夜の空気は澄みきっていて、吐いた息が白く溶けて消える。
地面に転がる黒い残骸は、風に拾われ、まるで何もなかったかのように静かに風景へ溶けていった。あたりに人影はなく、公園の街灯の明かりだけがポツンと地面を照らしていた。
銃を解いた手が、ゆっくりと下ろされる。その手に込められていた力も、今は抜けていた。
背後から、軽やかな声が弾む。
「いや~やっぱりマミさんは頼りになるなぁ~! もう、ズッキュンだよ!」
その声には、ほんの少しの緊張を覆い隠すような軽さが混じっていた。
「もう、私はアイドルじゃないのよ? これは遊びじゃないってこと、忘れちゃダメ」
微笑みに隠されたのは、数えきれない戦いをくぐり抜けてきた者だけが持つ、折れぬ芯のような強さだった。
「あ……グリーフシード、落とさなかったんですね」
「当然さ。あれは魔女じゃなくて、その使い魔だったからね。グリーフシードを持ってるのは、本体だけだよ」
キュウべえが、まるで天気予報でも伝えるかのように、淡々と理屈を述べた。それはまるで命のやりとりさえ、数字の処理でしかないかのような、完璧な無関心がそこにはあった。
「使い魔……だったんだ」
「最近ずっと、そんなのばっかりだよね。魔女、本当にいるのかなーって思うくらい」
笑いながらの言葉だったが、その瞳は何度も肩透かしをくらうような戦いの中で、少しずつ疲れが積もっていた。
「油断しちゃダメよ。使い魔だって放っておけば、時間と共に魔女に育つの。……だから、見かけたら退治しないと」
その声には、まっすぐな意志が宿っていた。
ただ“勝つ”ためではない、“守る”ための戦いを続ける者の言葉。
「……さ、行きましょう。冷えちゃうわ」
背を向けたまま、そう言い残して歩き出す。数歩進んだところで、ふと立ち止まり、振り返った。
「ところで……二人とも。何か願いごとは見つかった?」
問いかける声は、穏やかで優しい。だがその奥には、何かを確かめるような、静かな響きがあった。
「うーん……まだ悩み中って感じ?」
「わたしも……まだ、よくわからないです」
並んで歩きながら、ふたりの少女は顔を見合わせた。
「ふふ。無理もないわ。いざとなると、意外と浮かばないものなのよね」
くすっと笑いながらも、優しく見つめるまなざしが、ふたりの背中を支えていた。
「あの……マミさんは、どんな願い事をしたんですか?」
マミはふと立ち止まる。
彼女の視線はどこか遠く、今この場にありながらも、心はすでに過去へ降りていた。
「あっあの、どうしても聞きたいってわけじゃ……」
問いかけた少女は、どこか怯えるように視線を泳がせた。
「私の場合は……事故だったの。どうするか選んでる暇なんてなくて、ただ死にたくなくて。“助けて”って、反射的にそう願ったの」
それは決断ではなく、本能だった。生き延びたい、それだけの一言に、人生すべてを預けてしまった過去。
「後悔はしてないの。……死ぬよりは、こうして誰かを守って生きていられる方がずっと良かったって思ってる」
声は穏やかだった。でも、その眼差しは――かつて崩れ落ちた日を、忘れてはいなかった。
その“ずっと”という言葉には、何度も心の中でそう言い聞かせてきた重みが宿っていた。
「でも、もし選べるなら……ちゃんと考えてから決めて?それが“自分の意思”であることが、一番大切だから」
その言葉を聞いた途端、隣を歩く少女の肩がわずかに揺れた。そして、ぽつりと呟く。
「……ねえマミさん。願いって、誰かのための願いじゃダメなのかな」
その声音は冗談めいていたけれど、瞳は本気だった。その問いの奥に、明確な“誰か”の顔が浮かんでいることは明らかだった。
「問題ないよ。願い事の内容に、自己か他者かの制限はないし、過去にもそういう契約者はいたさ」
キュウべえの声が空気を断ち割る。その言葉に少女は一瞬、希望のようなものを見出した。
