次から賢者の石に入ります
影山の憎悪に満ちた叫びが校舎の広間に響き渡り、アントワーヌの脳裏に過去の悪夢がよぎる中、彼の左腕からは鮮血が再び滴り落ちていた。傷は深く、仕立ての良いスーツは血で赤く染まっている。しかし、彼の表情は困惑と不快感に歪んではいたが、痛みで顔をしかめることはなかった。
周囲のマホウトコロの生徒や教師たちは、事の成り行きを呆然と見守っていた。彼らの多くは、突然の襲撃と、その中心にいる「アントワーヌ・ド・ポッター」という名に戸惑いを隠せない。
アントワーヌは腕を押さえていた手をゆっくりと離すと、まるで何もなかったかのように、懐から一つの魔導具を取り出した。それは、アントワーヌがいつも持ち歩いている懐中時計だった。彼の指が滑らかに時計の蓋を開けると、中の文字盤が妖しい光を放ち始める。
田中副校長は、アントワーヌのその動きを凝視していた。彼の顔には、この男が次に何をするのか、そしてそれがどのような魔法なのかという、深い興味と警戒が入り混じっていた。
アントワーヌは懐中時計を左腕の傷口にかざし、静かに目を閉じた。彼の唇が微かに動き、古めかしい呪文が紡ぎ出される。それは、時を操る、禁忌にも近い魔法の詠唱だった。
時が、逆行する。
ハリーの目には、信じられない光景が広がった。アントワーヌの腕から滲み出ていた血が、まるで逆再生されるかのように皮膚へと吸い込まれていく。スーツの裂け目も、切り落とされていた腕も瞬く間に元通りに繋がっていくのが見えた。そして、深々と刻まれていた刀傷が、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消え去ったのだ。
数秒後、アントワーヌが目を開けた時には、彼の腕には傷一つなく、スーツも完璧な状態に戻っていた。まるで、彼が斬りつけられる前の瞬間に、時間そのものが巻き戻されたかのようだった。
その光景を目撃したマホウトコロの人々から、どよめきが起こった。彼らは目を大きく見開き、信じられないものを見るかのようにアントワーヌを見つめる。彼らの知る治癒魔法とは、あまりにもかけ離れた、理解不能な領域の魔法だったのだ。彼らの間には、驚愕と、そして深い畏怖の念が広がっていった。
アントワーヌは、まるで当然のことであるかのように、懐中時計を静かに懐に収めた。そして、片方の口角をわずかに上げると、嘲るような、しかしどこか飄々とした声音で言った。
「何、仕立てたスーツが斬られたままなのが嫌なのでね…これはお気に入りなんだ」
彼の右手がゆっくりと動き、鼻梁にかけたモノクルをクイッと押し上げた。その視線は、憎悪に燃える影山の目に真っ直ぐに向けられた。一瞬の、氷のような静寂。彼の瞳は、先ほどの困惑の色を完全に消し去り、底知れぬ冷静さと、一切の隙を見せない鋭さに満ちていた。その眼差しは、言葉を発することなく、影山に問いかけている。
「さあ、説明してもらおうか。この『アントワーヌ・ド・ポッター』とやらが、一体何をしたのかを」
アントワーヌの静かな声が、広間に重く響き渡った。この場を支配していたのは、もはや影山の憎悪でも、マホウトコロの人々の驚愕でもない。ただ、アントワーヌ・ド・ポッターの放つ、圧倒的な存在感だった。
アントワーヌの静かな問いかけは、影山の憎悪に満ちた心をかき乱した。その瞳の底には、恐怖と、何よりも彼自身への葛藤が渦巻いている。彼は言葉を発することなく、ただ震える拳を握りしめていた。
「影山君、いい加減にしなさい。状況を説明しなさい」
田中副校長の声が響き、影山はようやく顔を上げた。その目に宿る狂気は薄れ、代わりに深い苦悩が浮かんでいる。彼は絞り出すように、途切れ途切れに語り始めた。
「アントワーヌ・ド・ポッター……わいのじい様が、その名を幾度となく口にしちょったそうで。じい様は……グリンデルバルドの思想に賛同し、終戦間際に、ロシアのウラジオストクから“魔導爆弾”を日本へ持ち込む作戦に加わっちょったそうじゃ」
影山の告白に、マホウトコロの生徒や教師たちは驚愕の声を上げた。日本魔法界の歴史に、そのような重大な秘密が隠されていたとは誰も知らなかった。
「そして、じい様はあの作戦を“最後の務め”と呼んじょったらしい。しかし、おいは、その爆弾の行方を誰にも明かさんまま、もう一つの爆弾の爆発事故で死んでしもうた。わいは、その爆弾が日本のどこかに隠されちょるんじゃなかと、じい様の遺品から手がかりを探し続けちょったのです」
影山は悔しそうに顔を歪めた。
「アントワーヌ・ド・ポッター……貴殿が、その爆弾を開発した張本人じゃと、じい様の遺しちょった日記に記されちょった。じゃっで、わいは……」
影山の告白は、広間を支配していた緊張を一気に解き放った。アントワーヌは、静かに頷くと、田中副校長に視線を向けた。
「田中副校長、
田中副校長は、迷うことなく頷いた。彼の顔には、アントワーヌの提供した情報と、自国の安全を守るという使命感が交錯していた。彼は、アントワーヌとハリーを校舎の奥へと案内し、厳重に管理された書庫へ導いた。
書庫の奥にある、古びた資料を広げた彼らの目に飛び込んできたのは、驚くべき情報だった。影山の祖父は、魔導爆弾を隠す場所として、日本の中心であり、かつては軍事的な要衝でもあった国会議事堂を選んでいた。
「ここだ……この屋根の内部に隠されている」
