夜明け前の静寂が、古びたド・ポッター本邸の広大な敷地を深く包み込んでいた。空気はひんやりと澄み渡り、世界はまだ深い眠りについているかのようだった。
しかし、その静謐を微かに切り裂き、遠くの空から徐々に近づいてくる羽ばたきの音が、やがて明確な音像を結び始める。それは、使い慣れたフクロウ便の軽やかな翅音とは明らかに異質だった。重く、そしてどこか不吉な響きを孕んでいる。
やがて、東の空が白み始め、ピレネー山脈の険しい尾根を越えて、朝日に濡れた庭園の上空に、漆黒の巨大な影が姿を現した。
それは、車輪を持たないにも関わらず、まるで意志を持つ生き物のように、音もなく滑らかに空を滑空する馬車だった。
それを牽引するのは、骨と皮ばかりに痩せ細り、巨大な蝙蝠のような翼を持つ、二頭のセストラル。その異形は、死を目撃した者だけにしか視認できないという、不吉にして神秘的な魔法生物だった。
漆黒の馬車は、邸宅の正面玄関前に音もなく着陸した。
重厚な扉がゆっくりと開き、中から姿を現したのは、感情の起伏を一切読み取れない表情をした二人の男だった。
彼らは国際魔法使い連盟の法務官で、一人は異様に背が高く痩せ型、もう一人は岩のようにがっしりとした体躯をしていた。彼らが身に纏う漆黒のローブには、国際魔法使い連盟の威厳ある紋章が誇らしげに刺繍されている。
書斎の窓辺で、アントワーヌはその異様な光景を静かに見つめていた。
彼の隣には、不安の色を隠せないハリーが寄り添っている。アントワーヌは、その小さな頭を優しく撫でると、深い溜息を一つ吐き出し、ゆっくりと玄関へと向かった。
法務官たちは、アントワーヌの姿を認めるや否や、無表情な顔を僅かに引き締め、一歩前に踏み出した。
「アントワーヌ・ド・ポッター殿。国際魔法法廷の命令により、貴殿を拘束する」
背の高い法務官の声は、まるで冷たい刃のように無感情だった。アントワーヌは、諦念にも似た様子で、軽く肩をすくめて見せた。
「別に逃げやしないさ」
彼の言葉が終わるのとほぼ同時に、法務官たちが静かに杖を構えた。
その先端から放たれた魔法の鎖が、まるで生きた蛇のように、意思を持ってアントワーヌの全身に巻き付いていく。
銀色の光を放つ鎖は、瞬く間に彼の両手首、足首、そして胴体を締め付け、自由を奪い去った。
「おじさん!」
捕縛されたアントワーヌの姿を見たハリーは、堪らず心配そうな声を上げた。その大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が滲んでいる。
アントワーヌは、そんなハリーに慈愛に満ちた眼差しを向け、穏やかな声で優しく語りかけた。
「安心しなさい、ハリー。何も心配することはない。それよりも、村の人がくれた美味しいイチジクで、ウォルターが君のために特別なタルトを焼いてくれるそうだ。きっと素晴らしい味だろうから、それを楽しみに待っているといい」
アントワーヌがそう言うと、ハリーは目に涙をいっぱいに溜めながらも、懸命に小さく頷いた。
その健気な姿に、アントワーヌは満足げな笑みを浮かべ、傍に控えていた忠実な従者ウォルターに視線を向けた。静かに、しかし確かな重みのある声で、彼は言い含めた。
「少しの間、この家を空けることになる。もし何か不測の事態が起こったら、何よりも私の大切なハリーを守り抜け。頼んだぞ、ウォルター……」
ウォルターは、アントワーヌの言葉を深く胸に刻むように、恭しく頭を下げ、その決意に満ちた言葉に力強く応じた。
「かしこまりました。御主人様、この命に代えても、ハリー様をお守りいたします」
ウォルターの忠誠に、アントワーヌの右目を飾るモノクルが朝の光を反射してきらりと光った。彼は、周囲を取り囲む法務官たちを冷徹な視線で見回すと、微かに口元を吊り上げた。
そして、静かに、しかし明確な意思を込めた声で言った。
「誰か…私の杖を、預かってくれるかね?」
彼はそう言いながら、手にしていた黒檀の杖を、痩せた法務官に差し出した。法務官は一瞬躊躇したが、無言でそれを受け取った。
アントワーヌの魔力の源である杖が、今や彼の手を離れた。
「さあ、行こうか……!」
アントワーヌは、鎖に繋がれたまま、ゆっくりとした足取りで空飛ぶ馬車へと向かった。セストラルは、その漆黒の翼を大きく広げ、今にもジュネーヴの空へと舞い上がらんばかりに身構えている。
