いつもより、少しだけ遅く目が覚めた。
窓の外では蝉が鳴いている。
昨日よりも暑くなりそうな気配がした。風はない。けれど、日差しはまだ斜めで、空気の中にわずかに眠気が残っている。
高専の寮は、休日でも騒がしくはならない。
寮母の足音も、誰かの話し声も聞こえない。ただ鳥の鳴き声と、遠くの掃除機の音が、静かに流れているだけだった。
鈴葉は、布団の中でしばらくじっとしていた。
体がだるいわけでも、疲れているわけでもない。ただ、今日は起き急ぐ理由がなかった。
こんなふうに朝を迎えるのは、どれくらいぶりだろう───そんなことをぼんやりと思いながら、目だけで天井の模様を追っていく。
訓練がないわけではない。
やろうと思えば、いつでも倉庫裏で自主練はできる。けれど、今日はなぜか、すぐに立ち上がる気になれなかった。
時計の針は、まだ朝の七時半を指していた。
「ちょっと、ゆっくりしようかな」
ぽつりと、言葉が漏れた。
誰も聞いていない。自分で自分に言い聞かせるように、そう呟いて、鈴葉はようやく布団から身を起こした。
今日は特にこれといった用事がない。
自主練も、夜蛾先生の個別指導の予定もなかった。完全なオフの日。
部屋の隅に置いたカレンダーを眺めながら、鈴葉はもう一度小さく息を吐いた。
こんな日は、何をしたらいいんだろう。時間が空いていると、何かを詰めなきゃいけないような気がしてしまう。けれど、今日は違った。
ベッドの上に腰をかけ、カーテンを引く。
朝の光が部屋の中に差し込んでくる。埃が舞うのが見えた。眩しくはない。むしろ柔らかくて、心地よい明るさだった。
シャワーを浴びて、制服ではないTシャツとスカートに着替える。
鏡の前で髪をとかしながら、ふと自分の顔を見つめた。
───なんとなく、顔が穏やかに見える気がした。
高専に来る前までは、どこか暗い表情をしていた。自分に自信がなく、どこか怯えた様な表情。
以前と比べればだいぶ明るくなった。と、我ながらそう感じた。
部屋を出て、食堂で軽く朝食をとった後。
戻ろうとして廊下を歩いていたそのとき、角を曲がった先で、ちょうど硝子とばったり鉢合わせた。
「おはよ、鈴葉」
「あ、おはよう」
硝子はいつも通りの調子で、ゆるく手を振った。
その姿は休日仕様の私服で、涼しげなカーディガンに、肩から小さなバッグを提げていた。
今日も変わらず、どこか気の抜けたような雰囲気をまとっているのに、妙に整って見える。
「今日ひま?」
「うん、なにもないよ」
「ふーん、ならちょうどよかった」
そう言って、硝子は軽く足を止めた。
ぽん、と手のひらを打ち鳴らす。
「これから駅前まで買い物行くんだけど、付き合ってくれない? 一人だとちょっと面倒でさ」
「えっ、あ……いいの……?」
鈴葉の声は、思わず裏返った。
何かのついでだと思うべきか、それとも自分が選ばれたと思っていいのか。そういう些細なことで、心が揺れてしまうのが自分らしいと、どこか冷めた気持ちもあった。
「いいの。っていうか、ちょうどあんたと行きたかったし」
硝子はあっさりとそう言って、にこっと笑った。
その笑顔は、強引でもなければ、計算されたものでもない。ただ自然なものだった。
「……じゃあ」
一瞬だけ迷ったあとで、鈴葉は頷いた。
「行く……」
「決まり。じゃあ十時に玄関集合で」
硝子はそう言って、踵を返す。
軽く振られた手に、鈴葉は小さく手を振り返した。
部屋に戻ってから、鈴葉はもう一度鏡の前に立ち、髪を整え直した。
選んだのは、ごく普通のワンピースにカーディガンという、地味だけど外出用の服装。
あくまで「目立たないこと」を意識した選択。でも、どこかにほんの少しだけ、「似合うかな」と思う自分がいた。
指定の時間になり、寮の玄関へ向かうと、すでに硝子が待っていた。
「時間ぴったり。偉い偉い」
「ははは……」
慣れない言葉に照れていると、硝子はくすっと笑いながら歩き出し、後を付いていった。
外の空気は、すっかり夏の匂いだった。
日差しは強くなってきていたけれど、街へ向かう坂道の途中には木陰も多く、蝉の声と混ざり合って不思議と騒がしくはなかった。
並んで歩く足音が、規則正しく響く。
