奇跡の神がいるかもしれない神社。
その場所を知っているというすいせいの言葉に、我は思わず身を乗り出した。
シグレ「すいせい、その神社というのはどこにある?」
すいせい「そんなに急かさないでよ。ちゃんと案内するからさ」
シグレ「すまん。だが、今の我にとっては重要な手掛かりだ」
すいせい「それはわかってるって。じゃあ、早速行こうか」
そう言って、すいせいは歩き始めた。
我もその後に続く。
彼女がどのような経緯でその神社を知ったのか、詳しく聞きたいところではあったが、今はそれよりも場所を確かめることが先だ。
奇跡の力を扱う神。
もし本当にその神が存在しているのなら、我の暴走する力を制御するための手掛かりが得られるかもしれない。
それに、アマノですら見つけられなかった神だ。
どのような存在なのか、興味もあった。
すいせい「そういえば、シグレって神社には詳しいの?」
シグレ「昔はそれなりにな。神だった頃には、様々な場所を訪れていた」
すいせい「へえ。じゃあ、私が案内する場所も知ってるかもしれないね」
シグレ「さて、どうだろうな」
我は苦笑した。
覚えている神社は、先日までにほとんど巡ったつもりだった。
それでも見落としがあったのなら、我の記憶も大したものではない。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて舗装された道が途切れた。
そこから先は、木々に囲まれた細い山道だった。
シグレ「……ずいぶんと人里から離れているな」
すいせい「でしょ? 私も最初に来たとき、こんなところに神社があるんだって驚いたよ」
シグレ「すいせいは、ここに来たことがあるのか?」
すいせい「うん。前に偶然見つけたんだ。なんとなく気になってさ」
シグレ「それで覚えていたというわけか」
すいせい「まあね。こういう場所って、なんか印象に残るじゃん?」
すいせいはそう言って笑った。
確かに、これほど人の気配がない場所なら、普通は訪れる機会もないだろう。
だが、神社というものは、必ずしも人里にあるとは限らない。
かつては山そのものを神聖な場所として崇め、そこに神を祀るための社を建てることも珍しくなかった。
だからこそ、我はこの場所に何か手掛かりが残っていることを期待していた。
しかし、山道を進むにつれて、その期待とは別の感覚が強くなっていった。
妙に静かなのだ。
風が木々を揺らす音も、鳥の鳴き声も聞こえる。
それなのに、どこか世界から切り離されたような感覚があった。
まるで、この場所だけ時間の流れが違うかのように。
シグレ「……妙な場所だな」
すいせい「ん? 何か言った?」
シグレ「いや、何でもない」
我はそれ以上、口にしなかった。
まだ確かなことは何もわかっていない。
妙な感覚だけで判断するのは早計だ。
そう考えて歩き続けていると、やがて木々の隙間から赤いものが見えた。
鳥居だった。
◇
山道を抜けた先には、小さな神社がひっそりと佇んでいた。
鳥居は古びていたが、完全に朽ち果てているわけではない。
石段の隙間から草が生え、境内には長い年月を感じさせる苔が広がっている。
拝殿も決して立派なものではなかった。
人が頻繁に訪れている様子はなく、管理されているのかどうかすら怪しい。
だが、その境内の中央には、周囲の景色とは明らかに釣り合わないものが存在していた。
大樹。
幾重にも枝を広げた、巨大な木だった。
幹は太く、地面から伸びた根は境内のあちこちに広がっている。
その枝葉は拝殿を覆うほどに広がり、木漏れ日が境内に複雑な影を落としていた。
すいせい「ね? すごいでしょ、この木」
シグレ「……確かに、これは見事だな」
我は大樹を見上げた。
これほどの大きさなら、何百年もの時を生きているのだろう。
いや、もしかすると、それ以上かもしれない。
神社そのものよりも、この木の方が遥かに古いようにさえ思えた。
だが、それだけだった。
我は目を閉じ、周囲に意識を向ける。
神の気配。
それを探るために、かつて幾度となく使ってきた感覚だ。
この場所に神がいるのなら、何かしらの痕跡を感じ取れるはずだった。
しかし。
シグレ「……何もない?」
目を開く。
もう一度、意識を集中させる。
大樹。
拝殿。
境内の隅に置かれた石灯籠。
どこにも神の気配は感じられなかった。
それどころか、この場所に神が祀られていたという痕跡すら、ほとんど見当たらない。