法務官たちに促されるまま、アントワーヌは馬車の内部へと乗り込んだ。内部は外観と同じく、陰鬱な黒を基調とした、飾り気のない質実剛健な造りだった。
座席は硬く、窓には魔法による目隠しが施されており、外の景色を窺い知ることはできない。二人の法務官が、アントワーヌを挟むようにして座り、その冷たい視線は寸時も彼から離れることはなかった。
馬車は、ふわりと地面を離れ、独特の浮遊感と共に静かに上昇していく。セストラルの巨大な翼が風を切り裂き、静かな唸りを上げて加速していくのが、微かに感じられた。アントワーヌは、鎖が食い込む手首をちらりと見下ろすと、どこか愉快そうに口を開いた。
「まるで死刑囚になった気分だね、高々…法廷に立つだけなのに」
彼の声には、拘束された身でありながらも、一切の動揺や恐怖の色は感じられなかった。むしろ、どこか芝居がかった、余裕すら滲んでいる。法務官たちは、その軽いジョークに何の反応も示すことなく、ただ無表情に前を見据えていた。
しかし、アントワーヌは意に介さず、口元に薄い笑みを浮かべたまま、徐々に遠ざかっていく本邸の気配を、心の奥深くで感じ取っていた。ジュネーヴまでの、長く静かな空の旅が始まったばかりだった。
ジュネーヴの空は、抜けるような鮮やかな青色に染まっていた。
国際魔法法廷裁判所の荘厳な石造りの建物の前には、日の出と共に各国から集まった報道記者たちが、既に巨大な黒山の人だかりを形成し、異様な熱気に包まれていた。最新の速写呪文を搭載したカメラのレンズが、逃すまいとばかりに、その光を鋭く反射させている。彼らの視線が釘付けになっているのは、遥か上空に現れた、小さな一点の黒い影だった。
やがて、その影は急速に大きさを増し、セストラルが牽引する漆黒の護送馬車が、まるで空気を切り裂くような音と共に、堂々と地上へと舞い降りた。
馬車が地面に静かに着地するや否や、記者たちは一斉に身を乗り出し、息を潜めた。アントワーヌ・ド・ポッター――悪名高い「メフィストフェレス」の異名を持つ男が、鎖に繋がれた痛ましい姿で引きずり出されるであろう瞬間を、誰もが固唾を呑んで待ち構えていた。
しかし、彼らの期待は、いともあっさりと裏切られた。
護送馬車の重厚な扉が、ゆっくりと外側に開かれる。そして、そこから姿を現したのは、背後の暗闇を従え、一切の拘束を解かれたアントワーヌ・ド・ポッターその人だった。彼は、完璧に仕立てられた端正な黒いスーツに身を包み、堂々とした足取りで、馬車のステップを一段、また一段と降りてくる。その姿は、まるで勝利を収めて帰還した王族のように、威厳に満ち溢れていた。
「拘束が解けているだと……!?」
「一体何をしたんだ! アントワーヌ!」
移送のために馬車の近くで待機していた法務官たちが、信じられないといった表情で驚愕の声を上げ、慌ててアントワーヌに杖を向けた。しかし、アントワーヌは眉一つ動かすことなく、涼やかな視線を彼らに向けただけだった。
「何、少々……この上等なスーツに皺が寄るのは勘弁願いたいからね。それに、私は幸いにも丈夫な足を持っている。自分で歩けるさ」
アントワーヌは、まるで些細なことでも語るかのように、平然と言い放った。その言葉を聞いた法務官たちは、血相を変えて慌てて馬車の中を覗き込んだ。そして、彼らの目に飛び込んできた異様な光景に、驚愕のあまり言葉を失った。馬車の座席には、アントワーヌをジュネーヴまで護送するはずだった二人の法務官が、意識を失い、口から泡を吹いて奇妙な体勢で倒れ伏していたのだ。
その衝撃的な光景を前に、騒然としていた現場は、一瞬にして絶対的な緊張感に包まれた。記者たちのざわめきは消え失せ、誰もが息を呑み込み、ただ喉を鳴らすことしかできない。高性能の速写カメラのシャッター音さえも途絶え、まるで時が止まってしまったかのような、異様な静寂が訪れた。
アントワーヌは、凍りついたように動けない記者たちや、何本もの杖を自分に向けながらも、ただ呆然と立ち尽くす法務官たちを全く意に介さず、一切怯むことなく、ゆっくりとした歩調で法廷の入り口へと向かっていく。彼の視線は、まるでそこに何者も存在しないかのように、ただ真っ直ぐに、荘厳な裁判所の正面扉を見据えている。
