夕食が終わり、アースキンはワインを飲みながら暖炉側の肘掛け椅子に座っていた。膝の上には分厚い本が置かれ、暖炉の炎を映した金と橙の光が、ゆっくりと頁の上を滑っていく。
シャワーを浴び終わったリドルは首に白いタオルをかけ、ふわふわと柔らかい寝巻きを着ながらリビングに入る。肘置きに頬杖をつきながら読書を楽しむアースキンの横顔をじっと見ていたが、すぐに視線を逸らし台所へ向かった。
いつもならシャワーを終えた後はそのまま自室へ引きこもり、本を読み、静かに眠りにつく──それがリドルの日課だった。だが今夜は、ふと喉が渇き、何か飲みたくなったのだ。
シャンプーの甘い香りが暖炉の温もりに混じり、ふわりと鼻先をかすめた。アースキンは自然と顔を上げ、音のした方へ視線を向ける。そこには、棚に手を伸ばしているリドルの姿があった。
「珍しいな」と内心で呟く。一緒に暮らし始めて一ヶ月と少し。だが、リドルがシャワーの後にこの部屋へ姿を見せるのは、これが初めてだった。
白いリドルの頬や目元は微かに赤くほかほかと湯気が上がっているようだ。ぽた、黒い髪から垂れた雫を見てアースキンは小さく笑うと「トム」と声をかけた。
水差しからゴブレットに水を注いでいたリドルは一度瞬きをすると、何?と視線だけで聞きながらアースキンの元へ近づく。
「髪が濡れているよ。暖炉に少しあたりなさい」
「……必要ない。どうせ、すぐ乾く」
「私が気になるんだ、本を一冊持ってくるといい。それとも、私が乾かしてあげようか?」
アースキンはポケットから杖を抜くと微笑みながら軽く回した。リドルは口を閉じたまま暫く考え、まだ眠気が来ていないし、どうせ寝室に行っても本を読むだけだ、場所が異なるだけなら──まあいいか。と思い直した。「本、持ってくる」と呟くように言うとすぐにパタパタとスリッパの音を響かせ階段を駆け上がり書斎に向かう。
ガチャ、と扉が開かれる音が微かに聞こえ、また小さな足音が近づいてきた。アースキンはその、今まで生活の中になかった音に慣れ、不快な気持ちがかなり減っていることにふと気づいた。
いや、むしろ無音なら「今何をしているのだろうか」と気になるほど、トム・リドルが出す生活音が日常へと溶けている。それがいいことなのか、どうなのか、アースキンには判断できなかった。
リドルは魔法史の本を持ってくると、暖炉に向かって並べられた肘掛け椅子のひとつに腰を下ろした。二人の間には重厚な木製のローテーブルがあり、炎が深い艶を湛えた木面に反射していた。
炎の温かな熱が頬にじんわりと伝わり、リドルは指先で軽く頬を擦り、本を開いた。伏せられた長いまつ毛が微かに震え、暗い灰色の瞳が時折炎を映し込み、赤や茶色にゆらめいていた。
アースキンは杖を振ると冷蔵棚からサイダーの瓶とグラスを取り出し、引き寄せる。机の上に置かれたグラスを横目で見たリドルは何も言わず当然のように一口飲み、温まった体に通る冷たい感覚に目を細めた。
暖炉の薪が爆ぜる音、本の頁を捲る音。
照明は微かに落とされ、深まる夜がいつもよりゆっくりと時の針を刻む。
頁を捲る音がひときわ大きく響き、やがてまた静寂が戻る。アースキンは手元のグラスをくるりと回しながら、ちらと向かいの少年を盗み見た。
いつもの眉間の皺は今日は緩く、視線は文字に落ち着いている。白い寝巻きの袖口がふと滑り落ち、細い手首が覗いた。まだ子供らしい線の細さなのに、その佇まいには大人びた静けさがあった。
頁のめくれる音が落ち着きはじめた頃、不意にリドルが本から顔を上げた。
「父さんは、仕事をしているの?」
