次の日の朝。屋敷の窓辺が朝日で柔らかく染まる頃、梟が窓を軽く叩いた。
アースキンは読んでいた新聞を机の上に起き、椅子から立ち上がり、窓を開ける。灰色の羽がふわりと揺れて、一通の手紙と何か分厚い封筒が差し出された。
「……珍しいな」
あまりこの家に手紙を届ける者はいない。アースキンはその朗らかな性格にしては交友関係が広く浅い。手紙を届ける程の仲の者など限られているが、その限られた人物はアースキンに手紙を送ったことなどない。
封を開けると、中からひらりと鮮やかなチラシと二枚のチケットが滑り落ちた。腰を落とし逃げ出したチラシとチケットを拾い上げ、まじまじと見る。
チラシには煌びやかな『魔法大サーカス』の文字。不思議な生き物が飛び跳ね、チケットの端ではファイアドレイクが躍り、文字が焼かれまいと逃げ惑っていた。
「トム、サーカスに興味はないかな?」
アースキンが声をかけると、暖炉前の肘掛け椅子に座っていたリドルは本を閉じ、顔を向けた。
「サーカス?」
アースキンはリドルのもとへ歩き、手の中のチケットをひらりと見せた。絵柄が動き回り、金色の縁取りがきらめく様子にリドルは目を開き、そのチケットを手に取る。
「昨日言ったろう?土地貸しをしているって。こういうものが時々送られてくるんだ」
動き回る文字や絵をリドルは興味深そうにじっと見つめ、目を輝かせた。
「……行きたい」
「なら、行こう。明日あるらしい」
リドルにとって初めてのサーカスだった。
やりたい事が、こんなにも簡単に受け入れられる事にリドルはかなり慣れてきていたが──それでも心は喜びと期待に弾んだ。
翌日の夕方。
リドルは「おでかけ用の服、買ってきたよ」と渡された服に着替えていた。
自室の姿見の前で、リドルは袖を引き、襟を正し、時々くるりと体を捻り──落ち着かない様子で立っていた。少し硬い生地の光沢を帯びた濃紺の上着、滑らかな手触りのシルクシャツ。貴族仕立ての細身のズボンに、つばの広い丸帽子──全てが普段とは違い、鏡の中の自分がどこかよそよそしく見えた。
トントン、と扉がノックされ。「どうぞ」と答えればすぐに扉は開かれた。
「トム、支度は終わったかな」
「うん」
リドルは鏡越しにアースキンを見る。アースキンは目を細め、満足そうに「とても似合っているよ」と、軽くウィンクをした。
振り返ったリドルは照れることもなく、小さく頷くだけだったが、視線はアースキンから離れなかった。
漆黒の三つ揃い。静かな夜を思わせる深い黒の上着は柔らかな光を僅かに返し、ジャケットの裾が静かに揺れた。襟元は控えめな光沢を帯びたショールカラーで、無駄のない仕立てが肩のラインをすっきりと引き立てている。
髪は普段よりも丁寧に撫で付けられ、前髪が少しだけ額に流れるように整えられている。柔らかい表情の奥に、きりりとした線が引かれ、知的さと落ち着き、そしてわずかな色気を纏わせていた。
普段よりずっと絵になる男だった。「似合っている」のはどちらの方だ。──だが口には出さなかった。
「どうやって行くの?……姿現し?」
アースキンと共に階段を降りたリドルは、以前経験した姿現しかと首を傾げる。
「いや、このチケットがポートキーになっているんだ」
「ポートキー?」
「定められた時刻に、別の場所に移動できる物さ。手に持っていれば、時間になるとその場所に転送される。……さあ、しっかり持つんだよ」
アースキン とリドルは一枚ずつ持つ。
初めてのポートキーは、姿勢を保つのが難しい。それを知っていたアースキンは腕時計を確認しつつ、書かれた時刻の少し前にさりげなくリドルの腰に手を回した。
リドルが驚き身をすくめたその瞬間、時間ぴったりにチケットがびくりと震え、二人の足元が一瞬宙を浮いた。
世界がぐるりと捻じれ、伸び、周りの光景が矢のように過ぎ去っていく。リドルは息を呑み、無意識にアースキンの腕を掴んだ。
次の瞬間、ふわりと足元が定まり、目の前には色鮮やかな巨大テントがそびえていた。
アースキンの支えでリドルはよろめくことは無かったが、体に回されていた腕を振り払う事を忘れ、目の前の光景に魅入っていた。
薄暮の空に、星屑が浮かぶような光がまたたいていた。巨大なテントは象牙色の布地が柔らかく風に揺れ、頂上の尖塔からは虹色の煙と白い星がくるくると舞い上がっていく。テントの周りでは無数の妖精が羽音を立て、星屑と小さなキャンディを撒き散らし、地面に落ちたキャンディを拾おうとする子供たちの歓声が空に弾けていた。
巨大なテントへ続く道には屋台が並び、たくさんの人が楽しそうに行き交っている。
屋台では虹色の飴が宙で踊り、食べれば味が変わると書かれていた。飲んでも一向に減らないジュースの瓶。熱くぼこぼこと音を立てるマグマ色のホットワイン。巨大な渦巻きソーセージ。
リドルは無言で口を引き結んだままそれらを見ていたが、目はきらきらと輝いていた。
「屋台もあるね。開幕まで少し時間がある、何か食べようか」
リドルは小さく頷くと、早速「父さん、あれにしよう」とアースキンの袖を引っ張りながら、『サラマンダーパイ』と書かれた屋台へ向かった。
屋台からは香ばしいスパイスの匂いと、かすかに焦げたような香りが漂っていた。木製の大鍋で次々と焼かれていく黄金色のパイ、その皮の割れ目からは赤いソースがふつふつと滲み、たまに小さな炎のような湯気が噴き出していた。
