以外と早く続いた。
片方が半ば押し切るような形で名乗り合ってからしばらく。二人は、ようやく土砂の流れが収まりつつある斜面に安全な場所を探りつつ、ようやく大木の上から地へと下り立った。フロッドは何やら装備を確認し、アクイーファは山影の仮面を深く被り直す。
来た道──重木坂はほぼえぐり取れるような形で消失してしまったため、帰還するにしても別ルートをとって進まねばならない。時分は既に深夜と言って差し支えない。いくら特殊な訓練を詰んだアクイーファといえど、地も滑るような雨の中、新規ルートを即席で暗索しながら歩くのは自殺行為だろう。
カンっと小気味の良い音がしたと思うと、フロッドの装備に吊り下げられた袋が仄かに光を帯び始めた。申し訳程度の光源として燐光石*1を割ったのだ。
「向こうに洞穴がある」
「雨ざらしのビバーク*2を覚悟していたが……それは有難い」
フロッドは必要最低限の情報だけ告げると、それ以上アクイーファと言葉を交わそうとする素振りは見せず、その洞窟とやらの心当たりに向けて歩を進める。アクイーファも気にせず、ただ黙って彼の背中に着いて歩く。先刻のヒステリー発作じみた哄笑が嘘かのように、今の彼女は落ち着き払っていた。
大男の背に小さく揺れる青白の光を追いながら思い出すのは、大木の上で交わした会話であった。
災いが去るのを待ちながら、状況把握や生存率の向上のための情報共有などをしているうちにアクイーファの興奮は収まり、彼女は再び仮面を被った。そして、会話はやがてフロッドの所属へと移っていった。
『では貴官が、ヨッカ戦線において撤退のたった一言で隊を勝利に導いたと噂高い、あの』
『導いたつもりなどない。お前にした忠告と似たようなことを言ったまで。噂は噂だ』
『つまり、洪水を予期し撤退を命じて、その背を追わんとした敵軍は避難が遅れて勝手に半壊滅状態になったと』
『そうだ』
『噂通りだ』
直近の任務だけでも二連続で水害に遭うだなんて不吉な、とは思わないでもない。しかし今年の雨季は例年に増して激しい。運が悪ければ──或いは良ければ──そういったことも有り得ないというほどではなかろう。
フラッド・ガイス征尉。由緒ある戦士階級の生まれで、出世要件である遣傭遠征のため門衛府*3から征務府*4へと出向を命じられた中堅官司。彼はアクイーファの問いに対しテンポよく答えていった。ある種尋問じみた雰囲気すらも醸し始めていたそれに疑問一つ抱いた様子もなく、それはもう率直に。
『私も山影として日和見や危機察知の術は一通り修めているが、貴官のそれには遠く及ばなそうだ。一体どんな技術なのかな』
『……』
そこで初めて、フロッドが口籠る。しかし急ぐ理由もない。アクイーファは彼が口を開く少しの間を黙って見守った。
『……山が教えた』
『山が?』
『山にも声はあろう。だがそれを言うと誰もが今のお前のような顔をする』
『ああ、なるほど。それで』
要は、直感に基づいた、極めて共感が得られ難く再現性の低い能力なのだろう。そして本人の言葉も足らず、聞かれて答える度にこういう空気になると。それが、先程彼がしばし逡巡した訳か。
『じゃあ、その声を分解していくことは?』
『分解』
『そう。山が、何を通して貴官に予知を授けるのか。その声の出処は?』
『……山の全てが常にそれを発している。故に山の声と呼んでいる』
『分かった。では、今回の災いに限って聞こう。これが分かった一番の要因は?』
『……山が……いや。音が、聞こえなかった。それが合図だ』
『音』
彼の言葉に、アクイーファは重木坂を見下ろした時に感じたことを思い出した。確かにあの時、森は静かだった。己からすればほんの些細な違和感に、この男は百の意味を見つけられるのかもしれない。アクイーファはフロッドの能力の片鱗を朧気ながら掴めたような気がした。
