その神は、いったいどのような力を持っていたのだろうか。
アマノ「……シグレの力と、関係あるのかな」
アマノは、ふと呟いた。
シグレの力は、かつてのものとは少し違う形で現れ始めている。
空や天候、運命に関わる力だけでは説明しきれない現象が起きていた。
風が吹き、水が動き、植物が芽吹く。
それらは、自然を司る神々の力に似ている。
しかし、シグレがその神々の力を完全に扱えるようになったわけではない。
本人が意識していないところで、現象だけが先に起こっている。
それが何を意味するのか。
アマノには分からなかった。
だからこそ、奇跡の神に話を聞きたかった。
彼がどこにいるのか。
今も存在しているのか。
そもそも、会うことができるのか。
何も分からないまま、時間だけが過ぎていく。
アマノ「……一回、休憩しよ」
アマノは肩を回した。
神である彼女に疲労はほとんどない。
それでも、何も成果が得られないまま調査を続けるのは、精神的に堪えるものがあった。
近くの広場に足を向ける。
広場には、何柱かの神々が集まっていた。談笑している者もいれば、仕事の書類らしきものを確認している者もいる。
その光景は穏やかだった。
少なくとも、表面上は。
アマノはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
変わらない光。
変わらない景色。
変わらない神界。
この場所にいると、どうしても考えてしまう。
自分は、ここに何を求めているのだろう。
星の神としての役目を果たすこと。
神界の秩序に従うこと。
大神の意向を尊重し、与えられた立場を守ること。
それらは、神界で生きるうえでは当然のことなのかもしれない。
しかし、アマノはその当然を、すべて受け入れることができなかった。
かつてのシグレが追放されたときも、神界の神々はそれを当然のこととして扱った。
力を失った神が、以前と同じ役割を果たせなくなった。
だから、神界に置いておく必要はない。
そうした判断が下され、彼は追い出された。
誰も彼の気持ちを考えなかった。
誰も、彼がそれまで何をしてきたのかを振り返らなかった。
それが、アマノには許せなかった。
アマノ「……ま、今さら何言っても変わんないんだけどさ」
彼女は小さく笑った。
過去は変えられない。
シグレが神界から追放された事実も、神々が彼を見送らなかった事実も、今さら消すことはできない。
それでも、彼には新しい居場所ができた。
星街すいせいをはじめとした、ホロライブの人々。
彼らはシグレを神として扱うのではなく、一人の人間のように接している。
失敗すれば注意する。
頑張れば褒める。
困っていれば助ける。
そして、何でもないことで笑い合う。
神界で得られなかったものを、彼は人間界で少しずつ手に入れているのだろう。
だからこそ、アマノはその場所を守りたかった。
シグレの力が原因で、その居場所が壊れてしまうようなことだけは避けたかった。
アマノ「……絶対、何か見つけてやるから」
アマノは自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がった。
まだ、調べていない場所がある。
神界の中央区から少し離れた、古い街並みが残る区域だ。
そこには、現在の神界の制度が整えられるよりも前から暮らしている神々がいる。
中央の記録に詳しいわけではないかもしれない。
しかし、長い年月の中で、さまざまな話を聞いてきた者もいるはずだ。
書物に残されなかった情報が、そこにある可能性はあった。
アマノは、そちらへ向かうことにした。
◆
古い区域に近づくにつれ、街並みは少しずつ変わっていった。
中央区に立ち並んでいた大きな建物は減り、代わりに小さな建物が増えていく。
白い石材で統一されていた街並みも、場所によっては色の異なる石や木材が使われていた。
道幅は狭く、建物同士の距離も近い。
長い年月をかけて修繕を繰り返してきたのだろう。壁の一部だけ新しい建材に置き換えられている建物もあれば、古い看板をそのまま掲げている店もあった。