唐突な問いだった。アースキンは一瞬まばたきし、グラスを置いた指先を緩めた。まるで自分が興味を持たれたような、そんな心地よい驚きが静かに胸を撫でた。
「ん?私の仕事に興味があるのかい?」
リドルは少し眉をひそめ、本に視線を落とす。書かれている文字を指先でなぞるが、目は動いていなかった。
「……別に。ただ、外を歩く大人は、いつも忙しそうだ。父さんは──いつも家にいるのに、裕福だから」
言いながら、リドルは寝巻きの袖を無意識のうちに伸ばし、ちらりと視線だけをアースキンに向ける。声は素直というより、ただふと気になった、というような素朴さが滲んでいた。
アースキンはそういえば話していなかった事に気づき、肘掛け椅子に深く座り直し足を組み替えながら、何でもないことのようにこたえた。
「ああ……土地をいろんなところに貸しているんだ。借地人というやつでね。働かなくとも、生きるのに困らない程度の金はあるよ」
リドルは「ふぅん」と、小さく頷いた。納得したように、けれどまだ視線は本の上を漂っていた。
まだ何か聞きたいことがあるのだろう、こちらの空気を読み取ろうとするようなリドルの少し緊張した雰囲気に、アースキンは低く柔らかい声で「どうしたのかな?」と問うた。
それでも暫くリドルは瞬きをしたり、サイダーを飲んだりして言い出さなかった。
それでもアースキンがリドルを見つめたままで、そんな無駄な時間も優しく包み込んで待っていたらついに、リドルはチラリ、とアースキンを見た。
「……書斎で、書いてるのは?」
ページから目を離さずに呟かれる声。アースキンはまた少し笑った。
書斎で過ごすようになり、リドルは何も気にしていないと思っていたが、密かに自分の行動を盗み見て何をしているのか気になっていたのだ。今までなら「あなたのことなど興味ありません」と、ツンとした態度をとっていただろう。
だが、一ヶ月の間に少しずつ積み上げた時間が、リドルの心を軟化させたのだ──そう思うと、どこかくすぐったかった。
「あれは──魔法薬学のことはもう学んだかな?」
「……ほんの少しだけ」
「私は、魔法薬を研究するのが好きでね。新しい薬を生み出したり、既存の薬を強化したり。……仕事っていうより、趣味のようなものさ」
「魔法薬を家で作るのは、一般的な事じゃないのか?」
「普通の魔法使いは、薬屋で買う。私のような調合室が家にあるのは稀だね」
リドルはじっとアースキンを見た。何か言いたげな、でも言葉にするのが少し億劫な、そんな表情だった。視線の奥に、小さな欲がきらりと滲んでいた。
アースキンはすぐに察した。リドルが何を望んでいるのかが、自然と分かった。
「今度、簡単な魔法薬を作ってみるかい?」
ゆったりと柔らかい声で問うと、リドルはぱちりと瞬きをし、それから小さく、素直に「うん」と頷く。
アースキンはグラスを手に取り一口飲み唇を濡らした後、くるりと回しながら、ふっと口元を緩めた。
「私はね、自分で言うのもなんだが──学生時代、魔法薬学は一番優秀だったんだよ」
暖炉の炎がちらちらと跳ねた。
リドルは「一番」と囁くように呟く。その目に微かな尊敬と、自分も知識を得たいと言う輝きが生まれていた。
アースキンにとって魔法薬は、気難しい乙女みたいなものである。少しでも雑に扱えばすぐ臍を曲げるが、丁寧に扱えば、気持ちよく応えてくれる。それが処女との駆け引きのようで楽しかったのだが──流石にそんな楽しみ方をしていたとは、伝えなかった。
リドルは目をまた伏せた。けれどその瞳が、微かに揺れていた。
「僕も……得意になれるかな」
ぽつりと漏れたその声に、アースキンは迷いなく答えた。
「なれるとも。私の子だから──というわけではない。魔法薬は、集中力と根気がものを言うんだ。君は……その両方を持っているよ」