『そうか、音。それにしても奇怪だな。音がないのが声であり、合図であると』
『そういうこともある』
『合図がそれだとしたら、前兆のようなものもあったのか?』
『ああ。だから調査に出ていた』
『聞かせてもらおう』
フロッドはヨッカから国に戻り、この補給路整備の隊を任されていた。専門職を交えた先遣隊による事前の地質調査では、この斜面は安定しているとの結果が報告されたそうだ。アクイーファは頷く。ルートは違えど、彼女にも同様の情報が降りてきていたからだ。
しかしその報告と現地の様子を実際に目にしたフロッドは違和感を抱き、行動日程を無理やり後ろにずらし込んで、単身調査に乗り出していた、と。
『まず感じたのは植生の不自然な重なりだ。森が本来あるべきではない姿で形成されていた。恐らく、その特性に由来して先人がこの斜面を名付けたのだろう』
『重木……。急勾配で木々が折り重なっているように見えるからだとばかり』
『それだけなら山の不確実性に基づく帳尻合わせに過ぎないだろう。問題は、山の気が乱れていたことだ』
『山の気とは』
『……匂い。土中から僅かな冷気を伴う独特の臭気がした。例外はあるが、多くの場合凶兆の匂いだ。それを感じ取り、説明は後にすると押し切って隊を下げた』
『……確かに、その理由では誰も納得できないだろう。伏せて正解だ』
『そしてその“納得できる正当な理由”を見つけるために調査に出ていた。見つけた時には既に斜面は静まり返っていたがな』
『その時に見かけたのが私、というわけか。ちなみに、発見した“正当な理由”は?』
『湧水だ。この地形と地質であれば、雨後もしばらく絶えず流れ出る小さな湧水が、特定の場所に必ずあるはず。それがここでは一切無くなっていた。雨季の最中にありながら、だ』
『なるほど。それなら行き場を失った水が最後にどうなるか、想像に難くない。間に合えば上も再調査を検討していたことだろう』
総合すれば、重木坂は元々特殊な地域で、この激しい雨季によってか或いは別の何かしらの原因で排水が正常になされなくなった、ということなのだろう。それを感覚だけで瞬時に判断し、その証明のために危険を顧みず一人で裏取りに向かうとは。彼も大概馬鹿だ。それも、天才と紙一重の方の。実に興味深かった。
『あ』
『どうした』
『いや。何でも』
話が一区切りつき、冷静になって再び辺りを見渡すと、アクイーファは眼下に家屋の大破した残骸らしき材木の纏まりを見つけた。見覚えのあるそれに記憶を辿ると、それが件の集団が談合に使っていた木こり小屋だったものだと思い至った。
『不幸中の幸いか。仕事が一つ減っただけのこと』
『そうか。俺は逆に増えそうだがな』
『……頑張れ』
この分では、谷側の村も無事で済んではいまい。その後始末を誰がするかと問われれば、まず槍玉に上がるのは、近くに待機していた補給路の整備隊である彼らだろう。
……それに比べて。アクイーファは思う。己のなんと運に恵まれたことか。どうせ殺すことになる若者たちは既に居らず、対外的には転落事故などのカバーストーリーを用意しなければいけないところを、自然災害という絶対の事実がそれらを全て洗い流してしまった。友情はただの友情のまま、陰謀に塗り替えられる間もなく土の下だ。村人たちについても、山に生きていれば誰しもがいつかはそうなる可能性を抱えていくことになる。
仕事が減って、休暇でも下りるかもしれない。そんな無理な妄想に浸りつつ、アクイーファはたまに沈黙を挟みながらも、フロッドとの会話を続けた。
「──着いたぞ」
「ここか」
フロッドが振り返ったことで燐光石の光が遠のき、アクイーファの意識は現在に引き戻された。そこはアクイーファがちょうど立って入れるほどの高さと、十米突ほどの奥行きのある、実に都合のいい横穴であった。
そう遠くない最深部まで進むと、燐光石の光に照らされ、そこにあるべきでない物のシルエットが浮かび上がった。
