シャーレのオフィスで、カリカリとペンの音が二つの箇所から続いている。しばらくの間、その静かなリズムが部屋に響いていたが、やがて一つの音が突然止む。少女は机の上に肘をつき、うつむきながら小さく呟いた。
「気...気まずい」
彼女、早瀬ユウカは、その理由を振り返る。
「こんにちは!燈在さん、先生!」
シャーレのオフィスに入ると、いつもの先生の姿はなく、代わりに燈在さんが黙々と書類に向かっていた。カリカリとペンを動かす音だけが響いている。彼女は私の様子をちらりと見て、静かに言った。
「先生は今出張中です。数週間後に戻る予定なので、今日は帰っても大丈夫ですよ。ほら、私一人なので」
微笑みながらそう言った彼女の姿に、思わず目を見張ってしまった。
普段の彼女は――無口、というよりクールと呼ぶべきか。ほとんど会話に加わることもなく、黙々と事務作業をこなしている印象だった。正直、どう接していいのかさえ分からなかった。....いや、違う。
よく見れば、彼女の目元には薄く隈ができていて、その表情にもどこか不自然な余裕があった。あの様子では、三日はまともに眠っていないんじゃないだろうか。
つまり、これは――テンションがバグっているだけ、なのかもしれない。そんな彼女の姿を見ていてもたってもいられない私は───
「それでは非効率です,,...書類の半分、私にください」
「いや...手伝ってもらうのはちょっと....」
それでも歯切れが悪く、その姿に思わずため息が出てしまう。
「...何度も言わせないでください。早く、私にください」
彼女は書類を重たく持ち上げ、やや渋い表情でこちらに差し出した。まるで重荷を引きずるかのように、その動きには一抹の面倒くささが漂っている。目を伏せたまま、少しだけ口を動かす。
「....ありがとうございます」
その言葉は少し遅れて、しかし確かに伝わった。感謝の気持ちを表すには、まるで苦労して口に出すかのような、ぎこちない響きだった。
そんな彼女の様子に、思わず微笑みを隠せなかった。
「はい、ありがとうございます燈在さん。それでは机を使わせていただきますね」
....完全にこれだ、私、何やってるの...。
ほとんど話したこともない相手に、わざわざ首を突っ込むなんて――そんなの、ただのお節介じゃない。ありがた迷惑以外の何物でもないでしょ...。
それに、言っちゃった....。つい、いつもの癖で先生に話すときの口調で。ああもう、なんでこういうときだけスラスラ言葉が出るのよ...。
....でも、だって、仕方ないじゃない。ちょっとだけ、雰囲気が似てたんだもん。あの子、先生に....。
...だからって、それで勝手に感情移入して、余計なこと言って――
ううっ.....もし嫌われてたらどうしよう....。絶対「なんか変な人」って思われてる....!
そんなことを考えている彼女だが、手の動きは止まることなく数時間が過ぎ、キヴォトスに夕暮れは、空がゆっくりと紫に染まっていった。
「ふぅー、やっと終わったわ...」
書類の山から顔を上げ、私は伸びをした。反対側からもペンの音が聞こえなくなったということは、彼女も仕事が終えたのだろう。
あれからも、何度も考えていた。私の行動は余計だったじゃないかとか、あの子はどう思ったのかとか。考えたところで答えは出ない。だったら、直接聞いた方が早い──
そう思った私は、机越しにポツリと声をかけた。
「.....ごめんね、余計なお世話だったよね」
言ってから、喉の奥がきゅっと締まる。相手を気遣ったつもりだった。でも、ただの自己満足だったのかもしれない。相手の事情を知らずに、先生と似てるなんて勝手に重ねて──
でも。
「そんなことないよ」
静かな声が返ってくる。私ははっとして顔を上げた。彼女は少しだけ照れたような、でもどこか新鮮な目をしていた。
「俺──私は、正直帰って欲しいとは思いました。だから敢えて冷たい態度も取りました」
その言葉に、私は目を伏せた。やっぱり、と思った。迷惑だったんだ、だからあんな風に──
「ほら、やっぱり迷惑だったでしょ」
声が少し震えたのが、自分でもわかった。何やってるんだろう、私。
でも、その次の言葉が、そんな自分を止めた
「ああもう....ちゃんと話を聞いてください」
彼女は無表情のまま、それでもあたたかい音色で続けた。
「でも、早瀬さんの、私を見る真っ直ぐな目を見ると,...今日くらいは、甘えても良いかなって、思えました。だから、そんな顔しないでください。」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。何も言えずに俯いていると、彼女は小さく息をついて、ぽつりと続けた。