周囲の魔法使いたちの警戒と驚愕を置き去りにして、まるで不遜なる王のように、アントワーヌ・ド・ポッターは、国際魔法法廷という名の舞台へと、一人で足を踏み入れていくのだった。
国際魔法法廷の重厚な扉が開かれる数分前、傍聴席に続く廊下では、各国から集まった魔法界の要人たちが低い声で言葉を交わしていた。
その中で、一際苛立ちを隠せない様子で話していたのは、イギリス魔法大臣とドイツ魔法大臣だった。
「まったく、フランス魔法省の対応には呆れるばかりだよ!」
イギリス魔法大臣、コーネリウス・ファッジは、忌々しげに顔を歪めた。その声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。
「アントワーヌ・ド・ポッターを野放しにし、挙句の果てにはあの悪名高い『闇の魔法使い』を新聞の一面に飾らせるなど…彼らが一体何を考えているのか、私には理解できないね!」
ドイツ魔法大臣のフリッツ・シュトローブルは、深く頷いた。彼の表情には、長年のアントワーヌへの警戒と不満が刻まれている。
「ファッジ大臣の仰る通りです。フランスの魔法大臣には、ことアントワーヌに関しては一貫して煮え切らない態度が見られます。今回の件も、彼らが適切に対処していれば、国際問題に発展することはなかったはずだ。奴は我々ドイツ魔法省の厄介者だった。あの『禁忌魔術』の疑惑も、奴らがもっと早くから厳しく監視していれば…!」
「奴らフランスは、いつもそうだ。自分たちの領地で何が起ころうと、ろくに手も出さず、問題が他国に波及してからようやく重い腰を上げる。今回も、あの"ハリー・ポッター"が関わっていなければ、この法廷で裁かれることさえなかったかもしれない」
ファッジ大臣は皮肉たっぷりに吐き捨てた。
「彼らの魔法大臣など、アントワーヌの昔馴染みだとか何とか…そんな個人的な関係で、国際的な秩序を乱す者を黙認しているとしか思えないね」
シュトローブル大臣も苛立ちを滲ませて答えた。
「彼らの言う『フランス流の柔軟性』とやらは、国際的な責任を放棄しているに等しい。グリンデルバルドの時代から何も変わっていない。奴らがしっかりと統制していれば、今回の事態は避けられたはずです。全く、呆れてものが言えん!」
二人の大臣は、フランス魔法省への不満をぶちまけ、互いに顔を見合わせて深くため息をついた。彼らの間には、フランス魔法界に対する根深い不信感が漂っていた。
一方、法廷内部では、裁判官たちが各自の席に着く前に、軽い会話を交わしていた。
裁判官席の中央に座るのは、イギリス魔法省国際魔法協力局局長、バーテミウス・クラウチ・シニアだ。彼の表情は厳格で、その瞳には法と秩序への揺るぎない信念が宿っている。彼は懐中時計を取り出し、開廷までの残り時間を厳密に確認していた。
「全く、開廷前からこれほど物議を醸すとはな。アントワーヌ・ド・ポッターめ…」
クラウチは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで呟いた。
その隣では、ブルガリア代表の裁判官が、身震いするように答えた。
「まさか、拘束を自力で解いて現れるとは…彼の魔力は、噂以上に底知れませんな」
ドイツ代表の裁判官は、顔をしかめた。
「当然だろう。奴は、あのゲラート・グリンデルバルドですら完全には制御しきれなかった男。我々ドイツ魔法省も、長年奴の存在には頭を悩ませてきた。今回の訴えも、その危険性を再認識させるものだ」
オランダ代表の裁判官が、眼鏡を押し上げた。
「しかし、未成年魔法使いの誘拐とは、穏やかではありません。特にあのハリー・ポッターとなれば、国際的な影響も大きい」
その言葉に、フランス代表の裁判官が、わずかに顔を強張らせた。彼は肩身が狭い思いで、声を絞り出す。
「しかし…我々フランス魔法省としては、アントワーヌ卿は今回の件に関して、悪意があったわけではないと…」
「悪意があろうがなかろうが、事実は事実だ」
イタリア代表の裁判官が、低い声で遮った。
「禁忌魔術の研究疑惑まであるのだ。彼は危険な存在だという認識は、我々欧州各国で共有されている」
リヒテンシュタイン代表の裁判官は、不安げに唇を噛んだ。
「あの…彼は本当に、あの『メフィストフェレス』なのですね? あの、世界魔法大戦の…」
ノルウェー代表の裁判官が、重々しく言った。
