便利屋68は、今日も暇だった。
依頼が来ないため、オフィスの中では各々が思い思いの時間を過ごしている。
アルは机に向かい、愛用の銃を丁寧に手入れしていた。
布が金属の表面を滑るたび、かすかな擦過音が静かな室内に響く。銃身に差し込む光を確かめながら、アルは真剣な表情で細部まで磨き上げていた。
ムツキは少し離れた場所で、暇つぶしを兼ねて道具の点検兼をしている。
コツッ。コツッ。
バッグの中から取り出し、道具を一つずつ確認していく。
その規則正しい音は、眠気を誘う午後の空気に溶け込んでいた。
カヨコはイヤホンを耳に入れ、椅子に深く腰を下ろして静かに音楽を聴いている。
彼女の周囲だけは、外界から切り離されているかのようだった。
時折、指先が膝の上でわずかに動く。
それ以外は、ほとんど身じろぎもしない。
そしてハルカはというと――
植木鉢に生えている雑草を、じっと眺めていた。
「…………」
――そんな、いつも通りの午後。
時間だけが、ゆっくりと流れていた。
空調の低い唸り。
時計の秒針が刻む、かすかな音。
アルが布を動かす音。
ムツキが道具を扱う音。
そして、カヨコのイヤホンから漏れるデスボイス。
それらが重なり合い、オフィス全体を気だるい静けさで包んでいた。
――コンコン。
不意に、オフィスの扉を叩く音が響いた。
小さな音だった。
けれど、それまで室内を満たしていたすべての音を押しのけるには十分だった。
アルの手が止まる。
ムツキの指先も、手榴弾の上で固まった。
ハルカも植木鉢から視線を上げた。
カヨコはというと、音楽を大音量で聴いているため、変わらずリラックスしている。
さっきまで眠たげだった空気が、一瞬で張り詰める。
誰かが来た。
その事実だけで、オフィスの温度まで少し下がったように感じられた。
「はーい。今出るから、ちょっと待ってねー」
ムツキが声をかける。
そう言って、確認していた道具をバッグに戻した。
コツッ。
金属が触れ合い、乾いた音を立てる。
先ほどまでの退屈そうな足取りとは違い、ムツキは軽やかに、それでいてどこか楽しげに扉へ向かった。
床板が、足元で小さく軋む。
一歩。
また一歩。
扉に近づくにつれて、その向こうにいる人物の気配がわずかに感じられた。
そして――
ムツキは何気なく扉を開いた。
「こんにちは、依頼を持ってきました」
扉の向こうから、落ち着いた声が届いた。
その人物の姿を見た瞬間。
ムツキの動きが止まり、口角が上がる。
「……キミヨちゃんだ!!」
その声に、アルが勢いよく振り返る。
驚きのあまり、手にしていた愛銃を落としかけた。
「わっ……!」
慌てて抱え直す。
金属が手の中で滑り、冷たい感触が掌に伝わった。
「な、なんでキミヨがここに!?」
アルの大声が、狭いオフィスの壁に反響する。
カヨコも何事かとイヤホンを外し、顔を上げた。
遮られていた音楽が途切れる。
「……キミヨじゃん」
カヨコが、ぽつりと呟く。
一方のムツキは、これから起こることにワクワクにしていた。
「まあまあ、とりあえず上がってよ」
ムツキは笑いながら、キミヨを中へ招き入れる。
「お茶くらい出すからさ」
─────────────
「取引現場を押さえてほしい?」
私が聞き返すと、キミヨはこくりと頷いた。
「そうです。今日の夜、ブラックマーケットで、とある企業が怪しい取引をするそうなので……その現場を押さえてほしいんです。お茶、ありがとうございます」
「いえ」
ハルカから出されたお茶を一口飲むと、キミヨは満足そうにほっと息を吐いた。
……いや、そうじゃない。
今は依頼の話だ。
「それで、どうしてわざわざうちに依頼を? 先生が見逃すはずがないと思うんだけど」
「そーそー。なんでうちに依頼してくるの?」
ムツキも私に続いて尋ねる。
正直、私もそこが気になっていた。
キミヨはシャーレで活動しているんだから、すぐに先生に頼れる筈だ。
それなのに、どうしてうちなんかに?
「先生は今、トリニティに出張していて、こちらにはいません。それに、この件についてもまだご存じないんです」
「ふむふむ」
「それで、私一人では少し心細いので……誰かに頼ろうにも……」
「頼ろうにも……?」
思わず、私たち全員の声が重なった。
キミヨは少しだけ言い淀んでから、こちらを見る。
「頼んで、怪我でもされてしまったら取り返しのつかないことになりますから」
そして、真っ直ぐ私の眼をみて言う。
「そこで、“信頼”できる便利屋の皆さんにお願いしようかなと」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
私の胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。
……信頼。
なんて素晴らしい響きなのかしら。
シャーレで活動しているキミヨなら、他にも仲のいい生徒や頼れる相手がいるはずだ。
なのに、その中から私たち便利屋68を選んでくれた。
つまり、それだけ私たちを信用してくれているということ。
……ふふ。
悪くない。
いや、むしろ――かなり嬉しい。
思わず口元が緩みそうになるのを、私は社長として必死に堪えた。
「……なるほどねぇ」
ムツキがニヤニヤしながらこちらを見る。
……何よ。
「アルちゃん、なんか嬉しそうだね~?」
「べ、別に? そんなことないわよ?」
しまった。
顔に出ていたらしい。
私は咳払いを一つして、無理やり話を依頼へと戻す。
「そ、それで? 報酬のほうはどうなっているのかしら?」
「もちろん、ご用意しています」
キミヨはそう言うと、どこからともなく一つのアタッシュケースを取り出した。
「こちらが依頼金です」
カチャリ。
ケースが開かれる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
私たちは揃って中身を見つめた。
そして、全員で顔を見合わせる。
……。
全員、頷いた。
うん。
問題ない。
むしろ、何も問題はない。
私はアタッシュケースから視線を逸らさず、静かに立ち上がった。
胸を張り、できるだけ威厳たっぷりに。
「任せなさい」
私はアウトロー。
そして、依頼人から“信頼”されて仕事を任された女。
ならば、その期待に応えるのがアウトローというものだ。
「便利屋68――あなたの依頼、必ず遂行するわ!」
胸を張ってそう言い切る。
すると、キミヨは一瞬だけ目を丸くして――すぐに、ふっと表情を和らげた。
「……はい」
小さく頷くその顔には、どこか安心したような、それでいて嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
まるで、私たちに頼んで正解だったとでも言うように。
……まあ、当然よね。
私達は便利屋68なのだから。
「クフフ……」
隣でムツキの笑い声が聞こえるけれど私は気にせず、満足げに胸を張る。
……うん。
完璧に決まった。
キミヨのアタッシュケースといい。