「.....それに、一週間ぶりに家に帰れますし」
その音色は、どこか照れくさそうで、でも少しだけ安堵に満ちていた。
「え?」
「シャーレの空き部屋じゃなくて、ちゃんとした“家″に帰れる日って週に一回あるかどうかで....だから早瀬さんには感謝しています」
その言葉の奥にある疲れや孤独が、痛いほど伝わってくる。
私も似たような環境だからだ。遅くまで残って、誰もいない部屋に帰って、食事は適当。誰にも弱音を吐けないまま、ただ黙々と今日を乗り切る。それが普通になってしまった毎日。
だからこそ、わかってしまった。
「....何で、手伝って欲しいって言わなかったの?」
気づけば、声が震えていた。
怒っているわけじゃない。でも、どこか悔しかった。
彼女がずっと、そんな風に頑張っていたことを、私は気づけなかった。気づけていたはずなのに、見ようとしなかった。
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いて、そっと目を伏せた。
「....この仕事を選んだのは、私です」
彼女の声は静かで、でも一点の曇りもなかった。
「たしかに....リンちゃ――リン生徒会長代理から頼まれたってのは、大きいです。でも、それでも、最終的にそれを“引き受けよう”って決めたのは私です」
私はその横顔を見つめながら、何も言えなかった。
その目は、迷いのない強さを宿していた。
「だから....その責任を、他の人に任せたくはなかった。自分で選んだ以上、最後までやり通したいんです。それに、先生の下に居れば、″大人″というものがわかる気がするんです」
“自己犠牲”とは少し違う。
それは、彼女の中にある「信念」という言葉が一番ふさわしかった。
彼女は一度視線を宙に泳がせ、軽く息をつく。
「それに....シャーレの当番って、本来あるべきものじゃないと私は考えてます」
「.....どういうこと?」
思わず口を挟むと、彼女は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな口調で言った。
「....これは私の持論というか、勝手に思ってることなので、気にせずに聞いてくださいね」
その前置きに、私はそっと頷いた。
「私が思うに、学生の本分って....学校に行って勉強をして、放課後は友達と遊んで帰りはご飯を食べに行ったりすることだと思うんです」
彼女の横顔は真剣だった。
「だから、学校が終わってシャーレに来て、書類仕事を手伝うっていうのは……正直、私の考えには反してて。あんまりその制度が好きじゃないんです」
その言葉に、私は少し驚いた。いつも淡々と仕事をこなしている彼女から、そんな本音が出てくるとは思っていなかったから。
「でも、それを撤廃するのは、今の状況じゃ無理ですよね。仕組みがそうなってる以上、反対してもどうにもならないことの方が多いですから」
彼女は静かに笑った。だけど、それはあきらめの笑顔じゃなかった。
「だったら、せめて――先生と当番の子が、楽しく居られる空間を作る。....いえ、もっと言えば、先生にとっての“癒しの時間”を作るために、私はできるだけ多くの仕事をするようにしてるんです。」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
彼女の言葉には、一片の自己満足もなかった。
ただ、相手のためにと自然に動ける人――それが、彼女だった。
「そこまで先生のことを思って行動するということは....ひょっとして先生のことが好きなのですか?」
ふと思った冗談半分、でもちょっとだけ本気で尋ねると、彼女はイヤイヤと腕を横に振る。
「ないですないです。絶対にないです」
全力の否定に、思わず笑ってしまいそうになる。
「先生のことは尊敬していますし良い人だとは思います。でも、一人の男性として好きになることは楽園を証明するくらいあり得ないことです。」
彼女の言葉に、思わず安堵していた自分に気づく。
....あれ? なんで私、今、安堵してるんだろう。
別に、彼女が先生のことを好きでも構わないはずなのに。
いや、それどころか、そういう感情は最初から関係ないって思ってた。はずだった。
でも、そのはずが、どこか胸の奥でほっとしている自分がいた。
そんな私の表情を見ていたのか、彼女は続ける。
「....早瀬さんが先生を狙っていたら、応援しますよ」
「は....?」
あまりにも突然で、思考が停止する。
「まぁ、でも他に恋敵がいた場合は、平等に応援しますので....悪しからず」
いやいやいやいや、待って待って。
何その“運動会の司会です”みたいな公平精神。
こっちはそれどころじゃない感情の渦に巻き込まれてるんだけど....!