「疑いの余地はない。彼の存在は、魔法界の均衡を揺るがしかねない。厳正な裁きを下さねば」
スウェーデン代表の裁判官も頷いた。
「国際魔法使い連盟の権威を示すためにも、今回の法廷は極めて重要だ」
そして、オーストリア代表の裁判官が、静かに付け加えた。
「そして、彼の存在が、今後どのような影響を及ぼすか…その見極めも」
法廷内には、アントワーヌ・ド・ポッターという一人の魔法使いがもたらす波紋の大きさと、それに対する各国魔法界の警戒と困惑が、重苦しい空気となって漂っていた。バーテミウス・クラウチ・シニアは、再び懐中時計に目をやり、カチリと音を立てて閉じた。開廷の時が、刻一刻と迫っていた。
国際魔法法廷の開廷を待つ前室は、重苦しい空気に満ちていた。その中で、アントワーヌ・ド・ポッターは、まるで自宅の書斎にでもいるかのように、悠然とソファに腰掛け、広げた『タイム』紙に目を落としていた。
彼の傍らには、先ほどまで彼を護送してきた法務官たちが、緊張した面持ちで立っている。彼らは、アントワーヌのあまりにも落ち着き払った態度に、困惑と警戒の視線を向けていた。
「どういう神経をしてるんだ、あの男は?」
一人の法務官が、隣の同僚に聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。その声には、アントワーヌへの苛立ちと、理解不能なものへの恐れが混じっている。
「わからん…何を考えているのか」
もう一人の法務官が、深いため息をついた。彼らの間には、アントワーヌという存在が放つ異質なオーラに、どう対処していいか分からないという動揺が広がっていた。
「弁護人をつけないそうじゃないか」
「らしいな。奴が弁護されるのを拒否したらしい」
彼らのコソコソ話は、アントワーヌの耳には届いていないようだった。彼は新聞のページをゆっくりとめくり、時折、記事の内容に微かな笑みを浮かべたり、眉をひそめたりしている。
まるで、これから自分を裁こうとする法廷のことなど、全く意に介していないかのようだった。その不遜な態度が、法務官たちの神経を逆撫でする。
前室の時計が、開廷の時刻を告げる。重厚な扉の向こうから、法廷の係官がアントワーヌを呼ぶ声が響いた。
アントワーヌは、ゆっくりと新聞をたたみ、ソファから立ち上がった。その動きには、一切の焦りも、怯えもない。彼は、まるでこれから舞台に上がる役者のように、堂々とした足取りで、法廷へと続く扉へと向かった。
法務官たちは、彼が逃げ出すそぶりを見せないことに安堵しつつも、その底知れない自信に、ただ立ち尽くすしかなかった。
法廷の重厚な扉が開き、二人の法務官に挟まれたアントワーヌ・ド・ポッターが姿を現すと、傍聴席はもとより、裁判官席からも抑えきれないざわめきが起こった。
しかし、それはアントワーヌが拘束されているという事実に対する驚きではなかった。彼の纏う堂々たるオーラ、そして微かに笑みを湛えたその表情は、まるで自分が被告席ではなく、凱旋パレードの主役であるかのように見えたからだ。
鎖に繋がれた両手は、彼の優雅な立ち振る舞いを僅かに阻害するだけで、その威圧感を損なうことはなかった。裁判官たちは、信じられないといった面持ちで、その異様な光景を見つめていた。
アントワーヌは、ざわめきなどまるで聞こえていないかのように、ゆっくりと被告席へと歩を進めた。
そして、そこに腰を下ろすなり、何をするかと思えば、ふいに指を鳴らしたのだ。
パチン、と乾いた音が静かな法廷に響くと、次の瞬間、アントワーヌの手のひらに、磨き上げられた銀色の細身のシガレットケースが、まるで幻のように出現した。
彼はそれを優雅に開き、中から一本のシガレット――ソブラニーカクテルを取り出し、ゆっくりと口元に運ぶ。
そして、指をもう一度、パチリと鳴らす。
その瞬間、法廷の壁にかけられていた古めかしい蝋燭台の炎が、まるで意志を持つかのように、勢いよくアントワーヌ目掛けて一直線に飛び出した。
炎はシガレットの先端に触れると、小さな火花を散らし、煙がゆらりと立ち上る。
アントワーヌは深く息を吸い込み、芳醇な煙をゆっくりと、そして実に美味そうに吐き出した。
その間、法廷内は完全に静まり返り、ただ彼の吐き出す煙だけが、重苦しい空気の中に漂っていた。