今日の私はかなりアウトローしているわ。
「ねーねー。キミヨちゃんが笑ってるところ初めて見たよ。二人とも見たことある?」
「私もない」
「すすすすすすみません私もないです」
「私のことなんと思ってるんですか……?」
────────────
夜のブラックマーケット。
表通りでは、夜だというのに無数のネオンが輝いている。
人の声。
車の音。
どこからか聞こえてくる音楽。
そんな喧騒から一本外れた、薄暗い路地裏。
私たちは建物の陰に身を潜めていた。
「……ここで合ってるの?」
私は小声で尋ねる。
「はい」
キミヨが頷いた。
「事前に聞いた情報では、この路地の奥にある建物の前で取引が行われる予定です」
「なるほどね」
私は壁に背を預けながら、路地の奥を見る。
街灯が一つ。
それも点滅している。
足元には空き缶。
壁には剥がれかけた広告。
そして、少し先には古びた建物。
……。
うん。
いかにも怪しい。
「……それにしても」
ムツキが私の隣から顔を出す。
「こういうところって、なんかワクワクするね~」
「声が大きいわよ」
「大丈夫大丈夫。誰もいないって」
「そういう問題じゃ――」
「……静かに」
カヨコが口元に指を当てる。
私たちは一斉に黙った。
遠くから、足音が聞こえてきた。
コツ。
コツ。
コツ。
複数人。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……来ました」
キミヨが囁く。
私は息を潜め、路地の角からそっと覗き込む。
黒い服を着た機械がざっと十人。
その後ろには、別の機械が二人。
さらに、その中央には大きなケースを持ったのが一人。
「……あれが取引相手ね」
「たぶん」
ムツキが楽しそうに笑う。
「どうする、アルちゃん?」
「まだよ」
私は小声で答える。
「証拠を確保するまでは動かない」
「了解~」
ムツキが珍しく素直に頷いた。
男たちは路地の奥で立ち止まる。
「品物は?」
「こちらに」
ケースが開かれる。
街灯の下。
中から怪しげな機材が姿を現した。
キミヨの表情が変わる。
「……間違いありません」
「証拠として十分?」
「はい」
私は頷いた。
よし。
ここまでは順調。
「じゃあ、あとは――」
そのときだった。
「……ん?」
一人の男が、こちらを振り返った。
私は固まる。
「どうした?」
「いや……」
男が目を細める。
「今、あそこに誰か――」
「アルちゃん」
ムツキが小声で呼ぶ。
「バレた?」
「……まだよ」
私は慎重に答える。
男が一歩、こちらへ近づいてくる。
さらに一歩。
距離が縮まる。
まずい。
このままだと見つかる。
その瞬間。
「……あ」
ハルカが小さく声を漏らした。
全員が振り返る。
「どうしたの?」
「……く、靴紐が……」
「今!?」
思わず叫びそうになるのを堪える。
しかし――
男がこちらを向いた。
「誰だ!」
「しまった!」
私は反射的に立ち上がる。
「全員、行くわよ!」
「クフフ、やっぱりこうなるんだね~!」
「社長……」
「しょうがないでしょ!」
カヨコがため息をつきながら銃を構える。
ハルカも慌てて武器を取り出した。
「す、すみません!」
「謝ってる場合じゃないわよ!」
男たちがこちらへ向かってくる。
私は一歩前へ出る。
そして――
「便利屋68!」
銃を構え、堂々と名乗る。
「あなたたちの取引、押さえさせてもらうわ!」
数秒の沈黙。
男たちは互いの顔を見る。
「……誰だ、こいつら」
「知らん」
「便利屋……?」
……。
「アルちゃん」
ムツキが笑いを堪えながら囁く。
「全然怖がられてないね」
「う、うるさいわね!」
「でも、アルさん」
キミヨが隣で小さく笑った。
「私は格好いいと思いますよ」
「…………」
一瞬、言葉が止まる。
「そ、そう?」
「はい」
キミヨは頷いた。
「とても頼りになります」
「…………」
私は銃を握り直す。
胸の奥が、熱くなる。
「……ふふ」
なら。
格好悪いところなんて見せられない。
「行くわよ、みんな!」
私は前を向く。
「今夜の依頼――きっちり成功させるわよ!」
「おー!」
「はい!」
「……了解」
「撃てぇ!」
男たちが一斉に武器を構える。
「ハルカ!」
「は、はい!」
ハルカが真っ先に飛び出した。
両手に構えたショットガンが、路地裏に轟音を響かせる。
ドンッ!
「うわぁっ!?」
正面にいた男が吹き飛び、後ろにいた仲間たちも巻き込まれて転倒した。
「す、すみません! 通してください!」
謝りながらも、ハルカは止まらない。
ショットガンを構えたまま、さらに一歩踏み込む。
「え、ええええいっ!」
銃床が男の腹へ叩き込まれた。
ドゴッ!
「ぐはっ!」
男が路地の壁へ叩きつけられる。
「ハルカちゃん、ナイス!」
ムツキが楽しそうに叫んだ。
「じゃあ、次は私の番ね~」
ムツキは懐から爆薬を取り出し、男たちの足元へ放り投げた。
次の瞬間。
ドンッ!
爆風が路地裏を駆け抜けた。
「うわぁぁぁっ!?」
男たちがまとめて吹き飛び、積まれていた木箱や空き缶が宙を舞う。
「ムツキ! やりすぎよ!」
「えー? でも、ちゃんと全員生きてるよ?」
「そういう問題じゃないわ!」
私はスナイパーライフルを構え、爆煙の向こうへ照準を合わせた。
煙の中から、まだ立ち上がろうとしている男が二人。
私は息を整え、引き金を引く。
パンッ!
弾丸が男の武器を弾き飛ばした。
続けてもう一発。
パンッ!
もう一人の足元へ着弾し、男がバランスを崩して倒れる。
「カヨコ!」
「了解」
カヨコが静かに前へ出た。
煙の切れ目から姿を現した男たちを、無駄のない動きで次々と無力化していく。
銃声。
打撃音。
そして、ハルカのショットガンの轟音。
短い時間のうちに、路地裏にいた護衛たちは次々と地面へ沈んでいった。
「……これで終わり?」
ムツキが周囲を見回す。
「いや」
私は路地の奥へ視線を向けた。
そこには、まだ一人だけ立っている男がいた。
黒いコート。
手には大きなケース。
そして、背中には見慣れない金属製の装置。
「奥にいた男……」
キミヨが呟く。
「おそらく、あれが親玉です」
「なるほどね」
私はスナイパーライフルを構え直した。
「なら、あいつを捕まえれば依頼完了よ!」
そのとき、親玉が背中の装置を起動した。
ゴォォォォッ!
「……え?」
噴射口から炎が吹き出す。
親玉の身体が、ゆっくりと宙へ浮かび上がった。
「ジェットパック!?」
ムツキが目を輝かせる。
「いいなー、あれ」
「感心してる場合じゃないわよ!」
親玉はそのまま建物の屋上より高く舞い上がり、路地の向こうに停まっていたヘリへ向かっていく。
「逃げるぞ!」
「待ちなさい!」
私は反射的に叫んだ。
しかし、親玉との距離はすでに大きく開いている。
「社長!」
「距離がある」
「なら、撃ち落とす!」
私はその場で膝をつき、スコープを覗き込んだ。
風。
距離。
親玉の速度。
私は慎重に照準を合わせる。
「……今!」
パンッ!