資料を読み解いたアントワーヌが、静かに呟いた。国会議事堂の屋根は、当時、マグルにも知られていない魔法的な技術が一部に用いられていた。そこに魔導爆弾を隠すことは、グリンデルバルド派の隠匿技術と日本の魔法建築術が融合した、極めて巧妙な計画だったのだ。
国会議事堂の屋根の内部。その情報を得たアントワーヌは、田中副校長に協力を求め、即座に現場へと向かうことを決めた。マホウトコロから、アントワーヌ、ハリー、そして田中副校長の三人は姿をくらまし、東京の国会議事堂上空に現れた。
夜の闇に紛れ、彼らは警備の魔法使いに悟られぬよう、議事堂の屋根へと静かに降り立った。アントワーヌは懐中時計を取り出し、慎重に魔法を感知する。やがて、彼は一つの屋根石の前に立ち止まった。
「ここだ」
アントワーヌが指先で触れると、屋根石は音もなく開いた。その奥には、複雑な魔法陣が描かれた空間が広がっている。空間の中央には、禍々しい輝きを放つ球体が鎮座していた。それが、影山の祖父が命をかけて守り、そして世界を破滅に導きかねない魔導爆弾だった。
田中副校長が思わず杖を構えたその時、アントワーヌは静かに彼を制した。
「
アントワーヌは爆弾に近づき、懐から小さな魔導具を取り出した。それは、彼の懐中時計と対になるように設計された、小型の装置だった。彼はそれを爆弾にそっとかざし、再び無言で呪文を唱え始める。時を逆行させる魔法とは異なる、より複雑で、細心の注意を要する詠唱だった。
数分後、魔導爆弾の禍々しい輝きが徐々に失われ、やがて鈍い光を放つただの金属球と化した。アントワーヌは大きく息を吐き、安堵の表情を見せた。
「無力化に成功した。
田中副校長は、アントワーヌの卓越した魔法の才能に、ただ感嘆の表情を浮かべるしかなかった。彼は、アントワーヌの危険性と、その彼が持つ並外れた力が、人類の脅威となり得る一方で、救いともなり得ることを痛感した。
任務を終え、アントワーヌ、ハリー、そして田中副校長は再びマホウトコロへと戻った。田中副校長は、アントワーヌが差し出した機密文書と美術品を前に、深々と頭を下げた。
「アントワーヌ・ド・ポッター殿。この度の多大なるご協力、感謝いたします。日本魔法界を代表し、心より御礼申し上げます」
アントワーヌは、その言葉に小さく頷くと、ふっとハリーに視線を向けた。
「厄介事に巻き込んで済まなかったね、ハリー」
「別にいいよ、おじさん」
そう、ハリーがアントワーヌに軽口を叩いていると
アントワーヌとハリーは、田中副校長に別れを告げた。その時、校長室の窓に一羽のフクロウが舞い降りてきた。そのフクロウは、英国魔法省の紋章が入った厳重な封筒を携えていた。
アントワーヌは、顔をしかめて封筒を受け取ると、素早く中身に目を通した。彼の表情は、一瞬にして険しくなる。
「
深い溜息をついたアントワーヌは、田中副校長に「失礼」と一言告げると、ハリーと共にマホウトコロの校舎を出た。彼の脳裏には、先ほど受け取った英国魔法省からの出頭命令の内容がこだましていた。それは、グリンデルバルド派の残党に関する報告を直ちに行うこと、そして一連の任務の終了に伴い、今後の身柄についての審議が行われるという、穏やかではない内容だった。
二人が校庭に降り立つと、そこには一台のトヨタ センチュリーが静かに待機していた。マグルには決して見えないように、強力な隠蔽魔法が施された、日本の最高級車だ。その重厚でクラシックな外観は、アントワーヌの持つ懐中時計にも通じる、控えめながらも本物の品格を放っていた。
車に乗り込む前、アントワーヌは立ち止まると、ハリーの肩に手を置き、その瞳をじっと見つめて尋ねた。
「さて、この一連の任務を終えて、君の進むべき道は決まったかい? 何処の学校に行きたい?」
ハリーは、アントワーヌの問いに、遠くを見つめるように目を細めた。この数ヶ月、彼はアントワーヌと共に世界中の魔法学校を訪れ、その多様な文化や魔法の形に触れてきた。マホウトコロの荘厳さ、そしてそこで学ぶ生徒たちの生き生きとした姿は、彼の心に深く刻まれていた。しかし、彼の心には、決して揺らぐことのない一つの場所があった。
「色々…見てきたけど…」
ハリーは、ゆっくりと、しかし確信に満ちた声で答えた。
「やっぱり僕…ホグワーツに通いたい…父さんと同じ所で学びたい」
ハグワーツは、ハリーにとって特別な意味を持つ場所だった。両親が学んだ場所であり、彼のルーツに深く根ざしている場所。
ハリーの答えを聞いたアントワーヌは、目を見開いた。
その顔には、驚きと、そしてどこか懐かしむような感情が浮かんでいる。彼は、ハリーが自分のルーツに誇りを持ち、その道を歩むことを選んだことに、深い喜びを感じた。
「それが君が選んだ道なのなら、私は応援するよ、ハリー」
アントワーヌは、ハリーの肩を力強く叩くと、そう告げた。その言葉には、これまでのような皮肉や嘲りではなく、純粋な愛情と、彼の決意を尊重する気持ちが込められていた。
二人は車に乗り込んだ。トヨタ センチュリーは、魔法で音もなく空へと舞い上がり、遥か大西洋を越え、故郷イギリスの地へと向かう。ハリーの心は、これから始まるホグワーツでの新たな生活への期待で満ちていた。そして、アントワーヌの隣で、彼の旅は新たな章へと進んでいく。
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