古い神社であれば、長い年月の中で信仰が薄れ、神の力が失われてしまうこともある。
だが、ここにはそれとも違う何かがあった。
最初から、何も存在していなかったかのような静けさ。
シグレ「……おかしいな」
すいせい「どう? 何か見つかった?」
シグレ「いや。今のところは何も」
すいせい「そっか……」
すいせいは残念そうに大樹を見上げた。
すいせい「私も、もしかしたら何かあるんじゃないかと思ったんだけどな。やっぱり、ここじゃなかったのかな?」
シグレ「まだわからん。もう少し調べてみよう」
我は境内を歩き始めた。
拝殿の裏側を確認し、石灯籠の周囲を調べ、地面に残る古い石碑にも目を通す。
しかし、どれも決め手にはならなかった。
石碑には風化した文字が刻まれていたが、ほとんど読み取れない。
神社の由来を記したものなのか、それとも別の何かなのか。
それすら判断できなかった。
大樹の根元にも近づいてみた。
太い根が地面を覆い、ところどころ土を持ち上げている。
その根の間には、小さな祠のようなものも見当たらなかった。
シグレ「……やはり、何もないか」
我は息を吐いた。
期待しすぎていたのかもしれない。
すいせいが知っている神社だからといって、奇跡の神に繋がるとは限らないのだ。
そもそも、彼女は神の存在を感じ取ってここを見つけたわけではない。
偶然、神社を知っていただけなのだから。
すいせい「シグレ、そろそろ帰ろっか。ここが違うなら、ほかの方法を考えた方がいいかもしれないし」
シグレ「……そうだな」
我はもう一度、大樹を見上げた。
どれほど眺めても、特別な何かを感じ取ることはできなかった。
奇跡の神がいるという期待も、今となっては薄れている。
シグレ「案内してくれてありがとう、すいせい。手間をかけさせてしまったな」
すいせい「ううん、気にしないで。私も気になってた場所だし、久しぶりに来られてよかったよ」
そう言って、すいせいは鳥居の方へ歩き始めた。
我もその後に続く。
結局、今回も空振りだった。
これからどうやって奇跡の神を探せばいいのか。
神界に頼ることもできず、人間の世界を巡っても手掛かりがない。
まさか、ここまで難航するとは思っていなかった。
そんなことを考えながら、我は鳥居をくぐろうとした。
その瞬間だった。
――ザァッ。
突然、向かい風が吹きつけた。
シグレ「……っ!」
山の木々が大きく揺れる。
それまで穏やかだった風が、まるで我を押し留めるかのように正面から吹きつけてきた。
思わず足を止める。
そして、感じた。
神の気配。
ほんのわずかではあるが、確かに存在している。
それも、今まで巡ってきた神社で感じたものとは、明らかに違っていた。
懐かしいようで、まったく知らない。
近くにいるはずなのに、遥か遠くに感じられる。
我はゆっくりと振り返った。
シグレ「……何者だ?」
先ほどまで、誰もいなかったはずの境内。
そこに、一人の人影が立っていた。
大樹のそば。
枝葉の影に紛れるようにして、こちらを見つめている。
長い髪。
女性らしい輪郭。
その姿ははっきりと見えるはずなのに、どこか現実味がなかった。
まるで、そこに映し出された幻を見ているようだった。
すいせい「……シグレ? どうしたの?」
すいせいも我の様子に気づき、振り返った。
しかし、彼女は不思議そうに首を傾げるだけだった。
すいせい「何かあった?」
シグレ「……すいせい。あそこに誰か立っているのが見えるか?」
すいせい「え? どこ?」
すいせいは我の視線の先を見つめた。
だが、何も見えていないらしい。
すいせい「……誰もいないけど?」
やはり、我にしか見えていない。
あるいは、あの人影そのものが、我だけを認識しているのか。
どちらにしても、普通の存在ではないだろう。
シグレ「すいせい、少しここで待っていてくれ」
すいせい「えっ? シグレ、どこに行くの?」
シグレ「あの人影を確かめてくる。すぐに戻るから、ここから動かないでくれ」
すいせい「……わかった。でも、何かあったらすぐ呼んでよ?」
シグレ「ああ」
我は頷き、鳥居の内側へと戻った。
人影は、相変わらず大樹のそばに立っていた。
我が一歩近づく。
すると、その人影は一歩後ろへ下がった。
シグレ「……待て」
もう一歩、近づく。
また一歩、離れていく。
追いかけようとすると、距離を保つように動いていた。
まるで、我をどこかへ導こうとしているかのようだった。