銃声が夜の街に響いた。
しかし、弾丸は親玉の遥か横を通り過ぎ、遠くの看板へ突き刺さった。
「…………」
「…………」
「外したね」
ムツキがぽつりと言った。
「風が……!」
「言い訳は後」
カヨコが淡々と返す。
「追……!?うわよ」
「私が行きます」
私が言い終わる前にキミヨが前へ出た。
「キミヨ?」
「大丈夫です」
キミヨは路地に積まれていた木箱へ駆け寄った。
最初の一歩で木箱の上へ駆け上がり、そこから建物の出っ張りへ跳び移る。
指先だけで手すりを掴み、身体を引き上げる。
そのまま勢いを殺さず、屋上へ這い上がった。
「えっ……」
私の口から、思わず声が漏れる。
キミヨは立ち止まらなかった。
屋上を走り、隣のビルとの間にある細い看板へ飛び移る。
看板が大きく軋んだ。
しかし、キミヨは足場が揺れるより早く、反対側の屋上へ跳んだ。
さらにその先へ。
ビルとビルの間を、まるで階段でも上るように駆け抜けていく。
「……何あれ」
カヨコがギョッとしたように呟く。
その隣では、ムツキが楽しそうに笑っていた。
「キミヨちゃん、すごーい」
「わ、私……あんなの、初めて見ました……!」
ハルカは目を輝かせる。
三人がそれぞれ感想を口にしている。
けれど――今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「私たちも追うわよ!」
私は歯を食いしばって走り出した。
こんなところで置いていかれるわけにはいかない。
依頼人に任せっきりなんて、アウトローの風上にも置けないわ!
「……キミヨ!」
前方の建物を見上げる。
その屋上に、すでにキミヨの姿があった。
「速すぎない!?」
私たちが階段を駆け上がっている間に、キミヨは別のルートから先回りしていたらしい。
そして――
親玉が屋上へ降り立った。
「はぁ……はぁ……」
私は息を切らしながら、ようやく屋上へ出る。
しかし。
「……え?」
目の前の光景に、思わず足が止まった。
キミヨが一人。
その周囲を、十人近い護衛が取り囲んでいる。
そして、そのさらに奥。
親玉が逃走用のヘリの前に立っていた。
「キミヨ!」
私が叫ぶ。
キミヨがこちらを見る。
その瞬間――
「死ねぇ!」
一人の護衛が突っ込んだ。
拳が迫る。
けれど。
キミヨは、ほんの少し身体を横へずらした。
拳が頬を掠める。
そのまま相手の懐へ潜り込む。
「――え?」
ドゴッ!
拳が腹へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
男の身体がくの字に折れる。
キミヨはその肩を掴んだ。
そして――
ゴンッ!
額と額がぶつかった。
「ぐあっ!」
男がよろめく。
そこへ、背後から別の男。
「もらった!」
キミヨは振り返らない。
迫ってきた腕を、後ろ手に掴んだ。
「なっ!?」
身体を捻る。
男の身体が宙に浮く。
ドンッ!
そのまま背中から地面へ叩きつけられた。
「がっ……!」
「次」
キミヨが呟く。
右から拳。
受け流す。
左から拳。
腕で受ける。
さらに別の男が飛び込んでくる。
しゃがむ。
拳が頭上を通り過ぎる。
そのまま相手の腰へ腕を回した。
「うおっ!?」
持ち上げる。
そして――
ドンッ!
地面へ叩き落とす。
「ぐはっ!」
まるで喧嘩だった。
綺麗な型なんてない。
華麗な技もない。
ただ、相手の攻撃を避ける。
掴む。
殴る。
投げる。
倒す。
そして、次へ行く。
「な、なんなんだこいつ……!」
護衛の一人が怯んだ。
キミヨは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
一気に距離を詰める。
拳。
肘。
膝。
そして――
ドゴォッ!
渾身の一撃。
男の身体が数メートル吹き飛んだ。
「ひっ……!」
残った護衛たちの顔から、余裕が消えた。
「囲め!」
「一人ずつじゃ無理だ!」
「全員で押さえろ!」
一斉に襲いかかる。
「キミヨ!」
私は思わず叫んだ。
しかし、キミヨは振り返らない。
ただ、一歩前へ出た。
最初の男の拳を受け流す。
その腕を掴む。
ぐいっ。
身体を引き寄せ――
ドンッ!
別の男へぶつける。
「ぐっ!」
二人が絡まるように倒れた。
そこへ三人目。
キミヨは身体を低くする。
ドンッ!
肩から腹へ突っ込む。
「うおっ!?」
男が吹き飛ぶ。
その勢いのままキミヨは転がり、すぐに立ち上がった。
背後から蹴り。
振り向きざまに腕で受ける。
そのまま足を掴んだ。
「なっ――」
ぐいっ。
バランスを崩させる。
男が倒れる。
そこへ拳。
ドゴッ!
「ぐあっ!」
さらに一人。
拳を避ける。
掴む。
引く。
膝。
ドンッ!
男が崩れ落ちる。
「な、なんなんだよ……こいつ……!」
最後の護衛が後ずさった。
キミヨがゆっくり近づく。
「……」
「く、来るな!」
男が武器を構える。
しかし――
キミヨが一気に踏み込んだ。
武器を持った手を掴む。
捻る。
「痛っ、痛てぇ!」
男が悲鳴を上げる。
キミヨはそのまま引き寄せた。
そして――
ドゴッ!
腹へ拳。
男がその場に崩れ落ちる。
静かになった。
屋上に立っている護衛は、もう一人もいない。
キミヨはゆっくりと息を整える。
「……終わりました」
「な、なんなんだお前は!?」
親玉が後ずさる。
その手が、背中のジェットパックへ伸びた。
私は思わずスナイパーライフルを構える。
けれど、その前にキミヨが動いた。
「それは使わせません」
一歩。
二歩。
瞬きする間に距離を詰める。
「く、来るな!」
親玉がジェットパックを起動しようとする。
しかし――
キミヨの手が、その腕を払い落とした。
「なっ――」
操作盤を掴む。
ぐいっ!
親玉ごと引き寄せる。
そして――
ドゴォッ!
膝が顔面へ突き刺さった。
「ぐわっ!」
親玉の身体が浮く。
倒れかけたところを、キミヨが襟を掴んだ。
「逃がしません」
「は、離せ!」
親玉が必死に腕を振り回す。
しかし、キミヨはそれを受け流した。
手首を掴む。
そのまま背中へ回す。
「ぐっ……!」
親玉の身体が前へ折れる。
そこへ――
ドンッ!
背中へ拳。
「ぐっ!」
親玉が膝をつく。
キミヨは襟を掴み、無理やり立たせる。
親玉が顔を上げた。
目の前にいるキミヨを見て、その顔が恐怖に歪む。
「貴方みたいな人は……」
キミヨが拳を握る。
「キヴォトスには不要です!」
一歩。
踏み込む。
腰を落とす。
全身の力を拳へ乗せる。
そして――
ドゴォォォンッ!