裁判長であるバーテミウス・クラウチ・シニアは、開いた口が塞がらないといった様子で、その一連の信じがたい光景を呆然と見つめていた。彼の顔には、怒り、困惑、そして何よりも、この男が一体何を企んでいるのかという深い疑念が浮かび上がっていた。
アントワーヌ・ド・ポッターは、まるでこの法廷を、自身の舞台であるかのように振る舞っていた。
アントワーヌは、まるでクラウチの困惑を楽しんでいるかのように、愉快げに口元を歪めた。
そして、吸いかけのソブラニーカクテルを指で挟んだまま、ちらりとクラウチ・シニアの後ろにある、巨大な天秤のオブジェに目を向けた。
その両天秤の皿には、常に揺らめく魔法の炎が灯されており、法廷の公正さを象徴していた。
「失礼、ここは禁煙だったかな?」
アントワーヌは、わざとらしく小首を傾げた。
そして、その視線で議長の後ろの天秤の皿で燃え盛る魔法の炎を指し示した。
「いやまぁ、大丈夫か。あんなに燃えているものがあるしね」
彼の声には、嘲弄と、そしてこの場を完全に掌握しているかのような自信が満ちていた。
法廷の厳粛な雰囲気は、アントワーヌの一言によって、一瞬にして彼の舞台へと変貌したかのようだった。
その瞬間、バーテミウス・クラウチ・シニアの顔が、怒りで真っ赤に染まった。彼は大きく開いた口を震わせ、ついに堪忍袋の緒が切れたかのように、激昂した声で叫んだ。
「貴様、神聖な法廷をなんだと…!」
クラウチの怒声が轟く中、アントワーヌは涼しい顔で、ゆっくりと煙を吐き出した。そして、まるで呆れたかのように、彼の言葉を遮った。
「神聖な場? 驚いたね。ここはスペイン宗教裁判の真似じゃないのかい? それじゃあ、ここは人民法廷か、革命裁判所かなにかかな? 誰か私に拷問でもして罪を認めさせるかい?」
彼の言葉は、法廷に集まった者たちの心に、冷たい嘲笑と深い皮肉となって突き刺さった。
その目は、裁判官たちの奥底に潜む偽善を見透かすかのように、鋭く光っていた。
クラウチが怒りに顔を紅潮させる中、彼の隣に座る裁判官席の一人が、木槌を叩いた。
「静粛に! これより、国際魔法法廷を、開廷する!」
その声が法廷に響き渡ると、場内はぴたりと静まり返った。
法務官の一人が、巻物を広げ、厳かに罪状を読み上げ始めた。
「アントワーヌ・ド・ポッター。貴殿は、
罪状の読み上げが終わると、法務官がクラウチに視線を送った。クラウチは、アントワーヌを睨みつけ、厳しく言い放った。
「アントワーヌ・ド・ポッター、貴様の行動は“選択肢”などではなく“煽動”であり、各国秩序への挑戦だ!」
その言葉を皮切りに、各国代表の裁判官たちが口々にアントワーヌを非難し始めた。
「我々はこの男を過去に監視しきれなかったが、いまその責任を再び押し付けられる理由はない!」
「アントワーヌ、君の“古代魔法研究”が危険領域に踏み込んでいると、我々は判断している。“魂の定着”や“時間操作”について…!これは……!」
非難の嵐を浴びながら、アントワーヌは顔色一つ変えない。
むしろ、その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。各国代表の怒りを一身に受けながら、彼はゆっくりと、しかし確固たる声で反論した。
「では、問います。あなた方の国々は“子供を兵器にすること”は合法なのか?」
その言葉に、傍聴席はざわつき、裁判官席にも動揺が走った。アントワーヌは、その動揺を見透かすように、視線を法廷全体へと向けた。
「ハリー・ポッターの未来を奪おうとしたのは、私か? それとも“彼に定められた役割を強制しようとした大人たち”では?」
クラウチ・シニアは、アントワーヌの挑発的な言葉に怒りを覚えつつも、冷静さを保とうと努めた。
「貴殿は、出頭には応じた。よって、次の審問では、“少年の意思”も問う。彼が望むならば、貴殿との同行も正式に認める可能性がある」
クラウチの言葉に対し、アントワーヌは静かに、しかし挑発的な視線を向けた。
「ハリーをこのような場に連れてくる必要が本当にあるのかい? ただの君達の独りよがりの為のこの場に?」
彼の言葉には、この法廷そのものの存在意義を問うような響きがあった。
アントワーヌは円の中央に静かに立ち、周囲から放たれる非難と警戒の視線を一手に受けていた。