中央区の整然とした雰囲気とは違い、どこか人間界の古い商店街を思わせる場所だった。
アマノ「へえ……こんなところ、まだ残ってたんだ」
アマノは周囲を見渡した。
神界の制度が整えられるにつれ、神々の居住区や施設は再編されてきた。
古い建物の多くは取り壊され、役割を終えた施設は別の用途に転用されている。
それでも、この区域には昔の姿が残っていた。
現在の神界では、あまり重要視されなくなった役割を持つ神々。
中央の制度から外れた場所で、細々と仕事を続ける神々。
あるいは、長い年月を経て、目立たない生活を選ぶようになった神々。
そうした者たちが、ここで暮らしているのかもしれない。
アマノは通りを歩きながら、周囲に目を向けた。
小さな工房。
古い資料を扱う店。
何に使うのか分からない道具を並べた露店。
そして、建物の軒先で静かに話をしている神々。
中央区ではあまり見かけない光景だった。
しばらく歩いていると、アマノは一軒の小さな建物に目を留めた。
ほかの建物と比べても、特に目立つところはない。
壁は少し古びていて、入口の扉も簡素な造りだった。
立派な装飾もなければ、建物の主の地位を示すような紋章もない。
ただ、入口の上には、一枚の木製の看板が掲げられていた。
そこには、こう書かれていた。
――探し物相談所。
アマノ「……探し物相談所?」
アマノは看板を見上げた。
神界に、こんな施設があったのか。
いや、施設というより、個人で営んでいる相談所なのだろう。
探し物。
失くした物を探す。
なくなった場所を探す。
あるいは、行方が分からなくなった誰かを探す。
神界では、そうした役割を担う神がいてもおかしくない。
しかし、中央区の立派な建物と比べると、あまりにも地味だった。
アマノ「……まあ、ダメ元で聞いてみるか」
アマノは扉の前に立ち、軽くノックした。
コン、コン。
少し間を置いて、内側から声が返ってきた。
???「はい。どうぞ、お入りください」
アマノ「失礼しまーす」
扉を開けると、小さな部屋が広がっていた。
中には木製の机と椅子が二脚。
壁際には棚が並び、そこには古い箱や紙束、何に使うのか分からない小物が整理されて置かれている。
部屋の中央にある机の向こうには、一柱の神が座っていた。
見た目だけで年齢を判断するのは難しい。
長い年月を生きているようにも見えるし、単に落ち着いた雰囲気を持っているだけにも見える。
服装は質素で、身につけている装飾品も少ない。
その姿からは、神界で高い地位にあるような印象は受けなかった。
だが、アマノは相手を見て、どこか安心するものを感じた。
少なくとも、この神は中央区の神々のような威圧感を持っていない。
探し物の神「どうぞ、そちらにお掛けください」
アマノ「ありがと。えっと……ここって、探し物を手伝ってくれる場所で合ってる?」
探し物の神「はい。私の力で直接見つけられる場合もありますが、多くの場合は手掛かりを探すことになります。物であれ、場所であれ、人であれ、失われたものには何かしらの痕跡が残るものですから」
アマノ「へえ……面白い力だね」
探し物の神「そうでしょうか。派手な力ではありませんし、神界ではあまり評価されていませんが」
アマノ「いやいや、そんなことないでしょ。探したいものがある人にとっては、めっちゃ助かる能力じゃん」
探し物の神「……そう言っていただけると、ありがたいです」
神は少しだけ目を細めた。
その表情には、控えめながらも嬉しさがにじんでいた。
アマノは、なんとなく居心地のよさを感じた。
中央区の神々は、役割や地位を重視する傾向が強い。
自らの能力がどれだけ優れているか。
どのような仕事を任されているか。
どれだけ大神に認められているか。
そうしたことが、会話の端々に表れることも少なくなかった。
しかし、この神は違った。
自分の力が評価されていないことを、特に隠そうともしていない。
だからといって、卑屈になっているわけでもなかった。
