ユーフェミアの口から放たれた、おぞましく絶望的な命令――「日本人の皆さん……死んでいただけますか?」――その言葉は、悪夢の宣告のように富士山麓の広大な式典会場に響き渡り、一瞬にして数万の聴衆を奈落の底へと突き落とした。希望に満ちていたはずの祝祭の場は、理解不能な恐怖と、裏切られた怒りと、そして生存本能からくる原始的なパニックが渦巻く、地獄絵図へと変貌しようとしていた。
「全軍、最大警戒態-勢! 副総督殿下のご身柄を、何としてでも確保せよ! 何があっても、殿下に発砲させるな! そして…『シールド・オブ・ヴァルハラ』、強制起動ッ!!! 目標、ユーフェミア・リ・ブリタニア殿下!!!」
指揮ブースからのレオンハルト・ジークフリート・アイゼンの絶叫にも似た命令は、彼の全身全霊の祈りであり、そして最後の希望だった。彼が両親と共に開発を進めてきた対ギアス兵器、ギアスキャンセラー『シールド・オブ・ヴァルハラ』。それが今、ユーフェミアに向けて、不可視の、しかしギアスという呪縛を断ち切るためのエネルギー波を照射した。
壇上では、ユーフェミアが、奪い取った拳銃の銃口を、震える手で、しかし確実に、目の前にいたイレヴンの代表者たちに向けていた。その大きな瞳は虚ろで、焦点が合っておらず、まるで何かに操られているかのようだった。彼女の唇が、再びあの恐ろしい言葉を紡ごうとした、まさにその刹那――
「ユーフェミア様っ!!!」
空気を切り裂くような絶叫と共に、純白のナイトメアフレーム『ランスロット』が、ユーフェミアとイレヴンたちの間に割って入った。パイロットは、彼女の騎士、枢木スザク。彼は、ユーフェミアの信じられない豹変に愕然としながらも、彼女を傷つけることなく、そして彼女に罪を犯させないために、身を挺してその凶行を止めようとしたのだ。ランスロットの白い腕が、ユーフェミアの細い腕を優しく、しかし力強く掴み、銃口の向きを逸らそうとする。
その同じ瞬間、ユーフェミアの背後から音もなく接近した『ジークフリード・レジーナ』の巨大なマニピュレーターが、ランスロットとは反対側から、彼女の身体を包み込むように優しく、しかし確実に拘束した。そして、レオンハルトの指示通り照射されたギアスキャンセラーのエネルギー波が、ユーフェミアの精神を蝕んでいたルルーシュのギアスを、まるで霧を払うかのように、急速に中和していった。
「あ……あ……わたくしは……何を……?」
ユーフェミアの虚ろだった瞳に、急速に光が戻り始めた。焦点が合い、彼女は自分の手に握られた拳銃と、目の前で悲鳴を上げる人々、そして自分を拘束する二機のナイトメアフレームを、混乱と恐怖に彩られた表情で見つめた。先ほどまでの、機械のような冷たい声と無表情は消え失せ、代わりに、自分が何をしようとしていたのか、そして何を口走ってしまったのかを断片的に理解し始めたことによる、血の気の引いたような蒼白な顔色と、激しい動悸が彼女を襲った。
「いや……いやあああああっ!!!」
ユーフェミアは、耐え難い恐怖と自己嫌悪から、甲高い悲鳴を上げた。その手から拳銃が滑り落ち、カランと乾いた音を立ててステージに転がる。彼女は、自分が世界に対して、取り返しのつかない恐ろしい言葉を発してしまったことを、そして、それを実行しようとしていたことを、断片的な記憶の中から理解し、その場で崩れ落ちそうになった。
