夜になりかけた街道。
ネオンの光も届かない、裏路地の壁際で、まどかとさやかは肩を並べて立っていた。
遠くを走る車の音と、表通りから漏れてくる人の気配――
現実のざわめきだけが、静かな空間に溶け込んでいた。
さやかの指が、紙袋の端をくしゃ、と握りしめる。
「……ねえ、さやかちゃん」
まどかの声は、風の音に溶けそうなほど、弱かった。さやかは答えない。答えられない。
目を伏せたまま、白いスニーカーの先をじっと見つめている。
そのつま先には、赤黒く乾いた血の染みがポツンと残っていた。
さっきまで、非日常の中だった。
あの魔女――そして、ほむらの右腕が。
「ほんとに……魔法少女って、あんな……」
まどかの言葉が続かない。唇が震えたのを、さやかは見なかったふりをした。
「私……」
ぽつり、とまどかが言いかけて、息を吸い込んだ。
けれど、その先の言葉は、すぐには出てこなかった。
「なりたいって思ってたの。魔法少女に」
そう言ったまどかの声は震えていた。涙は落ちない。でも、ぎりぎりでこらえているのが伝わる。
「誰かを助けられるって、素敵だなって……」
さやかは少しだけ顔を上げて、まどかの横顔を見る。
その視線に気づいたのか、まどかが小さく唇を噛んだ。
目を伏せ、呼吸を浅くするようにして、ぽつりとつぶやいた。
「……マミさんも、ほむらちゃんも、“命懸け”って何度も言ってくれてたのに……」
言葉の途中で、喉が詰まったように感じた。息苦しさが胸の奥を締めつけてくる。
「ちゃんと聞いてたはずなのに……ぜんぜん、わかってなかった……!」
言い終えたあと、自分の声が少し震えていたことに気づいた。
その震えは、恐怖じゃなかった。
“なりたい”って口にしたときの自分が、今の自分を見たら何て言うだろう。
「助けたい」「守りたい」――そんな綺麗な言葉の中に、どれだけ死の匂いが潜んでいたか、知らずに笑ってた。
そのことが、痛かった。怖さより、恥ずかしさより、ただただ申し訳なくて……
「まどか」
「うん……?」
「アンタ、それでも、なりたいって思う?」
まどかは答えなかった。
ほんの少しだけ視線を逸らして、ふと見上げた先、灯りのない窓が静かに浮かんでいた。
ほむらは、今どこで、何をしているんだろう。痛みで目を閉じてるのか。
もう眠っているのか。それとも……何も考えず、次の魔女のことを想っているのか。
さやかが、小さくつぶやく。
「……あんなの、見せられたらさ」
「……」
「怖くなるよ、当たり前だよ。正直、もう無理だって思ったよ」
まどかはその言葉に、何も返さない。
ただ、ゆっくりと、両手を胸の前で握りしめた。ぎゅっと、痛いくらいに。
「でも、」
そのひと言で、まどかの肩がぴくりと動く。
「でも……“それでも”って、思う気持ちがあるの」
さやかは、真っ直ぐ前を向いていた。
その目に、怯えと、迷いと――それでも消えない、希望の火が宿っていた。
「私は……ほむらちゃんに、謝りたい。怖がってごめんねって、助けてくれてありがとうって」
その言葉に、さやかは何も言わず、ただその横顔を見つめていた。
謝りたい――その言葉に、さやかの心の奥が揺れた。
まどかの気持ちと、きっと同じ。
自分も、本当はそうだった。
上辺だけで知った気になって、わかったような顔で、ほむらを責めた。
あの時、自分が口にした言葉のひとつひとつが、どれだけ無神経だったか、今ならわかるのに。
助けられても、「ありがとう」さえ言えなかった。
なのに、何もできなかった自分を、見て見ぬふりをしていた。
せめて言葉にすれば、少しは変われたのかもしれないのに――それすらもしなかった。
まどかが今、やろうとしてることは、
自分が逃げてきたこと、そのものだった。
その悔しさと、自分への怒りが、ずっと胸の奥でくすぶっている。
どこにもぶつけられないまま、静かに、熱だけを残して。
沈黙が、ふたりの間に流れる。夜風が、ふっと吹き抜ける。
まどかのリボンが揺れて、さやかの髪がかすかに踊る。
どちらも、言葉を交わさないまま、ほんの少しだけ顔をあげて。
少しだけ強くなった風の中を、並んで歩き出した。
ふたりの背中が、夜の街に溶けていく。
その歩幅は、どこかぎこちなくて、だけど確かに、隣を歩いていた。
***
風が吹くたびに、包帯がかすかに揺れる。
ほむらの右肩には白い布が何重にも巻かれていて、そこにあったはずの腕はもうない。
