「貴様ら、飼い犬の分際でよくも....!」
カイザー理事の怒声が、戦場を突き刺すように響いた。その声には、もはや怒りだけでは収まらず、明らかな焦りと恐怖が滲んでいた。
勝利は手の届くところにあった。計画は、完璧に練られていた。前日に利子をさらに膨らませ、小鳥遊ホシノを退学処分に追い込んだ。あの少女がいなくなれば、彼女を支えていた生徒たちは、心を折られるだろう。反抗の意思を持つ者などいなくなる――理事はそう信じて疑わなかった。
戦うことなく勝利を得る――それが理想の形だと信じて疑わなかった。戦意を奪えば、結果は必然。盤石な策。それに疑問を持つ余地は、カイザーにはなかった。
――それなのに、彼女たちはまだ、立っている。
「うるさいわね! そんなの知ったこっちゃないわ!」
アルの怒声が、理事の耳を打ち抜く。その言葉に反応する間もなく、カイザーの意識は別の方向へと引き寄せられていった。
便利屋68の背後に立つ、一人の少女。連邦生徒会の制服を着たその少女は、周囲の生徒たちから明らかに浮いていた。違和感を抱かせる存在――それは、ただの視覚的なものではなかった。
(....それにしても、あの連邦生徒会のやつは一体?)
カイザーの頭に、疑問の念が湧き上がる。それも、ただの疑問ではない。圧倒的な違和感が、理事の胸を締め付けた。
(なぜ誰も気づかない....あの少女だけ、顔つきが違う)
その目――冷徹で、鋭い。それはまるで、戦場を生き抜いてきた兵士のような、血と死を背負った者だけが持つ、凍りつくような眼差しだった。
(あれは....ただの生徒ではない。決定的に、何かが違う)
心臓が不規則に鼓動を打ち、理性が叫ぶ。「冷静になれ」「まだ勝機はある」――しかし、その声は耳に届かなかった。胸を締めつける恐怖と、戦意の喪失が理事を支配していく。
(どうする....撤退するか?だが、ここまで来て引き下がれるものか!)
理性と意地がぶつかり合い、どちらも譲らない。カイザーは勝利が手の届くところにあったことを信じて疑わなかった。あと少し、あと少しだけ――その思いが、彼を突き動かしていた。
だが、その瞬間、突如として激痛が腹部を貫いた。
「ッッ!」
理事は声を上げ、身体をよろめかせた。部下たちの慌てた声が耳に届く。
「理事、傷が...!!すぐに治療を!」
想定外の一撃。それにより、カイザーはもはや立っていられる状態ではなかった。彼の思考は一瞬で霞み、痛みと衝撃が全身を支配した。
(この傷では....無理か。チッ、仕方ない)
奥歯を噛み締め、カイザーは決断を下す。
「一度撤退だ! 兵力の再整備に入れ!」
叫ぶように命じると、部下たちは即座に動き出した。しかし、戦線を立て直す時間は、もはや残されていなかった。
理事の視界に、再びその少女が見えた。彼女の立ち位置が、まるで戦場の中でひときわ輝くかのように、カイザーの目を引いた。
(なんだ、何を言っている)
その瞬間、彼女の口から発せられた言葉が理事に届く。
「お─は──から──ている」
だが、時間がない。理事はその言葉を理解することなく、戦線を離れる決断を下した。もう、彼女が何を言ったのかを知る余裕はなかった。
◆
(これで大人しく小鳥遊ホシノを返してくれれば良いんだがな……)
退却するカイザー理事を見送りながら、アビドス対策委員会と便利屋68のメンバーは、ようやく安堵の息を漏らした。長引いた戦闘の後だけに、この一瞬の静けさは貴重だった。しかし、その安堵感は一瞬で、キミヨの頭の中で次の問題が急速に膨らんでいく。
(奴らは小鳥遊ホシノが退学したと勘違いしているが、実際には退学届けを出しただけで、先生はそれを受理していない。キヴォトスで「先生」という存在が今までいなかったから、勘違いするのも無理ないか。でも、そもそも先生はそれに気づいているのか? 気づいていなかった場合、言うべきなのか、言わないべきなのか。さて、どう立ち回ろうか。)
キミヨは考え込みながらその場で立ち止まった。だが、すぐにその考えを切り替え、何事もなかったかのように周囲を見渡す。その時、彼女の耳に先生の落ち着いた声が届いた。
「..,.とりあえず、帰ろうか」
「はい....きっとこの次は、今までで一番大きな戦いになると思います」