だが。
「……私は、あまりオススメできないわ」
その言葉には、静かな断絶があった。
「“他人のため”って言葉は、すごく綺麗に聞こえるわ。
でも、想像してみて?その人と疎遠になったら? 裏切られたら? 別の誰かを大切に思うようになったら?」
「……そんなの、ないよ。私は……」
さやかの小さな手がぎゅっと握られる。
“そんなのあるわけない”と、言い返したかった。けれど、自信が持てなかった。
「感情は変わるわ。私たちはそういう生き物だもの。……でも、一度使った願い事は戻らない。そのときの気持ちに、一生縛られるのよ」
少しだけ、言葉を飲み込むように間を置いて――
「本当に耐えられるなら、止めない。……でも、少しでも迷いがあるなら、自分のための願いを探してみて?」
淡々と語られる声には、過去からにじんだ痛みがあった。それは経験者だけが知る、悔恨の重み。
「……昔、一緒に戦っていた子がいたの。その子も、他人のために願ったのよ」
マミの声が、ふっと遠くへ沈んでいく。
「でもね……その“誰か”と、ある日揉めてしまったの」
ひと呼吸、置く。言葉の先を選ぶように、マミは視線を落とした。
「想いがすれ違って、関係が壊れて……残ったのは、虚しさと、ぽっかり空いた心だけだった」
その言葉には、誰かを責める色はなかった。
ただ、どうしようもなかった“結果”を抱え込んできた人だけが持つ、乾いた哀しみがにじんでいた。
「“綺麗な願い”ほど、重くなる。もし、それでも貫けるのなら、私は止めない。でも――焦らないで」
言葉を終えたその人の背中が、ふと夜に溶けた。
何も答えられずにいる少女の肩に、そっと温かな手が置かれる。
「……ごめん。私の考えが甘かった」
夜の静けさは、誰の答えも急かすことなく、ただそっと彼女たちを包んでいた。
言葉にならない思いだけが、白い息と共に空へと昇っていく。
***
二人を見送った帰り道。巴マミはふと立ち止まる。
夜風が頬を撫でるよりもわずかに早く、背中に突き刺さるような視線を感じた。空気がわずかにざわめく。
人の気配。それも、魔力を帯びた、戦い慣れた者のもの。
静かすぎる夜の中で、わずかな気配だけが輪郭を持って揺れていた。
マミは息を吸い、身構える。あらかじめ仕掛けていたリボンが、指先のわずかな合図で弾ける準備を始める。
「何か用かしら?暁美さん」
振り返りもせず、そう問いかけた声は柔らかい。けれど、その声色の奥には明確な警戒と、戦意が込められていた。
誰が相手でも――魔法少女は常に、戦場に立っている。
やがて姿を現したのは、制服のリボンを静かに揺らす少女。
暁美ほむら。その瞳は氷のように冷たく、まっすぐマミを射抜いていた。
「ええ。あの二人を魔法少女に勧誘するのをやめてほしいのよ」
その声に感情はなかった。怒りも、焦りも、憐れみも――何も。
ただ、冷徹に計算された結論だけが、言葉になっていた。
「私は魔法少女がどういったものか教えているだけよ? なるか決めるのはあの子達の自由だわ」
マミは、ほむらのまなざしを正面から受け止めながら、わずかに肩をすくめる。
その態度は穏やかに見えるかもしれないが、胸の奥では怒りの火が静かに灯っていた。
「貴方は意図的に二人を魔法少女へと誘導している」
ほむらの言葉は断定だった。そこに揺らぎはない。感情を隠しきれていないマミに対して、冷静すぎるほど冷たい言葉をぶつける。
「それが面白くないわけ?」
マミの返しは、どこか挑発的で皮肉めいていた。
「ええ、迷惑よ」
ほむらは即答する。わずかな間も挟まず、言葉を切り捨てるように。
その短い言葉の裏には、彼女なりの焦りと、絶望と、諦念が渦巻いていた。
「貴方にとやかく言われる筋合いなんてないわ。ここは私の縄張りなのよ?」
