商人……アインザッツはご立派な応接間に私とクリスを通し、どすんと座った。女中が持ってきた香り高い、湯気のたつカップをちらと見る。真っ黒い液体に、よい香りが漂っている。
「コーヒーですか……東方の異教徒から仕入れたのかしら」
「おや……意外とお詳しいですな。聖女様もこの手の嗜好品がお好きですかな?」
たまたま知っていただけだ。飲んだことだって、ない。
「御冗談を。一杯で一週間分の食費になるものを買う必要も余裕も、巡礼者にはありませんとも」
「聖女になり、信徒から自在に富を集められても、その余裕はないですか」
「――神によって集められたものは、祭壇にささげよ。しかるのち、神が受け取らなかったものをわけよ。――私に嗜好品はいりません。ほしいと思ったこともないです」
「……そうだとしても、この一杯は飲んでいただこう。もてなしのしるしです」
仕方あるまい。私はミルクだけを入れて、小さな茶さじでかき混ぜて。一気に飲み干してやった。
「……砂糖を入れて飲むものですが、これは」
「そういう飲み方もありますわね。でも、甘ったるいのは好きじゃないんです」
ミルクだけで十分。苦みと、よい香りにため息がこぼれそうになるほどおいしい。水と酒しか飲んでこなかった体に、カフェインが染み渡る。――夜寝られるかしら……?
そもそも砂糖なんて高価なものをしこたま使う嗜好品は好きじゃないのである。ワインは……ちょっと嗜好品の話やめにしませんか?
「そうですか。飲み方はそれぞれで結構です。我が商会は異教徒、信徒を問わず交易を重ね富を築いてまいりました。聖女様には気に入りませんか?」
「世俗のすべてを否定するつもりなどございませんわ。ただ、寄進を願いに来た。それだけです」
「――ふぅむ。例の聖樹軍ですな。正直、戦争というものは感心しませんな。費用が甚大に過ぎる。人も死ぬ。良いことがない」
いいことなどない。言う通りだな。
「……ですが、魔族を滅ぼさなければこの大地に永遠に安寧は訪れません。平和は、あなた方にとって何よりでしょう」
「仰る通り。勝てればの話ですが」
「負けると踏んでいる?」
「ええ。宗教的熱狂。それも聖女が起こされたとなれば、皆が集うでしょう。愚かな冒険者から、名誉を求める貴族。魔法結社や、物乞いに等しい、役に立たない浮浪者。すべてがあなたを目指して集うでしょう。それで戦えると?」
「戦いますとも。私にできることはすべて致します」
とは言ったが、現状養える兵数はせいぜい五百が限度である。現状すでに五千近い兵数が集まっていると聞く。出発までに万を超えれば、軍隊の形は保てないだろうな。
「……その意気にかけてみましょうか。寄進はしますが、その前に一つご助言をいたしましょう。軍隊は分割し、聖樹軍の頭領はあなた以外が務めるとよろしい。第一軍団長として、自由に神の力をふるうべきです」
アインザッツは、立ち上がる……嫌いだけど、教会を冒涜しているけれども。能力はあるらしい。私に指揮統率の能はない。……引き込んでもいいかも知れない。
「……アインザッツ様。あなたに、奇跡を以てかなえたい祈りはありますか?」
「何を仰るのやら。……金で贖える現実だけが商人の道。信徒を頼れば、高い布施を払うことになると聞く。だが――妻の病は、どんな司教にも治せんかったな。それを癒してほしかった」
「……それは」
「聖女様なら、治せるか? 妻の病は、心のそれだ。治癒術式ではどうにもならん。……息子が死んでから、すっかりふさぎ込んでしまった。結局それから世に出ようとはしなくなった」
心の病。深い悲しみに暮れ、絶望する。私はそれを癒すべきではないと思う。絶望も、悲しみも、嘆きも、苦しみも。それは誰かのものじゃないし、誰かのものにできるものではない。
「……あなたには、どうすることもできなかったのですか」
「できないさ。すでにあれとの間に信頼関係などない」
奇跡ではどうにもならないこともある。どうにかしていいことでもない。でも、そうだな。
「奥様と、あってみてもよろしいでしょうか。一度、話がしてみたいです」
救いとは何だろうか。いつも、考える。神の言う救いとは。聖者の説く救いとは。――私が与えられる、救いとは。なんだろうか。
命を救うことはできる。心は? 誇りは? 人は食事さえ与えれば生きていられるわけではない。人の死を、どう受け入れるか。否。受け入れることなど、きっとできるはずがない。
貧相なまでにやせこけた、婦人が寝台の上でぼんやりと生きていた。
私は、その夫人の前で椅子に座った。偉そうな説教をしたくはない。私の手で与えられるものは少ない。空っぽの人間だから。私には、なにも、ないから。
「……お邪魔しております。ルミーリアと申します。ご婦人。お名前をお伺いしても?」
「――」
ちらとこちらを見て、また呆然とした。……気持ちはわかる。
「人間は生きていると、全身に傷を負いますわね。――体にも、心にも、魂にも。私にも、覚えがありますわ」
こんな言葉を吐くべきではない。私が目撃した死と、この方の遇した不幸は別だ。
「妹の死体は見つかりませんでした。それを聞いて、腹の底から私なんかが命をつなぐべきではなかったと思いました。私は、あの子が――ベアトリスが生きているだけで、何の奇跡もなく、貧しい村娘でも、ただ生きて、不幸も幸せも、相応に感じて、悲しんだり泣いたり怒ったり。そういう人としての暮らしをしてほしかった。それがかなうのなら、私は――」
すすり泣く声が聞こえた。婦人ではない。泣いているのは誰だろう。
「私は、どれだけうれしかったか。妹が、おいしいパンを食べられる暮らしができれば。私は、それだけで――だから、戦うことにしました。誰かにとってのベアトリスが、パンを食べられるように。明日を、今日を生きて、そして、悲しむことがあっても、怒ることがあっても、いずれ来るべき人生の終わりに、悪くなかったといえる道を、歩ませようと思いました」
泣いているのは、私だったようだ。
「救いって、何でしょうね。私はね、婦人。――自分の人生を呪わずに生きられたなら。救いなんていらないと思うんです」
救いとは。結局のところ、理不尽な世界に対する祈りだ。
「聖人に名を連ねながらいうのもなんですが。――救済を為す巡礼とは、あらゆる救済の根絶であるべきでしょう」
「……ルミーリアというのですね、お若い聖女様」
「はい」
夫人は、かすかに笑った。
「息子は、魔族に殺されました。二度と、息子のような人間を出さないためにも。……魔王を打倒してください」
「命に代えても」