「ユーフェミア様! お気を確かに!」
スザクが、ランスロットのマニピュレーターで彼女を支えようとする。
「殿下、ご無事ですか!?」
レオンハルトもまた、安堵と、しかしこれから起こるであろう事態への新たな緊張感に声を震わせた。ギアスキャンセラーは効果を発揮した。ユーフェミア自身の行動は、最悪の事態に至る寸前で阻止できたのだ。しかし――
時既に遅し。
ユーフェミアの最初の命令――「日本人の皆さん……死んでいただけますか?」――その言葉は、既に多くのブリタニア軍兵士の耳に届いてしまっていた。そして、その言葉を「副総督殿下の正式なご命令」と誤認した、あるいは、元々ナンバーズに対する強い差別意識と攻撃性を抱えていた一部の狂信的な兵士たちが、壇上の混乱を好機と捉え、会場にいるイレヴンたちに向けて、無差別に発砲を開始してしまったのだ。
「副総督殿下のご命令だ! 日本人を殲滅しろ!」
「ブリタニアに逆らう不逞の輩は皆殺しだ!」
銃声が、平和の象徴となるはずだったスタジアムに響き渡り、希望の祭典は一瞬にして血塗られた殺戮の舞台へと変貌した。悲鳴、怒号、そして無慈悲な銃弾の雨。イレヴンたちは、なすすべもなく撃ち倒されていく。ユーフェミアが正気を取り戻したことなど、暴走を始めた彼らには知る由もなかった。
「やめろぉぉぉっ!!!」
スザクの絶叫が虚しく響き渡る。彼は、ユーフェミアが無事であったことに安堵したのも束の間、目の前で繰り広げられる地獄絵図に、怒りと絶望で我を忘れそうになっていた。
「なぜだ…! ユーフェミア様は、もう…!」
「くそっ…! これが…これが、ギアスという力の恐ろしさか…! たとえユーフェミア様ご自身を止められても、一度放たれた言葉の呪いは、こうも簡単に暴走を引き起こすのか…! ルルーシュ…お前のギアスが、こんな形で…! 意図したものではなかったとしても、この結果を、お前はどう受け止めるのだ…!」
レオンハルトは、歯噛みしながら現状を分析していた。ギアスキャンセラーは確かにユーフェミアを救った。しかし、彼女の口から発せられた「命令」は、既に独り歩きを始め、ブリタニア兵の心の奥底に潜んでいた差別意識と暴力性を引きずり出し、この惨劇を引き起こしてしまったのだ。そして、この混乱は、必ずやゼロ…いや、ルルーシュに利用されるだろう。彼がこの事態を望んでいなかったとしても、結果として、彼はこの悲劇を自らの目的のために使わざるを得なくなる。その運命の皮肉と、ギアスという力の業の深さに、レオンハルトは言葉にならない戦慄を覚えた。
その予測通り、スタジアムの外周部で、大規模な爆発が連続して発生した。黒の騎士団が、この阿鼻叫喚の状況を「ブリタニアによる計画的な日本人虐殺」と断じ、イレヴン救出とブリタニア軍への「正義の鉄槌」を大義名分として掲げ、会場への突入を開始したのだ。彼らの行動は、結果的にさらなる混乱と犠牲者を生み出すことになるだろう。
(ルルーシュ…! やはり、お前はこの状況を待っていたのか…いや、待っていたわけではないはずだ。だが、この悲劇すらも、自らの目的のために利用するのか…! ユーフェミア様の純粋な理想を、そして彼女が背負わされたこの汚名を…! それがお前の選んだ道だというのか!)