渾身の拳が親玉の顔面を捉えた。
「ぐわああああっ!」
親玉の身体が吹き飛ぶ。
屋上を転がり――
そのまま、屋上の端で止まった。
「…………」
親玉は白目を剥いたまま、動かない。
屋上に静寂が戻る。
私はスナイパーライフルを構えたまま、しばらく固まっていた。
ムツキも。
カヨコも。
ハルカも。
全員、言葉を失っている。
やがて。
「……終わった?」
ムツキがぽつりと呟いた。
「終わった……みたいね」
カヨコが答える。
「す、すごいです……! あんなにたくさんいたのに……!」
ハルカは目を輝かせている。
私は、目の前で倒れている親玉と、静かに立っているキミヨを交互に見た。
「…………」
私はスナイパーライフルを下ろす。キミヨの言動やあの暴力的な強さ。頭の中でいろんなことがごちゃごちゃになりながら口を開く。
「私たち、居る――」
「焼肉に行きましょうか」
キミヨが、にっこりと笑った。
「……え?」
「祝勝会です」
「行く」
ムツキが即答する。
「行きます!」
ハルカも勢いよく手を挙げた。
「……私も」
カヨコまで頷く。
「えっ、ちょっと待って!?」
私は思わず声を上げた。
「今、シリアスな感じだったわよね!?」
「陸八魔さんも、焼肉に行くんですよね?」
キミヨが首を傾げる。
「行くわよ!」
最近は依頼も来ておらず、またカップラーメン一つをみんなで分けて食べる日々。
そんな状況で、焼肉に誘われて断る人間などいるはずがない!
「では、決まりですね」
「決まってないわよ!」
「焼肉、楽しみだね~」
「楽しみにしないで!」
「お肉……」
ハルカが小さく呟く。
「ハルカまで!?」
「……もう予約しておく?」
カヨコがスマートフォンを取り出す。
「オススメの店ありますよ」
こうして私たちは、見事に依頼を完遂した祝勝会として――
焼肉へ行くことになったのだった。
─────────
キミヨがヴァルキューレに引き渡した後、ゲヘナのとある焼肉店にいた。
「…………」
個室で五人。私とムツキ、対面で社長、ハルカ、キミヨが座っている。目の前の網では、肉がじゅうじゅうと音を立てて焼けている。
脂が炭火に落ちるたび、香ばしい匂いが立ち込める。
……いい匂い。
仕事終わりの焼肉。
しかも今日は、依頼も無事に片付いた。
こういうのも、悪くない。
「カヨコちゃん、これ焼けたよ~」
「ん」
ムツキがトングで肉を持ち上げる。
私はそれを受け取り、口へ運ぶ。
「……おいしい」
「でしょ~?」
ムツキが嬉しそうに笑った。
向かいでは、アルが網を睨みつけている。
「ちょっと! それ、もう焼けてるわよ!」
「分かってるって」
「焦げる前に取って!」
「はいはい」
ムツキが慌てて肉を回収する。
そんな中、ハルカはというと――
「…………」
ただ、肉を眺めていた。
食べたいのだろう。
たぶん。
でも、自分から箸を伸ばそうとはしない。
「ハルカ」
「は、はい!」
「食べないの?」
「い、いえ……私は……」
ハルカは少し困ったように笑った。
「皆さんが先にどうぞ……」
「…………」
やっぱり。
遠慮している。
こういうところは、いつものハルカらしい。
自分の分まで他人に譲ろうとする。
……別に、悪いことではないけれど。
せっかくの祝勝会なんだから、もう少しくらい自分のために食べてもいいと思う。
そう考えていると――
「伊草さん」
「は、はい?」
キミヨが焼けた肉を一枚、ハルカの皿へ乗せた。
「どうぞ」
「えっ……?」
「焼けましたので」
「あ、ありがとうございます……!」
ハルカが小さく頭を下げる。
けれど、箸を伸ばす前に――
「こちらもどうぞ」
もう一枚。
「え?」
「それから、これも」
さらに一枚。
「え、あの……」
「まだありますよ」
カルビ。
ロース。
ハラミ。
次々とハルカの皿へ肉が積まれていく。
「き、キミヨさん……!?」
「遠慮しなくて大丈夫ですよ」
「で、でも……こんなに……」
「たくさん食べてください」
「…………」
ハルカが固まった。
私も固まった。
アルも箸を止めている。
ムツキだけが、ニヤニヤと笑っていた。
「クフフ……キミヨちゃん、ハルカちゃんのこと気に入ってる?」
「はい?」
「なんでもないよ~」
キミヨは不思議そうに首を傾げる。
そして、何事もなかったかのようにまた肉を焼き始めた。
「伊草さん、こちらも焼けました」
「ま、まだありますよ!?」
「おいしいですよ」
「……」
ハルカは困ったように肉を見る。
けれど――
「……いただきます」
小さく箸を伸ばした。
ぱく。
「…………!」
目が少しだけ見開かれる。
「おいしいです……」
「よかったです」
キミヨが微笑む。
その笑顔を見て、ハルカも嬉しそうに笑った。
「……ふふ」
そんな姿を見ながら私は新しい肉を網へ乗せる。
じゅうっ。
脂が弾ける。
「鬼方さん」
「ん?」
「これも、焼けましたよ」
キミヨが今度は私の皿へ肉を置いた。
「……ありがと」
「いえ」
ぱく。
「……おいしい」
「よかったです」
また笑った。
……なんだろう。
妙に落ち着く。
すると、アルが突然トングを手に取った。
「ちょっと待ちなさい!」
「ん?」
アルは網の端へ、ピーマンや玉ねぎ、カボチャを並べ始めた。
「さっきからお肉ばっかりじゃない!」
「え~?」
ムツキが焼けた肉を頬張りながら首を傾げる。
「そうですか?」
キミヨまで網を見る。
「そうですよ!」
アルは私たち全員を見回した。
「焼肉に来たからって、お肉だけ食べてればいいってわけじゃないでしょう?」
そして、胸を張って言い切る。
「みんな、野菜もちゃんと食べるわよ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「は、はいアル様!」
……なんだろう。
アルが急にお母さんみたいになっている。
「ほら、ピーマン焼けたわよ!」
アルがトングで次々と野菜を取り分けていく。
「ムツキ!」
「はーい」
「カヨコ!」
「ん」
「ハルカ!」
「は、はい!」
「キミヨも!」
「はい」
全員の皿に、野菜が配られていく。
「ちゃんと食べるのよ!」
「はーい」
ムツキは笑いながらピーマンを口へ運ぶ。
「……苦っ」
「文句言わない!」
「はーい」
私は黙って玉ねぎを食べる。
「……普通においしい」
アルが満足そうに頷いた。
「でしょう?」
ハルカも恐る恐るピーマンを口にする。
「……おいしいです」
「よし!」
アルは満足げに笑った。
そして――
「ハルカ、まだ食べてない野菜があるわよ」
「えっ?」
「これも食べなさい」
「は、はい……!」
アルがハルカの皿へカボチャを追加する。
するとキミヨも、焼けた野菜を一つ取った。
「こちらもどうぞ」
「ありがとうございます……!」
「熱いので、気をつけてくださいね」
「はい!」
……。
ハルカの皿だけ、どんどん充実していく。
肉。
野菜。
そして、キミヨが注いだお茶。
本人は恐縮しているけれど、どこか嬉しそうだ。
「伊草さん、こちらもどうぞ」
「えっ、まだあるんですか……?」
「はい。せっかくの祝勝会ですから」
キミヨが笑う。
「…………」
私は、そんなキミヨの顔をじっと見ていた。
……よく笑うな。
依頼のときは、もっと静かな子だと思っていた。
淡々としていて。
必要なことだけを話して。
感情をあまり表に出さない。
少なくとも、私が今まで見てきたキミヨはそういう印象だった。
でも――
「……伊草さん、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「す、すみません……!」
