[Marfusha Reisen]: Vital lost
[Marfusha Reisen]: Collecting crisis.
[Marfusha Reisen]: Collecting crisis..
[Marfusha Reisen]: Collecting crisis...
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・月の怪談 第五槐安通路
玉兎の間で語り継がれる、槐安通路にまつわる噂があった。
槐安通路は一種のワームホールといっていい。ワームホールは時空を折りたたみ、高次元方向から見て穴が開いたような形状を作ることで遠く離れた二地点を繋ぐ。洗面所のシンクを思い浮かべるとわかりやすい。シンクの表面という二次元空間上で排水口に落ちるとき、その視界は排水口を落ちる二次元世界の住人にとって直感的に理解しにくい形で歪む。そのような視界の中で行き先を見失わないようにするために、たとえば第四槐安通路には赤色の格子模様が敷かれている。
一九六八年、外の世界…… というのは幻想郷に堕ちた私の呼び方であって、月では単に地上と呼んでいるが、とにかく外の世界で公開された映画のクライマックスで、宇宙を駆ける主人公の視界を槐安通路そのままの模様が飛び去るという描写が登場した。
それが描かれた経緯についても多くの憶測が飛び交った。しかし最も強く玉兎たちの関心を惹きつけたのは、その模様の数である。その映画には、玉兎たちが知るどの槐安通路にも張られていない模様が写っていた。
§
穢れに溺れる夢を見る。ペイルムーンを黒に染め、我ら兎の真白きを、我らが清き真白きを、暴き真赤を曝け出す。そんな呪い。
地上に堕ちてなお、片時も忘れぬ戦友に何度懺いたことだろう。自らの能わざるが故に、時に見届け、時に踏み越え、時に介錯さえした戦友に。
その介錯に際し用いられたのが、今私がいる永遠亭の倉庫に安置された、鈍色にくすんだドッグタグである。ボールチェーンで一緒にぶら下がっているピルケースの中にあるのは今際の際に見せる夢、通称ドリーマー。散ったはらわたの穢れたるより目を背け、せめて清浄な死を祈るための、脆い錠剤。
「……」
現実はそうもいかなかった。自分の首から仲間がこれをもぎ取ったときは、つまり自分の命を見限られたときである。それを見て素直に口を開く者などそういない。
れいせん、私まだ歩ける。そう言ってちぎれかけた右脚の膝を微かに曲げてみせる。あのときの自分はどうかしていた。あんな場面に馴れすぎていた。
細いチェーンでがんじがらめになったドッグタグの塊から、彼女の本名が刻印されたものを選び取ってピルケースを開ける。中は空。私が持ち主の舌の裏に、親指で押し込んだのだ。熱で干からびた唇をこじ開けて。爆風に乗った破片で上唇が裂けていたのは、その前の奴だったかな。とにかく、どんな状態であれ夢を見始めればおとなしくなるから、迷いなくそうした。本人にとって辛いのは、死ぬか夢を見るかするまでの間だけだ。
支給されるのは一人一錠きり。生きる希望を見る限り誰も飲まない。だから仲間が飲ませるのが常であり、さらに生きている中で夢を見た者もいない。ドリーマーを提唱し作り出した八意永琳師も口を開かず、製造に関わる者の誰も、最終生成物たるドリーマーがどんな物質で、どこにどう作用するかさえ知らない。
「……れいせん」
自分のタグも幾人もの殉職者のそれに混じり、同じように絡み合っている。ただ一つ違うのは、ロジウムメッキの施されたチェーンに、皮脂によるものを除いて一切の曇りがないことだ。彼女らのそれについた血肉と二酸化ケイ素の泥を洗い流すと本人のことを排水溝に棄てることになるような気がして、他はそのままにしている。穢れこそが我々の身体を成すということを、玉兎それぞれは血反吐によって知る。
自分のタグを置いてくるべきだった。月からの離反とは、死ぬも同然だ。置いてくれば余分なドリーマーが誰かの助けになっただろうに、私はあのとき自分のことを誰にも覚えていてほしくなかったから、持ち帰った。……いや単に地上まで自分を運ぶ羽衣を信じられなかっただけかもしれない。
永琳はその人知を超えた力を、永遠亭において蓬莱山輝夜に次いで彼女と最も近く長くいる私にさえもめったに行使しない。記憶にあるのはこのドリーマーと、紺珠の薬だけだ。あとはこの幻想郷の人間たちが知る程度の薬しか作らない。
これは私のドッグタグ。名ばかりの槐安とは違う、死者だけが知る、はかない夢。私の夢、未だ見ぬ夢だ。
ピルケースを指で捻ると、やはりあった。扁平の錠剤がわずかに粉になってケースの内側を白く汚している。かつて見慣れた光景である。
見慣れた光景、見慣れた感触。手のひらに出した錠剤をもう一方の手でつまんだまま逡巡した。本当に飲ませるのか? 終わらせるのか? まだ息があるのに?
