別に、特別な出会いがあったわけではない。
小鳥遊忍がボールを蹴り始めたのは、店頭テレビの映像がきっかけだった。
家の近くの商店街にある家電屋のテレビに映っていた、女子サッカー日本代表の試合。
サッカーという競技は知っていたが、詳しいことは全く分からない。それまでの忍にとってのサッカーは、なぜわざわざ手を使わずに足でボールを扱うのか、という一抹の疑問を抱くのがせいぜいだった。
だが、そのテレビに映っていた選手のプレーは、少女の目を釘付けにするには十分なほど華麗で、力強く、魅力に富んでいた。
細かいボールの動きをしたかと思えば、豪快なシュートを相手のゴールに叩き込む。
長いような短いような、時間すらも忘れてしまうほど、幼い忍はその選手のプレーに見入っていた。
家に帰ると、忍は古くなったサッカーボールを抱え、家の近くの公園で1人でボール遊びを始めた。そのボールは、そこらの海岸で拾ったものだ。他の子供が親からもらうようなおもちゃなど、指で数えるほどしか与えられたことがない。だから自分で探した。あの映像に映っていた人のプレーを真似したい、その一心で。
サッカーを教えてくれる大人はいなかった。父親は忍が生まれてすぐ家を出ていき、母は毎晩誰とも知らぬ男と遊んでいた。
毎回毎回変わる、家に居座る変な男たち。
忍は邪魔だと言われ、押し込められるように別の部屋に移された。時には殴られたこともあり、今でも顔にその時の傷が残っている。
散らかったコンビニ弁当の容器。中身が入ったままのペットボトル。
頼れるのは、自分の目で見たものだけ。
強いて挙げるなら、人間以外が自分のコーチだった。毎週中継されている、男子サッカーの映像も参考にしたり、学校の図書室にあるサッカーの本を読み漁ったり。とにかく、あの選手のプレーに近づけるのなら何でも使った。
小学校にもサッカークラブはあったが、当然そんなものに入れさせてくれる母親ではない。周りにはサッカーをやっている女の子すらいない。
「オンナがサッカーなんかやってんじゃねーよ!」
酷い時には、男子にそう言われた時もあった。家庭環境からくる変な噂とと、全く表情を動かさない忍本人の近寄りがたさ、あるいは両方のせいでずっと孤立していた。
それでも、忍は「ボール遊び」をやめなかった。
いつのまにか、それが自分を救ってくれるような気がしていたから。
「よぉ。小鳥遊忍…だろ?俺、不動ってんだけど」
そして中学2年の時、そいつは現れた。久しぶりにあの人がテレビに出ていて、いつものように黙って試合を観ていたが、その後あの人は現役引退を表明した。
心に得体の知れない穴が空いた、ちょうどそのタイミングでの出来事だった。
忍の目の前に現れたのは、見るからに怪しく、中身はもっとイカれていたモヒカン野郎だ。
一体、どこで忍のことを知ったのかは知らない。学校内での風の噂だとか、そんなところだろう。
不動明王、と名乗ったそのイカレ野郎はこう言った。
「こんな所に押し込められて可哀想にねぇ。で、お前このままでいいわけ?本当にやりたい事とかねぇの?」
「知らない。てか、誰だよ。キモいから帰れ」
「おらよ」
忍が目を逸らした瞬間、不動は思いっきりボールを蹴り込んできた。
忍の左足に勢いを殺されたボールが足元に落ちる。
「へーえ。噂になってるだけはあるみたいだな」
「…だったら?」
「俺のチームに来いよ」
「は?」
初めてチームに誘われたのが、その一言だった。
普通の人間なら、そんな奴の誘いなど断っていただろう。しかし、忍はその一言が言えなかった。戸惑いと疑惑が混濁していた。
「お前だって、本当は力が欲しい。そうだろ?誰にも負けない強い力を手に入れて、この世界の誰よりも強くなりたい。だろ?」
不動がそう言った瞬間、その胸のあたりが妖しく光り始めた。見たこともない、不気味で美しい色。不思議な感覚だ。
「もっと力を欲してみろよ!ほら!ひゃひゃひゃひゃ!」
徐々に、不動の言葉の中に狂気が増していく。
同時に、忍は自分の心の奥から感じたこともないような気持ちが溢れてくるのが分かった。
…ああ、これだ。
私は、強くなりたかったんだ。
あの人みたいに…いや、あの人よりも強くなれる。
「……あは。アハハハハ!これ良いじゃん!」
どのみちここで断って家に帰れば、母親に酷い目に遭わされる。髪を伸ばして隠している、左目の上の大きな傷はその時のものだ。
帰る場所なんてない。だったら、もう自由にやってしまおう。エイリア石とかいう石を携えて、忍は真・帝国学園の一員となった。
そして、何ひとつとして残らなかった。
力だけを求めたサッカーの最期は実にあっけないもので。
最初で最後の対外試合は、引き分けという微妙な結果でチームは解散。真・帝国学園のスタジアムは海に沈み、選手は皆それぞれの場所へと帰っていった。
今になって考えてみれば、勝てなかったのは当然の結果だ。エイリア石とかいう得体の知れないものに頼っていたのだから。
そんなこと、分かってる。
忍も佐久間も源田も、みんな分かっていた。
でも、分かった所で何になる?
特に忍にとっては、以前の自分に逆戻りしたにすぎなかった。むしろ、曲がりなりにもサッカーが出来ていた真・帝国学園の方がましだったのかもしれない。
結局、忍は以前と変わらずボールを蹴るしかなかった。
どうせ、フットボールフロンティアには男子しか出られないのだ、今さら自分なんかがやる気を出しても意味はない。
そんな風に腐りかけていた忍だったが、海岸で拾ったボールはいつまでも自分のもとを離れようとしなかった。
空き地の壁に向かってドリブルをして、ボールを蹴る。
相手をイメージして、パスを出す。跳ね返ったボールをトラップする。
動きもしないそこらの石を見立てて、触れないようにボールキープ。
いつもやっていた事に少し変化を加えて、新しい動きをやってみる。
「あのさァ、あんた、いつまでそんなことしてるわけェ?」
「……!!」
周りには誰もいないのに、ふとそんな声が聞こえてくる。
忍には分かっていた。これは、自分自身の声だ。
「知るか、ばーか」
忍は独り言で言い返した。
仲間なんていない。意味なんてない。ただの自己満足だ。これなら、真・帝国学園の方がよほどサッカーとして成立している。
だが、忍が自分を保つにはこの「ボール遊び」しかなかった。
それを邪魔する奴は許さない。自分が自分で無くなる気がしたから。