「謝らなくても大丈夫です」
また笑った。
……こんな顔、するんだ。
しかも、さっきから何度も。
ハルカが肉を食べれば嬉しそうに笑って。
アルが野菜を焼けば楽しそうに眺めて。
ムツキにからかわれれば、不思議そうに首を傾げる。
思っていたよりずっと表情が豊かだ。
「……意外」
「ん?」
私が呟くと、キミヨがこちらを見る。
「何がですか?」
「……いや」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「キミヨって、そんなに笑うんだなって」
「…………」
キミヨが目を丸くする。
そして――
「そう、でしょうか?」
「うん」
「……ふふ」
また笑った。
「皆さんと一緒にいると、楽しいので」
「…………」
その言葉に、少しだけ驚いた。
楽しい。
そんなふうに、迷いなく言うんだ。
「それに」
キミヨが、ハルカの皿に残っていた肉を見た。
「ハルカさんが美味しそうに食べているのを見ると、こちらも嬉しくなります」
「……!」
ハルカが顔を赤くする。
「そ、そうですか……?」
「はい」
キミヨは微笑んだ。
……やっぱり。
よく笑う。
それも、作ったような笑顔じゃない。
本当に楽しそうに笑っている。
私は頬杖をつきながら、その様子を眺める。
……なんだろう。
最初に会ったときとは、ずいぶん印象が違う。
もっと近寄りがたい子だと思っていた。
でも実際は――
人のことをよく見ていて。
困っていれば自然に手を差し伸べて。
誰かが嬉しそうにしていれば、自分まで嬉しそうに笑う。
「……」
私は、焼けた肉を一枚取った。
口に運ぶ。
「……おいしい」
「でしょう?」
キミヨがこちらを見て笑う。
「…………」
まただ。
でも――
悪くない。
「カヨコちゃん、何ニヤニヤしてるの~?」
「してない」
「してるよ~?」
「してない」
「クフフ……」
ムツキが楽しそうに笑う。
……うるさい。
私はもう一枚、肉を取った。
今度は何も言わずに食べる。
向かいでは、キミヨがまたハルカに肉を取り分けていた。
その顔には、やっぱり笑顔が浮かんでいる。
今日はキミヨの意外な一面が見えた。
それからしばらく経った時にキミヨが席を立つ。
「少しお手洗いに行ってきますね」
「はーい」
ムツキが軽く手を振る。
「いってらっしゃい」
「はい」
キミヨは席を立つと、そのまま店の奥へ歩いていった。
私は箸を置いた。
どうにも引っかかっている。
戦闘が終わってからずっとだ。
キミヨのことが、頭から離れない。
「ちょっと、席を外す」
「ん? どこ行くの?」
「……お手洗い」
「ごゆっくりー」
ムツキがニヤニヤしている。
「……何、その顔」
「別にー?」
気にしないことにした。
私は席を立ち、キミヨの後を追った。
別に、問い詰めたいわけじゃない。
……いや。
たぶん、ちょっと問い詰めたい。
ただ、それ以上に確かめたかった。
自分の感じた違和感が、本当にただの思い過ごしなのか。
店の奥へ進む。
少しずつ、みんなの声が遠ざかっていく。
さっきまで聞こえていたムツキたちの笑い声も、もうほとんど聞こえない。
静かだった。
……なんだか、こういう場所で一人になると妙に緊張する。
別に怖いわけじゃない。
たぶん。
廊下の角を曲がる。
そして――
「…………」
キミヨがいた。
けれど。
こちらに背を向けているわけではなかった。
壁際に立ったまま、すでにこちらを見ている。
「…………」
「…………」
目が合った。
心臓が、一つ大きく跳ねた。
……やっぱり。
気づいてたか。
「……気づいてた?」
「はい」
キミヨはあっさりと頷いた。
「鬼方さんが後ろから来ていることは、分かっていました」
「……そっか」
まあ、それもそうか。
あれだけ露骨についていけば、気づかないほうがおかしい。
……とはいえ、こうして先回りされるとちょっと気まずい。
私は軽く咳払いした。
「どうして来たんですか?」
「……ちょっと、聞きたいことがある」
そう答える。
キミヨは特に驚いた様子も見せなかった。
それがまた気になる。
普通、尾行されてたらもう少しあるでしょ。
驚くとか。
困るとか。
……まあ、キミヨならこんなものか。
「なんで私たちに依頼したの?」
「それは、依頼の時にもお話ししたと思いますが」
「……うん」
分かってる。
依頼の理由なら聞いている。
聞いているけど。
どうにも引っかかる。
「アビドスの時から思ってたけど……キミヨは弱くない」
今日の戦闘を見て、その感覚は確信に変わった。
「むしろ、空崎ヒナと同じくらい強いって言っても過言じゃない」
キミヨは何も言わない。
否定もしない。
驚きもしない。
ただ、私の言葉を聞いている。
……この反応にも慣れてきた気がする。
「一人で解決できるのに、わざわざ私たちに依頼を持ってきたこと」
私は一歩、キミヨに近づいた。
「それだけじゃない」
引っかかっていたことを、一つずつ並べていく。
「キミヨって、シャーレに居るから交友関係が広いでしょ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
少なくとも、私たちに依頼をする必要がないくらいには。
他にも頼れる相手はいたはずだ。
例えば、空崎ヒナとか、アビドスの子とか。
なのに、キミヨは私たちを選んだ。
偶然。
ただの縁。
そう言われれば、それまでなんだけど。
……やっぱり、ちょっと気になる。
「なのに、わざわざ私たちに依頼を持ってきたり……」
「それは単純に、私の交友関係が少ないだけです」
「そ、そう……」
思わず言葉に詰まった。
……それはそれで納得できるのが困る。
「それとは別」
むしろ、こっちが本題だ。
戦闘中のキミヨ。
あの異様なほどの落ち着き。
敵の配置を把握していたような動き。
そして、逃げた親玉を追ったあの瞬間。
「キミヨ」
「はい」
「ああなること、分かってたでしょ」
「ああ、とは?」
とぼけている。
……たぶん。
私はキミヨから目を逸らさなかった。
「相手がどれだけいて、どういう武器を持って、どう動くのか」
一つずつ言葉にする。
「最初から分かってたんでしょ」
キミヨの表情は変わらない。
だからこそ、余計に気になる。
あの戦闘は、偶然だったのか。
それとも――
社長がスナイパーを外した時。
キミヨは、ほとんどノータイムで追いかけた。
迷いなんて、一切なかった。
まるで。
社長が外すことを知っていたみたいに。
……いや。
そんなわけない。
いくらなんでも考えすぎだ。
でも、あのタイミングは妙に引っかかる。
私は小さく息を吐いた。
やっぱり聞いておこう。
「……なんで」
気づけば、声が少し低くなっていた。
キミヨはそんな私の視線を真正面から受け止める。
そして。
ほんの少しだけ、目を細める。
「…………」
沈黙。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
やがてキミヨは、いつもの落ち着いた声で答えた。
「結論から言うと、私の考えすぎです」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
キミヨは気にした様子もなく、淡々と続ける。
「敵が十体だった場合。五十体だった場合。百体だった場合」
指を一本ずつ立てる。
「陸八魔さんがスナイパーを当てた場合と、外した場合。その時にどう動くべきか――そういうことを、あらかじめ考えていました」
「…………」
洗練されている。
いや。
