ピンと張りつめられた空気が切れ、まどかは思い出したように言った。
「あっあの…この子、怪我してるんです!」
白くて小さいその生き物――キュゥべえは、血のような赤い液体を体から流しながら、ぴくりとも動かない。
「大丈夫よ」
マミは微笑んだまま、その場にしゃがみ込む。
スカートが汚れるのも気にせず、キュゥべえの体にそっと手を添える。
「少し痛いかもしれないけど、我慢してね……」
彼女の指先が、微かに金色に光る。
その光が、キュゥべえの傷に吸い込まれるように流れていった。
次の瞬間、キュゥべえの体がふっと浮かび、リボンのような金の糸が包み込む。
糸はまるで繭のようにキュゥべえの体を優しく包み込み、そのまま空中で静かに“修復”を始めた。
「……魔力を流してるの」
マミは言った。
「この子には、私たちとは違う仕組みがあるけれど……回復は可能よ」
まどかとさやかは、ただ呆然とその光景を見ていた。
「巴さん……今のって……」
「マミでいいわよ」
ふっと笑う。
「そう、私が、“魔法少女”だからできること」
その声は静かで、凛とした祈りのような強さだった。
「場所を変えましょう?」
そう言った彼女の横顔は、美しくて、どこか遠くを見ていた。
***
静かな音楽と、ほのかな紅茶の香り。
巴マミの部屋は、見滝原の空気とはまた別の“静けさ”に満ちていた。
テーブルには、かわいらしいティーセットと、三人分の湯気の立つカップに、手作りのケーキ。
窓から差し込む西日のせいか、室内は金色に包まれて見えた。
「どうぞ。熱いうちに」
マミが微笑みながらカップを差し出す。
まどかとさやかは、なんとなく言葉を失ったまま、そっと手を伸ばした。
「すっご……部屋まで可愛いって、反則でしょ……」
さやかが思わず漏らす。まどかは笑ってうなずいた。
「それにこのケーキもめちゃウマっすよ!」
「本当に美味しいです!」
「ありがとう」
マミは少しだけ照れたように微笑んでから、真剣な声で言った
「キュゥべえが見えたってことは、あなた達も無関係じゃいられないわ。
今から魔法少女のことを説明するわね?」
「魔法少女……ですか?」
まどかが、勇気を振り絞るように問いかけた。
「ええ。魔法少女の力……わたしたちはそれを、“契約”によって手に入れているの」
「契約……?」
マミは頷く。
テーブルの横、クッションの上には、さっきまで瀕死だったキュゥべえが丸く座っていた。
相変わらず表情のない目で、こちらを見つめている。
「そうだよ。僕と契約した少女たちは、その体から願いの石を生み出すんだ」
キュゥべえの声は淡々としていた。
まるで当たり前のことのように語るその声音に、まどかは一瞬だけ戸惑いを覚える。
「――それが、このソウルジェム。
私たちの魔力の源であり、魔法少女の証なの」
マミが掌を開く。
そこに浮かぶ宝石は、まるで星を閉じ込めたように輝いていた。
金色の結晶の中で、かすかな光が脈打つように瞬いている。
それは“命”というより、“意志”がそこに宿っているかのような――そんな美しさだった。
「うわぁ、綺麗……」
まどかが小さく息を呑む。
さやかも、目を丸くして見つめていた。
「キュゥべえと契約した者は願いをひとつ叶える代わりに、魔法少女として戦うことになるのよ」
マミの声は穏やかだった。
けれど、その静けさの奥に、何かを飲み込んだような深さがあった。
まどかとさやかは思わず顔を見合わせる。
願いを叶える。
それだけなら、どれほど素敵だろう。
けれど――その代償は命を懸けの戦い。
ソウルジェムは光っている。
美しく。儚げに。
「魔女と――ね」
マミが最後に添えたその一言が、
空気の温度を一瞬で変えた。
魔女。
その単語が出た瞬間、まどか達の中で、さっきの“異常な空間”がよみがえる。
壁に浮かぶ文字、気味の悪い化け物、そして、戦うマミの背中。
「……わたしにも、なれるんですか……?魔法少女に……」
まどかの声は、ふるえていた。
マミはそっとカップに口をつけ、落ち着いた声で続ける。
「もちろん。条件を満たせば、キュゥべえが契約してくれるわ」
マミは穏やかに言う。
「でも――簡単に決めるべきじゃない」
マミの声のトーンが、少しだけ下がる。
「魔法少女になるってことは、命を差し出すってこと。
願いの代償として、私たちは戦わなきゃいけない。