「……」
「火を起こす。火口は……おい?」
石を積んで築かれた小さな台と、そこへ置かれた清水入りの杯。そして既に消された後ではあるが確実に火が起こされていたであろうことが伺える濡れた消し炭。その両脇に捧げるように差された、イネ科薬草の穂。
「祭壇。」
「ああ、これか。略式だがな。調査の前に軽く日照り乞いの儀式を行った」
「…………はぁ」
随分あっさりと、とんでもない行いを認めてくれるものだ。儀式の管轄が巫読府*5にあり、総導案件ではないから山影にバレても問題ない、とでも思っているのだろうか。
「天候操作の儀式は我々には禁じられている。知らない訳ではないな」
「……当然だが、オビシンドに伝わる儀式と呼ばれる行いの全てはそう万能なものではない。古くから民間レベルで脈々と受け継がれてきた、ただ山の意を伺う程度のものだ。その結果で特別な力などは生まれない。巫読府の公表した中で妥当な禁止要件など、『火災を防ぐため』ぐらいなものだ。であれば、火の用心さえすれば禁止される謂れは無い」
「待て。待て待て。自分が何を言ってるか分かっているのか?」
エン・オビシンドでは、敵を退ける力を持ちそれを行使できる者が人の上に立つべきという考えが主流であり、発言力や象徴性は武官に集中し、文官は肩身の狭い思いをすることがままある。しかし当然ながら国の運営に文官は必要不可欠であり、その裁量権を増やす理由付けのために涙ぐましい工作が行われている。儀式のさらなる神聖化と一般禁止もその一つだ。儀式を独占、その結果の情報を統制し、信仰の帰属を一本化することで、山の威光を利用……もとい、お借りしようというわけだ。言ってしまえばただの方便。フロッドの言うことはきっと正しいのだろう。
しかし、それを他人に面と向かって話せてしまうのは、あまりに危うい。その相手が山影だとかそれ以前の問題だ。
そんなアクイーファの呆れを知ってか知らずか、フロッドは当たり前のようにこう続けた。
「お前が気にしたから説明したまでだが」
「……なるほど。よく分かった」
逆だ。
この男には、相手が山影だから発言に気をつけようだとか、そういう発想が根本から存在しないのだ。逆に、相手が山影だから聞かれたことに対し包み隠さず答える。つまりはそういうことなのだ。
「……私に口封じに殺されることについて、どう考える」
「山に選ばれし者である山影によってその判断が下されるのであれば、そのままそれが山の意思だろう」
「ではその逆も?」
「然りだ」
自分の生き死にに頓着が無いわけでもなければ、絶望的に空気が読めないわけでもない。それでもどこかに確かに感じる、フロッドのコミュニケーションの不自然さ。恐らくその理由の一端。
どうもこの男は祖国や総導にではなく、山そのものに忠誠を誓っているらしい──。
一体いつの時代の山岳民だ! アクイーファは仮面越しに頭を抱えた。
「……火を起こすんだったな」
「ああ。夜は冷える」
「せっかくだ。日照り乞い、私にもやって見せてくれ」
「……山影では」
「……今更だろう」
先程熱弁した持論は何だったのかと思うほど、手のひらを返して懸念を示すフロッド。しかし先に手のひらを返したのはアクイーファだ。彼女は何を言うべきか一頻り考えたが、結局、聞き覚えのあるやり取りに帰結させて会話を区切りとした。
山影の衛であるアクイーファにとって、種々の儀式は既知のものであった。しかし、それは山影としての訓練課程で修めた教本的知識以上の意味を持たず、彼女個人としては“山の意思”なんてもの、端から信じてなどいない。物心ついた時には既に禁止されていたそれを、信じてもいないのにわざわざ試そうとする理由などあるはずもなく。実際にそれを目にするのは、これが初めてだ。