ただ、自分にできることを、できる範囲で続けている。
そんな印象を受けた。
アマノ「えっと、実は探してほしいものがあるんだけど」
探し物の神「何をお探しでしょうか?」
アマノ「物っていうより、神様なんだよね」
探し物の神「神様、ですか」
アマノ「うん。奇跡の神っていう神様。昔の記録に名前だけは残ってるんだけど、詳しいことが全然分かんなくてさ」
その名前を聞いた瞬間、探し物の神の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だった。
驚いたようにも見えたし、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
アマノは、その変化を見逃さなかった。
アマノ「……え、何か知ってる?」
探し物の神「いえ。詳しいことを知っているわけではありません。ただ、その名前を聞いたことがあるような気がしまして」
アマノ「ほんとに? どこで?」
探し物の神「それが……はっきりとは思い出せないのです。かなり昔の話だったと思います」
アマノ「昔って、どれくらい?」
探し物の神「私がまだ、この相談所を開く前のことですから……ずいぶん前になりますね」
アマノは身を乗り出した。
ここまで来て、初めて手応えらしいものが得られた。
名前を聞いたことがある。
それだけでも、今までの聞き込みとは違う。
もちろん、確かな情報とは限らない。
だが、何もないところから探すよりは、ずっといい。
アマノ「どんな話だったか、少しでも覚えてない?」
探し物の神「申し訳ありません。記憶が曖昧で……。ただ、神界の記録だけを調べても、見つからないものがあるという話だったように思います」
アマノ「神界の記録だけじゃ、見つからない?」
探し物の神「はい。失われたものを探すとき、私たちは残された痕跡を辿ります。記録が消えていたとしても、別の場所に手掛かりが残っていることは珍しくありません」
アマノ「……別の場所って?」
探し物の神「人間界です」
アマノは、思わず目を見開いた。
人間界。
その言葉が出てくるとは、予想していなかった。
奇跡の神についての記録が少ない理由。
神界で名前を知る者がほとんどいない理由。
その答えが、人間界にあるかもしれないというのだ。
探し物の神「確かな話ではありません。私も、どこまで本当なのかは分からないのです。ただ、奇跡の神に関係するものが、人間界のどこかに残されているという話を聞いた覚えがあります」
アマノ「人間界のどこかって……具体的には?」
探し物の神「とある神社です」
アマノ「神社?」
探し物の神「はい。人間界にある、古い神社。その境内には、大きな樹が立っているそうです」
アマノ「大きな樹……」
探し物の神「その樹の周囲には、かつて多くの人々が集まっていたと聞きました。人々はそこで祈り、願いを残していたそうです」
アマノ「願いを残す……?」
探し物の神「奇跡の神と、その樹にどのような関係があるのかまでは分かりません。ただ、昔の人々が何かを願う場所だったことは、記憶に残っています」
アマノは黙り込んだ。
古い神社。
境内に立つ大樹。
そこに集まっていた人々。
そして、願い。
それらの情報が、頭の中でゆっくりとつながっていく。
奇跡という概念は、人々の願いと深く関わっているのかもしれない。
人間たちが何かを強く望み、その願いが叶ったとき、人はそれを奇跡と呼ぶ。
もし、奇跡の神が人間界で人々の願いに関わっていたのなら、神界よりも人間界に痕跡が残されている可能性はある。
そして、神界の記録に名前しか残っていないことにも、何らかの説明がつくかもしれない。
もっとも、今の時点では想像にすぎなかった。
大樹が本当に奇跡の神に関係しているのかも分からない。
その神社がどこにあるのかも分からない。
奇跡の神が今も存在しているのか、それともすでに消えてしまったのかも分からない。
分からないことだらけだった。
それでも、ようやく前に進めそうな気がした。