『いや息してない。顎が動いてるだけだよ』
……違う。これは自分の薬だ。ここは地上、お前は死んだ。お前たちはみんな死んでいる。
『正しかったよ。鈴仙は正しかった。生きたはずだとか関係ない、みんなに穢れを受け入れさせた。それだけで十分だよ』
「黙っててよ、お願いだから…… 二回も死ななくたって、目の色がなんでできてるかぐらいわかってる! うんざりするほど見せてくれたじゃない!」
舌に乗せた錠剤が瞬く間に粉となり、えもいわれぬ甘みが舌を這う。
心臓を強く打たれた。全身が熱い。血流が遅れ、身体の隅々で軽く鬱血を起こしている。立っていられない。ただそれだけではなかった。背筋を撫でられるような、ささやかな、しかし無上の快感が、全身の力を抜いていく。ああやっぱり、生物は機械だ。血中を漂う何かによってどうにでもなる。きっと私は今、あいつらと同じ目をして倒れているに違いない。
快感? 違うかもしれない。不安は未来に付随する。未来を忘るるを自らに許すことで、純然とした満足を堪能している。強制的に脱力させられているのか、これ以上の満足を自力で求めに行く必要がなくなっただけなのか、よくわからない。どうでもいい。少なくとも、それを追求して得る満足が現状のそれを超えることがないのは確かだから、これ以上考えるのをやめた。
その後に訪れたのは夢だった。動物が毎晩見ては忘れていく、何の具体性もない、どこまでも均質な、夢。情景も思考もない、ただひとつ、夢の中でさえはっきりと自分の体の形を自覚できるほど隅々までを駆け巡る、幸福がある。幸福とは感覚だ。
どれだけそうしていたかわからないが、薬が切れ始め夢から現に戻りつつあることはすぐにわかった。初めにやってきた思考は、「フラッシュバックって薬で溶かせるんだ」だった。私は内言で思考する。こんな方法でトラウマに対する成功体験を積んじゃいけない、生きられないことを前提に安全性という枷を外した薬なんて、一度は助かっても二度目はない、これを成功体験にしちゃいけない、まだまともに考えられる、いやまともに考えられるならベネフィットがロスを超えて成功体験になるんじゃ? そんなわけない。自覚できてないだけだ。ああこれが不安だ懐かしい、他の幸福を探さなきゃ、今すぐ――――
「ははっ、幸せの前借りか」
平衡感覚が落ち着くまで待てなかった。制服の汚れを払うのも忘れて、固い革靴のまま竹林に飛び出した。
§
「わっ!」
戸を叩きもせず飛び込んだかもしれない。両腕で鈴瑚を抱き込んで畳の上に倒れている。
……もはや誑かすこともしなくなったんだ。けだもの。おおかみ。……もし?
えーっと、せめて玄関閉めていただけないでしょうか
奥に行けばいいって? そりゃあそうだけど
手つめたい。どうしちゃったの
「足んない」
「猫吸いみたいな? てかここまで来なくたってお師匠さんでも吸えばよかったんじゃないの」
「吸わせてくれるのはあんたたちしかいないの」
「たち? やめてよ」
「今更でしょ」
「その目。何から逃げてきたの」
「もうちょっとだから」
もうちょっとなわけあるもんか。そりゃ満たし方を忘れたやつのやり方だよ。流石にうんざりしたのかそう吐き捨てられた。しかしそんなことは百も承知である。むしろ今ほどそれを感じる瞬間はない。
「何がほしいの」
「……」
何がほしい? 前借りで生じた途方もない寂びを埋めるべく無我夢中で吸い込んだ鈴瑚の…… 体臭? 体臭は、しかし月へ捨てたはずの錆として、通る喉をずたずたにして、肺に詰まった。
「痛い。痛いってば」
羽のように背骨を撫でたドリーマーが、今は尾骶骨から湧いて出る炎となって、脊髄膜の内側を舐めるように焼いている。耐えるためのトーテム、心をここに引き留める錨としての鈴瑚を抱き締める腕はますます固くなる。細い脇腹にどこまでも沈むようである。腕もさりながら頭も胴にうずめているせいで彼女の呼吸は浅い。焼かれながら誰が声を出せようものか、代わりにごめん、ごめんねと念じながら、束の間の幸福を前借りしたその負債に耐えていた。
「ねえ何があったの」
「……」
「それ、誰かを求めてるわけじゃないよ。何に衝き動かされてるのさ」
対等でいる時間が一番長い者として鈴仙の希求の如何なるかは鈴瑚に筒抜けであった。私の両脇腹を手で押しのけて裸足のまま玄関の引き戸を閉める間にも私に抱き直させようとするものがなんなのか、思い直してみる。
「やっぱりあんたおかしいよ」
足についた砂を払うこともせず直通の居間へ上がり、胡座をかいた。これこそ鈴瑚だ。久々の再会にも胡座をかき、串団子を頬張っていた。懐かしい。あれから鈴瑚が地上に住み始めて随分経つ。
「お師匠さんの薬でもくすねたの?」
「……」
「やっぱりそうなんだ」
生きた心地がしない。正座に拳をついて、鈴瑚の前で耳を垂れている。鈴瑚の前で恥を晒すことなんて今までに数え切れないほどあった。脱兎として最大の生き恥を晒した私の背中を追いかけてか、地上に堕りさえしてくれた。今更こうして固まるほどの恥がどこにあろう。だのに溜まった泥水をかき混ぜたようにして、あるいは対流のような動きで、視界が歪んでいる。隙間風に指先が凍える。
……鈴瑚なら、ドリーマーのことを打ち明けたとして面白がってくれるか? 責めやしないか? 私は何に怯えている?
