私は今、アビドス郊外にいる。
なぜかって?
それは――先生に応援を頼まれたからだ。
本来、アビドスに足を運ぶ予定などなかった。いつも通り、業務連絡をチャットで交わすだけの関係。お互い、空いた時間に必要なことだけ済ませればそれで十分だったはずだ。
それが、どうしてこうなったのか。
生徒の誘拐事件、便利屋68による襲撃、ブラックマーケットへの潜入に銀行強盗。極めつけには、裏で糸を引いているのがカイザーローンだというのだから笑えない。
――いくつかは、教育者として眉をひそめざるを得ない行動だった。
けれど、それでも彼らには彼らの「やらなければならない理由」があったのだろう。
だから私は静観を選んだ。
そっとやちょっとじゃ動かないつもりだったが、
先生が、頭を下げた。
そこまでされて、断れるほど私は冷たくない。
数日前、私はシャーレを発ち、アビドス高等学校へ向かうことを決めた。
「.....この道、たしか.....こっちで合ってたっけ?」
歩く道すがら、私は首を傾げる。アビドスは――広すぎる。
久しぶりに来たとはいえ、こうも同じような景色が続くと迷子になってしまいそうだ。
視界いっぱいに広がる砂と廃墟。歩けば靴底に乾いた音が鳴るばかりで、街の気配など微塵もない。
「もう......昼、か」
スマホを確認しながら、私はふと足を止めた。
ようやく、砂漠の果てに街の輪郭が見えてきた。
ひび割れた道路、放棄された看板、色褪せた商店の並び――それでも、人の営みが息づいていた痕跡がここにはある。
ここまで来れば、もうすぐだ。
「.....たしか、このあたりに“あの店”があったはず」
先生からの連絡には、集合時間の指定はなかった。
ならば――昼食くらい、許されるだろう。
私は目的の店を思い出しながら、ほんの少しだけ歩く速度を緩めた。
その店は、角を曲がった先、崩れかけた商店街の中にポツンと存在していた。
「.....ここだな」
看板には、綺麗な字で店の名前が書かれている。
『柴関ラーメン』
扉を開けた瞬間、湯気とともにスープの旨味と焦がし醤油の香りが鼻腔をくすぐった。
その香りだけで、空腹だった胃が一気に覚醒する。
キュル、とお腹が主張する音。
「らっしゃい!」
威勢のいい声が飛んできた。
カウンターの向こう、青い作衣を着た中年の男性――柴大将がこちらを見る。
「おっ、初めてのお客さんだな!」
「はい、友人が『ここのラーメンは絶品だよ〜」って。寄り道がてら、立ち寄ってみました」
私の返事に、大将は目を細めてニヤリと笑った。
「もしかして.....アビドスさんとこのお嬢さんたちか?」
「いえ、正確には.....元アビドスの生徒です。今の子たちとは、少しだけ世代が違います」
「ほぉ、それはまた嬉しい話だな」
大将は続けて言う。
「嬢ちゃんみたいなお客さんを、わざわざ呼び寄せてくれた生徒には感謝しなきゃなぁ」
照れたように笑う大将の声が、どこか温かくて懐かしかった。
カウンター席に腰を下ろすと、私は静かに声をかけた。
「柴関ラーメンを、一つお願いします」
「あいよっ!」
威勢のいい返事が返ってきたかと思うと、柴大将は手際よく厨房の奥へと姿を消す。
火の音。寸胴から立ちのぼる湯気。
鍋が揺れる音と、湯切りのリズムが懐かしい。
――久しぶりだな、この音も。
少し背を伸ばしながら、店内を見渡す。
木製のカウンターは使い込まれて角が丸くなっており、壁には色あせたサイン色紙と、昔のアビドス生徒たちが残した寄せ書きがいくつか貼ってあった。
客は私ひとり。
昼を過ぎているせいか、それともこの辺りがあまりに静かすぎるのか。
「....もったいないな」
独り言のように、呟く。
それほどの店だ。
こんなにも温かくて、落ち着ける場所なのに。
――コトン。
唐突に、器の音が目の前に落ちる。
「あいよ! 柴関ラーメン一丁――できたてだぜ!」
「ありがとうございます」
目の前に置かれた丼は、見るからに重厚だった。
濃いめのスープの上に、たっぷりの野菜と分厚いチャーシュー。半熟の煮卵にメンマ、ネギの色合いが絶妙で、どこか手作りの温もりが伝わってくる。