アヤネは慎重に言葉を選んだ。彼女の視線は遠く、見えない未来を見据えていた。今の戦いでカイザーに一撃を加えたことは確かに大きな成果だったが、それだけでは油断はできないと彼女は感じていた。
キミヨもまたその予感を強く感じ取っていた。彼女の視線は何処となく空を見上げ、少し遠くを見つめる。何かを思案するかのように。
(相手は今回よりもさらに多くの戦力を投入してくるだろう。こちらの戦力とは圧倒的な差があるが、勝てるのだろうか....いや、勝つか)
キミヨは心の中で答えを出す。数多くの困難を乗り越えてきた彼女たちには、どんな壁も突破できるという確信があった。それだけの絆が、彼女たちを支えている。
(次はもっと厳しい戦いになるだろう。それでも、先生たちなら乗り越えられる。できれば私の出番は無い方が嬉しいのだが)
そんな思いを抱えながら、キミヨはアビドス高等学校に向かって歩いている先生に声をかけた。
「先生、申し訳ございませんが、朝ごはんを食べていないまま来たので、これから便利屋68と一緒にご飯を食べに行きます」
その言葉に、便利屋68のメンバーたちは一斉にざわめき出す。特にアルがすぐに反応した。
「もうお金は持っていないわよ、朝のラーメンで使い切っちゃったから」
「そーそー、だからキミヨちゃん、一緒に行けないよ。ごめんねー」
アルとムツキの言葉に、キミヨはしっかりと待ったをかける。
「いえ、今回は先生たちを助けて頂いた報酬として奢ります。好きなメニュー、好きな料理、いくらでも頼んでください」
キミヨのその一言に、普段はクールなカヨコも、そして全員が一斉にキラキラとした目で彼女を見つめた。その光景に、キミヨはバレないように少しだけ口元が緩む。
「なので、朝、いやもう昼なので、早く行きましょう。私もお腹が空いてるので、早く行きたいです。それに――」
キミヨは再びアルの方に向かい、先生たちに聞こえないように言った。
「後もう一回依頼をしたいので、その話も含めて早く行きましょう」
その言葉に、アルとムツキの顔がぱっと明るくなる。キミヨが新たな依頼を持ちかけてきたことで、二人の心にまた希望の光が差し込んだ。極貧生活を抜け出すチャンスが再び巡ってきたことを実感し、顔が一層輝きを増していった。
◆
「私をこれからどうする気なの?」
拘束具をつけられたままのホシノは、タブレットで楽しそうに何かを読んでいる黒服に冷徹な視線を投げかけた。彼女の内心には、強い警戒心が渦巻いている。ホシノは直感的に理解していた。この状況がどんな結末を迎えるのか、大体の予感はついている。しかし、それでも彼女はその答えを聞きたかった。
黒服は、ホシノの問いに一瞬も迷うことなく、静かな声で答える。
「いえ、あなたに危害を加えるつもりはありません。強いて言うならば、血を少し頂くだけです」
その言葉に、ホシノは一瞬目を見開いた。まさか、こんな回答が返ってくるとは思っていなかったからだ。しかしすぐに冷笑を浮かべ、彼女の予感が完全に外れたわけではないことを確信した。
「嘘だ!あれだけ今まであんなに取引を持ちかけてきたのに。嘘は良いから、はっきり言え!」
ホシノの声には、苛立ちと共に少しの恐怖がにじみ出ていた。数多くの取引、その背後にある意図を知っている彼女にとって、黒服の言葉があまりにも薄っぺらく感じられた。だが、黒服は一切動じることなく、冷静に言葉を続ける。
「いえ、本当に貴方に危害を加えるつもりはありません。正確に言うならば、必要が無くなったと言うべきですか」
その言葉に、ホシノはますます疑念を深める。黒服が言う「必要が無くなった」という言葉が、まるで意味を持たない空虚な響きに思えた。彼女は、どうしてもその真意を知りたくてたまらなかった。
「何だって?」
ホシノは息を呑んだ。
黒服は、また一瞬の沈黙を挟んで、さらに続ける。
「例えるなら....テスト問題の答えが最初からわかっている状態だと思っていただければ。元々は貴方にある実験をする予定でしたが、彼女のデータのおかげで結果は得られました。本当はその答えが正しいかどうか試したいのですが、そうすると、彼女からのデータの提供が無くなってしまう。それだけは避けたいのです」
その冷徹な説明に、ホシノの心はますます複雑に絡み合った。「彼女」とは一体誰のことを指しているのか?そして、ホシノの立場は一体どうなっているのか?