どちらからともなく、ぽつぽつと会話が始まった。
「駅前の薬局で化粧水と日焼け止め買いたくてさ。あと、ちょっとだけ服も見たい」
「……服?」
「うん。部屋着とか、洗い替えとか。鈴葉も、何か欲しいものあればついでに」
「えっと、私は……」
一瞬言葉に詰まりながらも、少し考えて、小さく答えた。
「……タオルが欲しいかも。練習用の」
「お、実用的。じゃあタオル売ってるとこも寄ろっか」
そんな会話を交わしながら、ふたりは商店街へと足を運ぶ。
いつもの訓練場とも、教室とも違う空間。
だけど、不思議と鈴葉の足取りは軽かった。
「硝子。最近、調子どう?」
不意にそう問いかけながら、鈴葉は視線を前に向けたまま言葉を探していた。
ただの会話の続き。でも、自分から誰かに何かを聞くのは、まだ少し緊張する。
「うーん、ぼちぼち?」
硝子は気の抜けたような声で返した。
その響きが、なんだか心地よいと感じた。
「急にどうしたの?」
「ううん。最近任務とかで忙しそうだったし……疲れてないかな、って」
「まあ、疲れてるといえば疲れてるけどさ」
硝子はそう言いながら、手を後ろで組んで歩調を緩めた。
顔に出すほどじゃないけど、たしかに連日続いた課題や軽い任務の疲労は蓄積しているようだった。
それでも、声に覇気がなくなるほどではない。そのあたりが、彼女の強さなのだと鈴葉は思った。
「けど、こうやってのんびり歩いてると、結構リセットされるんだよね」
「……わかる気がする」
自然に頷きが返る。
坂を下った先、駅前の通りはすでにいくつかの店舗が開店準備を始めていた。
大きなドラッグストアのガラス扉が自動で開き、ひんやりとした空気が顔に当たる。
「じゃ、まずここね」
「うん」
店内には整然とした陳列棚が並び、どこか薬品のような香りが漂っていた。
硝子は慣れた足取りでスキンケア用品のコーナーへ向かい、棚の前で立ち止まって数種類のボトルを見比べる。
「これさ、朝用と夜用で違うの出てるけど、正直どっちも一緒じゃない?」
「えっ……う、うん……わからないけど、たぶん……そう、かも……?」
曖昧な返答をしながらも、鈴葉は隣に立ち、硝子が手に取ったボトルを横目で覗き込む。
どれも似たようなラベルに見えるが、硝子は真剣な顔で吟味している。
「まあ、香りで決めよっかな。鈴葉、どっちが好き?」
「あ……こっち……柑橘系、の方が……」
「おっけー。じゃ、これにする」
あっさりと選ばれた。
選ばれた、というだけでほんの少し嬉しい気がして、鈴葉は胸の奥で小さく笑った。
その後は日焼け止めとコットン、シャンプーなどを手早く買い足し、店を出る頃にはふたりの手に小さな紙袋が一つずつ増えていた。
「次、服屋行くよー」
足取り軽く硝子が歩き出し、鈴葉もそれに続く。
街の喧騒は徐々に増え、人通りも多くなってきていた。
それでも並んで歩くことに不思議な心地よさがあって、鈴葉は人の波に紛れても不安にはならなかった。
「今日は……なんか、いい日かも」
自分でもはっきり理由はわからない。
けれど確かに、心のどこかがふわりと軽くなっている気がした。
服屋のガラス戸をくぐると、軽やかな鈴の音が店内に響いた。
冷房の効いた空気と、ふわりと柔らかい香りが鼻をくすぐる。照明は明るく、それでいてどこか落ち着きのある白。棚やハンガーラックには、涼しげな色合いのワンピースやブラウスが整然と並んでいた。
硝子は慣れた様子でひとつのラックの前に立ち止まり、さらりと手に取ったワンピースを広げる。
淡いラベンダー色の、薄手の生地でできた涼しげな服だった。シンプルだけど、細部のレースや小さな刺繍が目を引く。
「これさ」
ふと、硝子が鈴葉の方に顔を向けた。
「鈴葉、こういうの似合いそうじゃない?」
「……え?」
反射的に、鈴葉は指さされたワンピースと硝子の顔を交互に見た。
予想もしていなかった言葉に、脈拍が少しだけ跳ね上がる。
「いや、あんた地味な色選びがちじゃん? まあそれも悪くはないけどさ、こういうちょっと色味があるやつ、肌白いし映えると思うよ」
さらりとした口調。
けれど、その言葉はどこか的確で、そして……少しだけ照れくさかった。