マミの声が鋭さを帯びていく。互いに譲れない“何か”がある。正義の衝突。信念のぶつかり合い。
「ワルプルギスの夜が来るって言うのに、足手纏いにグリーフシードを渡す余裕なんてないのよ。貴方だって自分の街が壊されるのは嫌でしょう?」
一見すれば、暁美ほむらの言葉は冷静で、論理に満ちていた。感情をすべて削ぎ落とし、正論だけを並べているように見える。
だが、それは真実ではない。
――だめだ。またあの子たちを、希望の顔で死地に送り出すわけにはいかない。
だからこそ、冷たく、突き放すしかなかった。感情を押し殺し、まるで「戦力」や「効率」しか考えていないように装う。それは、真実から目を逸らさせるための仮面。優しさを殺してでも、守るための演技。
「だったら猶更、戦力を増やすべきじゃないかしら?」
マミの返答もまた、理屈ではあるが、そこには感情が混じっていた。
それでも、ほむらは首を横に振ることなく告げる。
「新人が一人二人増えたところで、なんの役にも立たずに死ぬのがオチよ」
その言葉は、一見すれば冷酷で無情に聞こえる。
でもそれは――希望を信じないのではなく、“信じた先で崩れていく命”を何度も目にしてきた者だけが言える、覚悟のある絶望だった。
――鹿目まどか。
彼女が魔法少女になれば、“ワルプルギスの夜”を倒すことはできる。
けれどその代償は、彼女自身の命だ。
強大な力には、等価の死がつきまとう。それを、何度繰り返しても変えられなかった。何度願っても届かなかった。だからこそ――ほむらは、もう誰にも魔法少女になってほしくなかった。
「本当にそうかしら? 貴方ももう気付いてるんでしょう? 鹿目さんの素質に」
マミの言葉が鋭く切り込む。わずかにほむらのまぶたが揺れた。その反応を、マミは見逃さなかった。
「それは、」
「語るに落ちてるわ。もっともらしい事言って、自分よりも強い相手が邪魔なんでしょう?」
刃のように冷たい皮肉。マミの声には苛立ちと、ほんの少しの軽蔑すら混ざっていた。
ほむらは黙って唇を噛みしめた。
「……」
「いじめられっ子の発想ね」
マミの瞳に、わずかな勝ち誇りが宿る。
「……貴方とは戦いたくないのだけれど」
ほむらの声は低く、静かに怒りを宿し始めていた。
「じゃあ二度と私の前に現れないで頂戴。もし次に邪魔するようなら――」
マミの右手が、静かにわずかに動く。
その動きは、冗談ではない。“次”が来るなら、もう言葉では終わらないと語っていた。
「話し合いでは済まなくなるわよ」
決定的な言葉が、空気を裂いた。
二人の距離は、ほんの数歩。だが、その間に横たわる“譲れない想い”の深さは、まるで奈落のように果てが見えなかった。
そして――マミは背を向ける。何も言わず、そのまま闇に溶けていく。残されたほむらは、じっとその背中を見送ったまま動かない。
やがて、深く、長い吐息をつく。誰にも届かない、ひとりきりの祈りのように。ふと、目を閉じる。
何度繰り返しても、結末は変わらない。何を言われても、どれだけ責められても――それでも。
まどかを。さやかを。マミを。そして、杏子も。
「貴方たちを死なせるくらいなら、嫌われた方がマシ」
それが暁美ほむらという少女の、たったひとつの信念だった。
独りで戦って、独りで嫌われて、それでも――絶対に、守る。
たとえ世界中が敵になっても。
***
翌日夕暮れの病院。
さやかとまどかは、小さな紙袋を抱えて立っていた。
「ダメだったね……タイミング合わなかったか」
「うん……また今度にしようか」
それは、何でもない日常のはずだった。
少し、寂しい帰り道のはずだった。
でも――その時、まどかが病院の壁に、黒い染みのようなものを見つけた。
「……あれ、なに?」
「まさか、グリーフシード……!?」
その疑問に答えたのはきゅうべえだった。
