午前――ホロライブ事務所
シグレ「……よし、これでよかろう」
我は机の上に積まれた書類を見つめ、満足げに頷いた。
今日も今日とて、ホロライブ事務所での仕事である。
書類の分類、備品の確認、収録予定の整理。それに加えて、誰かが手をつけるのを忘れていた細かな仕事まで、気がつけば我の手元に集まっていた。
もっとも、我にとっては大した負担ではない。
シグレ「散らばったものを一つにまとめる程度、神の力を使えば容易いことだ」
そう呟き、我は机の上に散らばっていた書類へ手をかざした。
ふわり、と紙が浮かび上がる。
一枚、また一枚と宙を舞い、それぞれの種類ごとに重なっていく。最後には角までぴったり揃い、綺麗な束となって机の上に着地した。
シグレ「うむ。実に効率的であるな」
スタッフ「シグレさん、また能力使いましたね?」
シグレ「む? 何か問題でもあるのか?」
スタッフ「問題はないですけど……普通に手でやれば数分で終わる仕事ですよ?」
シグレ「数分も短縮できたのだ。喜ぶべきではないか?」
スタッフ「そういう問題なんですかねぇ……」
スタッフは苦笑しながら、揃えられた書類を持っていった。
人間界に来たばかりの頃は、何をするにも戸惑っていたものだが、最近ではこうしたやり取りにも慣れてきた。
神の力を使えば簡単にできることと、人間が自分の手で行うこと。
その違いも、少しずつ理解できているつもりである。
……もっとも、便利なものは便利なのだから、使えるときに使ってもよいと思うのだが。
そんなことを考えながら次の書類へ手を伸ばした、そのときだった。
いろは「シグレ殿ー! お仕事中でござるか?」
AZKi「こんにちは、シグレさん」
聞き覚えのある二人の声がした。
顔を上げると、風真いろはとAZKiが並んで立っていた。
シグレ「おお、いろはにAZKiではないか。二人揃ってどうしたのだ?」
いろは「実は、ちょっと差し入れを持ってきたでござる!」
AZKi「スタッフさんたちに配ろうと思って、お菓子をいろいろ買ってきたんです。シグレさんも、よかったらどうぞ」
そう言って、AZKiは小さな袋を差し出した。
中には個包装された焼き菓子やチョコレートが入っている。
いろは「こざるも選ぶのを手伝ったでござるよ! 甘いものが好きな人も、そうでない人も食べられるように、いろいろな種類を用意したでござる!」
シグレ「ほう……これは、ありがたい」
我は袋を受け取り、中身を覗き込んだ。
色とりどりのお菓子が並んでいる。
こうして誰かから贈り物をされるというのは、何度経験しても悪い気分ではない。
いや、むしろ嬉しい。
シグレ「我にまで用意してくれるとはな。二人の心遣い、感謝するぞ」
いろは「いえいえ! いつもお仕事を頑張っているシグレ殿への、ささやかな差し入れでござる!」
AZKi「最近、いろいろと忙しそうでしたからね。少し休憩する時間も必要ですよ」
シグレ「ふむ。では、ありがたく頂戴しよう」
我は袋から焼き菓子を一つ取り出し、包みを開けた。
一口。
シグレ「……うむ。美味である」
いろは「おおっ! 気に入ってもらえたでござるか?」
シグレ「うむ。甘さも程よく、実に良い。人間界の菓子作りの技術には、感心させられるばかりだ」
AZKi「ふふっ。そんなに大げさに褒めてもらえると、選んだ甲斐がありますね」
シグレ「大げさではないぞ。我は美味いものを美味いと評価しているだけだ」
いろは「なら、こざるも嬉しいでござる!」
いろはは、どこか誇らしげに胸を張った。
その様子を見て、我も自然と頬が緩んだ。
シグレ「二人とも、ありがとう。仕事が終わったあとに、残りもゆっくり味わわせてもらう」
AZKi「はい。無理はしないでくださいね」
いろは「それでは、こざるたちはこれで失礼するでござる! シグレ殿、引き続きお仕事頑張ってくだされ!」
シグレ「うむ。二人も活動に励むとよい」
二人は手を振りながら、廊下の向こうへと歩いていった。
我はしばらく、その背中を見送っていた。
シグレ「……ふむ。良い朝であるな」
手元の袋を大切に机の脇へ置く。
こうした何気ないやり取りが、今の我には心地よかった。
昼――思いがけない仕事
それからしばらくして。
我が次の資料を整理していると、一人のスタッフが慌ただしい様子で近づいてきた。
スタッフ「シグレさん、今ちょっといいですか?」
シグレ「構わぬ。何か用か?」
スタッフ「撮影の現場を手伝ってほしいんです。急に人手が必要になってしまって」
シグレ「撮影か。承知した。どこへ向かえばよい?」
スタッフ「スタジオの方です。詳しいことは向こうで説明しますね」