不思議なことに、恐怖はなかった。
警戒心こそあったが、敵意のようなものは感じられない。
むしろ、長い間待ち続けていた誰かに、ようやく出会えたような感覚があった。
やがて、人影は大樹の目の前で立ち止まった。
我も、その数歩手前で足を止める。
シグレ「……お主は、何者だ?」
問いかけても、すぐには返事がなかった。
大樹の葉が、かすかに揺れる。
そして。
奇跡の神「長いこと、待ちましたよ」
女性の声だった。
穏やかで、どこか懐かしさを感じさせる声。
その一言を聞いた瞬間、我は確信した。
この存在は、ただの幻ではない。
少なくとも、我の前に現れた何者かには、明確な意思がある。
シグレ「……お主は、奇跡の神か?」
奇跡の神「えぇ、そうですよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
長い間探し求めていた存在が、目の前にいる。
それなのに、喜びよりも疑問の方が先に浮かんできた。
なぜ、今まで誰にも見つからなかったのか。
なぜ、アマノですら存在を把握できなかったのか。
そして、なぜ我がここへ来ることを知っていたのか。
シグレ「……色々と聞きたいことがあるが、まず一つ。何故、お主に関する情報がまったく見つからなかったんだ?」
奇跡の神「そうですね……。簡単に説明するなら、私は大神と犬猿の仲だったのです」
シグレ「大神と?」
奇跡の神「えぇ。もっとも、最初から仲が悪かったわけではありませんよ」
奇跡の神は、懐かしむように大樹を見上げた。
奇跡の神「かつて、大神と私は親しい間柄でした。神々の数も、今ほど多くはなかった時代です。互いに力を貸し合い、世界の在り方について語り合っていたこともありました」
シグレ「……それほど親しかったのか」
奇跡の神「えぇ。ですが、長い年月を経るうちに、私たちの考え方は少しずつ変わっていきました」
彼女の声は、静かだった。
奇跡の神「大神は、神々が秩序を保ち、世界を管理することを重視するようになりました。神々がそれぞれの役割を果たし、定められた仕組みの中で世界を支える。それが最善だと考えたのです」
シグレ「……なるほどな」
奇跡の神「ですが、私は違いました。世界には、決められた仕組みだけでは救えないものがあります。時には、理屈では説明できない奇跡が必要になることもある。私はそう考えていました」
シグレ「それで、意見が食い違ったと?」
奇跡の神「はい。最初は些細な議論でした。けれど、互いに譲れないものが増え、やがて決定的な溝が生まれたのです」
大神と奇跡の神。
神界の頂点に立つ存在と、神々の歴史の初期から存在していた神。
その二柱が、かつては親しかったというのは意外だった。
だが、長い年月を生きる存在だからこそ、考え方の違いが埋められないほど大きくなることもあるのだろう。
奇跡の神「私は神界を離れることにしました。あの場所に留まっていても、互いに苦しむだけだと思ったのです」
シグレ「……そして、この場所へ?」
奇跡の神「えぇ。ここなら、誰にも干渉されずに過ごせると思いましたから」
彼女は大樹に手を添えた。
奇跡の神「神界を離れる際、私は自分に関する情報を可能な限り消しました。記録から名前を消し、私を知る者たちの記憶からも、少しずつ存在を遠ざけていったのです」
シグレ「だから、神界をどれだけ調べても見つからなかったのか」
奇跡の神「それだけではありません。この大樹もまた、私を隠すための力を持っています。ここに関する記憶や認識は、自然と曖昧になっていくのです」
我は大樹を見上げた。
なるほど。
神社を訪れた人間も、神の気配を探ろうとした神も、ここに何かがあると気づきにくくなる。
我がこの場所を見落としていたのも、同じ理由なのだろう。
そして、アマノが神界で探しても見つからなかったことにも説明がつく。
シグレ「……だが、そこまでして隠れる必要があったのか?」
奇跡の神「私にとっては、必要なことでした。大神と争いたかったわけではありません。ただ、あの方の望む世界に、私の居場所はなかったのです」
彼女は微笑んだ。
奇跡の神「それに、ここで過ごす時間は悪くありませんでしたよ。人々が訪れなくなってからも、この大樹と共に静かに過ごせましたから」
その言葉には、寂しさも、後悔も、ほとんど感じられなかった。
ただ、長い年月を受け入れた者の静けさがあった。
だが、我にはまだ聞かなければならないことがある。