終わりも、逃げ道もないままに」
小さな沈黙。
その空白を埋めるように、マミは優しく微笑んだ。
「……それでもね。わたしは、この力をもらってよかったって思ってるわ」
微笑むマミの目は、優しい。でもその奥には、まどかの知らない深さがあった。
……そのとき、ふと、まどかの胸の中に黒い影がよぎる。
今日、教室にやってきた転校生。
冷たい目をした少女。
キュゥべえを撃とうとした――暁美ほむら。
「あの、さっきの、ほむらちゃんも、魔法少女なんですか?」
マミは一瞬だけ、まどかの顔を見つめた。
まどかの声には、ただの好奇心じゃない、小さな不安と戸惑いが滲んでいた。
その目に過るのは、「一緒に笑ったクラスメイト」――でも、もうその正体がわからない。
紅茶の香りの中で、マミは静かに頷いた。
「ええ……そうよ。彼女も、魔法少女。それも、かなり強い力を持っているわ」
さやかが息を呑んだ。
「なんであんなことを?キュゥべえを撃とうとしたり、まどかを追いかけたり……魔法少女ってのは、正義の味方なんですよね?」
マミの目がすこしだけ鋭くなる。
「多分、新たな魔法少女を増やしたくなかったんでしょうね。」
「でも、魔女と戦うのに、戦力は多いに越したことないはずじゃ……」
さやかの問いは、単純な疑問だった。
マミは、わずかに視線を伏せた。
唇が一瞬だけ強く結ばれ、紅茶の湯気が、まるでそれを隠すかのように揺れた。
「それが、そうでもないの。魔女を倒せば、それ相応の見返りがある。」
そう言って、彼女は懐から黒く鈍い輝きを放つ小さな物体を取り出す。
それはまるで、毒を呑み込んだ宝石のように禍々しい――
「それが、このグリーフシードと呼ばれる魔女の卵。これで消耗した魔力を回復できるのよ」
手のひらに乗せられたそれは、見た目の重さ以上に空気を重くした。
その表面に走る模様は、まるで生きているように、鈍く脈動しているようにも見える
「当然、魔女も無限に湧き出でくる訳じゃない。これをめぐって、魔法少女同士争いになることも多いのよ」
さやかは、信じられないといった顔で固まっていた。
まどかの手が、カップの縁をぎゅっと握る。
「もしよかったら、明日見てみる? “魔法少女のお仕事”。
――少しだけ、見学コースって感じだけど」
マミはくすっと笑って見せた。
「もちろん、見学だけよ?無理にとは言わないわ。
でも……今日のこともあるし、“魔法少女”の戦いを、ちゃんと見ておくのも悪くないと思うの」
その笑顔に、さやかが食いついた。
「マジ!?体験コースってやつ!?いやいや、見学だけね、見学!」
まどかは一瞬だけ迷ったけれど、マミの後ろ姿を見て、すぐに頷いた。
「うん……わたしも、見てみたい」
言いながら、まどかの胸の奥には、
小さな不安の種が、まだ残っていた。
でも、それを否定するように、自分でうなずいた。
「じゃあ、決まりね」
***
見滝原の空は、いつもより赤く見えた。
夕暮れの街をひとり歩きながら、暁美ほむらはカツン、カツンと規則正しい足音を鳴らしていた。
感情を消したようなその目に映るのは、静かな住宅街と、かすかに香る夕飯の匂い。
――でも、心の中は、決して静かじゃなかった。
(……間に合わなかった)
あの時、もう少し早く動けていたら。
まどか達が“あれ”に関わることはなかったのに。
巴さんとの接触も、避けられたはずだったのに。
ほむらはぎゅっと拳を握る。
(巴さん……あなたも、本当は――)
足が止まる。
ふと、薄暗い廃ビルの影から、白い耳がぴょこんと覗いた。
「……いたのね、キュウべえ」
ほむらの声に、キュウべえがぬるりと現れる。
「君が現れるのは予想していたよ。やはり、君は“彼女”を守るために動いているんだね」
「黙って」
冷たい声だった。
けれどその奥にある焦りを、キュゥべえは見逃さない。
「もうすぐまどかは、ボクと契約するよ。君がそれをどれだけ避けたくても、運命は収束する」
「それでも、抗い続ける」
ほむらの目はまっすぐだった。
「あなたを、まどかに近づけさせない」
「じゃあ、どうするつもりだい? 彼女どころか、その友達すら信用させられない君が――」
銃声が、夕暮れの空気を切り裂いた。
キュゥべえの額に穴が開き、地面に転がる。
「黙りなさい……!」
***
朝の教室。
窓の外では、柔らかな光がカーテンを揺らしていた。