これは戦い慣れていると言ったほうが正しいのかもしれない。
それだけの強さがあるなら、私が情報部にいた頃にキミヨの名前を聞いたことがないのが不思議なくらいだ。
「……一人でも解決できたってこと?」
「はい」
キミヨはあっさり頷いた。
「それは否定しません」
「やっぱり……」
思わずため息が出る。
なら。
どうして。
「だったら、なんで私たちに依頼したの?」
私が聞くと、キミヨは少しだけ視線を逸らした。
さっきまでの無表情とは違う。
ほんの少しだけ、照れくさそうに。
「……心配だったからです」
「……え?」
「皆さんのことが」
予想していなかった答えだった。
私は思わず黙り込む。
「皆さんは先生から食事をご馳走になっているとは聞いています」
「……まあ、それは」
「ですが、便利屋という仕事柄、生活が安定しているわけではないでしょう?」
「…………」
図星だった。
反論できない。
「だからといって、お金を渡しても陸八魔さんは素直に受け取ってくれないでしょうし」
「……まあ、うん」
私も容易に想像できる。
アルなら絶対に何か理由をつけて断る。
「だから、依頼という形なら皆さんの助けになると思いました」
「…………」
なるほど。
そういうことだったのか。
でも。
「じゃあ、あの戦闘中の動きは?」
私はまだ納得しきれずに尋ねる。
「特に、陸八魔さんがスナイパーを外した時」
「ああ」
キミヨは少し困ったように笑った。
「そこは予想外でした」
「……予想外?」
「はい。私の中では、当てると思っていましたので」
「…………」
なんだか、アルが可哀想になってきた。
「なので、外した瞬間は――」
キミヨは少しだけ言葉を止める。
そして。
「……あ、終わったな、と」
「やっぱり思ったんだ……」
「はい」
あまりにも素直に頷くので、逆に何も言えなくなる。
「それで、少しテンパってしまって」
「テンパって?」
「つい動いてしまいました」
「……あれ、テンパってやったの?」
「はい」
私は額を押さえた。
なんというか。
今まで私が勝手に感じていた不気味さが、少しずつ馬鹿らしくなってくる。
全部計算していたわけじゃない。
未来を知っていたわけでもない。
ただ、考えすぎるくらい考えて。
予想外のことが起きたから、反射的に動いただけ。
「……なに、それ」
「すみません」
「いや、謝らなくていいけど……」
私は小さく息を吐く。
それでも、最後に一つだけ。
キミヨは私をまっすぐ見た。
「ですが」
「……?」
「これだけは忘れないでください」
いつもの穏やかな声だった。
けれど、その言葉だけは妙に真っ直ぐだった。
「私は、便利屋の皆さんを好ましく思っています」
「…………」
「それだけは、忘れないでください」
私はしばらく何も言えなかった。
……なんだ。
そういうことだったのか。
勝手に疑って。
勝手に警戒して。
勝手に怖がって。
なんだか、少しだけ恥ずかしくなってくる。
「……分かった」
私は目を逸らした。
「その……ありがと」
「はい」
社長がやってくる。
「二人とも遅いわよ。残り時間も少ないから今のうちに食べておかないと」
キミヨが私の肩を軽く叩いて言う。
「いきましょうか」
そう言って軽く笑うキミヨの後に私も続く。
「あ、それと」
振り返ったキミヨは、人差し指を口元に当てて、
「今の話は、鬼方さんと私の秘密ってことで」
──────────
ゲヘナの寮、その一室の前で、私は緊張しながらインターホンを押した。
今朝、ヒナからモモトークが届いた。
最近、カヨコが学校に来ていないらしい。
連絡を入れても返信どころか、既読すらつかない。念のため私からもメッセージを送ってみたが、やはり反応はなかった。
ただ事ではない。
そう感じた私は、こうしてカヨコの部屋までやって来た。
ピンポーン、と乾いた電子音が廊下に響く。
蛍光灯の白い明かりが、無機質な床を照らしていた。
しばらく待っても返事はない。
もう一度、インターホンを押す。
それでも反応はなかった。
廊下には誰もいない。
遠くから聞こえてくる換気扇の音だけが、妙に鮮明だった。
胸の奥がざわつく。
まさか――。
そんな不安が頭をよぎった、その時だった。
部屋の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
床を擦るような、重く鈍い音。
やがて、扉が静かに開いた。
「……先生。どうしたの」
姿を現したカヨコを見て、私は息を呑んだ。
頬は痩せ、目の下には濃い隈ができている。
まばたきをするたび、重たそうなまぶたがゆっくりと下がった。
髪も乱れていて、いつもの彼女からは考えられないほど覇気がない。
呼吸も浅い。
まともに眠れていないのは、一目で分かった。
「……! みんな、心配してたよ」
そう告げると、カヨコは無表情のまま聞き返した。
「みんなって、誰」
「ヒナやアコ。それに……マコトもだよ。もちろん、私も」
私の答えを聞いたカヨコは、小さく鼻で笑った。
「ヒナやアコはともかく、マコトが私を心配?」
わずかに肩を竦める。
「それは、ないでしょ」
冗談めかした言葉だった。
けれど、その声には力がない。
言葉の一つ一つが、喉の奥からようやく絞り出されているようだった。
私は首を横に振る。
「本当だよ。みんな心配してる」
「何かあったなら聞かせてほしい。話したくなければ無理には聞かない。でも……一人で抱え込むのは見過ごせないよ」
カヨコは答えなかった。
ただ、虚ろな目で私を見つめている。
焦点の定まらない瞳には、ひどい疲労が滲んでいた。
やがて、カヨコはほんの少しだけ身体を退ける。
「……取り敢えず、中に入って」
「うん」
扉の向こうへ一歩踏み入れる。
閉め切られた部屋には、外とは違う湿った匂いがこもっていた。
冷房の風が弱く循環し、紙とインクの混じったような匂いがかすかに鼻をくすぐる。
カヨコの部屋は、意外なほど整っていた。
床には物が散らかっていない。
机の上も、必要なものだけがきちんと並べられている。
ただ、窓際のカーテンは半分だけ閉じられていた。
昼間だというのに、部屋の中は薄暗い。
棚にはジャズやヘヴィメタルなど、さまざまなジャンルのCDが並んでいる。
その光景だけを見れば、いつものカヨコの部屋と何も変わらない。
けれど――。
そこにいる本人だけが、以前とはまるで違っていた。
カヨコに促され、私は床に座る。
冷えた床の感触が膝越しに伝わってきた。
向かいに座った彼女との間には、言葉のない時間が流れる。
エアコンの送風音だけが、一定の調子で鳴っていた。
私は急かさず、その場で待った。
やがて、カヨコが小さく口を開く。
「……くだらない話だけど」
「うん」
「聞いてくれる?」
掠れた声だった。
私は静かに頷く。
「もちろん」
カヨコは少しだけ俯いた。
長いまつ毛が頬に影を作り、その表情が見えにくくなる。
「……半年くらい前。先生がキヴォトスに居なくて、まだ雷帝がいた頃」
「路地裏で、猫を見つけた」
その話を始めた途端、ほんのわずかに声の調子が変わった。
「痩せてて……」
「うん」
私は相槌を打ちながら、黙って耳を傾ける。
「餌をあげたら、そのうち懐いてきて」
カヨコの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「仕事帰りに会うのが、日課になってた」
窓の外を車が走り抜ける。
その音が遠ざかっていくのを待つように、カヨコは続けた。
「……変だよね」
「猫に会うために仕事してるみたいで」
小さく笑う。