値段札には、**『580円』**の手書き。
「......ほんとうにこれで580円でいいのか....?」
思わず呟いてしまうほど、ボリューム満点の一杯だった。
私は割り箸を取り、パキッと二つに割る。
「いただきます」
その言葉とともに、湯気の中に顔を近づける。
――懐かしい香りが、またひとつ、記憶をくすぐった。
レンゲでそっとスープをすくうと、湯気がふわりと立ちのぼった。
黄金色に近い濁りのあるスープ。脂の粒が表面に浮かび、湯気に混じって香ばしさが鼻をくすぐる。
口に含んだ瞬間、とろりとしたコクと、焦がし醤油の香りが一気に広がった。
「......っ、おいしい」
塩気と旨味のバランス。舌の奥に残る、骨の髄まで煮込んだような深い味わい。
どこか懐かしくて、温かい味だった。胃がじんわりと目を覚まし、体の芯まで染みわたっていく。
続けて、箸で麺を軽く持ち上げる。
やや太めのストレート麺はスープをしっかり絡ませていて、表面にほんのりと光沢がある。
ズル、と一口。
噛めば弾力があり、小麦の香りが広がる。
「.....うまっ」
思わず声が漏れる。
シャキッとしたもやし、しっとりした煮卵。
チャーシューは箸を入れた瞬間にほろりと崩れ、脂がスープに溶けていく。
すべてが、計算され尽くしているわけではないのに、完璧だった。
ただの町のラーメン屋の味。
だけど、ここでしか味わえない味が、確かにそこにあった。
箸が止まらない。
一口、また一口と食べ進めるうちに、胃の中だけでなく、心の奥まで温かくなっていく。
気づけば、丼はすっかり空になっていた。
スープの一滴すら惜しむように、静かにレンゲを置き、私はそっと両手を合わせる。
「.....ごちそうさまでした」
そう口にしたとき、不意に込み上げてきたものがあった。
胸の奥がつんと熱くなって、視界がにじむ。
――まさか、自分が泣くなんて。
「嬢ちゃん....大丈夫か?」
カウンターの向こうから、柴大将の低くて優しい声が響いた。
その声音に、なぜだか余計に涙がこぼれそうになった。
「....すみません。泣いてしまって....」
「少し、トイレをお借りしてもいいですか?」
私は視線を伏せたまま、かすれた声でそう尋ねた。
「......ああ、曲がった先にある。気にすんな、ラーメンで泣いてくれるなんて、こっちはむしろ光栄だよ」
その言葉に、また涙が滲みそうになる。
でも今は、とにかく顔を洗おう。
せっかくの温かい時間を、涙で曇らせたくはなかった。
私はそっと立ち上がり、トイレへと向かった──
「大将!!来たよ」
「お!アビドスさんとこのお友達じゃないか、らっしゃい!」
涙の痕を洗い流しながら、私は鏡越しに自分の目を見つめた。
赤みの残った瞼。濡れたままの睫毛。
それでも、少しだけ――ほんの少しだけ、すっきりした気がする。
「....私、涙脆くなったな。もう年、かもね」
苦笑いのような吐息が、狭い洗面所に溶けていく。
静かな空気が戻っていた。手を拭き、大将のもとへと向かう。
その瞬間だった。
ドゴゴゴゴゴゴーーーーン!!
地面が跳ねた。天井が軋んだ。
世界が突然、暴力的な揺れに包まれる。
「っ......やば――防げな――」
警告の言葉が喉を突き抜けるよりも早く、視界が崩れた。
天井の一部が爆ぜ、重たい瓦礫が――まるで意志を持ったかのように――まっすぐこちらへ落ちてくる。
逃げる隙はなかった。
ガラガラガラ――ドンッ!!
視界が真っ白になった。
土煙。痛み。重み。空気が、肺から押し出される。
「……っ……」
耳鳴りだけが、遠くから響いていた。
世界が、スローモーションのように鈍くなる。
声を出そうとしても、出ない。
動こうとしても、どこがどうなっているのかすらわからない。
ただ、冷たい瓦礫の感触だけが、やけに鮮明だった。
私は、瓦礫の下敷きになったのだ――その事実だけが、遅れて、脳に届いた。
柴大将がアビドスの子が紹介したと思ったかについては前のキミヨのセリフを見ると分かると思います。