リドルの瞳がぴくりと震えアースキンを見た。赤い暖炉の炎が、丸いリドルの頬を赤く染めている。ふと、口元が柔らかく緩んだ。──それは今まで一度も見たことのない、打算も壁もない、小さな子どもらしい喜びの笑みだった。
アースキンは息を呑む。初めて見た素直な微笑みに、温かいものがじわり胸の奥に染み込むのを──拒絶せず、静かに受け止めた。
リドルは我に返ったように慌てて顔を伏せ、動揺を隠すために本の文字を追った。
知らず知らずのうちに笑ったことに、居心地の悪さが込み上げる。それでも胸の内には、ほんのりと残る温もりが、じんわりと広がっていた。
二人の間に、静かな頁を捲る音だけが続く。
サイダーの炭酸が微かに弾け、暖炉の薪がぱちりと爆ぜる。炎のゆらめきが、時折リドルの頬に赤い光を落としては消えた。
アースキンは頁を一枚めくろうとして、ふと手を止めた。耳に馴染んでいた頁の擦れる音が途絶えていることに気づいたのだ。
何気なく横を見ると、リドルは肘掛け椅子に深く背を預けていた。長い睫毛が頬に影を落とし、寝巻きに包まれた体の輪郭が炎の赤色を移し小さく上下している。静かな寝息が聞こえた。
「……また、初めてだな」
アースキンは小さく呟き、頬杖をついたままワインを傾け、じっとリドルの寝顔を眺めた。
この一ヶ月と少し、リドルがこんなにも気を抜き、無防備な姿を見せたことなど一度もなかった。眉間の皺も、張り詰めた空気も消え、子どもらしい安らぎだけが残されていた。
寝入った体に優しくブランケットをかけることもできた。
魔法で持ち上げ、寝室まで運ぶことも。
肩を揺すり、「寝るのなら、寝室にいきなさい」と優しく促すことだって。
しかし、アースキンは、そっと視線を外した。
きっとこの子は、こんな姿を私に知られたくないだろう。無意識に緩んだ心を、気づかれたくはないはずだ。
アースキンはわざと、ほんの少しだけ音を立てるようにグラスをテーブルへ戻した。乾いた音が静かな夜を軽く叩く。
その瞬間、リドルの肩が小さく揺れた。
薄く目を開け、息を詰め、瞬き一つ。瞬時に覚醒し、周囲を窺うように視線を巡らせた。アースキンをちらりと盗み見るが、彼は何事もなかったかのようにグラスを傾けていた。
リドルは胸の奥が少しだけ跳ねるのを感じた。どうやら眠っていたことには気づかれていないらしい、と判断し、ほっと小さく息を吐く。
ごく自然な仕草で本を閉じ、手にした本を脇に抱える。
立ち上がる動作もゆっくりと、いつものように淡々と。
「……もう、寝る」
すれ違いざまに、低く短い声が落ちる。アースキンはリドルの背中を視線で追いつつ、穏やかに頷いた。
「そうか。おやすみ、トム。良い夢を」
階段を上がる背中に、優しく言葉を投げた。
「……おやすみ、父さん」
リドルは一瞬だけ足を止め、振り返ることなくそう返すと、音も立てずに廊下を進んだ。
アースキンはリドルの姿が見えなくなった後、目を細め、くすりと小さな笑みを漏らした。その瞳は優しく、どこか満足気だった。
リドルの自室の扉が閉まる。
寝室の空気はひんやりと冷えていて、布団の中に潜り込んだ瞬間、シーツが冷たく肌を撫でた。
けれど、胸の奥はぽうっと温かい。
リドルはゆっくり目を閉じた。
きっと、暖炉のそばにいたからだろう。
頬がこんなにも熱いのも、胸の中がじんわりとしているのも。冷たいベッドの中なのに、不思議と居心地が悪くないのも。全部、炎のせいだ。
そう思いながら、指先で自分の胸元を軽く押さえた。
思考はゆっくりと沈んでいく。温かなまどろみの中で、リドルはすぐに深い眠りへと落ちていった。