けれど、まどかの胸の中は、その穏やかな光とは正反対のざわつきを抱えていた。
手元のノートに、さっきから一文字も文字が書けない。
昨日、マミさんに聞いたこと。
魔法少女の力。
ソウルジェム。
魔女――そして、“契約”。
あれから一晩中考えた。
でも答えは出なかった。
むしろ、考えるほどにわからなくなっていた。
そして。
その中で、どうしても忘れられなかったのは――
「……ほむらちゃん」
まどかは、おそるおそる声をかけた。
ほむらは、黒髪をなびかせて静かに振り返る。
その目は昨日と同じ。
冷たく、遠くて――それでも、どこか迷いを抱えた瞳だった。
「昨日のこと……その……やっぱり、あれって……」
何を聞けばいいのかわからない。
何を聞いていいのかもわからない。
でも、何かを聞かずにはいられなかった。
ほむらは、一瞬だけ黙る。
そして、静かに問い返した。
「あなたたちは……もう、知ってしまったのね」
その声音には、驚きも怒りもなかった。
ただ、深い諦めと確認だけがあった。
「だったらなんだよ。今度は私達も消そうってわけ?」
椅子の音が鳴る。
さやかの声が弾けるように飛び出した。
けれどその勢いの裏にあるのは、明らかな恐怖と困惑だった。
まどかの前に立つようにして、彼女は言葉の盾を振りかざす。
怒っていないと、怖くないと、自分に言い聞かせるように。
ほむらは、ただ静かに首を横に振った。
それは拒絶というより、切り離された感情の中での“否定”だった。
ほむらは静かに首を横に振る。その動きは驚くほど機械的で、まるで何かを拒絶するようだった。
「いいえ。そのつもりはないわ」
無機質な声が空間を刺す。
けれど、まどかだけは見逃さなかった。
ほむらのまつげの奥――ほんの一瞬だけ、感情がにじんだような揺らぎを。
「あなた達にキュゥべえが接触するのを止めたかった。……でも、今更それも手遅れだし」
さやかがまた言葉を探しかける。
その瞬間、ほむらは一歩踏み出して、背を向けた。
「聞きたいことがあるのなら、昼休み、屋上で話しましょう」
ほむらはそれだけ言うと、スカートの裾を揺らして、踵を返した。
教室の床を踏む足音は、まるで冷たい風のようにすり抜けていった。
***
昼休みのチャイムが校舎に鳴り響く。
廊下には笑い声と、弁当袋を揺らす生徒たちの足音。
でも、その喧騒とは無関係に、まどかとさやかの足取りは静かだった。
目指すのは――屋上。
上がるごとに静まっていく階段。
屋上へと続くその最後の扉の前で、まどかの心臓がひとつ大きく跳ねた。
カチリ、と重たい音を立てて扉が開く。
屋上には風が吹いていた。
暁美ほむらは、無言でフェンスに寄りかかっていた。
風が彼女の黒髪を揺らしている。
その姿は、まるで景色の一部みたいに静かで、けれど確かに“孤独”だった。
「……来たよ、ほむらちゃん」
まどかが小さな声で言うと、ほむらは少しだけ顔を向けた。
「わたし、ちゃんと話がしたくて……昨日のこと、教えてほしいの」
ほむらの表情は変わらなかった。
けれど、その目だけが、まどかを見つめ返していた。
「何を知りたいの?」
「ねえ……あんたさ、なんであんなことしたの?」
さやかの声は低かった。
ふだんの快活さとは違う、押し殺したような音。
けれどその中には、はっきりとした怒りがにじんでいた。
「いきなり銃なんて向けてきてさ、あれ、まどかに向かって撃つとこだったよね?」
ほむらの表情がわずかに揺れる。
だが、さやかは引かなかった。
「なんなのあんた。敵なの? 味方なの? どっちなの?」
まどかが慌ててさやかの腕を軽く掴む。
「さやかちゃん……」
「だってそうでしょ?私ら、何も知らされてなかったのに……いきなりあんなの見せられて、わけわかんないまま命まで狙われてさ……」
口調は激しいけれど、手は震えていた。
目の奥に宿っていたのは、怒りなんかじゃない。
――恐怖だった。
だからこそ、彼女は怒りに変えてぶつけるしかなかった。
そんなさやかを、ほむらはまっすぐ見返す。
「さっきも言った通り、私にあなた達を害する意図はない」
静かな声だった。
でも、そこには決して揺るがない意志が込められていた。
「私は……あなた達を、魔法少女にしたくなかっただけ」
声のトーンも、表情も変わらないまま。
でも、確かに――その奥には、濃く沈んだ痛みが滲んでいた。