「.....あの、燈在さん」
なんとか声を出すと、彼女は「はい?」と無邪気に首をかしげた。
その顔を見て、私は深く、長く、ため息をついた。
「ほんとズルいです....。私だけ、変な気持ちにさせておいて....」
しばらくの間、さっきとはまた違った気まずさが、静かにその場に残った。
でも、それは――良いものだと、私は確信している。そう、胸を張って言える──
久しぶりに家へ帰れる開放感に、足取りは自然と軽くなる。
歩きながらスマートフォンを覗くと、画面にはひとつの名前が表示されていた。
――早瀬ユウカ。
「.....流れで、もらってしまったな」
彼女が帰る間際、「モモトーク、交換しませんか」と差し出してきた。
さらにそのあと、少しだけ照れたような声でこう言われたのだ。
「それと、できれば.....“早瀬さん”じゃなくて、“ユウカ”って呼んでください」
「.....まぁ、悪い気はしないか」
独り言のようにつぶやいたその言葉が、誰に向けたものなのか、自分でもよく分からなかった。
でも、少なくとも――今日は良い日だったと、そう思える。
今この瞬間までは。
「――後ろにいるのは、分かってるぞ」
立ち止まり、振り返る。
だがそこには、風に揺れる街路樹と、夕焼けに照らされた道しかなかった。.....一瞬、気のせいだったか?
そう思いかけたその時、どこからともなく声が届いた。空気を滑るような、くぐもった音。
「まさか気がつかれているとは思いませんでした」
低く抑えた声。抑揚がなく、それでいて芯を突くように冷たい。
視線を右に向けると、影の中からゆっくりと“それ”が現れた。
――黒いスーツ。顔のない頭部。裂け目から微かに青白く漏れる光。
人とも、物とも言い難い異形。
「....黒服」
ぽつりと呟くと、やつは小さく首を傾げる。
「おや、私の名前を知っているとは予想外でした。やはり貴方は興味深い」
奴の言葉に思わず顔を顰めると。
「安心を。今回は契約をしに来たわけではありません。....ただ、少しだけ、“確認”をするだけです」
「燈在キミヨさん、貴方は一体何者ですか?」
「何者と言われても....ただのシャーレの事務員ですが」
「――燈在キミヨ。かつて、あの失踪した連邦生徒会長の幼馴染にして、同時に彼女の直属の部下であった人物。
能力的に際立った功績は記録されておらず、昇進も限定的。だが、その性格は極めて明朗で、周囲からの信頼と好意を集めていた。
特に親密だったのは七神リン....現・連邦生徒会長代理。だが、とある日を境に性格は一変。以後、周囲との関係性は希薄化し、孤立傾向が強まる。 ――そう、あの日までは。
先生が“キヴォトス”に着任する、その日までは。
以降、貴方はシャーレの事務員という立場に落ち着き、現在に至る。
....さて。ここで改めて確認させていただきます。 ――貴方は、一体、何者なのですか?」
「では私も改めて言います、ただのシャーレの事務員です」
「――ですが、“ただの事務員”が、キヴォトスという世界にこれほど深く関与している理由とは。一体、どのように説明されますか?」
「別に私はお前らと違って深く関与しても問題ないから説明も何もないぞ。それに、私はお前らと違って深く関与するつもりはない」
「それはなぜですか?」
「そりゃ先生が居るからに決まっているだろ」
「──なるほど、では私は帰ります。ありがとうございました」
帰ろうとする奴に待てと言う。
「おや、何ですか?」
「黒服、お前の大好きな取引をするぞ。内容は────」
「それは興味深い。是非その取引受けれ入れましょう。ですが、一つ質問を宜しいですか?」
「答えれる範囲でなら」
「では、燈在キミヨ──貴方の目的は何ですか」
「....私は″大人″というものを知りたい....ただそれだけだ」
黒服はわずかに沈黙し、口元の裂け目から静かに漏れる声で言った。
「....では、いずれまた」
そう言い残し、影へと溶けていった。
見届けた私は、再び家への帰路を辿るのだった───
黒服 「燈在キミヨ──────」
キミヨ 「(この子の肩書き凄いな)」
キミヨの心情はあえて必要最低限しか書きません。多分そっちの方が不気味な気がすると思ったからです。後、キミヨの口調が乱雑になっているのはわざとです。