「今、耳がそんなにしわしわになるほどのことが一体何なのか、考えてる。鈴仙は突然いなくなった。その時だって私たちの誰も気づかないぐらい、気丈にやってたでしょ」
そう、私も地上に住みたいなー。仕事も何もかもかなぐり捨てて。
槐安通路の前でそう言った彼女の目は、あくる日の私の目であったかもしれない。堕落などあの調子で口にできるものではない。きっとあの時覚悟はおおかた決まっていて、偶然出会った私が、その背中を押したのだろう。いや初めからそれを期待してわざわざ前線を希望したに違いない。
今、その目はどうだ? 同じ恥の轍を踏んだ者として、今どんな目をして、こちらを見ている?
「思い出した。その匂い。月で死んだ奴と同じ匂いがする」
「月で死んだよ。『れいせん』は」
「……なに、バカげたこと…… ああそういうことか」
鈴瑚が何某か理解したあと、両側に垂れた彼女の耳がほんの僅かにちぢれるのが見えた。自分と同じ色に腐した目を伏して、地球の重力を考慮しても重すぎる腰の上げようでやっと立ち上がる。
何事かと間抜けに口を開け見上げた私の首を顎のあたりで持ち上げて玄関の外へ引きずり出された。
「なに、なにするの」
「私じゃ手に負えない」
それが私を見放す物言いなら、まだ素直に一人で泣けた。しかしそうでもない、本当に自分の手に負えない、責任を負えないことを単に宣言するようなものだったから、私は頸を掴まれて引きずられるままにいるほかになかった。
「ねえ」
「……」
肘を肩まで上げたその腕でうなじを掴まれ前傾にされているものだから、鈴瑚が今何を考えているか、顔からうかがい知れない。お互い履き物も忘れて、乾いた砂が歩みに合わせ視界の上から下へ流れていくのを見つめている。
きっと私のしたことを察したのだ。いざそうされてみると底抜けに恐ろしくなる。したことを知って、私と鈴瑚との関係が確実に変わった。その変化のなんたるかも教えられないまま、黙って来た道を戻らされている。
「ねえってば…… 私どこにも行かないから手離して。お願い」
「うるさい」
一気に肝の冷えるのを感じた。鈴瑚の返事は極めて簡潔だった。うるさい。不躾で押しの強いいつもの口調から、耳と同じようにほんのわずかにちぢれていた。きっとそれから少しでも後に声続けばうわずるだろうから、こうも短く言い切ったのだ。この四文字きりで、すっかり私は次の言葉と一緒に息を飲んでしまった。
取り返しのつかないことをしでかした。がらんどうの頭蓋の内側で鈴瑚の言葉が反響し、何度も何度も内耳の水を毛羽立たせる。頭蓋で跳ね返り続けるうちに、その言葉は輪郭を失い、やがて波打ち際のようにざあっと押し寄せては引いていくノイズと成り果てた。
「……」
頭が鬱血している。血が上っている。前後不覚でいる。まさにあのときと同じ、前後不覚である。あのときも月から地球までの長い航海のほとんどを、たった今のようにわけもわからず進んでいた。わけもわからず月の海を、さざ波の立つ海を、その音を呆然と耳に受けながら、渡っていた。
「Marfusha, Anchor in sanity.... 正気に係留せよ」
月で、賢者の海で、最後につぶやいたのは所属する部隊の名であった。マルフーシャ、リトル・マーサ。初めて地球から宇宙へと旅立ち、また生還した兎の名。
私は月に舞い降りた。
§
羽衣はいわばロープウェイの籠である。地球にまっすぐ注ぐ月の光をロープになぞらえてそこに引っかける(むしろロープウェイこそ羽衣になぞらえるべきだ)だけのもので、推力はない。月の重力から脱出するには自力で飛ばなければならない。
我々は重力のおかげで空を飛べる。重力が強いほど強く進める。つまり地面にいるときに一番高く飛べるということだから、離陸は一発勝負になる。月を脱出してしまっては軌道修正すらできないので、羽衣で自分の軌道を補正するというわけだ。
「……」
賢者の海はいつも静まりかえっている。それぞれの海にある墓地の中でも、賢者の海のそれは最も小さい。死後は静かに孤独を享受したいと願うものが選ぶ墓地。だからこの海には、黒い何かでできた、一切の模様も刻まれていない無機質な墓標の他に何もない。
と玉兎たちの間で信じられてきたが、実際はもう一つ、極めて重要な遺物がある。一千余年前、月から地球へ、この賢者の海から使者が飛び立った。月の陰になる賢者の海から地球へ山なりに矢を放ち、羽衣の道としたのである。そして遂に使者は帰らなかった。
深さ五十メートルにもなるというこの大穴から矢は放たれた。その光の道は散乱しないために目視できず、かつ触れたものは熱によってその悉くを灰にするという。それに触れられるのは同じく光を編んで作られた羽衣だけなのだ。なんと間抜けなことだろう、結局光を見つけるには羽衣をぶんぶん振り回してみるより他になかった。
直径九十メートルの縦穴の底で羽衣を振り回して歩いていたところ、何かにその腕を引っ張られた。いや光の道に羽衣が巻き付いたのだ。自らの手を焼かぬよう慎重に羽衣を巻き直して、心の中で離陸のカウントダウンを始める。
「三……」
私の去った後をなんと罵られることだろう。後は野となれ山となれ、とはなかなか思い至らないものらしい。消えた私の埋め合わせを周りがやらされるのだから、仲間の死を以てそれを経験した者として意識せざるを得ない。
「二……」
無意識に握りしめていたドッグタグをワイシャツの下に押し込んで、羽衣の両端を脇に抱える。
「一……」
そういえば、欠員の補充ってどこから来るの?