「そのためにはキュゥべえとの接触を妨害する必要があったのよ。」
「だからって、何も殺そうとしなくったって……!」
さやかの声が跳ねる。
怒りと混乱。傷つけられたことへの本能的な拒絶。
でも――それ以上に、“信じたいものを裏切られた”苦しさがにじんでいた。
「魔法少女は、あなたが想像しているよりもずっと危険よ」
ほむらの言葉は淡々としていた。
けれど、語られる数字は、あまりにも現実的で残酷だった。
「魔法少女の平均寿命は、約三か月。
およそ三割が初戦で命を落とし、そうでない者も、半年持てば良いほう。
私や巴マミのようになれるのは……全体の五パーセントに満たない」
「ッ……!」
さやかの呼吸が止まる。
耳で理解できても、心がその意味に追いつかない。
その数字は、もはや確率ではなかった。
死ぬことが前提として語られている世界――それが魔法少女だった。
「魔法少女になったからって、誰もが巴マミのようになれると思ったら大間違いよ。
才能と運、そして血の滲むような努力。
そのどれか一つでも欠ければ、あの高みには届かない。
夢で戦えば、夢ごと殺されるわ」
ほむらは一切の感情を挟まずに言い切る。それが本当の戦場なのだと、まるで当たり前のように。
さやかが息を呑む。想像以上の現実に、心が追いつかない。
でも、それでも――もう引き下がれなかった。
「……マミさんから聞いたんだ!魔法少女同士は、グリーフシードをめぐって争うことが多いって!」
都合の悪い現実から目を反らすように、ほむらを責め立てる。
その声は、まるで自分自身を守るための叫びだった。
「……あんたは結局、“私達のため”だとか言って、
グリーフシードの取り分が減るのが嫌なだけなんでしょ!」
それは決めつけに近い言葉。
けれど、さやかにはそれくらい強く言い切らなきゃ、ほむらの“冷たさ”に飲まれそうだった。
しばしの沈黙。
そして――ほむらは頷いた。
「……それも、否定はしないわ」
その答えは、あまりにあっさりしていた。
「グリーフシードの有無は、文字通り――魔法少女にとっては命を左右すること。
そうやすやすと人に譲れる物じゃない。
自分が死なないためにも、そしてあなた達が死なない為にも、魔法少女になってほしくないのよ」
それは自己中心的なようでいて、
限界まで追い詰められた人間が下す、究極に現実的な選択だった。
さやかは何かを言い返そうとした。
でも、その言葉が喉の奥でつかえて出てこなかった。
そして――その場に立ち尽くしていた、まどか。
彼女は、ひとことも口を挟まずにすべてを聞いていた。
さやかの怒りも、ほむらの告白も、嘘も本当も、ただまっすぐに。
その小さな体の中に、ぶつかり合う現実を――静かに、でも確かに、受け止めようとしていた。
けれど、心の奥にはまだ答えはなかった。
ただ、胸の内に積もっていく“何か”が、少しずつ、確かに重くなっていくのを感じていた。屋上からの帰り道、三人の間に会話はなかった。ただ靴音と、昼下がりの校舎をすべる風の音だけが響いていた。
教室に戻っても、空気はどこかぎこちない。
周囲のクラスメイトたちはいつもどおりに笑い、弁当を広げ、にぎやかに昼休みを過ごしていたけれど、三人の間にだけ、薄い膜のようなものが張り詰めていた。
さやかは、自分の席に戻ると弁当箱を無言で開けた。
ポテトサラダを口に運びながら、時折ちらりとほむらのほうを見る。
けれど、言葉は出てこない。あれだけ言い合った直後なのに、自分でも、どうしたらいいのかわからなかった。
まどかはまどかで、お弁当の箸を動かしながら、何度も何度も口を開こうとして――そのたびに飲み込んでいた。
その背中に、まだ屋上で聞いた言葉の余韻が残っているようだった。
そしてほむらは――少し離れた席で、ただ静かに窓の外を見ていた。
こちらを見ることも、話しかけることもなく。
けれど、確かに“距離を取る”ことを選んだような、その背中だった。
無言。
でも、冷たいわけじゃない。
まるで、それぞれの心が“自分の整理”に精一杯で、言葉にできないだけのような、そんな静けさ。
チャイムが鳴る。
午後の授業が始まる合図に、生徒たちが席へと戻っていく。
まどかは、その音に少しだけ、ほっとしたような顔をした。
――日常は、容赦なく流れていく。
でも、それが少しだけありがたくも思えた。