夜蛾から見た白鷺は、呪術師というにはあまりに脆く、あまりに危うい存在だった。
術式を操る才能も、呪力を操る才能もまるでない。
けれど、呪力操作の才能そのものは術式の制御ほど酷いものではない。
改善の余地はまだある。
と。白鷺の個別指導の最中、夜蛾はそう感じた。
少なくとも彼女は推薦がくる以前、呪術の存在は知らなかった。今まで術式の制御に拘っていただけで、呪力を操るという発想はそもそもない。
始めたてと言ってもいい。
訓練次第では基礎的な呪力操作が可能になるだろう。幼いころからの術式の訓練の結果が今こうして出ているのだ。
だが、白鷺の問題は呪術師としての素質ではなかった。
問題は、彼女の“呪術観”そのものにあった。
呪術を「力」ではなく「祟り」として見ている節があったのだ。
彼女にとって術式とは、宿命であり、呪いであり、罰だった。
己が生まれ持ったこの術式を「力」として見なければならない、という基本すら──どこか欠落していた。
そのことに気づいたとき、夜蛾はひとつの仮説を立てた。
(白鷺鈴葉は、自分の術式を“道具”として見ていない)
無意識の拒絶。あるいは恐れ。
過去に何かあったのか──あるいは、この術式そのものが、彼女の心を蝕んでいるのか。
だが、いずれにせよ、あの目は──それでも前を向こうとする目だった。
訓練において何度も失敗し、術式の暴発により袖を濡らし、時に指先を裂きながらも、彼女は一度も「もうやめたい」とは言わなかった。
「やります。もう一度、お願いします」
それが彼女の、口癖のような言葉だった。
夜蛾はそういう子を、見捨てられない。
自分が教えられるのは、ほんの基礎だけだ。けれどその基礎が、彼女にとっては命綱になる。
呪骸を用いた模擬戦では夜蛾が予想していた以上に、白鷺の動きが良かったのだ。
戦闘技術はからっきしではあったものの、相手の攻撃を避ける点で言えば優秀だった。敵である呪骸をよく観察し、次に相手に出してくるであろう一撃を予測し、回避する。
呪霊を寄せ付ける体質がそうさせたのか、それとも白鷺の数少ない才能なのか。恐らくこれは前者だろう。
呪霊を引き寄せる体質──それは呪術師にとって大きなリスクであり、同時に稀有な資質でもある。
彼女が危機を避ける術を覚えたのは、生きるために必然だった。
だからこそ夜蛾は、白鷺の回避行動を見て「才能だ」とは断じなかった。
むしろ、それは才能と呼ぶにはあまりに痛々しく、あまりに切実だった。
“生き延びる”という一点において、彼女は人並み以上の執着を持っていた。
いや──「死なないように振る舞う」ことだけを、彼女は長年磨いてきたのかもしれない。
術式の暴走を防ぐ術も持たず、呪力の扱いにも拙く、呪霊との正面対峙など到底できない。
だから、ひたすらに避ける。逃げる。気配を殺す。
──それは、戦い方ではなく、生き残るための“処世”だ。
夜蛾は、それを責めるつもりはなかった。
呪術の世界に身を置く者のなかには、生まれつき才能を持ち、苦労なく力を手にする者もいる。
だが白鷺は、どこまでいっても「普通の子」だった。
──ただ、あまりに過酷な術式を持って生まれてしまっただけの。
(それでも、来たのか)
思わず、そう呟きそうになる。
彼女にとってこの入学がどれほど重い決断だったか、夜蛾には痛いほどわかる。
拒絶されることを知りながら、それでもなお足を踏み入れてきたのだ。
恐らく、彼女自身も気づいていない。
それがどれほど「呪術師的な」精神かということに。
才能の有無ではない。
彼女が、呪術師でありうるかどうかの試金石は──これから訪れるだろう。
(だが問題は、“周囲”だな)
五条悟。夏油傑。家入硝子。
この学年には、奇跡のような人材が揃っている。
その誰もが、すでに頭一つ抜きん出た才能を持っている。
そこに、白鷺鈴葉がいる。
釣り合うはずがない。
この世界は、残酷なほどに“力”を基準に人を測る。