「それゆえ、今回はせめて血くらいは頂こうかと思いまして」
黒服の冷徹な目が、まるで感情を欠いた無機質なもののようにホシノを見つめている。言葉に対する反応は全く期待できないという冷徹な宣告がそこにあった。
「彼女って?」
ホシノは必死で問いかけるも、その答えは予想外のものだった。
「それはお答えできかねます。ですが、話しているととても面白い方ですよ」
黒服はクククと笑いながら言った。何か楽しんでいるかのようなその声音に、ホシノはさらに不安を募らせる。
ホシノは口を閉じ、深呼吸を一つ。冷徹な黒服の目を見据え、静かに問う。
「血を抜き終わったら、私を解放しろ」
その言葉に、黒服は静かな笑みを浮かべながら答える。
「それはできません」
ホシノが理由を問う前に、黒服が続けた。
「それだと、先生の活躍が見られないからです。私は先生の選択に興味があるのです。この状況をどう覆すのか...だからホシノさんを解放することはできません」
その言葉を最後に、黒服は一歩後ろに下がり、立ち去ろうとした。その背中に向かって、ホシノは心の中でひとり呟く。
「皆んな、無事でいて...」
静まり返った実験室で、彼女の声はただのつぶやきとなり、誰にも届くことはなかった。
◆
便利屋68との食事から一日が経ち、ついにホシノ救出のため、先生とゲヘナの協力を得て、対策委員会は出発を迎えようとしていた。
「ん、準備完了」
「補給もおやつもたっぷり入れておきました」
それぞれが荷物を点検し終わり、アヤネが目的地を指し示すと、先生がキミヨに声をかけた。
「ごめん、キミヨ。車の運転、任せてもいいかな?」
「もちろん構いません。私は非戦闘員ですので」
キミヨは軽く頭を下げると、ありがとうと言う先生を背に、グラウンドに置いてある車へと向かって歩き出した。車のキーを手に取ると、ふと、今朝の出来事が思い出される。
(それにしても、今朝のあれはヤバかったな....絵面が酷すぎて、ヴァルキューレに電話するところだった)
思い出すだけで、キミヨの表情が曇った。ゲヘナへ協力を得るために向かう途中、イオリからの提案があった。風紀委員長に会うための条件が、なんとも言えない要求だった。
(土下座して足を舐めろって…流石に酷すぎるだろ。それで良いのか、女子高校生)
イオリの提案にはかなり悩んだが、先生は迷わずその場で足を舐めていた。いや、舐めるというよりも、しゃぶっていたと言った方が正しいかもしれない。
(大人の男性が女子高生の足をしゃぶる光景を目の当たりにする身にもなってほしい。あんな状況を見せられて驚かない方が無理だろうな。それにしても、側から見るとあんなに酷いんだな)
車の鍵を差し込み、エンジンをかけながらキミヨは思いを巡らせた。
(あの空崎ヒナも驚いていたっけ。まぁ、無理もない。あんなもの見せられたら、驚かない方がどうかしてる)
車を校門に向けて走らせながら、キミヨはふと振り返る。
(あんなに普通っぽい人なのに、黒服と舌戦を繰り広げてたからな...本当に、よく分からない人だな)
舌戦の現場にはいなかったが、夜中に黒服から連絡が来ていた。長文のメッセージが面倒だったが、要約すると、初めて先生に会って楽しかったという。更に、興味がますます深まったと書いてあった。
(このまま俺への興味を無くしてくれればいいんだけどな…まぁ、無理だよな)
キミヨはハンドルを握る手に力を込めながら、意識を現実へと引き戻した。
フロントガラスの向こうに流れていく景色が、今日という一日の重みを静かに物語っている。
任務は始まってすらいない。だが、これから何が起こるのか、どんな判断を迫られるのか――すべてに目を凝らして備えなければならない。
それでも、心の奥底ではひとつの切実な願いが膨らんでいた。
(頼むから、俺に兵力全ブッパだけはやめてくれ……)
(あの人のことだ。どうせ狙ってくるなら、最初から全力で潰しに来る気しかしない)
額に滲む汗を拭うこともせず、キミヨはアクセルを踏み込んだ。
戦いの幕は、すでに静かに上がっている――。
キミヨ本人は戦闘中の自分の表情がやべーなとは気づいています。でも直すことは諦めてるので皆んなに見えないように頑張って立ち回ってます。
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