シグレ「……もう一つ聞かせてくれ。お主は先ほど、長いこと待ったと言ったな」
奇跡の神「はい」
シグレ「何故、我がここへ来るとわかった?」
奇跡の神は、ゆっくりと目を閉じた。
奇跡の神「……実は、私はもう、この世には存在していないのです」
シグレ「……何?」
思わず聞き返した。
目の前にいる彼女は、確かに我と会話している。
声も聞こえるし、姿も見えている。
それなのに、存在していないというのはどういうことだ。
奇跡の神「私は、とうの昔に力を失い、消滅しました」
シグレ「消滅……?」
奇跡の神「えぇ。私がこの場所で過ごしていた頃には、すでに神としての力は衰えていました。信仰が失われ、人々が私の存在を忘れ、やがて私自身も、この世界に留まることができなくなったのです」
彼女は自分の手を見つめた。
その指先が、ほんの一瞬だけ透けて見えた。
奇跡の神「今、あなたの前にいる私は、かつて残した力によって映し出された幻影にすぎません」
シグレ「……では、我と会話しているお主は……」
奇跡の神「はい。過去の私です」
背筋に、冷たいものが走った。
過去の幻影。
それなのに、我の言葉を理解し、こちらの質問に答えている。
いったい、どういう仕組みなのか。
奇跡の神「私の奇跡の力は、未来を予知することにも使えます。もちろん、何もかもを正確に見通せるわけではありません。ですが、自分が消滅した後に何が起こるのか、その一部を知ることはできました」
シグレ「……未来を予知したのか」
奇跡の神「えぇ。あなたが、信仰とは異なる力によって再び立ち上がることも。その力を扱いきれず、暴走させてしまうことも。そして、制御の方法を求めて、私のもとを訪れることも」
我は言葉を失った。
信仰とは異なる力。
それは、我が今になって再び力を取り戻している原因のことだろう。
アマノにも話した、我自身の変化。
そして、その力が暴走していることまで、この神は知っていた。
シグレ「……ならば、我がここへ来ることも、最初から決まっていたというのか?」
奇跡の神「いいえ。未来は、必ずしも決まっているわけではありません。ただ、私は可能性を見ていたのです。あなたがここへ来る可能性が、あまりにも高かった。それだけのことですよ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
奇跡の神「だからこそ、私は自分の力を残しました。いつか、あなたのような存在が訪れることを願って」
シグレ「……我のために、そこまでしたのか?」
奇跡の神「あなたのためだけではありません。私が残した力が、いつか誰かの助けになるのなら。それだけで、十分だったのです」
その言葉を聞いて、我はしばらく黙り込んだ。
奇跡の神。
神界から離れ、誰にも知られず、静かに消えていった存在。
それでも、自分がいなくなった後の未来にまで、力を残していた。
我には、彼女の生き方を完全に理解することはできない。
だが、その選択を軽んじることもできなかった。
シグレ「……では、我の力を制御する方法も知っているのか?」
奇跡の神「もちろんです。そのために、あなたをここへ導いたのですから」
彼女は大樹の幹に手を添えた。
奇跡の神「こちらへ。あなたに渡したいものがあります」
その言葉と同時に、周囲の景色が揺らいだ。
シグレ「……っ!?」
風の音が消える。
木々のざわめきも、遠くで待っているすいせいの気配も、すべてが遠ざかっていく。
気づけば、我は見知らぬ空間に立っていた。
◇
そこには、何もなかった。
地面も、空も、境界もない。
ただ、どこまでも続くような淡い光が満ちている。
そして、その空間には我と彼女の二人だけが存在していた。
シグレ「……ここは?」
奇跡の神「私が残した力によって作られた、精神の世界のようなものです。外の世界とは、少しだけ時間の流れも異なります」
シグレ「なるほどな……」
我は周囲を見回した。
先ほどまで目の前にあった大樹も、神社もない。
すいせいの姿も見えなかった。
それでも、不思議と不安はなかった。
ここは、奇跡の神が用意した場所なのだ。
奇跡の神「では、こちらを」
彼女が手を差し出す。
その掌には、小さな木製の腕輪があった。
装飾はほとんどない。
木の表面には自然な木目が走り、中央には小さな紋様が刻まれている。
見た目だけなら、どこにでもありそうな腕輪だった。
シグレ「……これは?」