ふたりの足元に現れた小さな白い生き物は、いつものように無感情に言う。
「そうだね。この個体は、もうすぐ魔女になる。非常に危険だ。
すぐに誰か、戦える魔法少女を呼ぶべきだね」
2人の顔が強張る。
体の奥がざわざわと冷えていく。
まどかは言葉を失い、ただ、目の前の黒い染みに目を奪われていた。
その沈黙を破ったのは、さやかだった。
「――あたしが、残る」
「え……?」
まどかが驚いて振り向く。
「私がキュウべえとここに残る。いざとなったら、私が契約して魔女と戦う。
まどかは早くマミさんを呼んできて。」
「さやかちゃん!?」
「止めないで」
さやかの声は震えていた。でも、目はまっすぐだった。
揺れていても、覚悟がにじんでいた。
「そんな!無茶だよ!」
まどかの叫びは、ほとんど悲鳴だった。
「でも、誰かがやらないと……!放っておいたら、みんな巻き込まれるんだよ……!」
「でも!」
まどかの手が、さやかの腕を掴む。
でも、その手には力がなかった。
さやかの決意が、それよりも強かったから。
「いいから、早くしないと間に合わなくなる!」
まどかの目に、涙が滲む。
胸が苦しくて、うまく息ができなかった。
「大丈夫だ。さやかには僕が付いてる。
マミを連れてきたら、最短距離で結界の案内ができる。間に合うはずさ」
覚悟を固め、さやかの目をまっすぐに見て、たった一言。
「――ッ、すぐにマミさんを呼んでくる!!」
一瞬だけ足が止まる。
でも、すぐに踵を返して駆け出す。
背中で、さやかが小さく息を吐いた気がした。
――そしてそこに、キュゥべえの白い影だけが、冷たく見つめていた。
その瞳は感情もなく、ただ静かに――「観察していた」。
***
到着したマミの前に広がっていたのは、ねじれた現実――異形がうごめき、空間が歪む結界の中。
濁った色彩の風が吹き抜け、空気がひりついていた。
「マミさん!こっちです!」
まどかが叫ぶ。走りながらも不安に揺れる瞳は、奥に残ったさやかのことを案じていた。
「この魔力……かなり強力な魔女のようね……」
マミは即座に空気を読む。空間の異常さから、相手がただ者でないことを察した。
「キュゥべえ、状況は?」
「不味いね、すぐにでも魔女が生まれそうだ。僕がナビゲートするから、全速力で来てくれるかい?」
「わかったわ。鹿目さん、ちょっと揺れるわよ!」
言うが早いか、マミはまどかをひょいと抱え上げる。驚く暇もなく、お姫様抱っこのまま、一気に跳躍。
魔法で強化された脚力で、音すら振り切って歪んだ空間の中を駆け抜ける。
――その進路上。唐突に、ひとりの影が現れた。
「巴マミ」
低い声が空気を切る。
マミが立ち止まると同時に、影が光の中から姿を現す。
黒髪を風になびかせた少女――暁美ほむら。表情はいつも通り無機質。だがその目だけは、真っ直ぐにマミを捉えていた。
「この魔女は貴方とは相性が悪い。私に狩らせて」
「ほむらちゃん……」
まどかが、マミの腕の中からそっと名を呼ぶ。その声音には戸惑いと不安が混ざっていた。
「あら、私言ったわよね。貴方は信用できないって」
マミの声は冷たい。時間がないはずなのに、一歩も退かない姿勢が、むしろその警戒心の強さを物語っていた。
「それに今、急いでるの。邪魔するなら容赦しないわよ?」
ほむらはそれでも動じない。
「奥にいるさやかの安全は保障する。魔女が落としたグリーフシードも貴方に渡す。これでどうかしら?」
「しつこいわよ!」
マミは迷わなかった。手にしたリボンが瞬時にしなり、空中で鋭くうねる。
一瞬で術式を組み、ほむらを拘束しようとした――
しかし、
「……!」
ほむらはその一撃を、最小限の動きで避ける。髪の先すら乱さず、ただ静かにステップを踏むだけで。
マミの目がわずかに細められる。
思わず、次の一手を躊躇った――その瞬間。
「貴方の気持ちはよくわかったわ」