「え、えっと……似合わないと思うけど……」
「思うだけでしょ?」
硝子は口角を少しだけ上げて、言った。
「いいから、持ってみなって」
そう言って、ワンピースを軽く押しつけるように鈴葉の腕に載せた。
拒否する間もない自然な動作で、気がつけば、鈴葉の手の中に服が収まっていた。
「試着してもいいけど、無理にとは言わないよ。ほら、なんとなく“これ自分じゃないな”って思うやつあるじゃん? そういうのは仕方ない」
「……でも」
ワンピースを見つめる。
淡いラベンダーの布地。自分では絶対に選ばない色味だった。でも、手にしてみると、意外と悪くないかもしれないと思ってしまう。
鏡の前に立って、そっと服を体に当ててみた。
不思議と、違和感はなかった。
「……たしかに、変じゃない……かも」
「でしょ?」
硝子は片眉を上げて、にやっと笑った。
「私、目利きだからさ。まあ信じといて」
「ふふ……」
小さく笑いがこぼれた。
鏡に映る自分が、少しだけ背筋を伸ばして見えた。
昼食は、駅近くの定食屋で落ち着いた。
木のテーブルに並べられたのは、焼き鮭と小鉢がついた日替わり定食。暑い日でも食べやすいようにと、冷たい麦茶が最初から出されていた。
「うま……こういうとこ、案外アタリだな」
箸を進めながら硝子が呟く。猫背気味に身を乗り出し、鮭の身を上手にほぐして口へ運んでいく。
鈴葉も静かに頷きながら、ごはんをひと口。
特別な味ではない。でも、なんとなく心が落ち着く味だった。
「こういう日、ほんとたまにしかないからさ」
そう言って、硝子は冷たい麦茶をひと口飲んだ。
「悟と傑が朝から騒いでなかっただけでも、だいぶ平和。なんか、ちょっと寂しいけどさ」
「寂しい……んですか?」
思わず尋ねると、硝子は一瞬目線を逸らし、それから少しだけ笑って肩をすくめた。
「うるさい方が落ち着く時もあんの。慣れってやつかな」
素っ気ないようでいて、どこかあたたかい響きだった。
家族、と言うには歪で、でも放っておけない存在。そんなふうにも感じられた。
箸休めに出された漬物を口に運びながら、鈴葉は黙って頷いた。
「……にぎやかなの、いいよね」
「うん、まあ。騒がしいけどさ。……なんだかんだ、ああいうのが一番、普通って感じするんだよね」
テーブルに肘をつきながら、硝子はぽつりと呟いた。
どこか遠くを見るような目だったが、すぐにまた箸を動かして、ご飯を口に運ぶ。
しばらく、ふたりは黙って箸を進めていた。
食べる音と、テレビの控えめなニュース音声だけが店内に流れている。
外は暑そうだったけれど、この場所だけは時間の流れがゆっくりで、何も急かされることがなかった。
途中、硝子が何気なくぼやいた五条や夏油の愚痴に、鈴葉がくすっと笑う。
他愛のない話だった。食べ物のこと、買い物中に見かけた変なTシャツのこと、硝子が前に風呂場で滑ってこけた話──どれもどうでもいい内容なのに、なぜか心に残るやりとりだった。
言葉の応酬というよりは、音のない間にゆるやかに波紋が広がるような感覚。
沈黙も苦ではなくて、けれどその合間にぽつぽつと生まれるやりとりが、鈴葉にとってはむしろ心地よかった。
「……今日、誘ってよかった」
ふいに硝子が、ぽつりと呟いた。
その声は小さく、ぶっきらぼうだったけれど、どこかに確かさがあった。
「え?」
聞き返す鈴葉に、硝子は箸を止めたまま、少しだけ顔を向けた。
「……いや、なんとなく。無理してないなら、それでいい」
それだけ言って、再び麦茶をすすった。
鈴葉は返事をしようとして、けれどうまく言葉が出てこなかった。
ただ、「うん」と頷いて、ほんの少しだけ笑った。
きっと、今のは「優しさ」のひとつなのだと、思った。
特別なことは何もなかった。
どこにでもある買い物と、どこにでもある定食屋の昼ご飯。
けれど――きっと、今日は忘れない。
帰り道、商店街を抜ける坂道の途中、ふたりの足音はまた重なっていた。
蝉の声は少し遠のき、代わりに午後の陽射しが強くなってきていたけれど、それも含めて、なんだか心地よかった。
笑ったり、黙ったり、ふと立ち止まったりしながら、ふたりはゆっくりと坂を上っていった。