レオンハルトは、黒の騎士団の出現を予測していたが、そのタイミングの絶妙さと、彼らが掲げる「正義」の危うさ、そして何よりも、この悲劇的な状況を作り出す引き金を引いてしまったルルーシュの運命と、それを利用せざるを得ないであろう彼の苦悩に、言葉にならないほどの複雑な感情を覚えていた。それは、単純な怒りや憎しみではなく、もっと深い、運命の理不尽さへの絶望に近い感情だった。
『ジークフリード・レジーナ』は、正気を取り戻し恐怖に震えるユーフェミアを、そのマニピュレーターで優しく保護しながら、暴走するブリタニア兵と突入してくる黒の騎士団の双方に対処しなければならないという、絶望的な状況に追い込まれた。モニカの『ディアナ・フェンサー』も、レオンハルトと連携し、ユーフェミアの周囲を固めつつ、群衆の避難誘導と、黒の騎士団の侵攻阻止に奮闘しているが、圧倒的な数の敵と、パニックに陥った群衆によって、その動きは著しく制限されていた。
「モニカ、持ちこたえろ! 何としてもユーフェミア様をこの地獄からお連れする! その後、すぐに掃討作戦に移行する!」
「了解! ですが、レオンハルト、あなたもどうかご無事で! そして、ユーフェミア様を…必ず…!」
レオンハルトは、『ジークフリード・レジーナ』の機動力を最大限に活かし、ユーフェミアを抱えたまま、戦場からの離脱を図ろうとした。しかし、その行く手を、黒の騎士団のエース、カレン・シュタットフェルトの駆る紅蓮弐式が、燃えるような憎悪をその真紅の機体に漲らせて阻んだ。
「逃がすものか、ブリタニアの悪魔! そして、その女狐もだ! 日本人を殺せと命じた、その罪、ここで償わせてやる!」
カレンの瞳には、ブリタニアへの激しい憎悪と、そしてユーフェミアへの裏切られたという怒りが、復讐の炎となって燃え盛っていた。彼女には、ユーフェミアが正気を取り戻したことなど知る由もなかった。
「そこをどけ、黒の騎士団! 今は、お前たちと争っている場合ではない! ユーフェミア様は…!」
レオンハルトは、ツヴァイヘンダー・ランツェをランスモードに変形させ、紅蓮弐式に牽制の一撃を放つ。しかし、紅蓮弐式は、その輻射波動の右腕で巧みにそれを受け流し、逆に『ジークフリー-ド・レジーナ』の懐へと、獣のような俊敏さで飛び込んできた。
「この女が、日本人を殺せと命じたんだ! あんたも、その命令に従うのか!? それとも、あんたが操っているのか!?」
カレンの怒りに満ちた叫びが、レオンハルトの心を、そしてコックピットの中で恐怖に震えるユーフェミアの心を、容赦なく抉る。
(違う…! ユーフェミア様は、そんなことを望んではいない! あれは、ギアスによるものなんだ…! だが、それを今、この戦場で、どうやって証明しろというのだ…!? そして、この惨状を…どうすれば…)
レオンハルトは、言葉にならない慟哭を胸に押し殺し、紅蓮弐式との激しい近接戦闘を繰り広げながら、ユーフェミアを安全な場所へと導こうと必死だった。彼の白い機体は、血染めの理想と、狂気に染まった現実の間で、ただ一人、孤独な戦いを続けていた。
スタジアムは、炎と煙、そしておびただしい数の死者たちの血で、おぞましいまでに赤く染まっていた。ユーフェミアが心から夢見た、白く清らかな理想郷は、あまりにも無残に、そして決定的に打ち砕かれようとしていた。
そして、この全ての悲劇の元凶の一端を担ってしまったルルーシュ・ランペルージは、遠く離れた場所で、自らが引き起こしてしまった取り返しのつかない事態の報を聞き、言葉を失い、ただ絶望の淵に沈み、そして己のギアスという力の制御できなさと、運命の残酷さを呪うしかなかった。レオンハルトは、そのルルーシュの苦悩を、原作知識から痛いほど理解できてしまうが故に、単純な怒りを向けることすらできなかった。ただ、この悲劇をどう収拾し、ユーフェミアをどう守るか、それだけを考えていた。
白銀の騎士の慟哭は、誰にも届かない。
一縷の光は灯ったものの、悲劇の歯車は、もはや誰にも止められないかのように、凄まじい速度で、破滅へと向かって回り続けていた。