一瞬だけでしたけど見てしまった人がいたら申し訳ありません。
日常回です。
入学してから、季節がすっかり変わっていた。
制服の上着を脱いで歩くのが当たり前になって、草の匂いと蝉の声が一日中まとわりつくようになった。
鈴葉は、いつもの場所で今日も練習に励んでいた。
木々の隙間から差し込む光が、まだらに地面を照らす。
踏みしめる土は乾いていて柔らかく、ところどころに野草が顔を出している。
ここは人気がなく、誰かに見られる心配もない。そのせいか、鈴葉は少しだけ、顔を上げて立っていられるようになっていた。
術式は相変わらずうまくいかない。
狙いを定めても、水刃はわずかに逸れ、標的のブロックをかすめて土を抉るばかりだ。
それでも鈴葉は、何度も構えて、何度も撃った。
体はまだ動く。汗もかいているけど、息は整っている。
疲れよりも、焦りが勝っていた。
あと少し。もう一度。
そう思って手を構えたときだった。
「その辺にしときなよ」
柔らかな声がして、鈴葉は振り返った。
林の影から、硝子がひょいと顔を出していた。
手には水筒、肩にはタオル。
日差しの届かない場所にいても、その人はなぜか、涼しげだった。
「ちゃんと立ってるし、倒れるほどじゃなさそうだけど……顔、真っ赤」
「ありがと、やめとくよ」
言いながら、鈴葉は自分の頬に触れた。確かに熱をもっていた。
硝子は近づいてきて、少しだけ顔を覗き込むと、にやりと笑った。
「ね、鈴葉」
「なに?」
「そのへんにしてさ。カラオケ、行かない?」
唐突な提案に、鈴葉はきょとんと目を見開いた。でも、家入の声には冗談めいた響きがなくて、なんだか断る隙がなかった。
数か月前の件をきっかけに、硝子と話す機会は少しずつ増えていた。訓練の後に声をかけられることもあれば、廊下ですれ違うときに軽く手を振られることもある。最初はどう応じていいか分からず戸惑ってばかりだったけれど、それでも硝子は変わらず接してくれた。
だから、今日のこの誘いも、ただの気まぐれや義務感じゃないと、鈴葉はどこかで分かっていた。 心の奥に小さな波が立つ。それは緊張でも不安でもない、名前のない感情だった。
「……うん、行く」
ぽつりと返した言葉に、硝子は少しだけ目を見開き、それから笑った。
「よし。じゃあ、準備して集合ね。」
硝子はタオルを肩に戻すと、軽く手を振って木陰へと戻っていった。その背中を見送ってから、鈴葉はふと空を仰ぐ。濃い緑の隙間から覗く空は、どこまでも高く、澄んでいた。
放課後、指定された時間に校門前で待っていると、硝子が私服に着替えて現れた。
涼しげな白いシャツにジーンズという、肩肘張らない服装。それでもきちんと見えるのが不思議だった。
「待った?」
「ううん、今来たとこ」
そんな気取らないやり取りのあと、ふたり並んで歩く。街の方へ向かう坂道を下りながら、鈴葉はそっと横目で硝子を見た。すこしだけ速く歩くその背中を追いかけるようにして、静かに歩幅を合わせていく。
目的地のカラオケ店は、駅から少し離れた繁華街の一角にあった。 店の前で、すでにひとり待っていた人物がいた。女装束のような白と朱の衣をまとい、足元には動きやすいブーツ。和装でありながら、どこか凛とした現代的な印象を与える。その姿は街の中でも明らかに目立っていて、周囲の視線を集めていた。
「あ、硝子ー! 遅いよー!」
街の中でも異彩を放つその姿に、鈴葉は思わず足を止めた。
肩甲骨にかかるくらいの黒髪は前にかける形で二つにまとめられ、巫女装束のような白と朱の衣に、足元は動きやすそうなブーツ。古風なようでいて、どこか都会的な洗練も感じさせる。
前髪は眉にかかる程度に切りそろえられ、両端が少し長めに残されていた。
その人は、ただ立っているだけで空気が変わるような存在だった。視線を引きつけるのは見た目だけじゃない。立ち居振る舞いのすべてに、自信と余裕が滲んでいた。
「ごめんなさい、ちょっと道間違えちゃって」
「ふふん、許す! で、この子が白鷺鈴葉ちゃん?」
「ど、どうも……」
目を向けられた瞬間、鈴葉は息を整える間もなく頭を下げた。動きは少しぎこちなく、声も小さかったけれど、それでもなんとか形にはなっていた。 内心では、もっと自然に振る舞えたらと思いながらも、視線を上げるだけで精一杯だった。
「ん、よろしく~。あたしは歌姫。四年。硝子の友達!」
その名乗り方はあっけらかんとしていて、飾り気はまるでなかった。けれど不思議と、初対面の距離を感じさせない。明るくて、堂々としていて、それでいて近づきがたいような気配もない。 鈴葉は少しだけ気を張っていた肩の力が抜けていくのを感じながら、小さく息を吐いた。
鈴葉はその場に立ち尽くしたまま、ただ小さくうなずくしかなかった。
店内に入ると、冷房の風が肌に心地よかった。 受付で部屋番号を伝えられ、三人は長い廊下を歩いていく。歌姫が先頭、硝子がそのあと、鈴葉が少し遅れてついていく。
