あれから何事もなく学校へ戻った私たちだったが、帰りの車内は重苦しい沈黙に包まれていた。誰も口を開こうとはせず、ただそれぞれの思考に沈んでいた。
教室に戻ると、すぐに会議が開かれた。
「借金について、みんなで考えよう」
先生の言葉に、シロコは思わず口を挟む。
「....もう、真っ当な方法じゃ返せない。何か....別の手を、考えないと....」
誰もが思っていたことだった。だが、それを口に出した瞬間、空気が少しざわつく。良心が、常識が、胸の内で抵抗する。
「だ、駄目です! それじゃ、またあの時と同じことに....!」
ノノミが必死に制止しようとする。しかし、セリカが強く言い返す。
「私はシロコ先輩に賛成。だって、学校がなくなったら、元も子もないじゃない!もう....なりふり構っていられない!」
セリカの瞳には焦燥と決意が宿っていた。その言葉に、教室の空気がピリつく。
「そんな....セリカちゃん.....!」
「待って、セリカちゃん.....!そんなことしたら、また“あの時”と同じになるんだよ!」
アヤネの静かな声が、過去の傷をそっと呼び起こす。セリカの顔が一瞬たじろいだ。
「....そ、そういう意味じゃない....でも....!」
「ホシノ先輩があの時、止めてくれたのに...それを、今度は自分から犯罪者になるっていうの?」
「....わ、私は.....」
それでも、と何かを振り絞るように言葉を続けようとするセリカ。だがその姿は、追いつめられた者の混乱そのものだった。
その時、それまで黙っていたキミヨがぽつりと口を開いた。
「――一度、想像してみましょう。それを“やった場合”のことを」
意外な発言に、全員が「え?」と声を漏らす。
「たとえば....銀行強盗にしてみましょうか。みんなで計画を立てて、誰にもバレずに数億、いえ、数十億を手に入れました。そのお金で利子もろとも借金を全額返済しました」
過程は荒唐無稽だが、誰もそれを否定しなかった。ただ、頭の中でそのシナリオを思い描いていた。
「借金もきれいに返し終えて砂漠化もとまり、オアシスは復活。人が戻ってきて、アビドス砂祭りを盛大に開催することができました――」
淡々と語られる“理想の結末”。だが、キミヨの声にどこか冷めた響きがある。
「....で、何が言いたいの?」
結論を語らないキミヨに、セリカが苛立ちをぶつける。
キミヨは一呼吸置いて、静かに言った。
「――その時の自分の顔を、想像してみてください。心から笑えてますか?胸を張って、そのお祭りを楽しめますか?」
キミヨの言葉が、静かに教室の空気を支配する。
――自信を持って、楽しめるのか?
その問いかけは、誰の胸にも鋭く突き刺さった。
セリカは何も言い返せなかった。唇を噛みしめたまま、ただうつむく。
しばらくの沈黙のあと、小さな声が響いた。
「....わたしは...楽しめないと思います」
それは、ノノミの声だった。震える声で、それでもはっきりと。
「どんなに立派なことをしても、間違ったやり方で手に入れたものじゃ.....わたし、自分を許せないと思います」
アヤネがそっと頷いた。
「そうです....だから、セリカちゃん。それで、本当にいいの?まだ時間があるから...一緒に考えよ?」
問いかけるような静かな声が、教室の空気に静かに溶けていく。
全員がうつむく中、セリカがゆっくりと顔を上げた。まだ迷いの残るその瞳の奥には、それでも確かな光が宿り始めていた。
「.....じゃあ....どうすればいいの?」
それは、仲間たちに向けた問いであり、同時に、自分自身の弱さへの問いかけでもあった。
誰もすぐには答えを返せなかった。言葉が出ないまま、静寂が数秒間、空間を支配する。
その沈黙を破ったのは、キミヨの声だった。
「――方法は、一応あります」
静寂を破ったキミヨの一言に、皆が一斉に顔を上げた。セリカが眉をひそめて問い返す。
「なによ....それって?」
キミヨは言葉を選ぶように視線を伏せ、少しだけ考える素振りを見せた。そして、慎重に言葉を紡ぎ出す。
「....すみません、それは“最終手段”です。皆さんの手が、本当に尽きたときに使います。それを使えば....アビドスの借金は全額返済できます」
「え....それって....」
ノノミが戸惑いの声を漏らす。だがキミヨは、それを制するように手を軽く上げた。
「真っ当なお金です。違法な手段ではありません。そこはご安心ください。でも、使うのは最後の最後――どうしようもなくなったときだけです」
短く息を吸い、キミヨは口元にかすかな笑みを浮かべる。