まどか達を帰らせた後、病院の駐車場で簡易の治療をしながらほむらは沈黙を貫いていた。
その姿にマミは視線を向けることができなかった。
疲労も、痛みも、その表情からは何も感じ取れない。
ほむらはいつも通り――冷たいほど静かに、ただ座っていた。
「あなたが来なければ、私は……あの時……」
マミの言葉がそこで途切れる。
言葉が、涙と一緒に詰まってしまったようだった。
「……私、死んでたのよね」
静かに、だけどはっきりと彼女は言った。
ほむらの目が、わずかに揺れる。
視線がふっと下がり、彼女は無言のまま、マミの隣に腰を下ろした。
少しの間、風の音だけがふたりの間を流れる。
「どうして……」
マミがぽつりと口を開く。
「そこまでしてまで、私を助けようなんて……あんな無茶をしてまで……」
「理由が必要?」
「……ううん。でも、知りたいの。あなたの口から、ちゃんと聞いておきたいのよ」
ほむらは少しだけ間を置いてから、目を伏せて呟いた。
「……私には、貴方が必要だったから。それだけよ」
「それだけ、で?」
「ええ。それ以上は言いたくない。言葉にすれば、何かを壊してしまいそうだから」
マミはふっと息をのんで、俯いた。
それでも、その目は――たしかに揺れていた。
「……ごめんなさい。私、あなたのこと、誤解していたのね。
冷たいって、勝手に思ってた。自分勝手で、何も分かち合おうとしない子だって……」
「その通りよ。私はそういう風に振る舞ってきた」
ほむらの声は、否定しなかった。
マミが顔を上げる。その瞳は、もう以前のようにとがっていない。
「ありがとう……あなたがいてくれて、ほんとうによかった」
その一言に、ほむらの目が、僅かに見開かれる。
ありがとう――その言葉が、胸の奥に届いた瞬間。
鈍く、古傷のような痛みが心の奥で波打った。
でも、それ以上に――“救われた気持ち”が、確かにそこにあった。
言葉が途切れる。
けれど、それは気まずさではなくて、
互いの沈黙を“信頼”で包み込めるような、あたたかな間だった。
やがて、マミが手を差し出す。
「こんな私でも、まだ必要としてくれるなら、貴方に協力させてほしいの」
その手は、かつて孤独に耐えてきた少女の手だった。
だからこそ――
「ええ、喜んで」
ほむらの返事は淡々としていた。
でもその声には、確かに喜びが滲んでいた。
ふたりの距離は変わらない。
けれど、心の位置だけが、少しだけ近づいていた。
***
マミは帰り道、薄暗い小道をひとりで歩いていた。
昼間なら誰もが行き交う駅前の裏手も、夜の帳が降りると、まるで別の世界のように静まり返っていた。
すれ違う人の視線が、どこかよそよそしい。
泥のついた制服のまま、ほつれたリボンもそのまま――
今さらそんなことを気にしている自分に、思わず苦笑がこぼれた。
…そんなこと、気にしてる余裕なんて、本当はないはずなのに。
一度思い出したら、もう止まらない。記憶の奥から、あの声がよみがえる。
「私の魔法少女としての素質は、そのほとんどを固有魔法に割いている。
……ワルプルギスまでにこの腕を治す余裕は、おそらくないわ」
「……だから。暫くの間は、あなたの力をあてにさせてもらう」
その時は、ただ黙って頷いた。
ほむらの声は、どこまでも冷静で、事務的だった。
……でも、あの言葉を思い出すたびに、胸の奥がじわじわと痛んでくる。
――“貴方を頼る”と、彼女は言った。
あれは命令でも期待でもない。あの子なりの、最大限の信頼だった。
エレベーターの前で足が止まる。壁に背を預けて、そっと目を閉じる。
ひとつ、呼吸が浅くなる。
――震えていた。
手が。膝が。
「何も怖くない」ふりをしていた身体が、今さらになって、その荷重に音を立てて軋み出す。
悔しい。情けない。怖い。
でも、それでも――
命の恩。
戦力の重さ。
この先にある、誰かの死を――自分が背負うということ。
簡単に受け止めていい言葉ではないのはわかってる。
いずれ、あの腕は治る。
治癒が間に合えば、また彼女は“完全な戦力”に戻る。
……でも、それまでのあいだは――私がその役を担う。
一時的だとしても、彼女は命の一部を私に預けたのだ。
それは、“あの子の戦いを一部託された”という事実。
ほんの一時でも。ほんの一部でも。
誰かが差し出した“生き残るための選択肢”に、自分がなるということ。
永久に代わるわけじゃない。
けれど――それまでのリスクと重さを、自分が預かるということには、変わりない。
