魔族討滅の三年前。
聖女が現れた、という噂に対して市井の反応ははじめきわめて冷淡であった。
「教会のつまらない誇張だ」
「教会に税金を払えってか? くだらん話だ」
「ガキの遊び旅だろうな」
そんな話は、陰に日向に囁かれた。聖女は、当然それを聞いている。だが、エリザは平然と笑うばかりであった。
「――私は神ではなく。人々は全知ではありません。彼らの声は、その絶望の深さの分。裏切られたということに他なりません」
旅の中。てくてくと舗装もされていない街道を進むエリザとクリス。寒風吹きすさぶ北方の大地に、聖女はまだ誰にも知られず、誰にも庇護されることのない存在であった。ただ一人を除いて。
「クリス、聞きましたか、さっきの村の子が、私の容姿を褒めていましたね。ふひひ、――あまり言われたことがないので、うれしいですね」
「人は見た目にあらず。――聖女ともあろうものが、見目の麗しさに気を取られるのですか」
このころのクリスはエリザにやや冷淡であった。エリザの隙をただし、従者として動く。そうしなければ、不利になるのは聖女だから。
エリザは、少しだけ寂しそうに笑った。
「そうですね。浮かれていたかもしれません」
よき従者にふさわしくない、奔放な聖女。二人の心の距離が近づくのは、まだまだ先の話。
クリスは、私に冷たい。冷たいというより、本来彼女のような教えに忠実で、心のありようをはっきりと示さないのが教会の考える「理想像」なのだろうなと思う。
だが、私は従うのは教会ではなく、天である。主である。神である。だから、クリスの言うような「おしとやかな聖女」にはなれない。仕え甲斐のない聖女様で申し訳ない。
でも――笑えない旅をしたいわけじゃない。
皆の心に、小さくてもいいから何かを残したい。誰かを救いたい。私を思い出すときは。心に熱をともしてもらいたい。
魔王を必ず討滅する。その気持ちを忘れたことはない。だが、私にできるのか。疑問は尽きない。勇者に付き従った伝説の聖女すら、封印するのに精いっぱいだったのだ。いくら私が、戦闘に秀でているとしても。魔王に勝てるとは思えない。多少は無理をしなければならない。
「クリス、次の村で少し休みましょうか。庵を借りに、先行してください――軽い守護の奇跡を授けましたから、魔族に襲われることはありません」
「……ありがとうございます。それでは」
クリスが足音だけを残して、村へと行く。夜霧の奇跡が、クリスの身を隠してくれるはずだ。私はその間に、こそこそと近づく汚物を処分する。
「雷霆の奇跡」
影が、巨大化して私の姿となる。シェイプシフター。私と同じ出力で、奇跡に類似した魔法を使う。――話にならない。
私は、私を強いと思えたことなど一度もないのだから。何かを奉げないと、力を得られない。激痛に涙をこぼす。いたい、いたい、いたい。
痛みのあまり、奥歯が軋む。電撃の作用で、筋肉がひきつり、体内の水が蒸気へと変貌する。体細胞を破壊し、血が皮膚の上ににじみ出る。
「――何百匹でも、かかってこい」
戦う姿を、長時間クリスに見せればきっと。落胆する。人類の希望が、これほどもろいなんて。教えていいはずがないのだから。
村の門前で、少女は額づいていた。
「おねがいします。一晩でよいのです。泊めてください。食事をお恵みください」
「帰れ。失せろ。何が聖女だ。そんなものはいない。地上にあるのは、おぞましい悪魔だけだ」
しわがれた老人が、少女に杖を振り下ろす。少女の小さな背中で、ぴしりといい音が鳴る。
「私には、何もいりません。――もしお金が必要なら、私が支払います。路銀を少しだけ持っています」
「そんなもの、いるか。貴様らがいると魔族が寄ってくる。聖女とは、教会とはそういうものを招くのだ」
「招きません。聖女様は、魔族を祓います。魔族除けの奇跡を施します。あなた方の村に不利益はもたらしません。今もきっと、聖女様は一人で魔族と殺し合いをしています。まだ、小さな、成人すらしていない哀れな少女です。死の恐怖を感じたこともあるはずです。お願いします。私などどうでもいいから。聖女だけは、どうか――」
杖が、頭に、体に。何度も振り下ろされる。痛みにうずくまりながら、それでも少女は動かなかった。老人が、つぶやく。
「……聖女とやらに付き従って、貴様に何の得がある」
「――知りませんよ、そんなこと」
よろよろと立ち上がって、聖衣の泥を軽くはたいて、少女は続ける。懐をまさぐり、小さな髪飾りを老人に投げてよこした。家紋の彫刻が為された、ヒスイのかんざしだ。
「私の家宝です。町で売れば、そうですね……五年は遊んで暮らせるかもしれませんね。――それで、ロバを売ってください。私と聖女様は、それでこの次の村まで行きますから」
老人は、目の色を変えてロバを売り払った。クリスは小さくつぶやく。
「――実を結ばぬものよ。あなた方は、黄金を見逃して鉛を掴んだ。あなた方は、花を摘み、実を捨てた。神の国に入らぬものよ。大いなる悪業を重ねるものよ。しるしを信じ、主を信じぬものよ。あなた方は、自ら家畜を放ち、首輪だけを握っている」
エリザに、あんな汚いものを見せられない。そう思った。クリスと合流したエリザが向かった次の村で。二人は、馬小屋で夜を明かした。
まだ、輝かしい名を持たない聖女の巡礼は。少女二人で過ごすには、辛く苦しいものだった。それでも、エリザは星を眺めつつ思う。
「――大丈夫。この世界で、悪意と呼べるものを人の中に見たことはない」
理不尽ではない。嘆きも、怒りも。無関心も、冷淡さも。
すべて、魔族のせいであり。人の心に悪心を植え付けたのは、欠乏と恐怖なのだから。
聖女様 クリスが裏で色々当たられることもあるのだろうなと思っている。従者を心の底から気の毒に思っている。
従者 聖女が戦いで傷つくとは思っていない。だが、戦うものは報われるべきだと信じている。
村の老翁 かんざしに何かを感じ、ずっと持ち続けた。ロバも家財から何とかひねり出した。その奇特な在り方を認められ、聖女(クリス)からのちに羊の群れを賜っている。