今度の笑みには、ほんの少しだけ昔の彼女が戻っていた。
「でも……」
「少しだけ」
「気が楽だった」
私は何も言わなかった。
続きを促すこともせず、ただ待つ。
「本当は、連れて帰りたかった」
「でも、寮じゃ飼えないから」
「時間がある日は、会いに行って」
「それだけでよかった」
カヨコはそこで言葉を止めた。
カーテンの隙間から入る風が、布の端を僅かに揺らす。
「……でも」
「最近は色々あって」
「全然、行けなくて」
雷帝の失脚。
ゲヘナを揺るがした一連の騒動。
その間、カヨコは休む暇もなく動き続けていた。
もちろん、私もその渦中にいた。
「この前」
「やっと時間ができて、会いに行った」
「けど……」
そこで、また言葉が止まる。
時計の針が一つ進む音がした。
その小さな音が、やけに大きく感じられる。
そして――。
「……死んでた」
私は息を止めた。
カヨコは俯いたまま、淡々と続ける。
「瓦礫に挟まってた」
「戦闘に巻き込まれたんだと思う」
崩れた壁。
舞い上がる粉塵。
鼻を刺す、乾いた鉄のような臭い。
そんな光景が、彼女の言葉から浮かび上がってくる。
「誰にも見つけてもらえなかった」
「そのまま……」
カヨコの声が途切れる。
しばらくして、消え入りそうな声が続いた。
「一人で」
「……死んでた」
握り締めた拳が、僅かに震えている。
「仕事ばっかりしてた」
「面倒ごとに付き合って」
「……気付いた時には」
「もう、死んでた」
カヨコは自分の手を見つめたまま、呟く。
「保護するべきだった」
「もっと早く見つけてれば……」
そこまで言って、息を詰まらせる。
「……とか」
「考えても意味ないのに」
しばらくして、彼女は力なく背もたれに身体を預けた。
「疲れた」
少し間を置いて、もう一度。
「……本当に」
「何もしたくない」
私は返す言葉を見つけられなかった。
何を言ったところで、今の彼女には届かない気がした。
それ以上に、今までカヨコと一緒にいたはずなのに、ここまで追い詰められるまで何も気づけなかった自分が悔しかった。
「雷帝もいなくなった」
「ゲヘナも変わる」
「私がいなくても……」
「誰かが何とかするでしょ」
カヨコは自嘲するように笑った。
「だから」
「少しだけ休みたい」
「心配しなくていい」
「そのうち戻るから」
その言葉を聞いて、私は違和感を覚えた。
今のカヨコを見ている限り、「少し休めば元に戻る」とは到底思えなかった。
それでも私は、無理に引き止めることはしなかった。
「……分かったよ」
それだけを告げる。
カヨコは少し驚いたように目を瞬かせ、それから肩の力を抜いた。
「ありがとう、先生」
「それと……」
「みんなに、ごめんって伝えといて」
「心配かけたって」
胸が締め付けられるようだった。
誰も彼女を責めてはいない。
ただ、心配しているだけなのに。
カヨコは窓の外へ視線を向ける。
いつの間にか、空は夕暮れに染まっていた。
カーテンの隙間から差し込んだ赤い光が、床の一部を染めている。
「……少しだけ、離れて見てる」
ぽつりと呟く。
「ゲヘナがどうなるのか」
「私がいなくても」
「案外、何も変わらないかもね」
その言葉に、私は確信を持った。
最初から――戻るつもりなどないということを。
「カヨコ」
名前を呼ぶ。
「何」
私は少しだけ考えてから、別の言葉を選んだ。
「また来てもいいかな」
カヨコは目を見開いた。
「……何しに」
「特に用事はないよ」
「ただ、遊びに来るだけ」
「迷惑?」
カヨコはしばらく黙っていた。
やがて、気まずそうに視線を逸らす。
「……好きにすれば」
小さな声だった。
拒絶ではない。
ほんの僅かだけれど、まだここに残っている繋がり。
私は、そのことに救われた気がした。
今は、無理に引っ張り上げなくていい。
今すぐ説得できなくてもいい。
ただ、彼女を一人にしない。
それだけは、絶対に諦めてはいけない。
そう心に決めて、私はしばらくの間、カヨコのそばにいた。
「どうすればいいんだ……!」
深夜のシャーレ。
窓の外はすっかり暗くなり、執務室の明かりもほとんど落ちていた。
誰もいない部屋で、私はデスクに突っ伏すようにして頭を抱えていた。
考えているのは、もちろんカヨコのことだ。
あの姿が、頭から離れない。
痩せ細った身体。
生気を失った瞳。
そして、すべてを諦めたような笑顔。
――少しだけ休みたい。
――私がいなくても、誰かが何とかするでしょ。
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
あのまま放っておくのは良くない。けれど、だからといって何をすればいい。
無理に励ませば、余計に傷つけてしまうかもしれない。
強引に外へ連れ出せば、せっかく開いてくれた心を閉ざしてしまうかもしれない。
かといって、何もせず見守っているだけでいいとも思えない。
頭の中でいくつもの方法を考えては、どれも違う気がして消していく。
「……くそ」
私は額を押さえた。
こんな時、自分がもっと頼りになればいいのに。
先生として、もっと上手くできればいいのに。
そう思った、その時だった。
執務室の扉が勢いよく開いた。
「先生先生! 私とイケナイことでもしましょう!」
聞き慣れた元気な声。
アロナだった。
両手にはエンジェルマートの袋を抱えている。中からはカップラーメンやら何やらが見える。
「この前はリンちゃんにバレちゃいましたが、今回は大丈夫です! なんたってゴミは私が持ち帰りますので――」
そこまで言ったところでアロナの動きが止まった。
ようやく私の様子に気付いたらしい。
「……先生?」
声の調子が変わる。
私はゆっくりと顔を上げた。
「アロナ」
「!!どうしたんですか先生!?何かあったんですか!?」
アロナが慌てて駆け寄ってくる。
けれど私は、すぐには答えられなかった。
口を開けば、胸の奥に押し込めていたものまで溢れてしまいそうだった。
「俺じゃなくて……」
ようやく出てきた声は、ひどく掠れていた。
「あの人だったら」
机の上で拳を握る。
「こんな時、どうしてたんだろうな……」
アロナは何も言わなかった。
私が誰のことを話しているのか、分かっている。
それでも、今は何も聞かずにいてくれた。
きっと、あの人なら。
今日のあの子を見て、かける言葉を見つけられたのかもしれない。
どうすればあの子の隣にいられるのかも、知っていたのかもしれない。
私には、それが分からなかった。
「俺には……できなかった」
俯いたまま、言葉を続ける。
「助けたかった」
「でも、何を言えばいいのか分からなかった」
「どうすれば、少しでも楽にしてやれるのか……」
声が途切れる。
「結局、俺は話を聞いただけだ」
あの部屋で、彼女は何度も自分を責めていた。
俺はそれを聞きながら、何一つ答えを返せなかった。
最後に「また来てもいいかな」と尋ねただけ。
それが本当に彼女のためになったのかさえ、自信がない。
「……先生」
アロナの声がした。
俺は顔を上げる。
アロナは困ったように眉を下げながら、私を見ていた。
「私は、その人のことを知りません」
「……ああ」
「だから、その人が今どうしているのかも、何があったのかも分かりません」
アロナはそこで一度言葉を切った。
「でも……先生が今日、その人のところへ行ったことは分かります」
俺は黙っていた。
「心配だったんですよね?」
「……うん」
「放っておけなかったから、会いに行ったんですよね?」
「ああ」
アロナは小さく頷く。
「だったら……それだけでも、意味はあると思います」
「……意味?」
「はい」
