ある聖女の記録   作:黄金りんね

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聖女と要塞

 呪われた獣たち。魔族の群れが、動き始めていた。日が短くなるにつれて、呪われた不浄な力は強まっていく。魔王の重く、鈍い声が響く。

 

「――聖女が死なねば、神の時代は終わらぬ。聖女が死なねば、人間文明を滅ぼすことはできぬ。――思いだせ。地上とは、恐れと怒りに満ちた苦痛のカンバス。神は、人間をして地上の王たらんと欲している。許してはならぬ。生かしてはおかぬ。聖女を殺し、人を殺し、すべてを亡ぼせ」

 

 黒い軍勢が、北方に再び恐怖をもたらそうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 異教徒の群れと形容するには、あまりにも恐ろしい集団だった。北嶺山脈へと続く荒れ果てた荒野に、武骨で簡素な城塞。聖女が夏場から腐心して築き上げた大城塞は、北方の意地と誇りであった。

 大きな街道を断ちふさぐように築き上げられたそれを迂回して人類を攻略することは不可能に近い。聖女は、その中で焼き菓子を口に放り込み、にへらと笑った。

 

「おいしい。これは……ナッツの類かしら。香りが、とっても優しい」

 

 少し贅沢な品物だが、ここで魔族を迎え撃つと聖女が宣言してから、砦には大量の食事や財が流入していた。城塞都市として少しづつ機能し、腕のいい戦士が続々と集うようになっていた。

 遠征ではない。募集の檄文もなかったが、次第にそこに集うものは第二次北方聖樹軍と呼ばれるようになっていた。

 聖女は、軍を率いることを固辞した。自分に率いる力はないと。ただ、前線で神の敵を屠り続けると宣した。衆寡敵せず。圧倒的な力を示す少女に、戦略は不要だったし、これからも用いるつもりはなかった。

 

「エリザ様、お茶が入りました……これは、コーヒーとも違うのですね」

「あら……この香り……紅茶かしら」

「紅……お茶って紅いもの以外もあるんですか?」

 

 エリザの何気ない言葉にクリスは反応する。エリザは一瞬ぴくりと眉を動かしてから、蜂蜜を紅茶に垂らした。

 

「華やかな香りに、少しの渋さ……あまり経験はないはずですが、クリスはお茶を入れるのが上手ですね」

「教えていただいたんですよ」

 

 大司教手ずから茶をいれるなど、とんだごっこ遊びである。だが、教会の身分が何であれ、どうであれ。クリスの主はただ一人で、エリザもまたクリス以外の側仕えを選ぶ気はなかった。

 高価な品々が立ち並ぶ、最前線。このいびつさは、聖女が現実に持つ圧倒的な権威を示す。少女の思惑がどうであれ。政治的な意欲がなくとも。現実に生きる以上、現実への影響はあってしまうものだ。

 

 

 

 

 

 

 魔族の動きが少しずつ活発になっている。冬はやはり魔族の領域。すべてが立ち枯れ、新生の予感をも残さない寒波は、着実に。確実に世界を覆って滅ぼそうとする魔族。文明の灯が、風に揺らされ存立そのものに不安がよぎる。薪がぱちぱちと暖炉ではぜる音を聞きながら、月を見る。

 今日は満月だ。ここから、欠けて。また満ちて。次に月が光を鎖すとき。魔王が砦にやってくる。備える期間はあった。

 

「やっと、全面戦争ですね」

 

 盤上に置かれた私という駒。それを知りながら魔族は向かってくる。彼らが本当に殺したいのは、私ではなく、私のあるじ。私の後ろにいる、人類と文明そのもの。

 負けるわけには、いかないのだ。

 

「エリザ様……魔族は、本当に攻めてきますか?」

「来ます。ここで来ないなら、私が聖罰に向かいます」

 

 そうなれば、勝ったも同然である。彼らが要塞を迂回し、後方を衝くことがあったとしても。――それでも、人類を一掃できる力はすでに削いだ。人間は私だけではない。私がこの世にいなくても。人間には魔族に対抗できる力がある。――根拠はない。だが、私だけが強くて、戦える。そんなに人類は弱くはない。

 

 できることは、みなにしてもらおう。――誰も見捨てない。すべてを救う。だが、それは。闘争を取り上げることを意味するものではないらしい。

 

「クリス。私はいずれにせよ最前線ですべきことをします。城塞内の秩序は、あなたに委ねます」

「――はい」

 

 クリスは、うなずいた。彼女もまた、ずいぶん変わった。教えを学び、すべきことに向き合っている。相も変わらず心配性だが……ここ半年近く私が死ぬようなめにあっていないこともあり、ずいぶん状況が改善された。

 多少穏やかになった。戦いの日々が彼女の心を摩耗させていたのかもしれない。

 

「――いざとなれば、私には最後の札があります」

「今まで使ってこなかったんですね。理由は?」

 

 クリスの問いに、くすりと笑みをこぼした。

 

「――私に御しきれるか、まだ不安が残るからです」

「それ、絶対使わないでくださいね」

 

 ……寿命が短くなった。不死の奇跡が暴かれた。人間性の奇跡を、クリスに一度授けた。人を、多く助けた。人に、多くのはかりごとをたてられた。人に、愛された。神に救われた。

 今まで、私が生きてきたすべて。すべて――。まだ、捨てたくはない。だから、私も笑うしかなかった。

 

「大丈夫ですよ、クリス。私はそんなもの使わずとも、最強なんですから」

 

 人類最強なんて。かけらもあこがれたことはない。私は、借り物の力で。借り物の命で。借り物の善意で。借り物だけで、自分が偉くなったと勘違いできる僭主ではない。ただの、小さな一人の人間でしかない。

 クリスを泣かせるわけにはいかない。

 




聖女様 終わりが近いな、と思っている。
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