午前――ホロライブ事務所
シグレ「……よし、これで終わりだな」
我は手元の書類をまとめ、机の端へと置いた。
翌日。
今日も我は、いつも通りホロライブ事務所で仕事に励んでいた。
書類の整理に備品の確認、各所への連絡事項の伝達。慣れた仕事を一つずつ片づけていく。
人間界での生活にも、すっかり馴染んできたものだ。
もっとも、神界にいた頃の我が、まさかこのような仕事を日々こなすことになるとは思ってもいなかったが。
シグレ「ふむ……次は収録予定の確認であったか」
資料を手に取り、予定表を開こうとした、そのとき。
すいせい「シグレ、今ちょっといい?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
そこに立っていたのは、星街すいせいだった。
シグレ「おお、すいせいか。構わぬぞ。何か用か?」
すいせい「いや、今日このあとRECがあるんだけどさ」
シグレ「REC?」
すいせい「レコーディング。歌の収録だよ」
シグレ「なるほど。歌の収録か」
すいせい「そうそう。それで、もし暇だったら見に来ない?」
シグレ「我が見に行ってもよいのか?」
すいせい「もちろん。スタッフなんだし、見学するくらいなら全然大丈夫だよ。まあ、収録中は静かにしててもらうけどね」
シグレ「それは当然であろう。歌を収録している最中に騒ぐほど、我も無作法ではない」
すいせい「ふふっ、なら大丈夫だね」
彼女は軽く笑った。
すいせい「時間が空いたときにでも来てよ。ちょうど新しい曲を録ってるところだから」
シグレ「承知した。時間が取れれば、顔を出させてもらおう」
すいせい「うん、待ってるね!」
そう言い残し、すいせいは仕事へと戻っていった。
我は彼女の背中を見送りながら、少し考え込んだ。
シグレ「……歌の収録、か」
考えてみれば、我は人間の歌をまともに聴いた経験がほとんどない。
ましてや、ホロライブのタレントたちが歌っている曲など、意識して聴いたことすらなかった。
普段から彼女たちと顔を合わせているというのに、歌となると話は別だったのである。
シグレ「ふむ。これは少々、興味が湧いてきたな」
歌というものが、人の心にどのような影響を与えるのか。
神であった頃、祭事などで歌が奉納される場面を見たことはある。しかし、それは神への祈りや儀式に伴うものであり、今の人間界で歌われている曲とは大きく異なる。
せっかく誘われたのだ。
新しい経験として、見学してみるのも悪くないだろう。
我は残っていた仕事を片づけ、次の予定まで少し時間が空いたことを確認すると、収録スタジオへ向かうことにした。
昼――収録スタジオ
廊下を進み、目的のスタジオへとたどり着く。
扉の向こうからは、機材の動作音らしきものが微かに聞こえていた。
シグレ「……ここか」
我は音を立てぬよう、そっと扉を開けた。
その瞬間。
すいせい「――♪」
澄んだ歌声が、耳に届いた。
シグレ「……」
思わず、足を止める。
防音された部屋の中では、すいせいがマイクの前に立ち、歌を歌っていた。
目の前には歌詞を表示するモニター。周囲ではスタッフが機材を操作し、ヘッドホンを通じて音を確認している。
すいせいは目を閉じ、歌詞の一つひとつを丁寧に紡いでいた。
我は邪魔にならないよう、部屋の隅に設けられた見学スペースへと移動する。
シグレ「……ほう」
最初に抱いた感想は、実に単純なものだった。
よく声が通る。
それに、音程も安定しているように思える。
しかし、歌に詳しくない我には、それ以上のことは分からなかった。
シグレ「なるほど。これがレコーディングというものか」
小さく呟き、我は収録の様子を眺めていた。
やがて曲が進んでいく。
すいせいの歌声が、静かな伴奏に重なる。
そして、少しずつ。
我は、あることに気づき始めた。
シグレ「……ふむ?」
歌詞が変わるたびに、声の表情も変わっている。
力強く言葉を響かせる部分もあれば、まるで誰かに語りかけるように柔らかく歌う部分もある。
ただ歌詞を読み上げているのではない。
一つひとつの言葉に、感情が乗っているのだ。
そして、その歌詞と、すいせいの声が。
驚くほど、よく合っていた。
シグレ「……なるほど」
我は自然と、歌詞の表示されたモニターへ視線を向けていた。
言葉だけを読めば、そこに込められた感情を想像することはできる。
しかし、彼女の歌声を通して聴くと、同じ言葉でも違った印象を受ける。
声の強弱、息遣い、音の伸ばし方。
その一つひとつが歌詞と重なり、言葉の意味をより鮮明にしているようだった。
シグレ「……面白いものだな」
気づけば、我はすいせいの歌声に耳を傾けていた。
特別、歌に興味があったわけではない。