アロナは少し考えるように視線を落とした。
「私は、その人のことを知らないので、どうすれば元気になるのかなんて分かりません」
「そもそも、先生が何をすれば正しいのかも分かりません」
「……」
「でも」
アロナが顔を上げる。
「先生が何もしなかったわけじゃないことは、私にも分かります」
「今日、会いに行ったんですよね」
「ああ」
「話も聞いた」
「……うん」
「それで、また会いに行くって決めた」
私は小さく頷いた。
アロナは、少しだけ笑った。
「だったら、明日も会いに行けばいいんじゃないですか?」
「明日も……」
「はい」
「何を話せばいいんだよ」
「それは……私にも分かりません」
アロナは苦笑した。
「でも、無理に何かを話さなくてもいいんじゃないでしょうか」
「……」
「先生がそばにいるだけでも、その人にとっては違うかもしれません」
俺は黙って考える。
今日、彼女が最後に言った言葉を思い出す。
――好きにすれば。
あれは拒絶ではなかった。
少なくとも、また来ることを嫌がってはいなかった。
「……そうか」
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
まだ、答えが見つかったわけじゃない。
どうすれば彼女を助けられるのかも分からない。
明日会いに行ったところで、何も変わらないかもしれない。
それでも。
「明日、また行ってみる」
「はい!」
アロナが嬉しそうに頷く。
「今度は何か食べるものでも持っていく」
「いいですね!」
「何がいいと思う?」
「いちごミルク!」
わざわざ袋から取り出して言ってくる。
「じゃあ、カステラ!」
更に袋から取り出す。
「……あの子が甘いもの好きかは知らないぞ」
「あっ」
アロナがしまったという顔でこちらを見てくる。
その顔を見て、思わず笑ってしまった。
「ふっ」
「せ、先生?」
「いや……」
こんな状況なのに。
こんな時だからこそなのかもしれない。
少しだけ、肩の力が抜けた。
私は立ち上がり、ケトルに水を入れる。
スイッチを押すと、小さな駆動音が静かな執務室に響いた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
そのどこかに、彼女がいる。
今頃、一人であの部屋にいるのだろう。
何も考えたくないと思いながら、眠れずにいるのかもしれない。
だったら。
明日、また顔を見に行こう。
何かを解決するためじゃない。
無理に笑わせるためでもない。
ただ、そこにいるために。
彼女が話したくなったら聞けばいい。
何も話したくないなら、何も話さなくていい。
同じ部屋で黙っているだけでもいい。
それでも、一人きりでいるよりは少しだけましなのかもしれない。
「先生?」
「ん?」
「元気になりました?」
「……少しだけな」
「よかったです!...というか先生の方があの人のこと知ってるんですから先生らしいか私に聞かれても困ります!!」
ブーブー文句を言ってくるアロナに聞こえないフリをしながら私はカップラーメンの蓋を開けた。
まだ答えは出ていない。
それでも、今はそれでいい。
分からないなら、探しながら進めばいい。
少なくとも、彼女を一人にしない。
それだけは決めた。
「……よし」
私は小さく息を吐く。
「明日も行くか」
今度は、その言葉に迷いはなかった。
「カヨコ」
翌日。
私は再び、カヨコの部屋の前に立っていた。
昨夜、一人になってから何度も考えた。
どうすればいいのか。
何をすれば、あの子の力になれるのか。
けれど、いくら考えても答えなんて出るはずがなかった。
だから結局、もう一度本人に会うことにした。
インターホンを押す。
数十秒待ってみる。
返事はない。
「カヨ……?」
もう一度呼びかけようとした、その時だった。
「どうしたの、先生」
「……え?」
扉が開く。
私は思わず言葉を失った。
そこに立っていたカヨコは、昨日とはまるで違っていた。
顔色は明らかに良くなっている。
目の下にあった濃い隈も薄くなり、瞳には昨日にはなかった光が戻っていた。
少なくとも、昨日のような危うさは感じられない。
「……カヨコ?」
「うん」
「もう、大丈夫なの?」
思わず聞いてしまう。
カヨコは少しだけ首を傾げ、それからいつものように淡々と答えた。
「全然問題ないよ」
そして――ほんの少しだけ笑った。
「むしろ、いつもより元気が湧いてくるくらい」
「……そう」
私は曖昧に頷いた。
安心した。
……はずだった。
けれど、胸の奥には引っかかるものが残っている。
昨日、あれほど憔悴していた彼女が。
一晩で、ここまで変わるものなのだろうか。
私が帰ったあと、一体何があった?
聞きたい。
けれど、今のカヨコを見ていると、その質問を口にすることすら躊躇われた。
そんな私をよそに、カヨコが続ける。
「それと先生」
「ん?」
「私、しばらく学校を休むから」
「……え?」
「寮も抜ける」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「それから、情報部も辞める」
「……待って」
昨日までとは違う。
あまりにも突然だった。
「アコとヒナがいるから、多分大丈夫でしょ」
「いや、そういう問題じゃ――」
「止めても無駄だよ」
カヨコの声は穏やかだった。
だからこそ、余計に止めにくかった。
「いくら先生でも、これだけは無理」
「……」
私は言葉を飲み込む。
昨日なら、何としてでも引き止めようとしていたかもしれない。
けれど、今の彼女を見ていると、無理に止めることが正しいとも思えなかった。
「止めないよ」
「……そう」
「ただ、ちょっと気になって」
「何が?」
「カヨコが、これから何をするのか」
カヨコは少しだけ目を細めた。
そして、何でもないことのように答える。
「便利屋」
「……便利屋?」
「うん」
少し間を置いて、カヨコは続けた。
「アル……じゃなかった。社長に誘われて、することになった」
陸八魔アル。
以前、迷子の子を一緒に届けた子だ。
眼鏡をかけていて、真面目そうな性格をしていた。
少なくとも、私にはすごく良い子に見えた。
そうか。
あの子が誘ったのか。
それなら、安心できる。
私は小さく息を吐いた。
「うん。分かった」
改めてカヨコを見る。
昨日とは違う表情。
昨日とは違う声。
そして、昨日とは違う未来を語っている。
その姿を見られただけでも、今日は来た甲斐があった。
「言ってくれてありがとう、カヨコ」
「……うん」
「アコとヒナには、私から伝えておくよ」
「ありがとう、先生」
カヨコはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
「それじゃあ」
カヨコが扉に手をかける。
「困ったことがあったら、いつでも依頼して」
「……え?」
「便利屋68はいつでも依頼を待っています──なんて」
「……分かった」
私は笑って頷いた。
「その時は、頼りにするよ」
「うん」
扉が閉じる。
私はしばらく、その場から動けなかった。
一晩で、何があったのか。そんなこと考えたところで意味はないか。
……ただ、一つだけ確かなことがある。
カヨコは、前を向いている。
その事実に、私は笑みを隠せなかった。
――後日。
新たなメンバーを加えた便利屋68が風紀委員と対立したという事実を聞いた私は、たまたま当番で来てたユメの前で倒れてしまったのは別の話。
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