「……さよなら!」
穢れなき不毛の砂を押しのけて、途方もない黒に飛び込んだ。とはいえ、真上を向いて飛び立ったので、慣性で下に押しつけられるような内臓感覚の他に自分が移動していることを実感させるようなものはない。頭上の黒は本当に途方もないものだから、月というちっぽけな岩の塊の上でもっとちっぽけな兎がめいっぱい跳び上がったところで、黒に広がる星々がその瞬きを変えることもない。しかし下を見ると、すでに視界ぎりぎりにやっと月の地平線をぐるりと一周捉えられるほどの高度にまで来ていた。
時間の感覚がない。何事もなく宿舎を抜け出して賢者の海へ来られたものだから、何度も何度も頭の中で想像していたあらゆる非常事態への備えも出番なく、やり場を失った緊張が私の現実味を狂わせる。
「!!!」
突然別の方向からのGがかかり、羽衣を脇から滑り落としそうになった。まあ落としたときに落ちるのは自分だが。緊張ゆえにむしろ冷静でいられた。何もかも上の空である。空の上である。気体の塊を生じ真空を騒がす爆弾も、地を揺らし内耳を揺らす砲弾もない、静かな空である。あまりにも平和な空である。ただ一つ私の心だけが、その静けさに耐えかね叫んでいる。本当にこのまま月の重力圏を抜けられてしまうのか?
腕に両端の余りを巻き直しつつ咄嗟に閉じていた目を開ける。うるさい色の星が見えた。私の背後にある陽にあてられてビビッドな色彩をモノクロの宇宙にまき散らす、穢れた星。月のあたりで宇宙に色を投げるのは、この穢れた星と、都だけだった。
その星が、太陽の浮き沈みと同じくらいによく見なければわからないほど慎重に、その大きさを増していく。私の方に近づいていく。私が地球に堕ちていく。
穢れ。それが織りなすという青や緑の色彩を見つめながら、地球のその穢れたるを考えた。自分にはその意味がわからない。灰の月面に血肉を塗りたくっておきながら眼下の地球を嫌悪するその神経がわからない。
そこは流刑地である。同時に神もろとも生きとし生けるものすべてが生まれた場所である。そこを捨て月に籠もった者は異端も異端、地上にとって数えるほどにもない。高潔とは強いられた孤独である。そして流刑人の迎えに遣わされた者は誰一人として帰らない。
月の奴らがその昔、雲から手の届く場所にいられなくなっただけのことではないか?
「……嫦娥」
今や月でさえ伝説だけが残る、古い隠居の名を口にした。あの盗人のために建前上こき使われているというのも、月が気に食わない理由の一つである。そのうえ嫦娥の存在さえ玉兎の誰も知り得ないときたら徒労もいいところだ。
いよいよ地球が迫ってきた。向かうところはどうも大陸からはぐれたように連なっている島々の、その中心あたり。ここから羽衣を光のレールより外し、広げなければならない。
「こっわ」
腹をくくって左脇から羽衣を離す。私という質量を伴いV字にひらめく羽衣の、Vの底あたりを右脇で抱えているから、左脇でもう一度掴み直せば空気を受けて制御できる。羽衣だけじゃなんとも不格好、まるで地球人の落下傘部隊だ。自分も牛車で降臨したかった。
掴んで羽衣が風を受けたその瞬間である。期待通り急激に減速したかと思いきや、ばん、と何かの爆ぜる音がして、私の身体は再度の急降下を始めた。二度の急な加減速で私の両脇からするりと抜けて出た羽衣は今、尻を下にして空中にもがく私の真上で無秩序に舞っている。
「うそ」
羽衣の中ほど、風を受けた部分が裂けていた。それを見て私はそれを掴もうと腕を伸ばしていたのをやめた。私にもうなすすべはない。地面に落ちてばらばらになるか、木という異色の生物に抱き留められるかどちらかに自分の涙を賭けるだけだ。
こうしていつも、私の悪あがきは徒労に終わる。
§
「!!!」
地面からわずかに跳ねた身体を、何かが押さえつけた。ああ布団だ。重い綿布団だ。夢だったらしい。しかしどこから? どこからが夢だった?