今でも、音楽について詳しい知識があるわけではない。
それでも、これは良い経験だと思えた。
神として人々の祈りを受けていた頃には、知らなかった感覚。
誰かの声が、誰かの言葉が、こうして人の心に届くこともあるのだ。
やがて曲が終わり、収録が一区切りついた。
スタッフ「はい、カット! 今のテイク、確認しますね」
すいせい「はーい」
すいせいはヘッドホンを外し、スタッフと音源を確認し始めた。
その横顔を見ながら、我は静かに頷く。
シグレ「……うむ。見に来てよかった」
歌とは、なかなか奥深いものらしい。
機会があれば、他の者たちの歌も聴いてみたいものだ。
そんなことを考えながら、我はスタジオを後にした。
収録スタジオを出た我は、いつものデスクへと戻ることにした。
廊下を歩きながら、先ほど聴いた歌声を思い返す。
シグレ「歌というものも、なかなか侮れぬな……」
そんな独り言をこぼしつつ、事務所へと近づいていく。
しかし。
シグレ「……む?」
ふと、違和感を覚えた。
静かすぎる。
普段なら、廊下の向こうからスタッフたちの話し声が聞こえてくる。
誰かが電話で連絡を取っていたり、打ち合わせをしていたり、時にはタレントたちの笑い声が響いてきたりするものだ。
ところが、今日は妙に静かだった。
シグレ「……何かあったのか?」
足を止め、周囲の気配を探る。
人の気配はある。
しかし、誰もが口を閉ざしているかのように、物音がほとんど聞こえない。
我は眉をひそめ、事務所の扉へと手をかけた。
そして、扉を開いた瞬間。
シグレ「…………は?」
目の前の光景に、思わず言葉を失った。
事務所の中央。
そこには、見慣れたオフィスの風景とは明らかに異なるものが存在していた。
空間そのものが歪み、青白い光が渦を巻いている。
その向こう側には、神界の景色が広がっていた。
神界へと続く、転移の門。
そして、その門の前に立っているのは。
アカギ「よう。久しぶりだな、アマツカミ」
赤い髪を揺らし、全身から微かな雷光を漂わせる男。
雷神アカギだった。
シグレ「……雷神アカギ、か」
アカギ「おやおや。ずいぶんと落ち着いてるじゃねえか。もっと驚くかと思ったんだがな」
シグレ「驚いてはいる。だが、驚いたところで状況が変わるわけでもあるまい」
アカギ「はっ! そりゃごもっともだ」
アカギは愉快そうに笑った。
その笑い声が響く一方で、周囲のスタッフたちは誰も動こうとしなかった。
いや、正確には動けないのだろう。
神界の門から漏れ出す圧力が、オフィス全体を押さえつけているかのようだった。
シグレ「……この場にいる者たちに、何をした?」
アカギ「大したことじゃねえよ。ちょっと静かにしてもらってるだけだ」
シグレ「この者たちは神界の事情とは無関係だ。用があるのなら、我に話せばよかろう」
アカギ「へえ? ずいぶんと人間どもの肩を持つようになったじゃねえか。神界にいた頃は、もう少し違ったんじゃねえのか?」
シグレ「我は今、この者たちと共に働いている。ゆえに、彼らを守るのは当然のことだ」
アカギ「守る、ねえ……」
アカギは周囲を見回し、鼻で笑った。
アカギ「お前も落ちぶれたもんだな。かつては神として祀られていた存在が、今じゃ書類整理に荷物運び。挙げ句の果てに、人間どもの世話まで焼いているとは」
シグレ「仕事に貴賤はない。必要とされる場所で役目を果たす。それだけのことだ」
アカギ「はっ! ご立派な心構えだこと」
シグレ「……それで、何の用だ?」
我はアカギの挑発に付き合うことなく、問いを投げかけた。
アカギは一瞬、つまらなそうな顔をしたが、すぐに口元を歪める。
アカギ「単刀直入に言おうか。お前のことを、大神様が気にしておられる」
シグレ「……大神が?」
アカギ「そうだ。神界を追放された身でありながら、妙な力を取り戻しているらしいじゃねえか。しかも、その力は信仰に由来しない。随分と珍しい話だ」
シグレ「我の力について、神界はどこまで把握している?」
アカギ「さあな。少なくとも、俺たちはお前を放っておくつもりはないってことだ」
シグレ「……そうか」
アカギ「なんだ、その反応は? 怖くねえのか? 大神様がその気になれば、お前なんぞ一瞬で――」
シグレ「恐れるべき状況かどうかは、事情を把握してから判断する」
アカギ「……へえ」
アカギの目が、わずかに細くなった。
アカギ「お前、昔からそういうところが気に食わねえんだよ。何を言われても動じず、何もかも分かったような顔をしやがる」
シグレ「分からぬことは多い。だからこそ、話を聞いているのだ」
アカギ「口だけは達者だな」
シグレ「そう思うのなら、それで構わぬ」
アカギは小さく舌打ちした。