「アントワーヌ・ド・ポッター、あなたは英国魔法界の大切な未来を――希望を勝手に国外に持ち出した! ハリー・ポッターは“選ばれた子”であり、その存在は……!」
イギリス代表の裁判官の言葉が響く。その瞬間、アントワーヌの眼差しが一変した。彼の瞳の奥で何かが弾けたように、それまでの静けさは、内なる激しい怒りへと変わった。
「――作られた英雄なぞ、必要ないだろう」
アントワーヌの声が、低く響いた。彼は、煙をゆっくりと吐き出しながら、さらに言葉を続けた。
「それでは英雄ではない! 生贄なのだ!」
アントワーヌは、その言葉を待っていたかのように、激しい口調で問い詰めた。
「諸君らの言う『選ばれた子』とは何だ? わずか一歳で親を失い、忌まわしき闇の魔法の痕を残され、ろくな庇護もないままマグルの家庭に押し込められ――それでも、そんな彼に“国の期待”を背負わせるつもりか!」
アントワーヌの言葉は、まるで真実の剣となって、法廷の偽善を切り裂いていく。
「貴国らはそれを理解なされているのか?」
フランス代表の裁判官は、目を伏せた。ドイツ代表が、手元の書類に目を通しながら息を呑む姿が見て取れた。
「私は断じて認めぬ。あの幼子に一国の期待を任せるなぞという狂気を、私は!どの国であろうと認めるつもりはない!」
アントワーヌの声は、もはや怒りを通り越し、確固たる信念に満ちていた。
「もしそれを国家の正義と呼ぶのならば、魔法界こそが“闇”であると証明しているに等しい。私が守っているのは、未来ではない。たった一人の“子供の尊厳”なのだ!」
沈黙した場内にアントワーヌの言葉が、法廷全体に重く響き渡った。
各国の代表の一部が、互いに視線を交わす。なかには、顔を伏せる者、手を震わせる者もいる。誰もが、アントワーヌの言葉が持つ真実の重みに、反論の言葉を見つけられずにいた。
そのとき、中央の裁判席にいる議長が静かに宣言する。
「……アントワーヌ・ド・ポッター。君の声明は、いまここに記録された。次なる審問において、少年本人の意思を問う場が設けられる。その際、彼の発言は“いかなる政治的立場からも干渉されず、記録され、尊重される”」
アントワーヌは、わずかに頷いた。その視線の先には、法廷の扉が開き、フードをかぶったアルバス・ダンブルドアの姿が、ゆるやかに入廷してきた。稀代の英雄の登場に傍聴席も裁判官側からも動揺の声が聞こえていた。アントワーヌ・ド・ポッターは、それを気にせず一点を見据えて立っていた。
正面に、ローブ姿のアルバス・ダンブルドアが立つ。その表情は、いつものように穏やかだが、どこか深い憂いを帯びているようだった。
「アントワーヌ・ド・ポッター氏に質問です。少年――ハリー・ポッターの存在には、英国魔法界の未来に関する“預言”がある。これはダンブルドア氏の証言により…」
ダンブルドアは、その質問をアントワーヌに投げかけた。しかし、アントワーヌは、静かに、しかし吐き捨てるように言った。
「預言? 預言だと?――戯けたことを」
その言葉に、再び場内がざわつく。アントワーヌの表情は、怒りで歪んでいた。
「その預言とやらで!ひとりの子供の人生を決めつける権利が、どこの世界に存在するというのだ!」
彼の声は、法廷の壁を震わせるほどだった。
「決めつけるな! 押し付けるな! 求めるな! 彼の未来は、彼のものだ。貴様らの望む“救世主”などではない!」
その声に呼応するように、床の魔法陣がわずかに脈動し始める。アントワーヌの魔力が、怒りに震えているのだ。
「私を“戦争犯罪人”と呼び、かつての“グリンデルバルドの副官”と呼ぶ貴様らに問おう」
アントワーヌは指を伸ばす。その先には、欧州の代表国の裁判官たちや傍聴席の人々がいた。
「――彼が現れた時、静観したのはどこの誰だった?
アントワーヌの視線が、鋭くダンブルドアに向けられた。
「アルバス」
彼の声が、かつてないほど低くなった。
「貴様も止めたければ、“血の誓い”とやらは…すぐに外せたはずだ。それをせず、貴様は“傍観”した。若きニュート・スキャマンダーなどという未熟者を差し向けた!」
アントワーヌの言葉は、ダンブルドアの過去の行動を抉り出すようだった。
「何が“魔法界の良心”だ。何が、英雄だ! 何が“未来への導き手”だ。貴様は神にでもなったつもりか? アルバス・ダンブルドア!