「....けれど、先生がいらっしゃいますから。きっと、その時は来ません」
その一言に、教室に穏やかな空気が戻る。重く張り詰めていた糸が、ふっと緩むような安心が、みんなの胸を包んだ。
キミヨの“最終手段”が何であるかは、誰にも分からない。だが、あえて明かさないその姿勢が、逆に強い信頼を呼んでいた。
彼女の言葉には、確かな責任と覚悟があった。それが、今ここにいる誰よりも強く、静かな力を持っていた。
そのとき――。
「はいはい、みんな、一旦落ち着こうか〜」
朗らかな声とともに、ホシノが手を叩いて場を仕切った。
「頭から湯気出てるよ〜?」
「....ん」
「.....」
「.....」
「はい、すみません....」
「.....ごめん、こんなふうにしたいわけじゃなかった」
その声に、ホシノが優しく笑いかけた。
「うん、わかってるよ。シロコちゃんも、セリカちゃんも、みんな頑張ってるの。ちゃんと伝わってるから」
「.....すみません。アビドスの生徒でもない私が、一丁前に意見してしまって」
キミヨの言葉に、ホシノが軽く首を振った。
「キミヨちゃんも気にしないで。あんなの、出しゃばりなんかじゃないよ。こっちのことを本気で心配してくれてるの、みんな分かってるから。.....ね? だから、今日は一旦頭を冷やして、また明日集まろうよ。これは、委員長命令ってことで!」
その明るい声に、皆が少しずつ動き始める。荷物をまとめ、教室を後にする支度を整えていく。
――そのときだった。
「先生、すみません。少しお時間、いただけますか?」
教室を出ようとしたキミヨが、静かに呼び止めた。
先生は軽く頷き、柔らかい声で応じた。
「うん、いいよ。とりあえず、廊下に出ようか」
二人は並んで廊下へと歩みを進める。扉が閉まり、夕焼けの光が伸びた影を作っていた。
◆
「....申し訳ございません、先生」
廊下に出た途端、キミヨは静かに頭を下げた。
先生は立ち止まり、少し首を傾げる。
「ん?そんな謝るようなこと、あったかな?」
穏やかな声。けれどキミヨの表情は変わらない。彼女はわずかに眉を寄せたまま、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「あそこは本来、先生が“大人”として止めるべき場面でした。なのに私が出しゃばって....皆んなを導くようなことをしてしまって。先生の役割を奪った形になってしまったこと....本当に、申し訳ございません」
その口調に焦りはない。ただ、過ぎた行動への冷静な反省と、自らの責任を受け止めようとする真摯さがあった。
先生は小さく、困ったように笑って首を振る。
「....ホシノも言ってたけどね。キミヨがアビドスのことを想って動いたのなら、私は何も言わないよ。それに....今のあの子たちには、大人の言葉よりも、同年代の声の方が響くんだと思う。キミヨの言葉は、ちゃんと届いてた」
だがキミヨは、まだ納得していないようだった。視線を落とし、少し唇をかみしめてから言う。
「....でも、先生ならきっと....みんなの意見を一度受け止めて、それから冷静に導けたはずです。私は.....ただ自分の正しさをぶつけてしまっただけです。あれは明らかに、選択ミスでした」
その言葉には自己否定ではなく、責任ある者としての自覚がにじんでいた。
先生はしばし彼女を見つめ、そして、ふっと優しく目を細めた。
「それでも....キミヨがいてくれて、本当に助かったよ」
その声に嘘はなかった。評価でも慰めでもなく、ただ心からの感謝が込められていた。
思わず、キミヨは顔を上げる。先生の瞳には叱責も失望もない。ただ、深く、静かな信頼の色だけが、そこにあった。
「....ごめんね、キミヨ。ちょっと、ホシノに用があるから教室に戻るね」
そう言って、先生が軽く手を振る。
キミヨは小さく頷き、静かに頭を下げた。
「はい。.....ありがとうございました」
先生は一度キミヨを見て、柔らかく微笑んでから背を向ける。足音が、夜の廊下に控えめに響き、やがて教室の扉の向こうへと消えていった。
取り残された廊下に、静けさが戻る。
空調の音すら遠く感じるほどに、沈黙は深く――
キミヨはしばらくその背中があった方角を見つめたまま、微かに目を細める。
「.....さすがです、先生」
その呟きは、誰に向けたものでもなく。
誇らしさか、羨望か。それとも――ほんのわずかな、安堵か。
何を思ってそう呟いたのか。それは、キミヨ本人にしか分からない。
◆
深夜――。
教室の扉が、静かに軋んだ音を立てて閉まった。