「……」
思い出せる限りで最も新しい地球での記憶の場面では、私は鈴瑚に首を掴まれて、裸足で歩かされていた。それが夢と繋がらない。寝に入る直前の記憶が曖昧であるのとはわけが違う。もし同じだとしたら私は歩きながら夢を見たことになる。
あるいはそれでいいのかもしれない。夢の始まりには、私は月面を、歩いていたのだ。私がつきをあるく間、地球でも歩いていたのだろうか? そうでなければ鈴瑚に申し訳が立たない。
「バカが起きたよ」
首を横に向けた。自分と同じ高さに鈴瑚の頭があった。彼女はあくまでも永琳がベッドだと言い張る、車輪をストレッチャーから外して脚も短くしたような硬いベッドに深く腰かけて、膝に肘をついていた。
「自分ちに入院するってどんな気分?」
「あのまま鈴瑚を吸い続けるよりはいいかも」
「ふん……」
本当はどちらがマシかわからない。今は今で辛い。気分が悪い。こうして一度首を横に向けただけで、ひどく振り回されたような感じがする。
「どれくらい経ったの? あれから」
「あれから?」
思わず目を逸らし、首を直した。鈴瑚は私がいつ気をやったか、いつのことまで憶えているか知らないらしい。やはり夢と現は突然交代したわけではなさそうだ。
「……店はいいの?」
「いいよ」
竹林に差す陽光の色が一日で一番冷たく、まばゆい。ちょうど陽が昇りきっている。少なくとも一晩は経っている。それ以上は知りたくもない。
「清蘭は?」
「呼ぶ暇なかったのは憶えてるでしょ。まあ…… 帰ったら呼んどく。帰ったらね」
間が怖い。時が無慈悲に淡々と、誰に従うでもなく過ぎていくのを、これでもかと克明に突き付けられている。
かといって何かを切り出せるわけでもない。ただ形だけでも何も変わらぬようにと、自分と、たぶん鈴瑚も祈っている。
しかし沈黙には、結局もっと耐えられなかった。
「……いつも同じ夢を見るの」
返事はない。期待してもいない。続けたいから続ける。
「まったく同じってわけじゃない。でも絶対何かができなくて、その何かができないせいで周りがめちゃくちゃになったり…… 何も起きなくて起きたり。あの薬って楽しいのを見せてくれるとおもってた。なのに、いつもとおんなじ夢だったわ」
私は悪夢しか見ない。別にそれが嫌だとも思っていない。夢の中では取り乱していても、起きてみるとなんてこともない。現実よりも私の心をめちゃくちゃにする夢は見たことがない。
「夢に夢以上の意味を求めちゃだめだよ」
ここまで聞かせて、帰ってきた言葉がこれだった。確かに鈴瑚らしい。ただそれをわざわざ口にするようなやつじゃない。夢に夢以上の意味を求めちゃだめ。わかっていながら呑み込んで、死にかけの兎にドリーマーを飲ませ、夢以上の何も持たないただの夢を見せてきたやつだ。
「それ、獏が聞いたら笑いそう」
「寝てる間に脳から滲み出てくるものがたまたま獏のエサになってんの。それも含めて、夢の価値。夢ってそんだけだよ」
「そうかなあ…… 獏のとこには、みんなの夢も残ってんのかな」
「ま、たぶんエサを食べた記憶として、あいつの頭に残ってんじゃない?」
夢。獏のエサであり、動物の心をかき乱す厄介者。夢の理不尽で荒唐無稽な様子から察するに、その根源もぐちゃぐちゃなのだろうか。
「私はドリーマーに夢を見せられたの?」
「どうでもいいよ。そんなの」
「よくない。私には意味のある夢だもん。意味のある夢を私が勝手に見たのか、あれに見せられたのかって、大きい違いでしょ」
「ただの臨死体験だ。あんたが勝手に見た」
「……なに、見てもいないくせに」
「ティコ・クレーターで私らが見送った仲間たちの死因は、あの薬。だけど鈴仙はまだ死んでない。これがどういうことかわかる?」
「まだ夢をひりだせるっての? 私」
「鈴仙が地上に堕ちた後…… 一羽だけ、なんでもないのにドリーマーを飲んだバカがいた。周りのやつが面白がってそいつの身体をモニターし始めてさ。飲んでからスキャンが始まるまで、ほんの十秒もかからなかった。だけどスキャナはもう血圧と心拍数が下がり始めてることを警告してた。心臓のパルスに合わせたピッ、ピッ、て音がだんだん遅く低くなって……」
「どういうこと」
「薬に血管を緩められた頭じゃわかんない? あれは自律神経の緊張を副交感神経の側に固定するの。怪我して貧血になってるやつにトドメを刺すための薬であって、元気な身体に打つことは最初っから想定されてないってことだよ。少なくともそれが目的の一つ。だから感染症でうだうだ転がってるやつはまだ血圧が高すぎて、あの薬じゃすぐには死ねなかった」
「……飲んだその子はどうなったの。今の説明じゃ元気な身体に打つことを想定してないってことを導けない」
「……」
何も考えず、自動的に、ついそう尋ねてしまった。わけもわからずこれまでの癖に則ってそれっぽい言葉を返しているだけだ。いや会話なんていつもそうかもしれない。
「教えて…… お願い」
「知ってなんになんのさ? どうなるかは今あんたが身を以て学んでるでしょ…… 私ここにいられないや」
「待って」
ふっと視線を外し立ち上がった。それからは顔も向けず早足で病室の外へ歩いていく。
「そんなに気になるならお師匠さんに直接聞いたらどう? 兎の頭でもここまでは調べられるって知ったらさすがに驚いてくれるんじゃないの」
自分も立ち上がろうとして、しくじった。自律神経へのフィードバックを壊された身体でまともに立っていられるはずがない。血管が広がりきったまま立ち上がれば当然眩みはする。
「鈴瑚待って! 一人にしないで! ねえ!」
「主治医呼んだげるから」