その言葉にダンブルドアは目を見開き、一瞬、深い動揺がその顔をよぎった。彼はゆっくりと目線を落とし、まるで自らの内面を見つめるかのように沈黙した。(やぁ、アルバス! どうしたんだい! アルバス!)――遠い昔の、今は行方知れずとなった
その間も、アントワーヌの魔力は激しさを増し、法廷の空気を文字通り震わせ続けた。
アントワーヌの言葉が、魔法法廷全体に衝撃を与えた。彼の放つ圧倒的な魔力が、法廷の空気を文字通り震わせる。
アントワーヌは一歩、前に出る。彼の表情は、苦痛と怒り、そして深い諦念が入り混じっていた。
「私は、第一次世界大戦に従軍した。若き頃、杖を剣に、魔法を銃火に変えた。塹壕の死臭、化学兵器、死体の山――人が獣になる瞬間を、この目で見た」
彼の視線は、遠い過去を見据えているかのようだった。
「そして、第二次大戦。あの頃、私は魔法界とマグル界の境界を越えて、いくつもの計画に関わった。……原子の力が悪魔を生む瞬間を見た。オッペンハイマーやフォン・ブラウン…あれらの“英雄”たちが作り出した悪魔を…な」
原子爆弾の記憶が脳裏をよぎったのか、アントワーヌは眉間に深い皺を寄せながら、そう言った。
「それらと同じ立場に、君たちはハリーを据えるというのか? ひとりの幼子に、未来を、“国の期待”を、“戦いの象徴”を――!」
アントワーヌの叫びが、法廷中に響き渡る。その声には、過去の絶望と、未来への深い絶望が込められていた。
「――ふざけるなぁあああああ!!!」
次の瞬間、法廷の魔力障壁が炸裂した。アントワーヌを中心に半球状に魔力の波が広がり、大理石の床に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。席に座る裁判官の一部がバランスを崩し、慌てて魔力制御を強化する。傍聴席からは、恐怖と驚きの声が漏れた。
ダンブルドアだけが、その場で静かに立っていた。しかし、彼の目の奥には、アントワーヌの激しい感情に呼応するかのように、かすかに光る“涙”があった。
ダンブルドアはそれを見て、静かに、しかし深い悲しみを込めて言った。
「アントワーヌ。君は変わらんな。じゃが、もし君が“少年の未来”を思うのならば……どうか、彼自身に、“問い”を返してやってくれんか」
アントワーヌは、ダンブルドアの言葉に沈黙した。魔力の波は徐々に静まり、彼のローブがふわりと揺れる。
「その問いに、彼が答えられるようになるまで、私は、どこへだって彼を連れて行く。そして、“選ばせる”――この世界のどこを歩くのかを」
その言葉は、アントワーヌのハリーへの揺るぎない決意を示していた。
アントワーヌの返答に、クラウチ・シニアは慌てたように木槌を手に取った。
「……次なる期日を改めて設ける。アントワーヌ・ド・ポッター、およびハリー・ポッターの出廷は、任意にて行われるものとする!」
彼は混乱と焦りの中で、閉廷を宣言した。
法廷は閉廷したものの、議場には興奮と動揺が渦巻いていた。
裁判官たちはアントワーヌが去った後も、彼のパフォーマンスと発言の余波に戸惑いを隠せずにいた。
バーテミウス・クラウチ・シニアは、怒りに顔を紅潮させながらも、どこか呆然とした様子でアントワーヌが去った扉を見つめていた。
その瞬間、法廷の中央、アントワーヌが座っていた被告席の足元に、一人の男が唐突に、無造作に放り出された。
ドサリ、という鈍い音が響き、裁判官や法務官たちが一斉にそちらを向く。
男は、全身が鎖で拘束され、顔は腫れ上がり、口からは泡を吹いている。見るも無残な姿の、紛れもないアルビオン・ディクソンだった。
彼の顔には、真実薬によって彼が語った罪の数々が記された羊皮紙が貼り付けられていた。
「なっ……!?」
イギリス魔法省の面々、特にクラウチ・シニアは、驚愕に目を見開いた。閉廷のこの瞬間に、何の断りもなく法廷の真ん中に転送してくるなどとは、誰一人として想像していなかったのだ。
クラウチは、倒れ伏した男の苦痛に歪んだ顔を凝視した。その見覚えのある、しかし以前よりもずっと憔悴した風貌、そして何よりも、左腕に刻まれた黒い烙印――それは紛れもなく、闇の帝王の忠実な僕、『死喰人』の証だった。
クラウチは激しく動揺しながらも、何とか声を絞り出した。
「アントワーヌ・ド・ポッター! 貴様、何を……!」
しかし、彼の言葉は、もはや遠ざかるアントワーヌの静かで、しかしはっきりと聞こえる声にかき消された。その声は、すでに回廊の奥深くから響いてくるようだった。
「私の代わりに彼を裁くといいよ、叩けば叩くほどにホコリが出ることだろう」
アントワーヌの言葉が、嘲笑めいた響きとともに法廷にこだまする。
クラウチ・シニアは、倒れ伏したアルビオンと、開かれた扉の向こうに消えゆくアントワーヌの影を交互に見つめ、その不遜な振る舞いに、悔しさに顔を歪ませた。アントワーヌは、最後の最後まで彼らを掌で転がし、自らの意思を貫いたのだった。