シグレ「うむ」
我は立ち上がり、スタッフについていった。
撮影の手伝いといっても、いつものように機材を運んだり、備品を並べたりする仕事だろう。
そう考えていたのだが。
スタッフ「シグレさんには、今回は進行補助の班に入ってもらいます」
シグレ「……進行補助?」
スタッフ「はい。出演者さんと撮影スタッフの間に入って、進行状況を確認したり、必要なものを各班に伝えたりする役割です」
シグレ「ほう。普段の雑用とは少々違うようだな」
スタッフ「ええ。今回の撮影はセットの切り替えが多くて、複数のスタッフが同時に動くんです。現場全体を見ながら動ける人が必要でして」
シグレ「なるほど。つまり、全体の流れを把握し、各々が滞りなく動けるようにするということか」
スタッフ「そうです! 説明が早くて助かります」
我はスタジオへ足を踏み入れた。
そこでは、すでに撮影の準備が進められていた。
大きなセットが組まれ、照明が調整され、カメラの位置が細かく確認されている。
出演者の動きに合わせて背景や小道具を切り替える、少々手の込んだ企画らしい。
スタッフ「シグレさん、こちらが今日の進行表です。まずは内容を確認してもらえますか?」
シグレ「承知した」
渡された資料に目を通す。
撮影の順序、セットの変更時刻、必要な小道具、出演者の移動経路。
一見すると複雑だが、順番に整理していけば問題はない。
シグレ「ふむ……この部分は、先に小道具を移動させておいた方がよいな。撮影が終わってから動かすのでは、次の準備に間に合わぬ可能性がある」
スタッフ「確かに……! それなら、こちらの班に先に動いてもらえばよさそうですね」
シグレ「うむ。照明の調整と重ならぬよう、時間を少しずらすとよいだろう」
スタッフ「ありがとうございます。助かります!」
我は進行表を手に、各班のスタッフと確認を進めていった。
誰がどこで作業をしているのか。
何を終えていて、何が残っているのか。
一つずつ把握していくと、現場の動きが少しずつ見えてきた。
やがて撮影が始まる。
出演者が立ち位置につき、スタッフの声が飛び交う。
予定通りに進む場面もあれば、小さな変更が必要になる場面もあった。
そのたびに我は状況を確認し、必要なスタッフへ指示を伝え、次の準備が滞らないように調整していく。
スタッフ「シグレさん、次のセット変更、予定より早く終わりそうです!」
シグレ「ならば、先に照明を確認してもらおう。出演者の移動はその後だ。動線が重なると危険であろう?」
スタッフ「了解です!」
別のスタッフ「シグレさん、次の小道具がまだ届いていません!」
シグレ「代わりになるものはあるか?」
スタッフ「似た形のものなら、予備が一つあります」
シグレ「ならば、それを確認して出演者に相談しよう。勝手に変更するのは避けるべきだ」
スタッフ「分かりました!」
我が指示を出すたび、現場が少しずつ整っていく。
いつもなら、頼まれた仕事を一つずつ片づけていくだけだった。
しかし今日は、全体を見て判断する立場にある。
我は思っていた以上に、この役割を楽しんでいた。
シグレ「……ふむ。こうして多くの者が協力し、一つのものを作り上げるというのも面白いものだな」
スタッフ「シグレさん、次の確認をお願いします!」
シグレ「承知した。今向かおう」
忙しさの中にも、不思議な充実感があった。
そして、予定されていた撮影は大きなトラブルもなく進み、無事に終了した。
スタッフ「皆さん、お疲れさまでした! 今日は予定より早く終わりました!」
スタッフたちから安堵の声が上がる。
我も進行表を閉じ、静かに息を吐いた。
シグレ「うむ。無事に終わって何よりである」
スタッフ「シグレさんのおかげですよ。本当に助かりました」
シグレ「我一人の働きではない。皆がそれぞれの役割を果たしたからこそ、成し遂げられたのだ」
スタッフ「そう言ってもらえると嬉しいです」
そうして片づけが始まった頃、我はふと疑問を覚えた。
シグレ「……ところで、なぜ我がこの班に選ばれたのだ?」
スタッフ「ああ、それなんですが……」
スタッフは少し考えるような仕草をした。
スタッフ「今回の進行補助、出演者の方から希望があったんですよ」
シグレ「出演者から?」
スタッフ「はい。猫又おかゆさんから、シグレさんにお願いしたいって話があったみたいで」
シグレ「……おかゆが?」
思わず聞き返してしまった。
おかゆとは、これまで何度も顔を合わせている。
買い食いという文化を教えてくれたのも彼女だったし、気さくに話しかけてくれる、付き合いやすい人物だと思っている。