アマノ「……それ、もっと詳しく調べられない?」
探し物の神「申し訳ありません。私が覚えているのは、そこまでなのです。神社の名前も、正確な場所も分かりません」
アマノ「そっか……」
探し物の神「ただ、私の力で手掛かりを探すことはできるかもしれません」
アマノ「えっ、マジ?」
探し物の神「確実に見つけられるとは限りませんが、奇跡の神に関係するものが残っているのなら、何かしらの痕跡を辿れる可能性があります」
アマノ「それ、お願いできる?」
探し物の神「もちろんです。ただし、少し時間がかかるかもしれません」
アマノ「全然いいよ! ここまで何も分かんなかったんだし、手掛かりがあるだけでも助かるから」
探し物の神「分かりました。では、私のほうでも調べてみましょう」
アマノは、深く頭を下げた。
アマノ「ありがと。本当に助かる」
探し物の神「いえ。私にできることをするだけですから」
アマノは顔を上げ、改めて部屋の中を見渡した。
立派な建物でもない。
神界の中央にある、目立つ施設でもない。
ここを訪れる神がどれほどいるのかも分からない。
それでも、この小さな相談所には、誰かが失くしたものを探すための場所があった。
失くした物。
失くした場所。
失くした人。
そして、失われた記録。
そうしたものを見つけるために、この神は力を使い続けている。
神界では目立たない能力なのかもしれない。
けれど、今のアマノにとっては、何よりも頼もしい力だった。
アマノ「そういえば、名前聞いてなかったね。私はアマノ。星の神」
探し物の神「これは失礼いたしました。私は探し物の神と呼ばれています」
アマノ「……え、名前それだけ?」
探し物の神「私の役割をそのまま呼んでいるだけですが、皆さん、そのように呼ばれますね」
アマノ「いや、分かりやすいけどさ。なんか、もうちょっとこう……あるじゃん?」
探し物の神「そう言われましても……」
アマノ「……まあ、いっか。探し物の神ね。覚えた」
探し物の神「ありがとうございます」
アマノ「じゃあ、何か分かったら教えて。私も人間界のほうで調べてみるから」
探し物の神「承知しました。新しい手掛かりが見つかれば、何らかの形でお知らせいたします」
アマノ「よろしく!」
もう一度礼を告げて、アマノは相談所を後にした。
扉を閉める直前、彼女は室内を振り返った。
探し物の神は、すでに机の上に何枚かの紙を広げ、何かを調べ始めていた。
その姿は、あまりにも自然だった。
誰かに褒められるためでもなく、地位を上げるためでもなく、ただ自分にできることをする。
アマノは、その背中を見て、少しだけ笑った。
アマノ「……こういう神様もいるんだよね」
神界には、まだ知らない神がいる。
中央の制度から外れ、目立たない場所で、自分の役割を果たし続ける神がいる。
もしかしたら、シグレも本当は、そうした場所で生きることができたのかもしれない。
けれど、彼にはそれを選ぶ余地すら与えられなかった。
だからこそ、今度は自分が、彼の居場所を守る手助けをしたい。
アマノは、神界の空を見上げた。
変わらない光が、街を照らしている。
その光を見ていると、少しだけ人間界が恋しくなった。
人間界には、朝がある。
夜がある。
天気が変わり、季節が巡り、人々の生活が移り変わっていく。
シグレは今、その世界で生きている。
ならば、手掛かりが人間界にあるというのなら、そこを調べる価値は十分にあった。
アマノ「……よし。次は人間界の神社探しだね」
アマノはスマートフォンを取り出した。
神界の中で人間界の情報を調べることは簡単ではない。
だが、今は連絡を取れる相手がいる。
シグレだ。
彼ならば、人間界にある古い神社や、地域に残された伝承について調べられるかもしれない。
アマノは周囲に人がいないことを確認し、シグレの連絡先を開いた。
通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が返ってきた。
シグレ「もしもし。アマノか?」