ほむらの声は、静かだった。責めも、怒りもなかった。ただ淡々と。
「ただ――絶対に油断しないで」
それだけ言い残し、ほむらは背を向ける。
風が吹いた。どこからともなく、時間の隙間をすり抜けるように、彼女の姿は結界の奥へと消えていった。
残されたのは、緊張と疑念と、言葉にならない引っかかりだけ。
マミは唇を噛む。
でも、今は迷っている時間すら惜しかった。
「行くわよ、鹿目さん」
「……はい!」
まどかの声には、まだほむらの言葉の余韻が残っていた。
でも、それでも前へ進むしかなかった。
幾重にも折り重なった異空間を抜け、ついに最奥へ――。
魔女の結界、その核心にたどり着いた。
ここが、呑まれた者の帰らぬ領域。
空間の法則すら破壊され、あらゆる理がねじれた、結界の最深層。
目の前に広がるその場所は、見るだけで精神が削れていくような異様さだった。
地面は波打ち、空間の端がぐにゃりと捻じれている。
まるで、この世界そのものが悲鳴を上げて苦しんでいるようだった。
空気が、ひどく重い。
異様な瘴気と、圧倒的な魔力の奔流が、全身を圧し潰すようにのしかかる。
呼吸がうまくできない。酸素が、まるで“魔力”に変わっているみたいに感じた。
「これは……!」
マミが、小さく息を呑む。
視線の先――脈動する、黒の卵。
心臓のように、規則正しく、湿った音を立てている。
その殻の表面には、蠢くような紫の紋様が浮かんでは消え、まるで“内側にある何か”の存在を主張していた。
(すぐに生まれる!)
マミの脳裏に、警鐘のような予感が響く。
そんな中、不意に響く声。
「マミさーん!まどかー!おーい!」
張り詰めた空気を破るように、場違いなほど明るい声が響いた。
振り向けば、結界の地形の裂け目。
ケーキでできた岩陰の奥から、さやかが手を振っていた。
隣には、無表情のままじっとこちらを見つめるキュゥべえの姿。
「さやかちゃん……!よかった……!」
まどかは胸を撫で下ろした。
「鹿目さん、美樹さんと一緒に隠れてて!もう時間がないわ!」
マミが強い口調で言い放つ。その声に迷いはなかった。
「はっ、はい!」
まどかはさやかのもとへと駆け寄る。
背中を向けたその瞬間、空間が“割れる”ような音が響いた。
――魔女の“誕生”、その瞬間。
結界が大きく揺れ、ねじれ、破裂するように“産声”が上がる。
空気が振動し、視界がぐにゃりと波打つ。まるで空そのものが血を流しているかのように、上空に巨大なティーテーブルが出現する。その上に、ふわりと舞い降りたのは――
小さな、小さな、まるで人形のような魔女だった。
真っ白な顔に、まんまるな目。幼ささえ感じるその姿は、一見すればおとぎ話に出てきそうな愛らしささえあった。
だが、その見た目に反して、身から放たれる魔力は、桁違いだった。ねっとりと這うような瘴気が、空気そのものを濁らせていく。視界が、音が、体温が、すべて魔力に侵食されていく。
マミは、目の前の魔女を見据える。その幼い姿に騙されるつもりはなかった。膨れ上がる魔力の密度が、警告のように肌を焼いている。
瞬間、宙に魔法陣が複数展開される。空間の一角から次々と現れる無数の銃。整然とした配置、完璧な角度。
――速攻で打ち倒す!
マミの指先が、静かに鳴らされる。
「……ティータイムの邪魔は、許さないわよ!」
その瞬間、一斉射撃。
銃声が轟き、金色の弾丸が空気を裂く。
弾道は歪みをものともせず、魔女の身体を正確に貫いた。
だが――
魔女は動かない。
揺れた。
でも、避けなかった。
反応もなければ、苦しむ様子もない。
まるで撃たれていることに気づいていないかのように、ただ静かに立ち続けている。
弾が命中するたびに、身体はぐらつき、ガクガクと揺れ、ついにはティーテーブルから転げ落ちた。
(……どういうこと?)