だが、わざわざ我を指名する理由となると、すぐには思いつかなかった。
シグレ「ふむ……。我に何か期待するところでもあったのだろうか」
スタッフ「詳しい理由までは聞いていないんですけどね。ただ、おかゆさんが『シグレなら大丈夫だと思う』って言っていたそうですよ」
シグレ「……そうか」
我は腕を組んだ。
彼女が何を考えていたのか、今のところ見当もつかない。
ただ、仕事を任された以上、期待に応えられたのであれば悪いことではないだろう。
シグレ「機会があれば、本人に聞いてみるとしよう」
そう考え、我は残った片づけを手伝うことにした。
夕方――屋上の休憩
仕事が一段落した頃には、窓の外が夕焼けに染まっていた。
我は飲み物を一本手に取り、事務所の屋上へと向かった。
扉を開けると、少し冷たい風が頬を撫でる。
眼下には、夕暮れの街並みが広がっていた。
シグレ「……ふう」
手すりから少し離れた場所に腰を下ろし、飲み物を一口。
今日一日を振り返る。
いろはとAZKiから差し入れをもらった。
撮影の現場では、いつもとは違う仕事を任された。
そして、忙しくも充実した一日を過ごすことができた。
シグレ「うむ。今日も良い一日であったな」
かつて神界にいた頃は、一日をこうして振り返ることなど、ほとんどなかった。
神としての役目を果たし、必要とされる場所で力を振るう。
それが当たり前だったからだ。
だが、人間界での暮らしは違う。
何気ない会話や、ちょっとした贈り物。誰かの役に立てたという実感。
そうした小さな出来事が、思いのほか心を満たしてくれる。
シグレ「……人間界も、なかなか悪くないものだ」
そんなことを考えていると、屋上の扉が開いた。
ミオ「おっ、シグレ。ここにいたんだね」
シグレ「む? ミオではないか」
大神ミオが、飲み物を片手にこちらへ歩いてきた。
ミオ「お疲れさま。ちょっと休憩?」
シグレ「うむ。今日の仕事が一段落したのでな。少し風に当たっていたところだ」
ミオ「そっか。ウチもちょうど一息つきたかったんだよね」
ミオは我の隣に腰を下ろした。
しばらく二人で、夕焼けに染まる街を眺める。
ミオ「今日は何してたの?」
シグレ「午前中は書類の整理。その後は撮影現場の手伝いだな」
ミオ「へえ、撮影も手伝ってたんだ。大変じゃなかった?」
シグレ「忙しくはあったが、なかなか興味深い仕事であった。大勢の者がそれぞれの役割を果たし、一つの作品を完成させる。あれは見ていて飽きぬな」
ミオ「シグレって、そういうところをよく見てるよね」
シグレ「そうであろうか?」
ミオ「うん。普通だったら、自分の仕事が終わったらそれでおしまいって人も多いけど、シグレは周りのことも気にしてるから」
シグレ「……我は、まだこの世界について学んでいる途中だからな。知らぬことが多い分、見て学ばねばならぬ」
ミオ「そっか。ウチも、まだまだ知らないことばっかりだよ」
シグレ「ミオもか?」
ミオ「そりゃそうだよ。毎日いろんなことが起こるし、何年活動してても初めての経験ってあるからね」
シグレ「なるほど。人間界とは、なかなか奥が深い」
ミオ「ふふっ。そうだね」
ミオは飲み物を一口飲むと、少しだけ空を見上げた。
ミオ「そういえば、最近はちゃんと休めてる? 前より元気そうには見えるけど」
シグレ「心配には及ばぬ。以前より、己の力も安定してきている。日々の生活にも支障はない」
ミオ「ならよかった。無理して倒れたりしたら、みんな心配するからね」
シグレ「うむ。心に留めておこう」
ミオ「よし。それじゃ、ウチはそろそろ帰ろうかな」
ミオは立ち上がり、服についた埃を軽く払った。
シグレ「もう帰るのか?」
ミオ「うん。明日も予定があるからね。シグレも、あんまり遅くならないようにね」
シグレ「承知した。ミオも気をつけて帰るのだぞ」
ミオ「はーい。それじゃ、またね!」
シグレ「うむ。また会おう」
ミオは手を振り、屋上を後にした。
我はもう一度、飲み物に口をつける。
夕暮れの空は、少しずつ夜の色へと変わり始めていた。
夜――商店街の寄り道
屋上で休憩を終えた我は、事務所へ戻って残っていた仕事をいくつか片づけた。
最後に机の上を整え、忘れ物がないことを確認する。
シグレ「……よし。今日はこれで終わりだな」
いつもなら、このまま真っ直ぐ家へ帰るところだ。
しかし今日は、少しだけ寄り道をしていくことにした。
事務所を出て、街の通りを歩く。
最近は外を歩く機会が増えた。
仕事で必要な物を買いに行くこともあれば、食事をしに出かけることもある。