アマノ「うん、私。今、大丈夫?」
シグレ「問題ない。ちょうど仕事の合間でな。何か分かったのか?」
アマノ「うん。ちょっとだけ、手掛かりが見つかった」
シグレ「ほう!」
電話越しでも、シグレの声が少し明るくなったのが分かった。
その反応に、アマノも自然と笑みを浮かべた。
アマノ「奇跡の神について、神界の記録を調べてたんだけどさ。やっぱり、名前以外の情報がほとんど残ってなかったんだよね」
シグレ「そうか……。やはり、容易には見つからぬか」
アマノ「でも、古い神様に話を聞いてみたら、人間界に関係する手掛かりがあるかもしれないって話が出てきたの」
シグレ「人間界に?」
アマノ「うん。とある古い神社に、大きな樹があるらしいんだよね。昔、そこには多くの人が集まって、願いを残していたんだって」
シグレ「願いを……」
アマノ「その樹が奇跡の神に関係している可能性があるらしい。ただ、神社の名前も場所も分からないし、本当に関係があるのかも確実じゃないんだけど」
シグレ「いや、十分な手掛かりだ。何も分からぬ状態からすれば、大きな前進であろう」
アマノ「そう言ってもらえると助かる。探し物の神っていう神様がいてね。その神様も、手掛かりを探してみてくれるって」
シグレ「探し物の神……。そのような神もおられたのだな」
アマノ「私も初めて会った。神界の端っこのほうに、小さな相談所を開いてたんだよね。派手な力じゃないって言ってたけど、今の私たちにはすごく頼りになると思う」
シグレ「なるほど。自らの役割を果たし続けているのだな」
アマノ「うん。なんか、いい神様だったよ」
シグレ「そうか……」
少しだけ、電話の向こうが静かになった。
アマノには、その沈黙の意味が分かる気がした。
シグレは、かつて神界で生きていた。
自分の役割を果たし続けることが、どれほど大切なことなのかも知っている。
だからこそ、目立たない場所で仕事を続ける神の話に、何か思うところがあったのかもしれない。
シグレ「我も、人間界で古い神社について調べてみよう。地域に残る伝承や、古い記録を辿れば、何か見つかるかもしれぬ」
アマノ「お願い。私もこっちで調べてみる。神界の記録に何か残ってないか、もう少し探してみるから」
シグレ「うむ。だが、無理はするでないぞ」
アマノ「それ、こっちのセリフなんだけど?」
シグレ「む……」
アマノ「そっちはそっちで、力の制御を何とかしないといけないんだからね。何か変なことが起きたら、ちゃんとすいせいにも相談すること。自分だけでどうにかしようとしない」
シグレ「承知しておる」
アマノ「ほんとに?」
シグレ「……善処する」
アマノ「いや、そこは『承知した』って言い切りなよ!」
シグレ「我とて、できる限りのことはするつもりだ。だが、力の制御については、まだ分からぬことが多い。周囲に迷惑をかけぬよう努めるつもりではあるが、必ずしも思いどおりになるとは限らぬ」
アマノ「……うん。分かってる」
彼が無責任なことを言っているわけではないのは、アマノにも分かっていた。
シグレは、誰よりも周囲を気にしている。
自分の力が原因で誰かを傷つけたり、仕事に支障を出したりすることを、彼は何よりも恐れている。
だからこそ、力を制御できない自分を責めてしまうのだろう。
しかし、それではいけない。
彼が一人で抱え込めば抱え込むほど、事態は悪い方向へ進むかもしれない。
アマノ「でもさ、ちゃんと助けを求めるのも大事だからね。今のあんたには、周りに頼れる人がいるんだから」
シグレ「……そうだな」
アマノ「すいせいとか、おかゆとか。ほかにも、事情を知ってる人はいるんでしょ?」
シグレ「うむ。皆、我の事情を理解してくれている。……ありがたいことだ」
アマノ「なら、ちゃんと頼りなよ。あんたが思ってるより、みんなあんたのこと気にかけてると思うよ」
シグレ「……肝に銘じておこう」
その声は、いつもより少し穏やかだった。
アマノは、ほっと胸を撫で下ろす。
シグレが人間界で築いた関係は、彼にとって大切なものになっている。