──潰されないといいがな。
夜蛾は、教室の扉の前で立ち止まる。
中からは、まだ誰の声も聞こえない。
静寂だけが、そこにあった。
■■■
昼下がりの午後。
本校舎から少し離れた場所。
もう使われなくなった倉庫の裏に、鈴葉はいた。
風の通りが悪いその場所は、じめっと湿っていて、誰にも気づかれないにはちょうどよかった。
いつものように両手を合わせ、前に突き出すように構える。
そのまま一度深呼吸し、目を閉じた。
(大丈夫、失敗してもまたやればいいだけだから……)
呪力を指先に集め、術式を発動させる段取りは整えた。
イメージするのは水の刃。標的は10m先の標的、木に括りつけた的に向けて、鈴葉は超高圧の水刃を繰り出した。
「……ッ」
繰り出された超高速の水刃は、大きく軌道を逸れた。標的から数メートルも外れた場所に突き刺さり、地面をえぐり、周囲の土を激しく巻き上げる。
まるで爆風にでもさらされたかのように、木の葉がばらばらと降り注ぎ、風のないその空間に、一瞬だけざわめきが走った。
「……また、外れた……」
呟きながら、鈴葉は唇を噛む。的に届く威力はある。いや、むしろ威力だけなら充分すぎるほどだ。けれど、その軌道は安定せず、狙った方向へ真っ直ぐ飛んでくれることのほうが少ない。
出力だけはある──その実感が、かえって鈴葉を追い詰めていた。
入学してはや一か月。鈴葉は才能の壁をむざむざと見せつけられていた。
五条悟の無下限呪術。
夏油傑の呪霊操術。
家入硝子の反転術式。
わずか一か月の間で同級生たちと鈴葉の間は致命的なほど開いていた。
その事実が、彼女を傷つける。彼らが術式を行使するたび、呪力を行使するたび鈴葉は己の能力の低さを嘆いた。
鈴葉の実年齢は既に、人間の寿命をとうに超している。
何度も死に、何度も生まれ、諦めず進み続けていた。しかし、才能の差はたかが40回やり直した程度では埋まることがない。
彼女にとって数少ない幸運は夜蛾が見捨てなかったこと。
彼は熱心に彼女を指導し、呪力の基礎を教えていた。
呪術師としての素質がないと分かっているのにだ。
夜蛾のおかげで鈴葉の呪力操作は、入学する以前と比べると格段に技術が向上してた。
精々文字が読めない赤子が、文字を読めるようになる程度のものであったが、それでも成長はしていた。
その事実が、唯一鈴葉の心を癒していた。
「ふーん、結構頑張ってんじゃん」
背後から不意にかけられた声に、鈴葉はびくりと肩を揺らした。
まるでいたずらがバレた子供のように、彼女はゆっくりと振り返る。白髪で、蒼いめ、高身長で、少年らしさが残る顔。
───五条、悟
その姿を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
今まで人と関わろうとしてこなかった。当然、彼のようなタイプの人とは会話したことがない。
精々、一言二言程度。こちらから話しかけるのは勿論、向こうから話しかけてくることもなかった。
こちらから話しかけるようなことはしなかったが、少し苦手意識を持っていた。
話しかけられたらどう返せばいいのか分からないから。
「ご、五条君。いつからそこに……?」
「んー。五分くらい前からかなぁ。ほら、木の陰から覗いてた」
五条悟はあっけらかんとした調子で言いながら、気の抜けた笑みを浮かべる。その仕草ひとつ取っても、彼が持つ“異質さ”は隠しきれなかった。彼は軽薄に見えて、どこか鋭い。視線の奥にある双眸は、まるで万物を見通しているような、底知れぬ深さを湛えていた。
白髪は日光を弾き返すようにまぶしく、くしゃくしゃと無造作に跳ねている。制服の袖はラフにまくり上げられ、肩越しには呪術高の指定の黒い上着がふわりと引っかかっていた。整っていながら整っていない、どこまでも“自由”を体現したような佇まい。
「……で、だれだっけ君」
「し、白鷺です。白鷺鈴葉、一応……同級生です……」
「ふーん。そうだっけ?ま、いいや。おっけー、白鷺ね。はい憶えた」