「サラマンダーパイ、一つ──いや、二つ。サイダーも二つ」
リドルが指を二本立てると、屋台の魔法使いはひょいと笑って、素早く紙袋に包んで渡してきた。受け取った瞬間、袋の底からじんわりと熱が伝わる。
アースキンはサイダーを二つ受け取り、近くの腰掛けに二人で腰を下ろした。
リドルから受け取った袋の重みを確かめながら、アースキン は内心で首を傾げた。普段食べるミートパイよりも、なんだか妙に熱い。パイが袋の中で小さく揺れるたび、ほのかな炎のような湯気がこぼれてくる。サラマンダー、パイ、なんとなく嫌な予感がしてアースキンは頬を引き攣らせた。
アースキンが食べるのを躊躇っているなか、リドルは早速袋からパイを取り出した。サクッ、と気持ちのいい音がして、パイの生地が僅かに崩れ、中から赤々とした肉とソースが覗く。
「いただきます」
呟くように口に運ぶと、リドルは一口噛みしめ、ほんの少しだけ眉をひそめた。しかしすぐに噛みしめ、ごくりと飲み下す。
「……ちょっと辛いね」
その淡々とした口ぶりに、アースキンは「思ったほどじゃないのか」と安堵してパイを口に運ぶ。そして──瞬間、視界がぼやけた。
「……っ、これが……少し……!?」
ソースが舌に触れた途端、口の中に灼熱が駆け抜け、喉から鼻腔まで一気に火が走るような感覚。額に汗がにじみ、目の端がじんわりと濡れていく。
サラマンダーとは、火蜥蜴の事であり、大体その名前がつく料理は激辛のものが多いのだ。やはり激辛だったか、とアースキンはひりつく唇を押さえ悶絶していたが、リドルは何も言わず、淡々と二口目をかじっていた。
時折、水差しのように隣の紅茶を口に含むだけで、むしろ美味しそうに見える。
「父さん、大丈夫?」
リドルが小さく首を傾げる。
「だ、大丈夫とも……はは……!」
アースキンは涙目のまま笑った。辛さで声がひっくり返りつつも、リドルがこうも平然としているのが、どうしようもなくおかしくなった。
「辛いの、得意みたいだね、トム……!」
「うん。結構、好きかも」
「ん゛ん゛っ……今度、君好みの料理に挑戦しよう。残念ながら、私はもう少し刺激の少ないものをつくるけれど」
リドルは小さく口角を上げ頷くと、再びパイに齧りついた。
アースキンはむせ返りながらも、どこか満ち足りた気持ちで、また一口だけパイに挑んだ。
サーカステントの中は、外の喧騒とは別世界だった。
天井高くしなやかに張り巡らされた象牙色の布には、金糸で織られた星座模様が夜空のように瞬き、空気の層に光虫がふわふわと舞っていた。光虫のひとつひとつが柔らかな光球となり、広々とした舞台中央を優しく照らしている。
リドルとアースキンの席は特別なボックス席だった。高い位置にありながらも舞台からの距離は程よく、広々とした空間とふかふかのクッションシートとローテーブルが用意され、二人の正面には舞台のすべてが一望できた。
席につけばどこからともなく小人のピエロが現れ、注文を聞き取りに来る。アースキンはローテーブルの上にあったメニュー表を見つつ、赤ワインとチーズを頼み、リドルはホットチョコを頼んだ。
まもなく場内が静まり返り、開幕の音が鳴り響く。
最初に飛び出したのは、しなやかな体躯のズーウーだった。五色の豊かな体毛が宙を泳ぎ、巨大な体は羽のように軽やかに舞台や観客席を飛び回る。歓声が上がる中、長くしなる尾で空を打ちながら、ズーウーは次々と浮かび上がる光の輪の中を優雅にくぐり抜けた。
リドルの目が僅かに見開かれ、身体が無意識に前のめりになる。アースキンは横目でそれを盗み見て、小さく頬を緩めた。
場内がふわりと優しい光に包まれると、次はパフスケインたちの出番だった。赤、紫、ピンクのふわふわした毛玉たちが宙に跳ね、魔法使いの巧みな指先で次々とお手玉のように舞い上がっていく。パフスケイン同士がぶつかり合うと微かに星屑が弾けた。くるくると宙で回転し、時には観客席に向かって愛らしい鳴き声を響かせる。
そして、舞台が一度静寂に包まれた後、艶やかなヴィーラたちが登場した。銀色のドレスが光虫の光を受け、波のように揺れる。美しい旋律が空間に溶け、しなやかな手つきと足運びで舞台を踊り回った。時折観客の視線を奪い、ほんの数秒、その美しさに心を囚われる魔法をかける。
リドルも一瞬、目を奪われたように動きを止めたが、すぐに目を伏せ、小さく息を吐いて静かに姿勢を戻した。アースキンは心の中で「よく耐えたな」と小さく笑った。
途切れる事なく摩訶不思議な生き物が現れ、見たこともない魔法が踊る。舞台は次々と幻想と興奮を織りなし、炎が弾け、星屑が舞い、音楽が夜空へ溶けていった。
リドルは気づかぬうちに口元を僅かに開いており、目の奥が柔らかく緩んでいた。
リドルはずっと前を見ていた。手に握っていたホットチョコの入ったゴブレットは、一度も上げられることはない。
体の中に流れる緊張も、余計な警戒も消えて、ただ、目の前の魔法を素直に見つめ、心を弾ませるただの十一歳の少年になっていた。
アースキンはその横顔を時折眺め、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。今日、ここに連れてきて本当に良かった──そう思いながら、ワイングラスを静かに揺らした。