それを失いたくないからこそ、彼は力を制御しようとしている。
ならば、自分は自分にできることをするだけだ。
アマノ「じゃあ、こっちも何か分かったら連絡するね」
シグレ「うむ。我からも知らせよう」
アマノ「あと、連絡するときは気をつけて。こっちも、あんまり目立つ動きはできないから」
シグレ「承知している。お主も十分に気をつけるのだぞ」
アマノ「はいはい。分かってるって」
シグレ「……その返事は、少々不安になるな」
アマノ「え、何? 私のこと信用してないわけ?」
シグレ「そういう意味ではない。お主は、時折勢いに任せて行動するところがあるからな」
アマノ「はぁ!? それ、あんたに言われたくないんだけど!」
シグレ「我は、常に考えたうえで行動しておる」
アマノ「この前、力が暴走して部屋の中の物を浮かせた神様が何か言ってるんですけどー?」
シグレ「……あれは、我の意思によるものではない」
アマノ「はいはい。分かってますよー」
電話越しに、シグレが小さく咳払いする気配がした。
その様子が想像できて、アマノは思わず笑ってしまう。
少しだけ、いつもの調子に戻れた気がした。
アマノ「じゃ、またね。お互い、頑張ろう」
シグレ「うむ。お主も、無理をするでないぞ」
通話が切れた。
アマノはスマートフォンを見下ろし、しばらくその画面を眺めていた。
今の会話を、誰かに聞かれていたわけではない。
周囲にも、特に不審な気配は感じない。
それでも、彼女は気を抜くことができなかった。
大神の側は、シグレを監視している。
そして、アマノ自身もまた、大神に目を向けられている可能性がある。
今の通話が知られていない保証はない。
アマノ「……マジで、めんどくさ」
アマノは小さく呟いた。
シグレを助けるために動いているだけなのに、どうしてこんなにも気を遣わなければならないのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
けれど、ここで投げ出すつもりはなかった。
奇跡の神。
古い神社。
境内に立つ大樹。
人々が残した願い。
まだ、手掛かりは少ない。
それでも、何もなかったところに、一つの道筋が見え始めている。
アマノはスマートフォンをしまい、改めて歩き出そうとした。
そのときだった。
アマノ「……え?」
背後から、静かな声がかかった。
大神「アマノ」
その声を聞いた瞬間、アマノの体が固まった。
振り返る。
そこに立っていたのは、神界の頂点に君臨する存在。
大神だった。
大神は、いつもと変わらない落ち着いた表情で、彼女を見つめていた。
怒っているようには見えない。
声を荒らげてもいない。
しかし、アマノにとっては、その静けさこそが恐ろしかった。
アマノ「……大神様?」
大神「このような場所で、何をしている」
アマノ「えっ、あー……いや、その……」
アマノの頭の中で、言い訳が高速で組み立てられていく。
奇跡の神について調べていた。
探し物の神に会った。
人間界に関する手掛かりを得た。
そして、その情報をシグレに伝えた。
――もちろん、どれも口にできない。
正直に話せば、シグレのことが知られる可能性がある。
いや、そもそも大神は、すでにシグレの動向を監視させているのだ。
今さら隠したところで、どこまで意味があるのか分からない。
それでも、アマノは簡単に話すつもりはなかった。
少なくとも、自分から余計な情報を渡す必要はない。
アマノ「ちょっと、古い記録を調べてたんです。最近、神界の歴史について気になることがあって」
大神「歴史、か」
アマノ「はい。ほら、私、星の神ですし? 昔の星の記録とか、いろいろ確認しておこうかなーって」
口にした瞬間、自分でも苦しい言い訳だと思った。
星の記録を調べるのであれば、中央区の図書館にいるはずだ。
わざわざ古い区域まで足を運ぶ必要はない。
まして、探し物相談所の近くにいる理由にはならない。
大神がそれに気づかないはずもなかった。