その時間が、どこか「守られている」ような気がして、鈴葉は何度か足元を見つめては、そっと小さく息を吐いた。
■■■
その日の夜、鈴葉は買ったばかりのワンピースを実際に着てみていた。
全身鏡の前でくるりと周り、自分がどう写るのか確認する。
自分のセンスでは決して選ばない色。
けれど、不思議とこの服が自分に似合う様な気がした。
可愛いと、思う。
友人に選んでもらったというのもあるだろうが、初めて鏡に写る自分が可愛いと思えた。
何度か見た事があるポージングを決めてみる。
少し見栄を張り過ぎたと思ったが、それでも鏡に写る自分が可愛く見えた。
「そういえば、こうやって自分を見るの初めて……かも」
照明の下、鏡に映る自分は、少しだけ背筋が伸びていた。
誰に見せるわけでもないのに、胸元の皺を指で伸ばして、裾のラインを気にする。くるりと回って、斜め横からも確かめてみる。視線を外そうとしたとき、ふと、その瞳の奥に──小さな火が灯っているのを見つけた気がした。
何かを求めるでも、何かを諦めるでもなく、ただ「今の自分」をまっすぐに見ているような、そんな目だった。
「……悪くない、かも」
ぽつりと漏れた言葉は、肯定ともつかない、けれど否定ではなかった。
今までのループでは感じた事がない感覚。
ひたすら己の術式と向き合う日々、呪霊に襲われる日々。
失望と恐怖とは違う、充実した感覚。
どこか懐かしささえ感じた。
「次行く時これ着て行こうかな」
せっかく選んでもらった服を着ないという選択肢はない。
再びくるんと鏡の前で回ってみる。
硝子に服を選んで貰えたという事を思い出し、思わずはにかむ。
そしてしばらく鏡を見つめ。
ふと、思った。
───また死んだら、全部消えちゃうんだよね
冷たいナニかが背筋をなぞった。
死んだら、消える。
硝子に選んでもらった服も、硝子と関わった事実も全て……全て消えてしまう。
全てやり直しから始まってしまう。
硝子に選んでもらった服。
今日一日、ふたりで歩いた時間。
あの定食屋の冷たい麦茶。
一緒に歩いた時間。
───全部、なくなる。
また死んだら、全部なかったことになる。
部屋の蛍光灯の光が、急に冷たく感じられた。
鏡に映る自分の顔は、さっきまでよりわずかに青白く見える。
何度も繰り返してきた。
何度も、全部が“なかったこと”になった。
そのたびに、どんなに努力しても、誰かと距離を縮めても、それは“私だけの記憶”に変わってしまう。
自分の命と引き換えに積み重ねてきたものが、また全部リセットされる。
そう思った瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まった。
あたたかかった記憶の余韻が、冷たい現実に少しずつ侵食されていく。
───なんで、考えちゃったんだろう
鈴葉は、静かに鏡から目を逸らした。
ワンピースを丁寧に畳み、ハンガーにかけて、クロゼットの奥へとしまう。
閉じた扉の向こう側で、それがただの布切れに戻った気がして、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
カーテンを閉めると、夜の気配が部屋を包み込む。
セミの声はすでに止み、代わりに虫の声が遠くでかすかに響いていた。
鈴葉は布団に入って、目を閉じた。
でも、すぐには眠れなかった。
まぶたの裏に、今日のことが繰り返し映る。
硝子の横顔。
涼しい笑い声。
選んでくれたラベンダー色のワンピース。
それらを守るためには、次の“死”が来てはいけない。
“この時間”が本当に大切なのだと、ようやくわかりはじめたのに。
それが壊れる未来が、もう決まっていることが悔しかった。
ぎゅっと、シーツを握りしめる。
───次は、守れるだろうか。
───今度こそ、変えられるだろうか。
そんな問いに答えられる者は、どこにもいない。
それでも、明日はきっと来る。
また何かを選び、また誰かに会う。
だから、今はただ、目を閉じた。
その胸の奥に、かすかに残ったあたたかさを、そっと抱きしめるようにして───
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