とりつく島もない。無駄だと思いそれ以上呼び止めなかった。どうせなら不安に任せて叫びまくればよかったのに、こんな時でさえ合理性が頭にちらつく。
孤立無援の不安は月に置いてきた。にもかかわらず、両腕をつくこの床は月の砂と同じように乾き、恐ろしく変化なく冷たい。Anchor in sanity. しかし碇はいまだ月に下りているらしい。結局私の心は地球に下りられていなかった。
§
灰色の砂に倒れ込んでいた。片腕に抱いているのは千切れた赤黒いインナーシャツ。そういや助かるわけもないのに負傷者のシャツを裂いて傷を縛ったんだった。これで最後の分隊員を失った。
「隠れなきゃ」
見たところなんでもない、ありふれた血みどろの月面である。しかしここには塹壕が掘られている。別次元、見知った世界をx-y-zの三軸を持つ直交座標系としたときの、まったく別のw軸方向に、深い溝がある。いやwの方向に溝を掘ったというよりは、U字溝を取り付けたというのが正しいか。
ヘルメットと一体化したバイザーの電源を入れると、そのディスプレイ越しに見える空間に、長くうねった緑色の線が描かれた。三次元世界の生物はどう頑張っても三つの方向しか見渡せないから、w方向の位置関係は色で示して理解する。wの負の方向に物があれば赤、正の方向にあれば青。どこに塹壕がありそのどこに誰がいるのかは、こうしてバイザーが教えてくれる。
だから私は赤色に塗られた地面に立ち、負のwに飛び込んだ。
なぜこうも落ち着いて動けるのか、自分でもわからない。どれだけの間地面に倒れていたか知れず、ましてその間に前線がどう動いたかも見当がつかない。そして何より自分だけが死んでいない。ああ、それを実感するまで考えてしまったらきっと正気じゃいられない。だめだれいせん。Anchor in sanity. 正気に係留せよ。
「!!!」
真空中に気体が広がるその轟音を聞くが先か、灼け落ちるような右腕の痛みを知るが先か、せめてウサギの矜持として前者であってほしかった。声で腕の熱が冷めるくらいの叫びを一度だけ上げて、嗅ぎ慣れない敵の火薬の残り香を吸いながら膝を立て直す。
「Anchor in sanity... Anchor in sanity...」
爆音を聞いて倒れる前、私は塹壕の壁を向いていた。それで今右腕の三角筋あたりだけが痛い。たぶんそう近くはないところで爆ぜた榴弾の破片がここまで届いたのだろう。高次元に伸びる塹壕に榴弾を送り込むとは、とんでもない技術か異能を持ったやつが敵の側にもいるらしい。実際そのせいでここまでの被害を受けている。
何か、言葉でなくモノにもすがりたい。それでナイフを引き抜いて、柄を両手で握りしめた。Anchor in sanity. 大丈夫、まだ碇は下りている。ナイフをもう一つの碇として正気に突き立てたから、もっと大丈夫。
「Anchor in sanity... Anchor insani...」
自分の腕を見た。今まで見送ってきたやつらと同じ色を見ることになると覚悟してのことだった。しかしブレザーもろとも裂けたのはまるで厚いシリコーンゴムのような無生命の皮膚で、その内側から外を覗くのは熱交換用のオイルに浸されて断裂した人工筋と、くすんだ灰色のチタン骨だった。
「わあああああああああああ!!!」
狭い塹壕を痛みも忘れて走り出した。他の全てがどうでもいい、無謀に走り回る中で敵陣に突っ込んで蜂の巣にされてもいい。むしろそれがいい。誰か、せめてもう一発でも撃ち込んで、私の穢れを証明してくれ。生きた私の血を見せてくれ。穢れこそ命の変化を象徴するものだと散々頭に叩き込み受け入れてきた今までの戦いを認めてくれ。
「Anchor in sanity... Anchor in sanity, Anchorinsanity anchorinsanityanchorinsanityanchorinsanity...!!!」
塹壕の突き当たりになぜかあった扉を左手で押しのけた。そこは十数畳もの部屋だった。
「元気そうね」
十数畳もの部屋にたった一つ置かれたスツールに、八意永琳が腰掛けていた。
「はあっ、はっ、八意…… 永琳、さま…… なんで、ここに」
「それは人に字を刻む道具じゃないでしょう」
月に、それも穢れに満ちた戦場に、遠い昔地上へ消えた賢者が悠々と居座っているはずがない。いやしかし、むしろ遠い昔のことだ。今の八意思兼命の消息を、誰が予想できようか。つまり今目の前にいる者が八意永琳なのか、はたまた地上人や月人の悪いいたずらか、私には判断しかねた。では……
「……あなたなら知っておいででしょう。この身体の曰くを」
「何の話? いいからそのペンを置いて。まったく…… 目覚めたのが休診日でよかったわ」
「質問に答えるのが先ですよ。私だって神に刃向かうつもりはありません…… どうして」
永琳がスツールから腰を上げた。座面に見合わないほど背が高い。きっとあの編まれた後ろ髪だけで私の背丈を少し超える。私は息をのんで、ほとんど力の入らない右手と一緒に柄を握り直した。
「この腕…… この腕です! 私は仲間が体からこんな…… 混じりっけもないまっさらなオイルを流すのを見たことがない! 月の頭脳ならおわかりでしょう…… 私…… 私は今まで何におびえてきたんですか……」
それまでじっと聞いていた。立ちきるかどうかというところで、辛うじてスツールに指先を乗せて聞きに徹していた。そして今歩き出した。
「案外頭ははっきりしてるのね…… 自分の身体が機械だっていうの? 申し訳ないけれど、私にあなたの腕から油が漏れているのは見えないし、誰かに油を差した記憶もないわ」