大神「星の記録を調べるために、この区域まで来たのか」
アマノ「そ、そうです。ええ、まあ……たまには違う場所で調べるのもいいかなー、なんて」
大神「……そうか」
アマノ「……はい」
短い沈黙が落ちた。
アマノは、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
落ち着け。
いつもどおりに振る舞え。
怪しまれるような態度を取るな。
だが、目の前にいるのは大神だ。
神界の秩序を司り、あらゆる神々の動向に目を向ける存在。
その視線を受けているだけで、心の奥まで見透かされているような気分になる。
大神「アマノ。近頃、お前の行動に少々気になる点がある」
アマノ「……っ」
心臓が跳ねた。
もちろん、神である彼女の心臓が人間のように動いているわけではない。
それでも、体の内側が一瞬冷たくなるような感覚があった。
大神「以前よりも、神界の記録を調べることが増えたようだな。何か探しているものでもあるのか?」
アマノ「い、いやー……。別に、特別なものを探してるわけじゃないですよ?」
大神「そうか」
アマノ「はい。ほんと、ただの調べものです。趣味みたいなものというか……」
大神は、しばらく彼女を見つめていた。
その目には、疑いがあるようにも見えた。
しかし、何かを確信しているようには見えない。
アマノは、わずかな希望を抱いた。
まだ、知られてはいない。
少なくとも、シグレと連絡を取っていることまでは、把握されていないのかもしれない。
そう考えた瞬間、大神が口を開いた。
大神「ならば、調べたことについて、後ほど報告するように」
アマノ「……え?」
大神「神界の歴史について調べているのだろう。何か新たな発見があれば、報告するのがよい」
アマノ「あ、あー……はい。分かりました」
大神「期待している」
そう言い残し、大神はその場を離れようとした。
アマノは、すぐには動けなかった。
報告。
何を報告しろというのだろう。
星の記録を調べているという言い訳をしてしまった以上、後になって何も報告できなければ、それはそれで不自然になる。
だからといって、奇跡の神について調べたことを正直に話すわけにもいかない。
どう考えても、自分で自分の首を絞めている。
アマノ「……やば。普通にやばくない?」
声に出さないように、アマノは心の中で叫んだ。
大神の姿が遠ざかっていく。
今のところ、追及されることはなかった。
だが、それで安心できるほど、彼女は楽観的ではなかった。
大神は、何かを疑っている。
少なくとも、アマノが最近、普段とは違う動きをしていることには気づいている。
そして、その理由を探ろうとしているのだ。
アマノ「……はぁ。もう、ほんっとに勘弁してよ」
アマノは額に手を当てた。
せっかく手掛かりが見つかったというのに、最後の最後で、とんでもない相手に遭遇してしまった。
けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。
大神に見つかったからといって、調査をやめるつもりはなかった。
シグレの力が不安定なままである以上、時間を無駄にはできない。
アマノは周囲を確認し、人目がないことを確かめると、再びスマートフォンを取り出した。
シグレに、もう一度連絡する必要がある。
大神に会ったこと。
自分の行動を怪しまれている可能性があること。
そして、これからは今まで以上に慎重に動かなければならないこと。
それらを伝えておかなければならなかった。
彼女は、先ほどの通話履歴を開いた。
しかし、すぐに発信することはしなかった。
ここで不用意に連絡を取れば、かえって怪しまれるかもしれない。
大神が、まだ近くにいる可能性もある。
アマノ「……ちょっと落ち着こ」
アマノは深呼吸をした。
今は焦ってはいけない。
シグレにも、自分にも、まだできることはある。
彼女はスマートフォンをしまい、歩き出した。
まずは、人目につかない場所へ移動する。
その後、状況を整理してから連絡すればいい。