名前を覚えて貰えなかったのは少し悲しいけれど。意図的に避けていたから名前を憶えられていないのは納得できた。
五条悟含む三人にとって、私は虫にも劣る存在。
けれど、何で彼は私に声をかけてきたんだろうか。
私が疑問を口にする前に、先に彼の口が開いた。
「白鷺さんの術式って、確か水刃操術っていったっけ」
何気ない声音だった。
まるで昼下がりにアイスを選ぶような、軽い調子。けれど、その瞳は笑っていなかった。掴みどころのない表情の裏に、冷徹な観察眼が光っていた。
私は思わず視線を逸らす。五条悟の眼差しは、射貫くように真っ直ぐで、まともに受け止めるには強すぎる。まるで、自分のすべてが見透かされている気がして、息が詰まりそうだった。
「あ、はい……そうです」
震える声を押し出すように答えると、五条は頷いた。だが、興味を持った様子ではない。ただ、「なるほどね」とでも言うように、曖昧な笑みを浮かべている。
「うん。威力はあるっぽいけど───制御、まるでできてないね」
言葉に棘はない。けれど、その無遠慮な率直さが、かえって胸に突き刺さった。
私は何も言い返せなかった。反論の余地など、どこにもなかったからだ。
沈黙が落ちた。
蝉の声も、遠くで聞こえる風の音も、まるで耳に届かない。呼吸だけが、やけにうるさく聞こえる。
五条は地面に落ちた枯葉を足先で蹴りながら、ぽつりと呟いた。
「……才能、ないよ。君」
一拍遅れて、心臓が跳ねた。
その言葉が意味するところを、頭では理解していた。入学以来、何度も実感してきたことだ。誰よりも、私自身が知っていた。
けれど、それを“彼”に言われることが、こんなにも痛いとは思っていなかった。
何も言えなかった。口が動かない。心が、痛い。
「悪いけどさ。あれだけ出力あって、あの精度はないでしょ。狙ったとこに飛ばすって基本じゃん」
言いながら、五条はポケットに手を突っ込んで私のほうを見る。その視線は、好奇心も軽蔑もない。ただの「事実確認」のようだった。
何の感情も込めていないからこそ、それが恐ろしかった。
「呪力操作は夜蛾先生に教わってんの?」
「……はい」
「ふーん、そっか。あの人、面倒見いいっぽいしね。でも──正直言って、君、呪術師向いてないよ」
静かな口調だった。
それは怒りでも、呆れでもない。目の前にある問題を、冷静に告げる医者のような、淡々とした診断だった。
けれど、私にとっては、それだけで十分だった。
脚が震える。
息が浅くなる。
胸の奥に、ずっと押し込めてきたものが、ひび割れる音を立てて崩れていく。
向いていない──その一言で、私はいったい、何度、死んだだろう。
何度も、やり直してきた。何度も、立ち上がってきた。
けれど、そのすべてが、「向いていない」の一言で否定される。
私は、笑うしかなかった。
いや、笑っているつもりだったのかもしれない。
けれど、唇は引きつり、目元は歪んでいた。
「……わかってます」
やっとのことで、絞り出すように言った。
声はかすれ、震えていた。
そのとき、五条がふと、顔をこちらに向け直す。
少しだけ、目元が和らいだように見えた。
「でも、君、やる気はあるんだ」
それは、問いではなかった。確認でもなかった。
ただ、彼なりの「評価」だったのかもしれない。
その言葉に、私は小さく頷いた。
やる気しかなかった。
それしか、なかった。
すると、五条はふいに手をひらひらと振り、「じゃ、まあ、せいぜい頑張って」とだけ言って、踵を返す。
その背中を、私はただ黙って見送った。
目の奥が熱くなっていた。
声を出せば、泣いてしまいそうだったから。
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随分さきになるけど恋愛描写いる?
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