どうやら、我が挑発に乗らないことが気に入らないらしい。
しかし、今ここで感情的になる理由はなかった。
神界の上位神が、わざわざ転移の門を開いて人間界へやってきた。
それも、事務所のど真ん中に。
単なる挨拶でないことは明らかだ。
シグレ「……一つ、聞きたいことがある」
アカギ「何だ?」
シグレ「アマノは、どうしている?」
その名前を口にした瞬間。
アカギの表情が、ほんのわずかに変わった。
だが、それも一瞬のこと。
アカギ「……さあな」
シグレ「……何?」
アカギ「聞こえなかったのか? さあな、だよ」
彼は肩をすくめ、薄ら笑いを浮かべた。
アカギ「俺が、あいつの居場所まで把握していると思うか?」
シグレ「……」
嘘だ。
少なくとも、今の反応には何かがある。
アカギはアマノの名前を聞いた途端、わずかに表情を変えた。
それを見逃すほど、我も鈍くはない。
シグレ「……そうか。ならば、これ以上聞いても無駄であろうな」
アカギ「おや? もう終わりか? もっと聞きたいことがあるんじゃねえのか?」
シグレ「答えるつもりがない相手に問い続けても、時間の無駄だ」
アカギ「はっ! そうかい、そうかい」
アカギは愉快そうに笑いながら、転移の門へと向き直った。
アカギ「まあ、せいぜい今の生活を楽しんでおくんだな。いつまで続くかは知らねえが」
シグレ「……」
アカギ「それじゃあな、アマツカミ。また会うこともあるだろうよ」
そう言い残し、アカギは門の向こうへと姿を消した。
青白い光が収束し、歪んでいた空間が元に戻っていく。
やがて、何事もなかったかのように事務所の風景が戻った。
スタッフたちは、ようやく身体の自由を取り戻したように息を吐く。
スタッフ「……な、何だったんだ、今の……」
スタッフ「シグレさん、大丈夫ですか!?」
シグレ「……ああ。我は問題ない」
そう答えながらも、我の意識は別のところに向いていた。
アカギの態度。
神界からわざわざ現れた理由。
そして、アマノの名前を出したときの反応。
シグレ「……やはり、何かが起きている」
アマノから、連絡が返ってこない。
そのこと自体は、これまでも忙しさが原因だと考えていた。
しかし、今日のアカギの様子を見て、その考えは揺らいだ。
神界で、何かが起きている。
そして、その何かはアマノにも関係している可能性が高い。
シグレ「……アマノ」
我は携帯電話を取り出し、彼女の連絡先を開いた。
何度か連絡を試みた相手。
いつもなら、軽い調子で返事を寄越してくるはずの相手。
それなのに、今は何の反応もない。
シグレ「……くっ」
我は奥歯を噛みしめた。
神界へ行けば、何が起きているのか分かるかもしれない。
アマノの居場所を突き止めることも、直接問いただすこともできるかもしれない。
だが――。
シグレ「……我には、神界へ向かう手段がない」
神界を追放された我には、かつてのように自由に行き来する権限も、門を開くための力もない。
腕輪によって力の暴走は抑えられるようになった。
しかし、それは神界へ戻るための力を取り戻したという意味ではない。
自分の力を制御することと、神界への道を開くことは別問題なのだ。
シグレ「……何もできぬ、というのか」
手の中の携帯電話を、我は強く握りしめた。
先ほどまで、我はいつも通りの一日を過ごしていた。
歌を聴き、新しい経験をし、仕事をこなし、帰りには何か美味いものでも食べようと考えていた。
それなのに。
たった一度の来訪で、その日常の裏側に隠されていたものが、急に輪郭を持ち始めた。
アマノに何かが起きている。
その可能性を、もはや無視することはできない。
だが、今の我には確かめる手段がない。
シグレ「……っ」
我は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
焦っても仕方がない。
そう分かっていても、心の奥に広がる無力感は消えなかった。
神であった頃なら、こうした状況をどうにかする方法もあったのだろうか。
いや。
今の我に必要なのは、過去を悔やむことではない。
シグレ「……必ず、何か方法を見つけてみせる」
小さく、そう呟く。
しかし、その言葉に確かな自信はなかった。
神界へ続く門は、すでに閉ざされている。
そして我は、その門を自ら開く方法を知らない。
シグレ「……くそっ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
我はただ、携帯電話の画面を見つめ続けた。
アマノからの返事は、まだ来ない。
静まり返っていた事務所には、少しずついつもの喧騒が戻り始めていた。
だが、我の心だけは、いつもの日常へ戻ることができなかった。