「バイバイ、みんな...うわっ!?居たの!?」
廊下に一歩足を踏み出した瞬間、ホシノは思わず声を上げる。
薄暗い廊下の奥――教室の灯りに照らされる境界線の先に、制服姿の少女が静かに佇んでいた。
キミヨだった。
その姿はまるで、ずっとそこに立っていたかのような静けさで、光と影の狭間に溶け込んでいた。
キミヨは口元に人差し指を添え、そっと囁くような仕草を見せる。
「静かにしてください。先生に気づかれてしまいます」
その落ち着いた声に、ホシノはわずかに身構える。腰のホルスターに指を添え、警戒を露わにする。
「....それで、何のようかな?止めに来たなら、悪いけど私の意思は曲げないよ」
だが、キミヨは首を横に振った。微笑みすら浮かべて、淡々と答える。
「そこはご心配なく。止めるつもりは、さらさらありません」
ホシノは目を細める。
「へぇ....じゃあ、何のために?」
キミヨは一歩だけ前に出て、ほんの少し距離を詰める。だが、その歩みには敵意はなく、ただ静かだった。
「....一言だけ、伝えに来ただけです」
その言葉に、ホシノは無言で促す。
キミヨは、静かに言った。
「――“大切に想う”ことと、“大切にする”ことって、似ているようで違いますよ」
一瞬、空気が凍ったように感じられた。
その声には、どこか刺すような鋭さと、深く沈んだ悲哀が混じっていた。
ホシノは目を伏せ、ぽつりと呟く。
「....それ、経験談?」
キミヨは目を閉じ、ふっと笑う。
「....ええ。苦い過去です」
それ以上、キミヨは語らなかった。そしてそれ以上、ホシノも尋ねなかった。
静寂がふたりの間を満たす。
やがてキミヨは、一礼をしてその場を去った。足音すら残さず、深夜の廊下に溶けていく。
残されたホシノは、ほんのしばらくその背中を見送っていた。
「どうすれば良かったのかな...ユメ先輩」
◆
「止めなくて、よかったのですか?」
突如、背後から静かな声が落ちた。
キミヨは振り返らない。誰の声かなど、考えるまでもない。
「うわぁ...元凶がなんか言ってる」
皮肉を込めたその一言に、男は淡々と返す。
「元凶はカイザー理事です。私はただ、それに対し――取引という名の手を貸したまでのこと」
「いや、手を貸すなよ。はぁ...今の小鳥遊ホシノを止めようとしたところで意味はない。それに...そういうのは先生の役目だ。私の役目ではありません」
その言葉を受けて、黒い影が闇の端から滑り出てくる。
黒スーツの男――黒服。
音もなく、まるで夜そのものが形を成したように、廊下の隅に立っていた。
「なるほど。それが、あなたの“スタンス”ですか」
わずかに口角を上げる。笑みというには冷たすぎる。
「ククッ...やはり、あなたは面白い。矛盾を抱えたまま、それでも平然としている。だが、そんな在り方では――いずれ潰れてしまいますよ?」
キミヨは小さく肩をすくめ、視線を窓の外へと向けた。
その瞳に映るのは、ただ無機質な夜の景色だけ。
「...気にかけてくれて、どーも。でも、そうなる未来はない」
黒服の目がわずかに細まる。その奥には、疑念とも興味ともつかぬ光が揺れていた。
「....それは、なぜですか?」
少しの間を置いて、キミヨは静かに答えた。
「――私は、燈在キミヨ。連邦生徒会兼、シャーレ所属の高校生だからだ」
その言葉には、どこか切り離されたような空虚さと、逆説的な重みが宿っていた。
そして次の瞬間、空気を軽くするように、口調を崩す。
「つーかさ。前から思ってたけど、お前そんな堂々とここにいていいの?スマホで連絡すりゃ済む話だろ。先生に見つかっても知らねーぞ」
黒服は口元を指で拭いながら、小さく笑った。
「....そのリスクを負うだけの価値が、あなたにはある」
その声には、皮肉ではなく、確かな敬意が含まれていた。
キミヨはただ一言、無感情に返す。
「そっすか」
そのまま沈黙が二人の間を支配する。
やがて黒服が、ひとつ言葉を落とす。
「これからもあなたの動向、期待していますよ」
「....動向も何も。先生がホシノを助けて、ハッピーエンド。それで終わりだ。俺が動くことはない」
キミヨの言葉に、黒服は再び喉の奥で笑い声を転がす。
「ククッ....それでは──」
それだけを残し、黒服は音もなくその場から消えた。
気配すら残さず、まるで最初から存在していなかったかのように。
キミヨはその場に立ち尽くす。語る言葉も、追う気もなかった。
そして、廊下には再び――完璧な静寂が降りた。
音も、言葉も、影すらも、何一つ残っていなかった。
黒服の登場の仕方に関して、正直、頭を悩ませています