奇跡の神「この大樹の一部から作った腕輪です」
シグレ「大樹から?」
奇跡の神「はい。この大樹には、長い年月をかけて蓄えられた力があります。その一部を、この腕輪に宿しました」
彼女は腕輪を我に差し出した。
奇跡の神「あなたの力は、信仰によって戻ったものとは少し違うようですね。そのため、通常の神々が行う制御の方法では、うまく扱えないのでしょう」
シグレ「……その通りだ」
奇跡の神「この腕輪は、あなたの意思と力の流れを整え、暴走を抑えてくれます。力そのものを奪うものではありません。あなたが本来持っている力を、あなた自身が扱えるようにするためのものです」
我は腕輪を受け取った。
手の中に収まったそれは、見た目に反して不思議な温かさを持っていた。
まるで、大樹そのものに触れているかのようだった。
シグレ「……これがあれば、我の力を制御できるようになるのか?」
奇跡の神「はい。ただし、何もかもが解決するわけではありません。腕輪は暴走を抑え、あなたが力を扱うための助けとなるものです。力の本質を理解するのは、あなた自身の役目です」
シグレ「……そうか」
我は腕輪を見つめた。
これまで、力を制御する方法を探していた。
だが、今の我に必要なのは、力を無理に押さえ込むことではなく、力と向き合い、正しく扱うことなのかもしれない。
奇跡の神「それから、もう一つ」
シグレ「まだ何かあるのか?」
奇跡の神「この腕輪には、私が残した力の一部も宿しています」
シグレ「……お主の力を?」
奇跡の神「えぇ。いずれ、この腕輪が壊れるときが来るかもしれません。そのときには、私が残した力を使い、あなたを助けることができるでしょう」
我は腕輪を握りしめた。
つまり、これは単なる制御具ではない。
奇跡の神が消滅した後も残り続ける、彼女の力そのものでもあるのだ。
シグレ「……そこまでしてもらっていいのか?」
奇跡の神「もちろんです。あなたがここへ来ることは、私が望んだ未来の一つでしたから」
彼女は微笑んだ。
奇跡の神「ただ、覚えておいてください。腕輪に宿した力は無限ではありません。私が残した力を使い切れば、助けることはできなくなります。それに、腕輪が壊れたからといって、必ずしも私が力を使えるとは限りません」
シグレ「……わかった。大切に使わせてもらおう」
奇跡の神「えぇ。それで十分です」
我は腕輪を右手に通した。
木の感触が手首に触れた瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
暴れようとしていた力が、ゆっくりと落ち着いていく。
今までなら、少し意識を向けただけで制御を失いかけていた力が、嘘のように静まっていた。
シグレ「……これは」
奇跡の神「感じられますか?」
シグレ「ああ……。確かに、力の流れが変わった」
完全に消えたわけではない。
我の中にある力は、依然として強大なままだ。
だが、これまでは制御しきれずに溢れ出していたものが、今は手の中に収まっているように感じられた。
自分の意思で力を感じ取り、必要なときに扱う。
そのための余裕が生まれていた。
シグレ「……ありがとう。お主のおかげで、ようやく一歩進めそうだ」
奇跡の神「どういたしまして」
彼女は満足そうに頷いた。
奇跡の神「それでは、私はそろそろ失礼しますね」
シグレ「……待ってくれ。まだ聞きたいことがある」
奇跡の神「ふふっ。残念ですが、私が残した力も、もう長くは持ちません。あなたと話せたこと、それだけで十分なのです」
シグレ「……そうか」
もっと聞きたいことはあった。
大神との関係についても、大樹についても、奇跡の力についても。
だが、彼女はすでに消滅した神なのだ。
この時間も、彼女が残した最後の力によって作られたものにすぎない。
無理に引き留めることはできなかった。
奇跡の神「シグレ。あなたの未来が、良きものであることを願っています」
シグレ「……我も、お主の願いが報われることを願おう」
彼女は静かに微笑んだ。
その姿が、淡い光に包まれていく。
輪郭が薄れ、声が遠ざかり、やがて何も見えなくなった。
そして、我は再び光の中に一人だけ取り残された。
◇
気づけば、我は元の神社に立っていた。
周囲には、先ほどまでと変わらない景色が広がっている。
巨大な大樹。
古びた拝殿。
静かな境内。
まるで、何事もなかったかのようだった。
シグレ「……夢、ではないよな」
我は右手を見下ろした。