マミの眉が僅かに動く。
手応えが、なさすぎる。
弾は確かに命中している。表面には小さな損傷も見える。
再生もしていない。
でも、反応が“ない”。
(生まれたてでまだ自我が曖昧……? いや、それにしては……)
圧倒的な魔力量、肌を刺す瘴気――
どれもが強敵を示すサインだった。
なのにこの魔女は、ただ黙って、撃たれるだけ。
不安がじわじわと喉の奥を這い上がる。
(……静かすぎる)
疑問が頭を巡りながらも、攻撃の手は緩めない。
銃弾の雨が、均等なリズムで降り注ぐ。
魔女の動きを封じるよう、リボンを地面に這わせて絡みつかせる。
動きの兆しはない。簡単に宙へと吊り上げられていく。
まるで――“処理”しているような戦闘。
魔女は無抵抗のまま、ぶら下がっていた。
首が斜めに傾き、両腕はだらんと垂れ、何も感じていないように揺れている。
マミの指先に、力がこもる。
――デコイ?
一瞬思考を掠めるが、すぐに思い直す。
ありえない、確かにこの目でグリーフシードから孵るのを見た。
周囲の魔力を探っても、コレより大きな魔力は感じられない。
間違いなく、この魔女が本体のはず。
それでも――不安が、消えない。
“静かすぎる”。
殺気も、執念も、感情すらも感じられない。
まるで、“殻”のように。
マミの眉がひそめられる。
不可解な静けさ――だが、それは好機だと判断した。
理由は釈然としないが、この魔女は攻撃を避ける気配がない。
ならば、なにかされる前に、仕留める。
一撃で――消し飛ばす。
手に持つ銃に膨大な魔力が流し込まれる。
銃身が変形し、戦艦の主砲すら凌ぐ巨大な砲塔となる。
マミの“必殺”
見滝原の女王、その象徴。
「ティロ・フィナーレッ!」
轟音。
空間が破れるような、金色の閃光。
黄金に煌めく銃口から放たれる巨大弾丸が魔女を飲み込んだ。これを食らって生き残った魔女などいない。戦いは終わった……その場にいた誰もがそう思った。
まどかが、さやかが、マミすらも。
だが――それは、“始まり”だった。
魔女の潰れた人形の体から、ずるり、と何かが這い出した。
粘膜を引きずるように――まるで、殻を破って生まれる寄生体のように。
仮面の奥に封じられていた本物の殺意が、ゆっくりと首をもたげる。
巨大な胴体は、まるで獰猛な蛇のように蠢き、地を這うたびに地面が割れた。
顔は、肉会と熾烈の塊――“顔”と呼ぶにはあまりにも醜悪で。
鼻は針のように尖り、顎は重機のクレーンのように軋んで開閉する。
その目――虹色に濁った、欲望に濡れた瞳が、空間をえぐるようにこちらを見ていた。
耳元まで裂けた口の奥には、何十層にも重なった歯が微細に震えている。
そのすべてが、“咀嚼の快楽”を求めていた。
「――ッ!!」
全員の背筋が、音もなく凍りついた。
『食う』
魔女が喋ったのではない。
でも全員が確かに“聞こえた”気がした。
跳ねるように宙を舞い、襲いかかる魔女の本性。
マミは咄嗟にリボンを展開する――が、間に合わない。
この距離、この速度、この威力――
(……逃げられない!)