「嘘だッ!!! 生命をこんな…… 穢れのない姿に汚せるのは月でだってあなたしかいない! それともお前、地上の化け物か!」
あれだけ頼りにしたお守りが、刃が、碇が、さざ波に流れるほど今は頼りなかった。虚勢だったか。何が狂気かわからない。Anchor in sanity. 狂気とは、自らに広がる海である。その航海には、星も針もない。正気に碇を下ろすのではない。碇を下ろしたその場所を正気と見做すだけのことだった。
「近寄るな! 生きたブービートラップにだって私はかからんぞ!」
「まあ、私も今となっては地上の化け物かもね…… でも、電気羊の夢を見たわけじゃないんでしょう?」
「お前の血を見ればわかるッ!!!」
闘争を選んだ兎へ無防備に歩み寄る彼女は、私が左胸の少し下あたりにナイフを据えて突っ込むときまで終始無防備であった。しかしその後も彼女は倒れなかった。明らかに刃は彼女の上着の間をすり抜けてシャツごとその身体を貫いたにもかかわらず、声色も変わらず、依然壁のように立ちはだかっている。
「えっ、……はっ?」
「自分の目でよく見なさい。少なくとも機械仕掛けってわけじゃなさそうよね」
機械仕掛けではない。さらに彼女は、八意永琳の肉体は、生命機械論が正しかったとしても機械といえなかった。シャツの裂け目から染み出すそれは、刃筋を伝い滴るそれは、鮮やかに錆びた血肉でも、死に終えて黒ずんだ機械油でもなく、宇宙だった。
「ごめんなさいね。怪我することなんて考えてなかったものだから、身体の内側まで作り込んでないの」
「やっ、八意永琳、…… さま……?」
「そう。私は本物。だけどあなたの見るその景色はどうかしら」
言って手を私の顔に被せ、後ろに押し倒す。壁に後ろ頭を擦りつけながら私は膝を降り、地に腰を落とした。
「あっやめて、いやっ、お願いします! あああ!!! 殺さないで!」
「機械は心から命乞いをすると思う? もしそうであったら、それの見る夢は血の通った羊かしら?」
「しません! しないです! 私、機械じゃ…… 機械じゃない! だから――――」
そこで、ついに床に尻をついた。
「だから、刺すと血が流れる? あなたが私に期待したみたいに?」
取り落していたナイフを永琳が右手で拾い上げた。神の脇腹から肘へ、手首へ、宇宙が伝う。
「嫌だ……! 知りたくない! どうでもいい!」
「これを見て。あなたは私に何を刺したの?」
刺しはしなかった。代わりに膝を立て、私の目の高さまで手を下ろし、把持したそれを上に向けた。
「これは何?」
傷ついたはずの自分の右腕はあまりにも恐ろしく見られなかった。ただし顔から玉のように転がり落ちる脂汗は少なくとも代謝の産物であり、つまり穢れであった。
「……ペン、です。私の…… 地上の万年筆」
「よろしい。じゃ、周りを見て。ここがどこかわかる?」
尻と掌が冷たい。触れているのは壕のために拵えられた、組紐のまがい物である一縷の高分子でも、隊員の屍でもない。ワックスに覆われたリノリウム。
「……師匠が見えます」
八意永琳師。師の姿だけは変わらずそうである。
「それから?」
「それから……」
宇宙に浸された床から掌をずらし、座り直す。それに波だてられた宇宙の温度は、八意永琳の体温であった。リノリウムのワックスに熱を奪われることはなく、永久にその体温にあった。
「……師匠」
「なあに」
宇宙だけではない。鈴瑚でさえ見放したにもかかわらず、永琳の様子は、私に向ける彼女の態度は、変わらず穏やかである。賢者の海その謂れとは、この宇宙の静けさなのだろうか?
私はしかし師として見る前に、月にいた神として八意永琳に黙って身体を預けるわけにいかなかった。
「師匠、教えてください。どうしてその力を…… その知識を、万人に与えないんですか。なんだって作れるんでしょ」
永琳が私を私としてではなく、我々が出会う前と同じ手中の生命ただ一つとして見る方が自然だという疑いを拭えなくなってから、私は永琳を永琳としてではなく伝説にのみその名を聞く八意思兼命として考えることしか出来なくなった。その致命的なクライシスにもかかわらず、私の頬を撫でるその手に乱れは見られない。むしろ師は微笑んだ。月への、ひいては衆生に関わる神々への、私が持つ根本的な不信を、今その神に私は吐露した。その不信は、当の神にとっては微笑む程度の問題であった。そして、
「生きとし生けるものには、それぞれの身の程があるの。持て余す技術を振り回す者は、いずれその身を滅ぼすわ」
私が不信に取り憑かれ永琳を心から突き放すそのずっと前から今の今まで、永琳は変わらず私を一羽の兎として、無数に蠢く衆生のひとつとして、単に愛でていた。
「バベルの塔?」
「いいえ。塔を自力で築くのなら、一番いいわ。あくまで神が、衆生の持つものを超える力を以て手を差し伸べてはならない」
そして衆生の持つものを超える力として想起されたのは、ドリーマーである。
「手を…… 差し伸べる? 師匠の作ったあの薬で、師匠は手を差し伸べたつもりですか?」
師の答えに愕然とした。この一日で見た何よりも信じがたい答えであった。せめて思い過ごしであってほしい。頭の中がぐちゃぐちゃになっている自覚はある。これが鋭い考察であって欲しくない。薬で蕩けた脳みそがひねり出した、取るに足りない戯言であれと、そう願った。
「ええ。超越した力によって生まれた罪の都を治めるには、同等の力を以てして、直接の介入を為さねばならないの。あなたの夢がフィードバックされる頃には公表されているでしょうから伝えるのだけれど…… 私は未来の兎たちに手を差し伸べた。祖先の死から学習せず無尽蔵に殖えていけば、都は崩壊する。衆生の数をその土地に見合ったものにしつつその幸福を最大化するのが、罪を継いだ神々の役目」