そこには、確かに木製の腕輪があった。
木目に刻まれた紋様が、木漏れ日を受けて淡く浮かび上がっている。
先ほどまで感じていた力の暴走も、今は驚くほど落ち着いていた。
腕輪を通して、我の中にある力が静かに流れているのがわかる。
シグレ「……本当に、助けられてしまったな」
我は小さく笑った。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
すいせい「シグレ!」
振り返ると、すいせいが心配そうな顔でこちらへ駆け寄ってきた。
すいせい「ちょっと! 急に立ち止まったと思ったら、ずっと動かないんだもん! 何かあったのかと思ったよ!」
シグレ「……すまんな。少し考え事をしていた」
すいせい「考え事って……。さっき、誰かと話してなかった?」
鋭い。
やはり、すいせいは何かに気づいていたらしい。
だが、奇跡の神との出会いについて、すべてを話すわけにはいかなかった。
神界から隔絶された存在。
大樹の秘密。
そして、すでに消滅していた奇跡の神。
どれも、簡単に説明できる話ではない。
シグレ「……少し、不思議なことがあっただけだ」
すいせい「不思議なこと?」
シグレ「詳しくは、まだ話せん。すまない」
すいせいはしばらく我の顔を見つめていた。
何か言いたそうではあったが、やがて小さく息を吐いた。
すいせい「……まあ、シグレがそう言うなら、今は聞かないでおくよ」
シグレ「助かる」
すいせい「でも、一つだけ聞いていい?」
シグレ「何だ?」
すいせい「……探してたものは、見つかったの?」
我は右手の腕輪に目を落とした。
奇跡の神そのものは、すでにこの世にはいない。
だが、彼女が残してくれたものは、確かにここにある。
シグレ「ああ。完全に解決したわけではないが……力を抑える方法は見つかった」
すいせい「……そっか!」
すいせいの表情が、ぱっと明るくなった。
すいせい「よかったじゃん! これで少しは安心できるね!」
シグレ「ああ。すいせいが案内してくれたおかげだ。ありがとう」
すいせい「えへへ。どういたしまして!」
すいせいは嬉しそうに笑った。
我はもう一度、大樹を振り返った。
相変わらず、そこには何もない。
神の気配も、奇跡の神の姿も、すでに感じられなかった。
それでも、我の手首には彼女が残してくれた腕輪がある。
この腕輪が何を意味するのか。
大樹がなぜ神界から隔絶されていたのか。
そして、奇跡の神が最後に残した力が、いつかどのような形で我を助けてくれるのか。
わからないことは、まだ山ほどある。
だが、今はそれでいい。
少なくとも、我は次へ進むための手掛かりを得たのだから。
すいせい「じゃあ、そろそろ帰ろっか。もう結構な時間だし」
シグレ「ああ。そうしよう」
我とすいせいは、神社を後にした。
帰り道、すいせいはいつもと変わらない調子で話しかけてきた。
今日見つけたもののこと。
最近の仕事のこと。
そして、我が休暇から戻ったら何をするのかということ。
我はそれらに答えながら、静かに歩いていた。
右手の腕輪に触れる。
そこから伝わってくるのは、穏やかな温もりだった。
シグレ「……世話になったな」
誰にも聞こえないほど小さく、我は呟いた。
遠く離れた神社の大樹は、今日も変わらずそこに立っている。
そして、その木に宿された奇跡の力は、今も静かに我の手首に残っていた。
こうして、我は一つの問題を解決するための手段を得た。
だが、それは新たな謎の始まりでもあった。
神界から完全に隔絶された大樹。
神々の歴史の初期から存在していた、忘れられた奇跡の神。
その真実を知る者は、今やほとんど残されていない。
そして我自身も、まだ知らない。
この出会いが、やがてどのような未来へ繋がっていくのかを。
奇跡の神またの名を見届けし者
ー久遠(くおん)ー
久遠は、奇跡の神でありながら、実際には「奇跡」という言葉だけでは説明できないほど古い神だった。
彼女は世界を思い通りに変えたいわけではない。どんな未来が訪れる可能性があるのかを見届け、その未来へ進む者に必要なきっかけを与える。
大神は神々による秩序を守ろうとした。一方、久遠は世界や人々の可能性を神々が管理しすぎることを危惧した。
二人はかつて親しい間柄だったが、その考え方の違いから決別した。
そして神界を去った久遠は、巨大な御神木とともに、神界の歴史からも人々の記憶からも忘れられていった。