法廷は再びざわめきに包まれた。
ドイツ代表の裁判官が口を開いた。
「彼がアントワーヌ・ド・ポッターによって拘束され、この場に引き渡された経緯を考慮すれば、国際的な枠組みで取り扱うべきと考えます。今回の件は、アントワーヌ・ド・ポッターの危険性を明確にしたと同時に、ヴォルデモートの残党が未だ活発である証拠でもある。国際的な連携強化のためにも、この法廷で裁くべきでしょう」
これに対し、イギリス代表の裁判官が反論した。
「しかし、アルビオン・ディクソンはイギリスの市民であり、彼の犯罪は主としてイギリス魔法界の秩序に対するものだ。我々イギリス魔法省には、彼を裁き、処遇を決定する正当な権利と責任がある。特に闇の帝王ヴォルデモートに関わる事件であれば、その情報の秘匿性も考慮する必要がある」
クラウチ・シニアは腕を組み、深く考え込んでいた。国際魔法法廷で裁けば、アントワーヌが引き起こした混乱をある程度収拾できる可能性がある。
しかし、イギリス魔法省に引き渡せば、ヴォルデモートの復活に関する情報を厳重に管理し、これ以上の混乱を防ぐことができる。どちらの選択にも、一長一短があった。
彼は一呼吸置き、重々しい声で最終的な決定を下した。
「アルビオン・ディクソンは、イギリス魔法省に引き渡す。彼に関する全ての情報、そしてヴォルデモートの残党に関する調査は、イギリス魔法省が責任を持って行うものとする」
クラウチ・シニアの目は、遠く、アントワーヌが去っていった扉の方向を見つめていた。彼の胸中には、アントワーヌへの苛立ちと、彼が提起した「子供の尊厳」という問いが、複雑に絡み合っていた。
アルビオンの処遇は決まったが、この一件が魔法界に落とした波紋は、決して小さくなかった。
その喧騒を背後に、アルバス・ダンブルドアは法廷の中央に静かに立っていた。彼の目は、アントワーヌが消え去った回廊の奥へと向けられている。アントワーヌの先程の発言で、今は行方知れずとなった先輩、ジェイミー・リンドールを思い出したのだ。
(やぁ、アルバス!どうしたんだい!アルバス!)
若き日の…あの屈託ない声が、確かに聞こえたかのような気がした。彼の胸中は、遠い昔の記憶が呼び起こされ、微かに痛むかのようだった。
静かに、しかし決然とした表情で、ダンブルドアはゆっくりと杖を上げた。法廷に残された空気中の魔力が、彼の杖の先に吸い込まれていく。そして、次の瞬間、彼は煙のようにスッとその場から姿を消した。
緊迫した審問を終えたアントワーヌ・ド・ポッターは、国際魔法法廷の石造りの回廊を、ゆったりとした足取りで歩いていた。
返却してもらった黒壇の杖を触りつつ、彼の肩には、重厚な黒いロングコートが静かに揺れ、その足音だけが、ひっそりと石畳に響く。
回廊の先に現れた重い扉の向こうからは、既に爆発するようなフラッシュの光と、騒がしい人々のざわめきが漏れ聞こえていた。
扉が開かれると、そこには魔法界の各国新聞社、例えば『日刊預言者新聞』『日刊魔導日報』『預言者の神託新報』『スラブ魔導通訊』など、大小さまざまな記者たちがひしめき合っていた。彼らは皆、アントワーヌの姿を捉えようと、一斉にカメラを構え、声を張り上げた。
「アントワーヌ氏!今回の裁判の感想を――!」
「ハリー・ポッターとの関係を明らかに!」
「ダンブルドア氏への批判は国際法違反では?」
「MACUSAはあなたを要注意人物に指定したと報じられていますが――!」
怒号のような質問が飛び交い、フラッシュが絶え間なく瞬く。しかし、アントワーヌは、その騒乱をまるで意に介さない。彼は、ただ右手の指を一本静かに降ろしただけだった。
すると――
まるで無音の波が広がったかのように、押し合いへし合いしていた人混みが、左右に大きく割れた。記者たちは、魔法的な力でも物理的な衝撃でもない、不可解な力によって“道”を開かされる。誰も叫び声を上げず、誰も前に踏み出すことができない。ただ、カメラのフラッシュだけが、彼の特徴的な銀髪を白く照らし続けていた。
アントワーヌはその道の真ん中で立ち止まると、記者たちを静かに一瞥した。彼の顔には、怒りも、誇りも、勝利の感情も一切ない。ただ、どこか遠い過去の戦場を見つめるかのような、深く、灰色のまなざしが宿っていた。
そして――
彼の口元にかすかな笑みが浮かび、静かに言葉を紡いだ。
「―
フランス語で、“御機嫌よう”。その一言だけを残し、アントワーヌは記者たちの作った道を、迷いなく歩いていった。
誰も、彼に声をかけることができなかった。その場にいた者たちの目に映るのは、異端者でも、罪人でもない。目の前を通り過ぎるその男は――まるで、数多の戦場から、ただ一人帰還した英雄のようだった。
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