「……師匠? 何言ってるんですか?」
宇宙に気がついた。宇宙が塗り広がっていく。そこかしこで星とまたたいて、他の光を奪い去る。
「師匠…… 師匠!!!」
「ドリーマーが夢を見せるのは、死にゆく者だけではないのよ」
宇宙に塗られるものに例外はなかった。床についたところからそれは私に這い上がり、革を、布を、肌を、宇宙に浸す。いつからか永琳のその声さえも宇宙に隔てられつつあった。そこで私は叫んだ。宇宙に包まれてなお、その向こうに叫んだ。
「月に生まれる胎児たちに伝えなさい。その夢はとある先人の失敗の記憶だってこと」
「師匠――――ッ!!!」
無駄と知っても叫びきった。八意永琳の血によって、宇宙によって宇宙へ放り出されたなら、応えはせずとも届きはするだろうとして、叫んだ。最後にいよいよ一羽の兎として突き放されたにもかかわらず、私がこの幻想郷で頼れるのは最後まで、八意永琳ただ一柱だけだった。
この宇宙を私に這わせた床も、壁も、とうに消え失せ、上も下も右も左もない場所で、手をつくあてもなく丸くなり、若干の回転を伴って浮いている。知らない宇宙である。ドリーマー、それが見せたのは、見たこともない悪夢の世界であった。
§
その中で、光明を見た。それは初め赤の点であった。やがて左右に分かれ、二つの幾何学模様であったことに気がついた。
「……なに、あれ」
それは近づいているらしい。いや私があれに向かっているのか。大質量の存在しないこの宇宙ではどうでもいいことか。私とあれの位置関係は相対位置でしか語りえない。
私をとりまく状況をやっと少し理解できた。私は二枚合わさる紙のわずかな隙間に向かって落ちている。
その隙間を通り始めるのにそうかからなかった。赤色の線が規則的に織り成した模様が私の左を右を、目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。そして私はこの模様を見たことがない。
「……第五槐安通路」
こんなに静かな、寂しい連絡通路があってたまるものか…… ドリーマーがこんなにも鮮明に見せる夢は、果たして正に夢だろうか…… 鮮明な嘘を見せる譫妄の類だとしても、この一度だって見たことのない、想像していた第五槐安通路からあまりにもかけ離れた極彩色を見せてくれるものだろうか……
宇宙に一人投げ出されるとはかくなるものか。かつて嫌ったあの獏を、今は切望する。この路はどこに繫がる? どこでもない気さえした。訳もわからず奔走してきたこの孤独からいつか抜け出す未来が見えない。ああ、仮にどこかへ繫がっていたとして、きっと別の地獄があるだけだ。都から地上、瑕から穢、ユートピアからディストピア、ディストピアからユートピア…… どこだってろくでもない。川に流されるようにしてこの通路を飛ばされる間だけでも、誰でもいい、せめて獏にでも抱かれたかった。
幾何学模様のその道は、縦にカーブし、どこかへ落ち込むようだった。何の力か、私もそのようにカーブして、落ち込んでいく。私はこの曲がり方を知っている。今まで一度と忘れることのなかった、賢者の海と地球を繋ぐ、あの光の矢である。あれと同じ角度を成して、曲がっている。
あの時とは違う。つい先刻夢に見たロープウェイとは違う。羽衣を持たずして飛び、……遠方に、月が見える。
もはや言葉もない。月に生まれ月に還ることは運命づけられていた。またも私の心の喧噪にもかかわらずして、月は静かに私を待っていた。
表は光の矢であった。裏は槐安通路、みなが一度は噂した、五つ目の槐安通路である。我々が知らないだけで、月と他とを繋ぐ綿月の罠は無数にあるのかもしれない。兎に知らされなかった無数の陰謀のひとつが、これか。たわいない兎たちの都市伝説の真相、記憶を都へ集約するためのパイプライン。私たちの艱難は無数の夢の一つとして、都のどこかにある胎内で再生される。新しく生まれる仔兎たちにこうして植えつけられた人工の集合的無意識は彼らに新たな洞察を与え、次の代に新たな夢を植えつける。
一度閉じかけた目蓋を見開いて頭上の月に向き直る。それは月ではなかった。月ほどもある巨大な目であった。満月よりも深く青ざめた皮膚が眼球を覆い目蓋を形成するその様は、異様で、しかし生物らしい。
路を落ちる速度は変わらない。頭上の瞳、その中へ落ちていく。月の胎児に遍く在る無意識へ、落ちていく。そう思えば少しは楽になるし、実際そうだ。しかしそうなる前に、せめて都に中指を一度でも立ててやりたかった。月をファックする光景を、私の譫妄であってもいいから私に刻み込んで、これから生まれてくる全ての子供に見せてやりたかった。
それは叶わなかった。瞳の内側に落ち込んで完全な闇を進んでいたはずの私の身体は今、灰色の縦穴の底にある。表の月で光の矢が飛び立ったあの縦穴で大の字になって、静かな空を見上げている。
「……」
ここは裏である。裏側の賢者の海である。見回すとあったのは、賢者の海の、表では表面のどこかに立っていた。なんの装飾もなくただ黒い、直方体の墓標である。
「……もう、いいや」
細かな砂を身体のあちこちにくっつけたまま立ち上がり、歩み寄って、そびえ立つ墓の前にうずくまった。縦穴に太陽が光を射し入れるのと同時に海の水を呼ぶ。満ち潮に私も墓も飲み込まれるのを、あとは待った。
§
[Marfusha Reisen]: Crisis collected.
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