その覚悟が、いま彼女の歩みに確かな熱を宿していた。
***
ほむらが腕を失った、翌日も、その翌日も、教室にほむらの姿はなかった。
「……ほむらちゃん、今日も来てないか」
まどかがそっと呟いた。
少し気まずそうに、でも気にしているのが伝わる声だった。
その横で、さやかが腕を組んで窓の外を見ていた。
「まぁ……そりゃそうだよね」
言葉は軽いが、その顔は沈んでいる。
その“そりゃそうだ”の中に、本当は知りたいことが山ほど詰まっていた。
どこにいるのか。
誰かと一緒なのか。
あの腕のことは……本当に、大丈夫なのか――。
でも、それを誰に聞けばいいのかも、わからなかった。
「……連絡とか、来てないんだよね?」
「うん……マミさんも、何も言ってなかった」
まどかは少し俯いて、小さな声で言った。
マミに聞こうとした。でも――あの人の背中も、どこか遠かった。
ただ“命を助けられた”という事実だけが、あの夜からマミの空気を変えていた。
「ねえ、さやかちゃん」
「ん?」
「……なんか、変だよね」
まどかが小さな声で言う。
「こんなことがあったのに……教室の空気とか、授業とか、みんな、いつも通りで……」
「……」
「なんか、“なにも変わらないんだな”って……私だけ、時間止まってるみたいで……」
その言葉に、さやかは返す言葉を見つけられなかった。
「……そうだね」
そう言ったけど、本当はよくわからなかった。
もしかしたら、自分も“変わらないフリ”をしてるだけなのかもしれない。
ほむらの右腕が、魔女に食いちぎられたその瞬間。
叫びも、涙も、何も出なかった。
ただ、心が止まるような感覚だけが残っている。
あの日から、何度も頭の中で思い出すのに、慣れることは一度もなかった。
「変身して、戦って、悪い奴を倒す。
……それだけのことじゃ、なかったんだね」
さやかの声は、静かに落ちていく。
何かを噛みしめるように。
そして、まどかもまた、黙ったまま机の端を見つめていた。
その日の放課後。
まどかとさやかは、いつもの帰り道を歩いていた。
学校帰りの街は、どこか静かで、でも確かに人の気配はあった。
制服の袖をかすめる風が、どこか冷たく感じる。
「マミさん、今日もパトロールかな……」
何気ない調子でまどかが呟く。
「たぶん。」
さやかは短く答えた。
ふたりの間に、沈黙が落ちる。
足音だけが、コンクリートの歩道に小さく響いた。
「……ほむら、あれから……2日も学校来てない」
さやかがぽつりとつぶやく。
言葉に、わずかに迷いが滲んでいた。
「うん……」
まどかも、同じように小さな声で返した。
「いま、どうしてるんだろう」
「あの怪我……魔法でなんとか……できるのかな、あれって……」
さやかが答える声にも、不安がにじんでいた。
「マミさんとかは回復魔法とか使ってたし、もしかしたら……」
でもその言葉は、自分に言い聞かせるような響きだった。
――でも、あの日のことは、どうしても忘れられない。
血と煙。砕けた地面。右腕を失っても、何も言わずに立ち続けた少女――暁美ほむら。
思い出すたび、胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。現実とは思えないのに、記憶だけが妙に鮮明で。
「ねえ、さやかちゃん」
まどかは、スカートの裾を指先でそっと握りしめた。それでも、迷いの中にある小さな決意を、ちゃんと言葉にする。
「この後……ほむらちゃんのお見舞いに行かない?」
その言葉に、さやかは少し驚いたように目を丸くした。
「え、急に?」
「うん、急に。でも……今行かないと、きっとこのままずっと言えない気がして。
“ありがとう”とか、“ごめんね”とか……いっぱいあるのに」
さやかは一瞬、返事に迷ったように視線を泳がせたけど――
次の瞬間、少しだけ笑った。
「……言えるかな、あたしたちに。今さらさ」
「言えなかったら……せめて、顔だけでも見たいなって」
「……わかったよ。行こう」
さやかは、ポケットに手を突っ込んで、ふっと息を吐いた。
「でも、玄関で帰れって言われたら、泣くなよ?」
さやかが暗い空気を断ち切るように、わざと軽い調子で言う。
「う、うん……がんばる」
まどかの声には、少しだけ緊張と笑みが混ざっていた。
二人の歩幅が、ゆっくりと揃い始める。
風が吹くたび、まどかのリボンが揺れて、さやかの髪がふわりと踊った。