カラオケボックスの扉を開けると、そこには既に用意された三人分のドリンクと、色とりどりのリモコンが並んでいた。
「よっし、じゃあトップはあたしね!」
部屋に入るなり、歌姫は迷いなくマイクを手に取り、曲を選び始めた。
ほどなくして、前奏が流れ始める。アップテンポな女性ボーカル曲。
彼女が口を開いた瞬間、空気が一変した。
強く、伸びのある声。
音程もリズムも完璧で、何より楽しそうに歌っている。
それは圧倒というより、惹き込まれる歌だった。
鈴葉はただ黙って、その横顔を見つめていた。
硝子も頬杖をつきながら、どこか誇らしげに相槌を打っている。
曲が終わると、拍手の音が自然にこぼれた。
「はい、次!硝子いく?」
「じゃじゃ、お言葉に甘えて歌いまーす」
硝子はゆっくりと曲を選び、落ち着いたバラードを入れる。
優しく透き通る声が流れ始めると、空気はまた違った温度に変わった。
その歌が終わると、自然と鈴葉の方にマイクが向けられる。
彼女は一瞬、固まったように動けなかった。
「鈴葉ちゃん、次どう?」
歌姫の問いかけに、鈴葉は小さくうなずく。
マイクを手に取る指先は、ほんの少し震えていた。
曲名は、たまたま目についた一曲を選んだ。特に思い入れがあるわけじゃない。ただ、知っている曲だったというだけ。
前奏が流れる。歌い出しのタイミングに合わせて、恐るおそる声を出した。
音程は正確じゃない。声も小さくて、強さはない。 けれど、それでも一音一音を大事に歌おうとしているのは、誰の耳にも伝わった。
歌い終えると、部屋に静かな余韻が残った。
「うん、いい声してるじゃん!」
歌姫がそう言って、マイクをぽんと叩いた。鈴葉は驚いたように彼女を見たあと、すぐに視線を伏せた。
「あ、ありがとう、ございます……えへへ」
笑ってしまったのは、きっと緊張のせいだ。
歌い終えた直後の胸の鼓動はまだ落ち着かず、マイクを両手で包んだまま、鈴葉はこっそりと息を吐いた。
「ふふ、初めてにしちゃ上出来でしょ。ね、硝子?」
「そうですね。結構うまかったよー」
短くて静かな言葉。それだけなのに、鈴葉の胸には妙に響いた。今までのループで感じたことのなかったこの感覚。
楽しい、と思った。
この時間が終わってほしくないと、ふとそう思った。
戦いでも、訓練でも、生き延びるための選択でもない。
ただ笑って、歌って、誰かと一緒に過ごしている。それだけのことが、こんなにも心を温かくするなんて。
何十回と繰り返してきた時間の中で、初めてだった。 ただの高校生として、ただの学生として、こうして誰かに受け入れられていると思えたのは。
そのあとは、三人で順番を気にせず、思いつくままに歌い続けた。
選曲の流れも気にせず、バラードのあとにアニメソング、次は懐メロと、まるでルールのないお祭りのようだった。
「うわ、それ懐かしい~!」
「硝子、次それ入れて!」
「鈴葉ちゃん、その曲合ってたよ~!」
笑い声が重なって、拍手が飛んで、時折ドリンクを飲みながら、また次の曲が始まる。
気づけば、最初にあった緊張はもうどこかへ消えていた。
鈴葉は歌って、聴いて、笑って──ただそれだけを繰り返していた。 それが、嬉しかった。楽しかった。
帰り際、三人は店の前で自然と足を止めた。
駅へ向かう道は同じ方向だったけれど、名残惜しさのせいか、歩き出すまでに少し時間がかかった。
「カラオケ、久々だったなー。あー楽しかった!」
そう言って、歌姫が両手を頭の後ろで組みながら、満足そうに息を吐いた。
「次は、もうちょっと曲練習しておきます。結構悔しい」
硝子が冗談めかして笑うと、歌姫が肩をすくめた。
「いやいや、あんた普通にうまかったでしょ。鈴葉ちゃんも良かったよ。あの曲、声と合ってた」
「え、ほんとうですか……? ありがとう、ございます」
気恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じながらも、鈴葉は素直に言葉を受け取った。
駅へ続く並木道。歩きながら交わす会話は、さっきまでの延長のように穏やかで、どこか温かかった。
「またねー!」
別れ際、歌姫が軽く手を振って別の路線へ歩いていく。
残された硝子と鈴葉は、並んで改札に向かって歩く。
「……楽しかったね」
ぽつりと呟いた鈴葉の声に、硝子が横目でちらりと見る。
「うん。鈴葉が楽しそうでよかった」
その言葉に、また胸が温かくなった。
──こんな日が、また来たらいい。
心の中で、鈴葉はそっと願った。
もしネタが浮かんだら次も日常回かも、です。
感想評価よろしくお願いします。
随分さきになるけど恋愛描写いる?
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いる
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いらない