そうしているうちに、街の人々とも顔を合わせるようになった。
通りを歩いていると、店先にいた人がこちらに気づく。
店員「おや、シグレさん。今日もお疲れさまです」
シグレ「うむ。そなたもご苦労である」
通行人「神様こんばんは!」
シグレ「こんばんは。良い夜を過ごすのだぞ」
通行人「ありがとうございます!」
……うむ。
最近、このように声をかけられることが増えた。
中には、我を神様と呼び、深々と頭を下げてくる者までいる。
もちろん、悪い気はしない。
信仰を失い、神界を追われた我にとって、人々から親しみを持って接してもらえることは、ありがたいことでもある。
しかし。
シグレ「……神様、か」
自分で口にしてみると、妙にむず痒い。
人間界で暮らすようになってから、我はスタッフとして働き、買い物をし、時には仲間たちと他愛もない話をしている。
そんな生活にも、すっかり馴染んできた。
だからこそ、街中で神様と崇められると、今更ながら少々恥ずかしくなるのだ。
シグレ「……まあ、嫌ではないのだがな」
小さく呟き、我は商店街へと足を進めた。
いくつもの店が並ぶ通りは、夕食の買い物をする人々で賑わっていた。
その中に、我が時折立ち寄る精肉店がある。
店先には揚げ物の入ったケースが並び、香ばしい匂いが漂っていた。
シグレ「店主、こんばんは」
店主「おっ、シグレさん! いらっしゃい。今日は何にする?」
シグレ「コロッケを一ついただこう」
店主「はいよ! 揚げたてがあるから、ちょうどいいね」
店主は慣れた手つきでコロッケを紙袋に入れ、我へと差し出した。
店主「毎度ありがとうね」
シグレ「うむ。こちらこそ、いつも美味いものを用意してくれて感謝している」
代金を支払い、我は店先を離れた。
紙袋からは、まだ温かさが伝わってくる。
シグレ「……さて」
歩きながら、コロッケを一口。
外側はサクサクとしており、中の具材はほくほくとしている。
シグレ「うむ。やはり美味であるな」
この店に初めて来たのは、少し前のことだった。
おかゆに勧められ、試しに買ってみたのが始まりである。
そのとき、彼女は言っていた。
『こういうのを食べながら歩くのって、買い食いっていうんだよねぇ』
当時の我には、食べ物をわざわざ店の外で食べるという習慣が、少々不思議に思えたものだ。
しかし、実際にやってみると、これがなかなか良い。
店で食べるのとは違い、街の景色を眺めながら気軽に味わえる。
人々の話し声や、店先から聞こえてくる呼び込みの声。
そうした街の日常も、買い食いをしていると自然と目に入る。
シグレ「……我も、だいぶ人間界に慣れてきたものだな」
思えば、最初の頃は分からないことばかりだった。
金銭の扱い、公共交通機関の利用方法、買い物の仕方。
アイドルたちとの交流も、今ではすっかり日常の一部になっている。
そして、こうして一人で商店街を歩き、コロッケを食べることも。
シグレ「ふっ……悪くない」
残りのコロッケを味わいながら、我はゆっくりと歩いた。
そのとき、ふと思い出したことがあった。
シグレ「……そういえば」
我は足を止め、ポケットから携帯電話を取り出した。
画面を開き、連絡先を確認する。
そこにある名前を見て、少しだけ眉を寄せた。
アマノ=セイ。
奇跡の神について、彼女にはまだ詳しい話を聞けていない。
神社での一件を経て、我の力を抑える手段は得られた。
しかし、腕輪のことも含め、今後のために確認しておきたいことはいくつもある。
我は以前から、彼女に連絡を入れていた。
だが、返事はない。
シグレ「……まだ連絡が取れぬか」
画面を見つめ、しばらく考える。
アマノは上位神の一柱だ。
神界での役目も多いだろうし、我のように自由気ままに過ごせる立場でもない。
連絡が遅れること自体は、不思議ではない。
シグレ「向こうも向こうで、忙しいのであろうな」
そう結論づけ、我は携帯電話をポケットにしまった。
……とはいえ、少々気がかりではある。
いつもなら、何かあれば軽い調子で返事をしてくる人物だ。
それが、こうも音沙汰がないとなると。
シグレ「……まあ、もう少し待つとしよう」
我は再び歩き出した。
商店街の明かりが、夜の街を温かく照らしている。
今日という一日は、穏やかに終わろうとしていた。
シグレ「さて、帰るとするか」
我は家路につく。
腕に巻かれた木製の腕輪は、いつもと変わらず静かだった。
その一方で、神界では今も、アマノを取り巻く状況が悪化している。
しかし、それを知る者はここにはいない。
我はただ、明日もまたいつも通りの日常が訪れることを疑わず、夜の街を歩いていた。