そう自分に言い聞かせながら、アマノは古い区域を後にした。
◆
アマノが去った後。
大神は、神界の中央へと続く道を静かに歩いていた。
周囲を行き交う神々は、大神の姿を見ると自然に道を譲る。
誰もが、その存在を知っている。
神界の秩序を守り、神々の役割を管理し、世界が正しく機能するように見守る存在。
大神に逆らう者は少ない。
逆らう必要がないからではない。
逆らうことが、どれほど大きな意味を持つのかを知っているからだ。
大神は、周囲の神々に目を向けることなく、歩みを進めていた。
先ほどのアマノの態度が、頭から離れなかった。
彼女は、何かを隠している。
そのこと自体は、ほぼ間違いないだろう。
質問に対する答えが不自然だった。
星の記録を調べていると言いながら、中央区から離れた古い区域にいた。
さらに、問いかけられた際の反応も、普段の彼女とは少し違っていた。
ただし、何を隠しているのかまでは分からない。
大神は、アマノの行動を振り返った。
彼女は以前から、神界の制度や秩序に対して、必ずしも従順な態度を取る神ではなかった。
表向きは与えられた役目を果たしている。
しかし、納得できないことがあれば、内心では反発している。
それは、大神も以前から把握していた。
だからといって、彼女が神界の秩序を乱すような行動を取るとは限らない。
多少の不満を抱いていたとしても、自らの役目を放棄しているわけではなかった。
だが、最近の彼女には、何か変化がある。
それが何なのか。
誰と関わっているのか。
何を調べているのか。
まだ、確かなことは分からない。
大神「……アマノ、か」
大神は足を止め、静かに呟いた。
彼女が何かを隠しているのなら、その理由を確かめる必要がある。
神界の秩序を維持する立場として、それは当然のことだった。
もっとも、今すぐ問い詰める必要はない。
無理に追及すれば、相手はさらに警戒するだろう。
それよりも、しばらく様子を見るほうがよい。
アマノが何を調べ、誰と関わっているのか。
その行動を見ていれば、いずれ何かが分かるはずだ。
大神は再び歩き出した。
神界の秩序は、守られなければならない。
それは、大神にとって揺るがない信念だった。
神々が自らの役割を果たし、それぞれの立場を守ることで、神界は成り立っている。
その秩序が崩れれば、神界だけでなく、人間界にも影響が及ぶ可能性がある。
だからこそ、例外を認めるわけにはいかない。
力を失い、神界から追放されたシグレ。
そして、そのシグレと関わり続けている可能性のあるアマノ。
大神にとって、どちらも無視できる存在ではなかった。
大神「……もう少し、様子を見るとしよう」
静かな声が、誰もいない廊下に落ちた。
今のところ、アマノが何をしようとしているのかは分からない。
しかし、何かを隠していることは確かだ。
その理由が、神界の秩序に関わるものであるならば、見過ごすわけにはいかない。
大神は、ゆっくりと目を閉じた。
アマノには、少し灸を据える必要があるかもしれない。
だが、今はまだ、その時ではない。
彼女が何を考え、何をしようとしているのか。
それを確かめてからでも、遅くはないだろう。
大神は何事もなかったかのように歩みを再開した。
神界の空には、変わらない光が満ちていた。
その光の下で、アマノは奇跡の神につながる手掛かりを得た。
人間界の古い神社。
境内に立つ大樹。
そして、そこに集まっていた人々が残した願い。
まだ、それが何を意味するのかは分からない。
けれど、確かに一つの道が見え始めていた。
その道の先に何があるのか。
奇跡の神は、今もどこかに存在しているのか。
シグレの力を制御する手掛かりは、本当にそこにあるのか。
答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、アマノもシグレも、もう立ち止まるつもりはないということだった。
神界の秩序と、人間界で生まれた新しい居場所。
その二つの間で、物語は少しずつ動き始めていた。