まどかとさやかの悲鳴よりも速く、魔女の顔が喜色に歪む。
限界まで引き伸ばされた時間の中、マミ視界には、真っ暗な口だけが写っていた。
距離、ゼロ。
――ここで、死ぬ。
そう確信したその瞬間。
ドンッ。
身体ごと弾かれる衝撃。
揺れる視界の中、黒い影が目の前に立ちはだかる。
「……暁美、さん……?」
咄嗟に見上げたその先、魔女の鋭い顎に食いちぎられたものが目に入る。
右腕。
暁美ほむらの右腕が、血を撒き散らしながら、魔女の口に消えていた。
「ッ……!!」
痛みをも超えて、視界が白く染まる。それでも、ほむらはマミの前に立ったままだった。
「下がって……こいつは、私が倒す……ッ」
片腕で爆弾を構え、口で――歯で盾のディスクを噛み、強引に回す。
ガリッ。ギリギリと金属音が響き、空間がわずかに波打つ。
ほむらの固有魔法、《時間遡行》。
そしてそれを応用した《時間停止》。
あらゆる事象を凍結する、彼女唯一にして最大の牙。
……だが、
止まらない。
「ッ――!」
歯で回すには力が足りなかった。
《クロックダウン》――盾が“完全に”回らなかったことによる、不完全な時間停止。
時間は止まらず、ただ粘っこく遅れるだけ。
周囲の世界は、まるで深海のように重たく、けれど確かに動いていた。
魔女が、迫る。
気味の悪い笑みを浮かべ、
噛み砕いた腕を咀嚼しながら、次の獲物に狙いを定める。
ほむらは冷静だった。顔を歪めることもなく、血を拭うこともせず。ただ、だらしなく開いた魔女の口、その“喉奥”へ。
正確に、無表情で――爆弾を放り込む。
それは反撃でも抵抗でもない。ただの“排除”だった。
――轟音。閃光。振動。
魔女の体が内側から膨張し、裂け、咆哮とともに肉が弾け飛ぶ。
まだ終わらない。
脱皮。
焼け焦げた皮膚が、破れ落ちる。
その下から現れたのは、艶めいた外殻――硬質で、滑らかで、不気味な光沢を放っていた。
だが、それは“完成”ではない。
その外殻の奥には、なお蠢く粘膜と、泡立つような生肉の塊が見えている。
魔女はまだ“剥ける”。
魔女が皮を剥ぐたび、ほむらはそれに合わせるように爆弾を叩き込む。
魔女が爆風で跳ね上がるたびに、間髪入れず、何度も、何度でも。
歯で盾を噛み、失敗すれば次の手を、出血しながらも前へ。
(ほむら……ちゃん……)
空気の振動と共に、何かが削れるような音。
まどかは、ただ茫然と、目の前の光景に圧倒されていた。
血が飛び散る。黒い影が、ただひとり、魔女に向かって立っていた。
その体には右腕が、ない。
なのに、顔ひとつ歪めずに、魔女に爆弾を投げ込んでいる。
静かだった。叫びも、怒りも、悲鳴もなかった。ただ、感情のすべてを“切り捨てた”ような動きだった。
再生した魔女の口に、また一つ。
目に、また一つ。鼻に、また。
爆風が弾けるたびに、異形の肉が吹き飛び、でもまた戻ってきて――
(どうして……そんなに、平気なの?)
怖くないの?
痛くないの?
死にたくないって、思わないの?
ほむらちゃんの顔は、何も語っていなかった。
まるで、誰かの命令をただ“なぞってる”だけみたいに見えた。
(これが……“魔法少女”?)
違う。
こんなの……私の知ってる魔法少女じゃない。
きらきらしてて、やさしくて、誰かを守るヒーローで。
そういう存在だと思ってた。
思ってたのに。
違う……あれは……
目の前にいるのは――
(……鬼だ)
口、目、鼻、耳、どこでもいい。開いた穴に、詰めるだけ。放たれた爆弾が、魔女の口に吸い込まれる。
だが――
爆発、しない。
ほむらの目が僅かに細められる。
起爆のタイミングは正確だった。
誤作動ではない。
爆発が、起きていない。
魔女の咽喉の奥が、じわじわと不自然に膨らむ。その光景はまるで内側から熱を孕んだ心臓が芽吹いていくかのようだった。柔らかい内壁がねっとりと蠢き、飲み込まれた爆弾を包み込み、圧縮し、封じ込めている。
喉の奥から、鈍く“ゴプッ”という音が鳴った。
――呑んだのだ。
起爆寸前の爆弾を、咀嚼もせずに、まるで薬を飲むように、滑らかに。
魔女は、爆発を呑み込んだ。口元から、うっすらと白煙が漏れる。
けれど、それだけだった。爆発音も、閃光も、破片もない。魔女の喉だけがかすかに熱を帯びていた。
ほむらは、表情を変えない。
「……そう」
それがこの魔女の本質。
敵の武器に合わせて、構造を変える。
敵の魔法に対応して、機能を変える。
敵の生き方そのものに――最適化する。
なんか、お菓子の魔女戦はほむらが瞬殺してすぐ終わる予定だったんですが、味気ないと思って描写追加していったらめちゃ長くなってって、おまけにめちゃ強くなったので二つに分けました