──山には大いなる意思があり、それによって選ばれし者たちが山の影となり、山の代弁として裏舞台から民を導く──。古くから言い伝えられる山影の衛の成り立ちだ。その歴史は、山の統率者が総導という名で呼ばれだすよりも古いという。
山の意思。山の意思。アクイーファは口を閉じたまま中で舌を転がしてその言葉を声に出さず発して噛み砕くが、やはり彼女の腑にその概念が落ち込むことは終ぞなかった。
「準備がいいな」
「そうでもない。略式であれば、この時期どこでも手に入るものしか必要とされない」
「常習犯め」
フロッドは古い草と水を捨て、その器に新しく清水を注ぎ薬草を差す。
「ほとんど濡れ木のようなものだな。火が着きにくいだろう」
「問題ない」
「こっちが焦れる。もっとガンガン火口を使おう」
いくつか洞穴に残っていた焚き木を祭壇の中心で組む。その下に、アクイーファが携帯していた圧縮綿をモコモコこれでもかと押し込んでいく。
「儀式は山の意を伺う程度のもの。そう言ったね」
「そうだ」
「では何故、貴官は調査の前にこの儀式を?」
それでも湿気に満ちた洞穴ではなかなか発火に至らず、火打石と打ち金の出す火花の光がほんの刹那、二人を彩る。
「それで雨が引くと分かれば、それに越したことはない。まだ降り降り続くと分かっても、祈りと願いを捧げる程度は許される。聞き届けるかは山の気紛れだがな」
「願い? 何を」
チリチリ、と種火が、綿の中でその熱と光を増し始めていた。
「優秀な山の民が、間違ってもこの災いに巻き込まれることのないように、と」
「殊勝だな。私もそれが叶うことを願っておこう」
「いや」
ボウッと音を立てて、綿が燃え上がる。
「既に叶った」
安定した炎が隙間風に揺らめく。またいくらか火口を継ぎ足せば、そのうち湿気た枝木にも燃え移ることだろう。
「誰が?」
「若き山影が」
「……儀式に特別な力は無いのでは?」
「山にはある」
「そういう理屈か」
優秀だと言われて悪い気はしないが、やはり山の意思とやらはピンとこない。
「それが私のことを指しているなら、助けたのは貴官では?」
「山がその気なら、どれほど抵抗したところで術無く命を呑み込まれていた」
「そういう理屈か」
焚き木に火が回り始めると、フロッドは静かに目を閉じた。日照りを乞う慎ましやかな祝詞に簡単な所作を添え、儀式が始まった。
知識によると、民の乞いに山が応えたら薬草の穂先に微かな変化が生じるらしい。それでいくと、どうも山は彼の日照り乞いに答えなかったようだ。仮に応えていたとして、アクイーファの目にはどちらも変わらないように見えるのだろうが。
一方のフロッドはきっと、その機微をつぶさに感じ取れるだろう。
禁じられた儀式を朝露ほどの悪気もなく行うこの男が、人に混じってどんな景色を見ているのか。山影の情報網でそれとなく彼の配属や功績を追いながらそれを想像するのだ。その妄想は、アクイーファにとってとても面白いもののように思えた。
端的に言えば、アクイーファは己の娯楽のために、フロッドを殺すことに迷い始めていた。
「……」
儀式の所作が終わり、再び目を開けたフロッドに、アクイーファは問う。
「フロッド・ガイス征尉」
「なんだ」
「山影は山に選ばれた存在か」
未だに山の意思なんてものには懐疑的であるし、自分がそれに選ばれたという話も眉唾だ。しかし確かに、今日までアクイーファ・ブラント衛士は、おおよそ人間のやることではない山影としてその任を、全うに務めあげてきた。
然らば。
「そうだ」
「はは」
男に素性の割れた山影が災いに遭いながらも、その男の祈りによって生き延び、その男を生かそうと言うのならば。それ即ち、山の意思ではなかろうか。
国の禁ずる儀式の共犯となった、この男の言に準ずれば。
己こそが、山の意思らしいのだから。
「酷い冗談だ」
社会科に強い人とかだと蕁麻疹が出るほどお粗末なんだろうなと思いつつも、付け焼き刃な世界観設定がやめられない。